『夏川って、あのプロ野球の夏川大智投手の事?』


 匠の絵文字一つ無いつまらないメール(お互い様だが)を見て、和輝は胸の中で手を打った。
 頭の中に思い出された夏川大智投手の勇姿。あの大歓声の包まれた球場で見た大きな背中と力強い投球。放たれた速球は唸るようにミットへ飛び込んで行く。確かに、名選手だった。もう引退してしまったが。
 夏川のマウンドに立つ姿を何処かで見た事があるような気がしていた。あれは中学一年生のシニアリーグ、遠征に行った先での練習試合。マウンドには、今よりも僅かに幼い顔付きではあったが、夏川啓がいたような気がする。本人かは解らない。他人の空似かも知れない。
 匠に向けて感謝のメールを送ると、和輝はグラウンドに向かって走り出した。
 部室を飛び出して真っ直ぐ用具倉庫に向かう。後から箕輪が追い駆けて来たが、今日のお返しだと言わんばかりに和輝は猛ダッシュした。その途中で、帰って行く夏川の後姿を見つけた。
 鞄を適当に肩に掛けて、退屈そうな表情でイヤホンを着けたまま歩いて行く。見れば見る程、幼い頃に見た夏川大智投手の背中に似ている。和輝は大きく息を吸い込み、腹に力を入れて叫んだ。


「夏川!」


 大音量で音楽を聞いていた夏川だったが、丁度曲と曲の節目に声がしたので振り返った。グラウンドでは今日の体育の授業で見た、天才の弟が大きく手を振っていた。
 馴れ馴れしいやつだと思いながら、夏川は何の反応もしないでその方向をただ見ている。
 天才の弟。
 その単語が頭に浮かんでから離れない。


「蜂谷和輝君」


 名前を口にすると、和輝はゆるりと顔を上げた。夏川は意地悪っぽく口角を吊り上げて言う。


「蜂谷祐輝の弟っていうのは、どんな気分?」


 和輝は口を尖らせてやれやれと肩を落とす。この学校に来てからもその名前は付き纏って来る。しかも、わざわざ口にして揶揄するのだから、一体どうなっているんだろうか。
 コンプレックスなんて無い。俺は兄ちゃんの弟に生まれた事を誇りに思っている。
 蜂谷祐輝の弟だから何だと押し付けられるよりも、弟だから劣等感の塊だと思われる事が一番嫌なのだ。決め付けるな、俺はそんなに弱くない。


「俺の自慢だよ」


 答えると、夏川は皮肉そうに小さく笑った。


「それが、表向きの答え?」
「俺に裏も表も無いよ。人が思ってる程、俺は弱くない」


 それでも夏川が鼻で笑うから、和輝はじろりと睨み付けた。


「俺に何か恨みでもあるの?」
「恨みなんかねぇよ。ただ、興味が湧いただけだ」


 踵を返して歩いて行く大きな背中。和輝は不満げに溜息を零すとまた走り出した。追い付いて来た箕輪が思いっきりラリアットをかまして来たので軽く屈んで避けると、勢い余って盛大に転んだ音が後ろからした。


等身大の鏡・2

逃げたくなかっただけだ (逃げる場所を求めていただけだ)


 部活が終わった頃には日が落ちている。練習後の重い体を引き摺って部室に戻り、練習用のユニホームから制服に着替えて帰宅する。家が近いから、他の仲間に比べて大分楽なのだろう。
 その有触れた部活後の毎日を誰もが想像する。帰路の分かれ道に差し掛かって、和輝は元気一杯にさよならと告げた。
 今日はマラソンもやったから、皆の疲れもかなり大きい筈だった。それなのに、部内一小さな少年は元気一杯に弾む足取りで歩いて行き、明るい笑顔で別れを告げた。高槻はそんな小さな背中を眺め、人知れず危機感を感じている。
 今の晴海高校の練習では、足りていないのだ。
 体力も身体能力も、全てがずば抜けているからだ。ここにいれば才能は錆び付き、力は衰えて行く。それでも彼は自分で選んだ道だと笑うから、頭を掻き毟りたくなるようなもどかしい気持ちになるのだ。
 頑張れと言われた分だけ頑張るから、応援された分まで傷付くから。それでも、同情や労わりはその歪みを加速させてしまうから。
 遣り難いな、と高槻は一人ごちた。
 早々と家に着いた和輝は再び素早く着替え、体力が衰えないように自主練習に出発する。名門に行っていればこんな苦労は必要無かった筈だ。毎日、計算され尽くした練習をして、ヘトヘトになって帰って泥のように眠る。そういう道を兄は歩いたけれど、だからと言って自分がそう出来る筈も無い。皮肉では無い。自分と兄は違うのだ。
 誰かの望んだ道は歩きたくない。自分の覚悟と責任で選んだ道を胸張って歩きたいのだ。馬鹿だと罵られても、愚かだと笑われても構わない。
 否定の言葉なんて聞き飽きたから、同情にももう興味は無いから。誰の賛同が無くたってやってやると決めたけれど、ちゃんと応援してくれる人がいた。だから、俺が何処までも頑張れる。逃げる気なんて毛頭無かったけれど、これで覚悟は決まった。
 俺は強くなろう。俺を応援してくれた人の為に、俺自身の為に、大切なものを守れるように、曲げられない意志を貫けるように。
 そんな事を考えながら無言で闇に沈んだ町を走り続けた。何の気紛れか、和輝は普段のコースから外れて違う道を進み始める。見た事の無い町並みを横目に歩を進め、息が上がった頃に、近くにあった小さな公園のベンチに倒れるように座り込んだ。
 午後九時を回った公園には当然、誰もいない。ひっそりと静まり返った住宅街は何処か高級感が感じ取れる。どの家も豪勢で、適当にドアを叩いても有名人が出て来るような気がして和輝は視線を泳がせた。
 閑静な住宅地は何も変わらない。時折通過する車のエンジンの音と、黄色いヘッドライトが闇を僅かな間だけ照らし出す。何度か大きく深呼吸を繰り返し、和輝はゆっくりと立ち上がった。
 その時だ。


「和輝君?」


 ひょい、と覗き込むようにした少女の小さな声が耳に届いた。ぎょっとして和輝は息を詰まらせたが、闇に慣れた目はそこにいる少女の正体を気付かせる。


「水崎さん」


 驚いた顔をしたのは最初だけで、亜矢は優しげに微笑んだ。亜矢は制服ではなく、髪も濡れているので風呂上りらしかった。そのまま隣りに座った亜矢を見て、和輝は不審に感じつつも何も言わなかった。
 亜矢は暫く星一つ見えない明るい空を無言で眺めている。和輝もベンチに座り直して、同じように空を見上げた。遠くで車の走る音がした。時折吹き抜ける風が木々をざわめかせる。
 和輝はふっと目を落とした。何気無く眼を向けた先に自分の手首があった。汗で服が肌に張り付く程なのに、袖も捲くらない長袖のジャージで手首に巻かれた包帯を隠している。未だに残る痺れのような鈍痛を誤魔化すように手首を握り、和輝は不意に視線を横に投げた。視界の端に、亜矢の手首が見え、和輝は時間を止めた。
 白く細い手首はまるで生の素麺のようだった。七部袖のせいで露になった左の手首に残る無数の細い、直線の傷痕。和輝は、ああ、と思った。
 手首の傷痕、リストカット。この少女はもしかすると。
 和輝は目を逸らした。暫くの沈黙が風と共に流れ、亜矢はふっと視線を落とし、ポツリと問い掛けた。


「どうして何も訊いて来ないの?」


 和輝は空を見上げたまま、ゆっくりと答えた。


「訊かれたくなさそうだったから」


 口元は僅かに緩んでいる。亜矢は怪訝そうに眉を寄せた。


「気にならない? あたしが一人でこんなところにいる理由」
「大して興味無いな。俺の幼馴染は中学の頃から夜遊びするような女だったし」


 和輝は幼馴染である北城奈々の顔を思い出して苦笑する。


「俺は人が思ってる程優しい人間じゃないんだ。人の事を心配するとか、そんな器用な人間じゃない」
「じゃあ、優しくて面白い蜂谷和輝君は嘘なんだ」
「嘘かどうかは知らない。それはただ、周りの皆が見たものだよ」


 亜矢は笑った。


「クラスや部活で見せる態度とは随分違うんだね」
「違わないよ。俺は自他共に認める裏表の無い人間だから」
「嘘。昼間の和輝君は惚けながら、もっと笑う」
「……どうして、面白くも無いのに笑えるんだ」


 和輝は亜矢をちらりと見て溜息を零した。
 裏表が無いのは本当だ。だけど、時々、気分が沈み込んでしまう。病的な気分屋と言い換えてもいい。和輝は無表情に、服の上から自分の手首を握り締めた。


「どうして、面白くも無いのに笑うんだ」


 亜矢の表情が凍り付いた。和輝は無表情のまま、なるべく、彼女の心に踏み込んでしまわぬように距離を取りながら口を開く。


「ずっと欲しかったものがあったんだ」


 何の事か解らないだろう亜矢は小首を傾げるが、和輝はそのまま続けた。


「人が思う程、俺は弱くない。ちょっと傷付いたくらいで倒れる程脆くないんだ。守られたくない。この歪んだ性分を理解してくれるなら、同情や労わりなんかよりも、一言、頑張れと言って欲しかった」


 亜矢は力無く、少しだけ微笑を浮かべた。


「和輝君は幸せなんだね」


 皮肉そうに、何処か馬鹿にするように、亜矢は言った。


「当たり前に守られて、当たり前に愛されて、当たり前に笑って来たんだ」
「……うん、きっとそうなんだろうね」
「贅沢だね。今ある幸せに満足出来ないで、もっと多くを望むんだ。和輝君は欲張りだ」


 亜矢は言う。眼差しは少しずつ鋭さを増して行く。


「何が不満なの? もう、十分じゃない。愛してくれる家族がいて、守ってくれる人がいて、応援してくれる仲間がいて、誰もあなたを独りぼっちにしない。才能にも恵まれて、何が不満なのよ。何が欲しかったものよ」


 まるで硝子のようだと、和輝は思った。冷たくて鋭い光、触れた指先は切れてしまうだろう。


「沢山与えられて来た癖に、まだ搾り取ろうっていうの? 馬鹿言わないでよ!」
「……それが」


 そっと和輝は言った。


「それが嫌だから、俺は強くなりたかったんだ。……でも、その為に選んだ道を誰もが頭から否定した」


 和輝は亜矢を見る。


「覚悟を決めて、責任を持って選んだ道を完全に否定された。光は途切れて、行き先は見失った。その時に貰った最高のものが、たった一人の、たった一言の『頑張れ』だった」


 でも、と和輝は続ける。


「俺はお前に頑張れとは言わないよ。誰もが俺みたいに歪んでる訳じゃない。本当に同情が必要な事もあるし、本当に労わって守らなきゃいけない時もある。同じように、応援しちゃいけない場合もあるんだろ」


 和輝はそっと手を伸ばして亜矢の手に触れた。冷たい手はやはり、硝子のようだった。触れた瞬間、びくりと微かに震えたけれど、和輝は気付かなかった振りをして、包み込むように優しく握り締めた。


「頑張らなくていいよ。抱え込まなくていいよ。お前の弱音も罵声も全部俺が受け止めてやるから、一人で強がらなくていい」


 亜矢の過去に何があって、どうして彼女がこの傷を持っているのかなんて解らない。それでも、彼女は辛くて苦しくて、死んでしまいたいくらい泣き叫んで自らを傷付けたのだ。彼女が苦しんだという事実は永遠に変わらない。だけど、そんなもの未来にまで連れて行かなくていい。


「逃げてもいいから。お前が眼を背けた分まで俺が向き合ってやるよ」


 ぽつりと、亜矢の大きな瞳から透明な雫が零れ落ちた。それも硝子の破片のようだと思ったが、和輝は何も言わずに見て見ぬ振りをした。
 自分達は何処か似ている。似ているけれど、全く逆の生き物なんだろう。望んだものも、背負ったものも。


「あたしは、殴られながら育ったの」


 掠れ、震える声で亜矢は言葉を紡ぎ始めた。


「厳しいお父さんだったから、完璧でなければ許されなかった。勉強も運動も、全てにおいて」


 亜矢は鼻を啜って言った。


「あたしはそんなすごい子供じゃなかったから、間違いや失敗する度に殴られて、蹴られて育った」


 手首の傷をなぞりながら、暗い表情で亜矢は言葉を続ける。


「逃げたかったの」


 誰もいない世界に駆け込んで、鍵を掛けて閉じ篭ってしまいたかった。押し寄せる期待から逃げようとした。
 他人行儀な頑張れなんて、そんな応援吐き気がする。何も解らない癖に。
 似ているのに、正反対だなと和輝は思った。ずっと欲しかった言葉を払い除ける人間がいて、ずっと遠巻きにして来た言葉を欲している人がいる。


「逃げてもいいよ」


 和輝は言った。


「逃げてもいいよ。でも、そのまま居なくなる事は許さない」


 そのままベンチを立って和輝は振り返る。


「俺は踏み止まってる。あんたと違って、逃げる事は何時でも出来るから」


 闇の中で和輝の笑顔が、唯一つの光のように見えた。最後に軽く別れを告げて歩き出す背中。亜矢は無言で手首を握り締めて俯いた。
 同情は欲しくなかった。他人行儀な応援もいらない。欲しかったのは理解と救いと支えだ。何も知らない癖に、当たり前みたいな顔で全部くれるから、困ってしまう。


「ばか」


 亜矢の言葉は届かない。だが、その言葉がある男には届いた。
 夏川は、コンビニの袋をぶら下げたまま立ち尽くしている。家が近所の為、偶然居合わせたのだが、その二人の遣り取りを聞いて呆然とした。聞く気なんてなかった。興味も無い。でも、和輝の言葉が頭から離れない。
 和輝はまた、走り始めていた。

2008.5.1