応援が重荷に感じ始めたのは何時からだ。
夜の町、公園の壁に寄り掛かって夏川は空を見上げる。和輝がいなくなり、亜矢も去った。一人残った夏川は壁に凭れ掛かったまま、ずるずると座り込んで足元のアスファルトを見詰める。
自分達は何処か似ているのだ。この歪みを抱えて生きて来た自分達は、無いものねだりで必死に生きて来た。けれど、夏川と亜矢は一度は逃げ出した人間だ。だから、未だに逃げず踏み止まっている和輝を直視する事は怖いのだ。自分の弱さを正面から叩き付けられたみたいで惨めな気持ちになる。
和輝だって十分歪んだ、歪み切った人間だ。だけど、その歪みを受け入れた。だから、あいつは強いんだ。ずっと逃げずに踏み止まっていられる。
(俺にそんな強さはない)
夏川は自分の掌を眺めた。数ヶ月前までバットを振り、ボールを握って来た左手だ。肉刺や胼胝が沢山残っているけれど、その内全て消えて何も無いまっさらな、いっそ惨めなまでの掌に変わるだろう。
天才を兄に持った和輝と同じように、夏川は、天才を父に持った。
プロ野球選手として大活躍した父親の背中を見て育った。周り全ての人間が、その息子としてしか見てくれなかった。だから、夏川は和輝も気持ちが痛い程解ると思っていた。けれど、和輝は違うのだ。心の底から、あの兄の弟して生まれた事を誇りに思っているのだ。だから、和輝が苦手だと思った。
夏川はゆっくりと立ち上がり、歩き出す。ぽつりと点在する外灯が白い光を放ち、無数の火取り虫がざわざわと集まっている。遠くで車の通り過ぎる音がした。何も変わらない夜の町。夏川は小さく溜息を零し、ふっと顔を上げる。雲に隠れた月が鈍い光を放ちながら浮かんでいた。
頬を撫でる風は冷えている。帰路を辿る足取りは重く、一歩踏み出す度に気持ちが沈んでいくような気がした。そうして家に帰り、玄関のチャイムを鳴らせば家政婦の中年女性が掛けて来る。
恭しい労わりの言葉に適当な社交辞令を返して家に入る。靴を脱いでスリッパに履き替える。玄関には大きな硝子のケースがあり、中には無数のトロフィーや賞状、盾が所狭しと並べられている。宛名は『夏川大智』そして『夏川啓』を刻まれ、その功績を讃えている。けれど、こんなものに一体何の価値があるのだ。
俺は何の為に野球をしている。何がしたくて白球を追い駆け、泥塗れになって来たんだろう。
硝子に映った自分の顔を遠く眺め、夏川は溜息を零した。
あの頃の自分には意志があったのだろうか。それとも、全ては義務だったのだろうか。答えの返って来ない問いを繰り返しながら夏川は歩き続ける。
途中、通り掛ったリビングではテレビが付けっ放しになっていた。賑やかに放送するのは埼玉にある私立翔央大学付属高校の野球部、本日の練習風景。ヒーローは相変わらず、お茶の間を騒がせている蜂谷祐輝。整った顔に気取らない気さくな性格、並外れた才能と身体能力。全てにおいて完璧な男は今日も絶好調のようだ。
夏川はそんな様子を見て苦笑した。
どうして、こんな男を兄に持って、少しも捻くれないでいられるのだろうか。
そして、夏川は一つの結論に達する。
あれは全て嘘なのだ。強がりの仮面で全て隠して誤魔化して、本当はもう逃げ出したんじゃないだろうか。つまり、彼は偽善者だ。そう考えると、夏川は腹の底から笑ってやりたい気持ちになった。それならば、あの仮面を剥いでやらなければ気が済まない。
夏川は笑った。遠くでテレビだけが虚しく騒いでいる。
等身大の鏡・3
逃げ道を駆け抜けて、その先に手を伸ばして
「野球部に入らないか?」
件の偽善者は、一日が漸く終わる放課後にわざわざ他人のクラスに来てそんな事を言った。
「お前、あの夏川大智投手の息子で、シニアやってただろ?」
夏川の目が酷く冷ややかだったが、自分を包む氷点下の空気を完全に無視して、和輝は満面の笑みを崩さないまま其処に立っている。夏川のクラスメイトはその温度差を恐ろしく感じて避難を始めた。付き添いで来た箕輪は扉に隠れて中を覗き込んでいるけれど、教室にはもう夏川と和輝の二人しかいない。
事の発端は今朝の朝練。何の気無しに、和輝が箕輪に夏川の事を話した。夏川があのプロ野球選手・夏川大智選手の息子かも知れない事、そして、和輝自身が夏川を見た事があるという事。それが高槻の耳に入り、現在総勢八人しかいない野球部の為に勧誘して来いと、軽く脅されて来たのだ。
早速、和輝は言われるままここに来た訳だが、現在の夏川の様子を見る限り答えはノーだろう。
夏川の席の前で和輝は肩を落とした。目に見えた失敗の結果をぶら下げて高槻に報告するのは気が重い。
そうして和輝が重い足取りで引き返そうと歩き出し、氷点下まで下がった教室が春の暖かさに馴染んだ頃、夏川はぽつりと言った。
「……いいぜ」
和輝は振り返った。だが、夏川は口角を吊り上げていかにも意地悪そうに笑う。
「条件がある」
和輝の笑顔が凍り付く。嫌な予感。胡散臭い笑顔を前に唾を飲み下してじっと夏川を見た。夏川は荷物を纏めながら言う。
「現在野球部は八人。最低でもあと一人いなけりゃ試合も出来ない訳だ」
「ああ。でも、誰でも良かった訳じゃない。俺はお前の試合を見た事ある」
「御託はいい。とにかく、野球部には俺が必要なんだろ」
何様だ、と言い掛けた言葉を呑み込んで和輝は首を傾げた。脳裏に過ぎるのは、今朝脅して来た高槻の氷のように冷えた眼差しだ。手ぶらでは部活に行けない。
黙って和輝は夏川の言葉を待つ。
「勝負しようぜ」
「へ?」
和輝は瞬きをした。
嫌な予感がしていた分だけ安心してほっと胸を撫で下ろし、何だそんな事、お安い御用だと和輝は笑う。
「ああ、いいよ。構わない」
「……一打席勝負。お前が勝ったら俺は野球部に入ってやるよ」
楽しそうな笑顔で頷く和輝。確かに夏川は中学時代、将来有望な投手だった。
和輝にとってもそれはドリームマッチだ。顔を綻ばせるが、夏川のシニカルな笑みは変わらない。その次に続いた言葉は和輝だけでなく、漸く駆け寄って来た箕輪の動きさえも停止させた。
「俺が勝ったら、お前には野球部を辞めてもらう」
言葉の意味が解らず、和輝は暫くの間沈黙し、ただ瞠目する。
この男は一体何を言っているんだ。俺に野球部を辞めろ、だと?
夏川はそんな和輝を見て笑う。
「別にいいだろ。お前が勝てばいいんだから」
「だからって……!」
流石に箕輪も口出しするが、夏川は笑みも余裕も崩さずに言う。
「勝負に乗って来た癖に、今更怖気付いたか?」
和輝は黙って眉を寄せた。
(何なんだ、こいつは)
俺に恨みでもあるみたいじゃないか。だけど、まるで身に覚えがない。最近は何処でどんな恨みを買っているのか解らなくなって来ていたけれど、これはあんまりじゃないか。
野球を辞める気なんて更々無い。こんな安っぽい挑発に乗るつもりも毛頭無い。だけど、苛立つ。
夏川の中では既に、和輝が馬鹿らしいと言って退ける姿が出来上がっているのだ。昔から決め付けられる事が嫌だった。だから、そういう不条理は頭から否定してやらなきゃ気が済まない。
和輝は夏川を睨み付けた。
「いいぜ、やってやるよ」
内心、夏川が和輝を嘲笑った。
本当に乗って来るとは思わなかったけれど、乗って来たなら話は簡単だ。捻じ伏せて叩き潰して、完膚無きまでに踏み潰してやればいい。
和輝は歩き出し、箕輪が慌てて後を追う。夏川は鞄を背負って二人の後をゆっくりと辿った。
部活が始まるよりもまだ時間は早く、グラウンドは無人で寂しい風に晒されている。舞い起こる白い砂、僅かに残っていた桜の白い花弁がはらはらと落ちて行った。
マウンドには夏川、バッターボックスには和輝。残念ながらソフトボールのコートだが、十分だ。箕輪はベンチでそわそわと落ち着かない様子で二人の様子を見ている。グラウンドには奇妙な空気が流れていた。
和輝はシャツの袖を捲くり上げ、右手にバットを持って夏川に向ける。
「もう一度訊くけど」
ふっと息を吐いた。
「お前、俺に何か恨みでもあるの?」
夏川は笑った。
「恨みなんかねぇよ。ただ、偽善者の化けの皮を剥いでやりたいと思うだけさ」
益々和輝には解らない。殆ど初対面の相手にどうしてここまで言われなければならないのだ。どうしてそんな男と野球人生を賭けた勝負をしなければならないのだ。
答えなんて無い。和輝は覚悟を決めたように唇を結んだ。
夏川は軽い準備運動だけですぐに投球動作に入った。キャッチャーはいない。主審もいないので、お互いの目が全てだ。敢えて言うのなら箕輪がどちらかに入るべきなのだろうが、すっかり怖気付いている。
セットアップ・ワインドアップ。流れるように軽やかなステップを踏んで――投球。
唸るような白球が、まるで顔に噛み付こうとしているかのように襲って来た。反射的に和輝は避けた。だが、このコースは恐らく。
「……ストライク」
箕輪は呟いた。
体格にも才能にも恵まれた男。和輝はバットを握り直し、地面を均す。
「ありゃあ、相当良い投手だな」
何時の間に現れたのか、萩原は気配も無く箕輪の背後に立って呟いた。声を上げて転がった箕輪も無視して観察を続ける目はやけに鋭い。
「あいつが今朝言ってた、夏川か」
箕輪は頷く。
「なる程ねぇ……」
萩原は嬉しそうに口を歪めた。
これは正にドリームマッチだ。天才の弟と、天才の息子。体格的に見て、夏川が勝つのは目に見えているのだ。だからこそ、その壁を彼がどうやって打ち破るのか見たい。
和輝は後ろに転がったままの白球を眺め、静かに構え直す。数ヶ月のブランクには期待しない方がいいだろう。あの低く唸るような剛速球。当てたたけでは前に飛ばない。
(惑わされるな、見極めろ)
どうやら、相手は数ヶ月のブランクを物ともしない才能を持っているらしい。あのボールの威力そのものは殆ど衰えていない。なら、狙うのはコントロールだ。甘いコースを逃さず叩く。
体育の授業で、和輝は下手投げだった夏川から一度の、それもしみったれのヒットを打つ事しか出来なかった。オーバースロー寄りで投げる夏川のボールはあれ以上に速く重い。五打席掛けて打てた惨めなヒットなのに、たった一打席で打てるのだろうか。可能性は低いけれど、負ける訳にはいかない。
(俺はこんなところで、終わるつもりなんて無い)
夏川が静かに構える。体から何か炎が噴き出ているようで不気味だ。和輝はぐっと息を呑む。
左手からあの、剛速球が放たれる。和輝はバットを振り切った。風を切る細い音が鳴った。
「ストライク」
ベンチで萩原は言う。掠りもしないでボールはまた、後方に転がった。和輝は振り切った姿勢のまま、ボールの通り抜けた先を暫く眺めていた。
ツーストライク。追い詰められた。
相手は配球なんて組み立ててない。適当に力一杯投げているのだ。和輝は黙って構え直す。足元にはもう火が点いている筈だけど、負けられない。
妙な真剣さに、流石の萩原も異常に気付いて首を傾げた。
「随分、真剣だな」
ポツリと呟くと、箕輪はすぐさま振り返って答える。
「当たり前です!」
箕輪はグラウンドの二人を見て眉を寄せた。
「だって……、この勝負に負けたら、和輝は野球部を辞めなきゃならないんですから」
「野球部を?」
萩原も同じようにグラウンドを睨む。
和輝が野球部を辞めても夏川には何のメリットもない。和輝だって馬鹿らしいと言って、そんな条件は蹴ってしまえば良かったのだ。それなのに、わざわざ勝負に臨んだ理由は一体何だろうか。
二人の思いも知らず、和輝は静かに夏川を見ている。
カウント、ツーナッシング。三球目の、恐らくは夏川が最後を決めようとした球が発射された。和輝は動き出す。
チッ。
微かな音がした。打球はやはり後方、ネット上部に直撃した後少しの回転を続け、ゆっくりと落下した。
「ファール」
萩原が呟く。
三球目にして漸く当たった。和輝は振り切った姿勢のまま落下した打球を眺め、ふうっと息の塊を吐いた。箕輪は安堵の息を漏らしたが、勝負が劣勢である事は変わらない。それを一番良く解っているのは勿論、和輝だろう。
更に続く四球目。それもまた、和輝はバットを力一杯振り切る。打球は乾いた音を立てて三塁線に切れた。ファール、萩原は呟く。
ファール、ファール、ファール……。夏川の力の衰えない剛速球が次々に投げられるが、和輝は全てフルスイングした。打球は全て切れて行く。
やがてファールの数が二桁を越えた頃、夏川は少し上がったままの息で和輝を睨み付けた。
「さっきから、カットしてばっかりじゃねぇか」
皮肉って言った言葉だが、和輝は頬を伝う汗を拭って笑う。やろうとしてやっている訳じゃない。本当はホームランを打つ気持ちでフルスイングしているのに、当たらないだけだ。やはり、ここ数日の校舎裏での練習のせいだろうか。確実に力が衰えている。
夏川は言った。
「惨めだな、天才の弟」
和輝は何も言わない。
「いつも校舎裏で馬鹿みてぇに練習してる癖に、この程度か」
「うるせぇや」
不思議と苛立ちは湧かない。だた、目の前にいる夏川啓という投手を打ち砕く事しか考えていない。
「天才だとか、沢山の努力だとか、そんな事は欠片も関係無いんだよ。全ては結果が語るんだ。負ける訳には、行かないさ」
和輝は笑った。
「偽善者だとか、仮面だとか、そんなのどうでもいい。俺は解ってくれない人にまで自分の意見を押し付けようとは思わない」
「それが」
夏川は言う。
「それが偽善だって言ってんだよ」
和輝は黙った。
「苦しい事も悲しい事も、嫌な事も逃げたいと思う事も全部呑み込んで、当たり前みたいに笑ってやがる。お前なんか嫌いだ。何で、何で笑う。何で逃げない!」
暫しの沈黙が流れた。遠くでチャイムの音が響き、放課後の開始を告げている。流れていた風さえも止み、まるで和輝の言葉を待っているようだった。
その中で、和輝はやはり笑った。頭の中に蘇って来る夏川のあの、冷たい写真。どうやら、凍えていたのは彼自身だったようだ。和輝は静かに空気を吸い込む。
「逃げるのって、楽なんだよな」
酷く穏やかな口調だった。
「自分も人も傷付かないで済むし、手っ取り早い。でもさ、逃げるのって格好悪いじゃん」
和輝は静かに構える。
「俺は逃げないよ。負けたくないから」
グラウンドは静かだ。夏川は数秒間黙り込み、そして、少しだけ笑った。
偽善じゃない、そんな立派なものじゃない。単なる子供の意地、ただのエゴじゃないか。負ける事へのコンプレックス。目の前にいる小さな少年は弱いのだ、とても。
夏川も構え直す。そして、ワインドアップ。和輝はバットを握り締め、恐らくは最後の球を静かに待った。
左手が振り上げられる。和輝は片足をゆるりと動かし始めた。白球は白い閃光のように十八・四四メートルを駆け抜ける。和輝のバットは振り切られた。
それまでは一度として聞かなかった、目の覚めるような高音が静かなグラウンドに響き渡った。青空に浮かぶ白球を、校舎から続々と現れた生徒が指差して見上げる。
暫しの間打球は空中を漂い、三塁線ギリギリに落下した。トーンと、静かな音が聞こえた気がした。
不気味な程の静寂が訪れた。和輝はバットを下ろしてはにかんで笑う。
「……俺の勝ちだ」
ホームランなんて始めから打てないと解っている。和輝は言った。
「約束通り、これでお前は野球部だ」
「……何で、だ」
夏川の声は震えている。
「何で、お前は、」
「ここで逃げたら、俺は同じ壁にぶつかった時にもまた、逃げなきゃならない」
向き合いたかったのだ。
和輝は夏川に指を突きつける。
「苦しかったんだろ、辛かったんだろ」
苦しくても、辛くても、何処までも走らせて欲しかった和輝とは違うのだ。夏川はきっと、理解して欲しかった筈だ。結局、彼も亜矢と一緒だ。同情では無く理解、そして、労わりではなく支え。答えを知っているからこそ、和輝は手を差し伸べられる。
「逃げてもいいよ。でも、いなくなる事は許さない」
それは亜矢にも言った事だ。
どうやら、二人は自分と同じように歪もうとしているようだ。和輝はその歪みの先にいる。でも、その歪みさえ抱えて走り続ける力を和輝はもう持っているのだ。
和輝は笑った。
「頑張れ、負けるな」
必要だったのは、他人行儀な応援ではないだろう。理解した上での応援だ。
夏川は暫しの間黙り、皮肉そうに鼻で笑って答えた。
「言われるまでも、ねぇよ」
和輝は嬉しそうに、笑った。
遠くのざわめきは部活に訪れたソフトボール部員か、陸上部か。でも、その声がどれもグラウンドで聞いていた観客の応援のように聞こえた。
誰かが頑張れと言ってくれた。だから、その分だけ頑張ろうと思えた。
和輝はバットをぶら下げたまま、マウンドの傍まで歩み寄って拳を向ける。同じように夏川の拳を向け、すっと腕を伸ばして和輝の拳にぶつけた。鏡のように向かい合った二人を遠く、萩原と箕輪が眺めていた。
2008.5.1
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