顔を上げると真っ青な空が広がっていた。
 ガードレールの向こうに広がる街を横目に、息を切らして自転車で坂道を駆け上る。空に浮かぶ飛行機雲を追い駆けるように和輝はペダルを漕ぎ続けたけれど、その姿はやがて町の風景に溶けるみたいに消えた。視界に青空しか見えなくなっても、和輝は足を止めなかった。
 腹の底から込み上げて来る疲れと弱音を呑み込んで進み続ける。
 家の周囲には坂道が多数あり、その一つは麓に立つと溜息を吐きたくなるような長距離の急斜面だ。バイクでも遠慮したくなるような坂道を避けて通る道はあるし、そもそも、こんな坂道を上ったところで頂上にあるのは小さな寂れた自然公園だけだ。
 普段は和輝だって来ない。生まれてからずっとこの街に住んでいるけれど、この坂道を上ったのは数える程だった。
 久しぶりに見る風景に感動する余裕も無く、シャツが張り付く程汗だくになっている。午前中で終わってしまった部活の穴埋めの自主練習のつもりだった。けれど、想像以上の厳しさに和輝はとうとう、坂の中腹辺りで自転車を降りた。目に入って来る汗を拭って上を見るけれど、頂上は見えず和輝は苦笑する。
 まだ四月だというのに酷く暑い。初夏並の気温に、いざ夏が来た時はどうなってしまうのだろうかと先の心配をした。夏と言えば、甲子園だろう。
 和輝は自転車を押しながら歩いて行く。すぐ横を原付が通り過ぎた。照り付ける灼熱の太陽も、通り過ぎて行った原付の運転主も自分を嘲笑っているような気がした。
 やがて頂上付近に辿り着き、自然公園の寂れた看板が目に映る。あと少しだと意気込んだところで顔を上げ、看板の少し先に止まっているさっきの原付に気付いた。そして、余程の物好きだと思ったら、見覚えのある顔だった。
 自分が思っている以上にこの世間は狭いらしい。自転車を坂の上まで押し上げると和輝は手を上げた。


「藤先輩!」


 晴海高校野球部、二年生の藤徹はメットを脱いで少しだけ顔を綻ばせた。
 和輝は再び自転車に跨って藤の傍まで乗り付ける。藤はメットをしまった。


「奇遇だな、こんなところで何してんだよ」


 そう言って藤は、汗だくの和輝を珍しいものを見るようにまじまじと見つめた。和輝は苦笑して答える。


「気分転換ですよ。大体、藤先輩こそ何してんですか?」
「俺は気晴らしだよ。偶には綺麗な景色でも見ないと、気持ちが塞いじまいそうだろ」
「そうかも知れませんね」


 白いガードレールの向こうに広がる町並みはまるで海のようだ。和輝は人工的な海を眺めながら青空と対比させ、少しだけ深呼吸してみる。地上に比べれば酸素は薄い。大きく背伸びをすると背骨が乾いた音を立てた。
 暫く二人で黙って景色を眺めていると、藤が思い出したように口を開いた。


「そういえば、夏川が入部したお陰で野球部は九人になったんだよな」
「はい。これで、試合も出られますね」


 嬉しそうに和輝が笑うと、藤は困ったように眉尻を下げて苦笑する。


「去年の事件以来バラバラになった野球部が、ゆっくりと再生を始めてる。一時は五人しかいなかったのに、お前等が入学してから九人になった」
「そうですね」
「……」


 藤は黙った。和輝が不思議そうに首を傾げると、藤は突然、問い掛けた。


「なあ、和輝。お前の夢ってなんだ」
「夢?」


 和輝は一度首を傾げたが、答える。


「甲子園です」
「……本当に」


 藤は目を伏せた。


「本当に、行けると思うのか?」


 それは、どういう意味なんだ。
 和輝の問い掛けようとした質問は暑い空気に霧散した。藤は原付に寄り掛かって自分の爪先を見つめながら言う。


「世間体なんか考えないでさ、本音を言ってみろよ。現実的に見て、俺達に行けると思うか?」


 俯いた藤から視線を退かして和輝は青空を見つめる。同じ空の下で兄は、ライバルは頑張っている。そう思うと、少しだけ自信が持てるのだ。俺もまだ遣れる、頑張れると。
 和輝は笑って言った。


「そんなのは知りませんけど、俺は心の底から甲子園に行きたいと思ってます」
「……青臭いやつだなぁ」


 藤は笑う。


「ま、夢見るのは自由だからな。その夢、大切にしろよ」


 和輝は不満げに口を尖らせて訊き返した。


「じゃあ、藤先輩は行けないと思うんですか?」
「ああ」


 即答され、和輝は咄嗟に反応出来なかった。藤は淡々と言う。


「全国に一体幾つの野球部があると思ってるんだよ。一体幾つの野球部が甲子園を目指して、一体幾つの野球部がその夢に泣くんだ。……悪ィが、俺はお前みたいに胸張って甲子園だなんて言えねぇや。小せぇ人間だからさ、恥かくのも泣くのも嫌なんだよ」
「どうして」


 和輝は言った。


「上ってもないのに、どうしてその壁が高いって言えるんですか」


 はっとして藤は顔を上げた。和輝は自転車に跨って背中を向けている。


「俺は上りますよ。上った後、いい景色だなって笑ってやりたいから」


 最後に挨拶をして和輝を乗せた自転車は走り出した。藤はその背中を遠く眺め、和輝は振り返らずに勢い良く坂道を駆け下りて行く。
 頬を撫でて行く風を感じながらも、通り過ぎて行く町並みには目もくれなかった。


坂道・1

後悔さえ残らないくらいに、燃え尽きるように、走り続けられたなら


 晴海高校の野球部に監督はいない。去年の初秋の事件の責任を取るみたいに、地方の学校へ転任して行ってしまったからだ。それ以来、監督のいない野球部には形だけの顧問がいるだけだった。
 和輝や箕輪、夏川が入部届けを提出したのは顧問でなくキャプテンの高槻だった。だから実質、野球部を動かしているのは高槻で、ある意味では学校の圧力を受けないで済む唯一の部活動とも言える。
 そんな野球部は、午後から美術部恒例のスケッチ大会が行なわれる為に、午前中に部活が終わった訳で、和輝は上記の通り自主練習に励んでいた。藤と別れて坂道を下った後、一度帰宅してから近所のバッティングセンターに出掛けた。寂れた昔ながらのバッティングセンターは小さな頃から行き付けている場所で、父の友人が経営しているのである程度顔が利く。
 使い慣れたボックスに入り、見慣れた景色を視界に留めながら正面のピッチングマシンを睨み付ける。等間隔の軽い音が聞こえ、ボールが白い閃光のように発射された。目にも留まらない速さのボール、設定速度は百四十キロ。そこ等のピッチャーよりは速い、というよりも、投手としては上位だろう。和輝は自然体でゆるく構えていたが、マシンと連動するように右足をふわりと持ち上げ、時計の振り子のように動き出す。そして、ヒットの瞬間、和輝は奥歯を噛み締めた。
 カァンッ。
 金属バットの乾いた音が響いた。打球はまたも白い閃光となって緑のネットに飛び込む。細い見た目からは想像も付かない鋭い打球は次々と、ピッチングマシンから弾き返されて行った。
 一心不乱にバットを振り続ける小さな背中に賞賛が飛び交う。和輝はそれも気付かずにボールを打ち続けた。次々に発射されるボールが三桁を超えた時、小さな機械音が終了を告げ、漸く和輝はバットを下ろした。一度帰宅して風呂に入ったというのに、すっかり汗だくになってしまっている。バットを振り続けた掌にはグリップの跡がしっかりと残り、それまで呼吸すら殆ど忘れていたのか、酸欠で頭がクラクラした。
 ボックスから出ると、興味本位に集まった観客が道を作り出す。和輝は顔を伏せてそこを抜けると、入り口の傍にあるベンチに倒れるようにして座り込んだ。持ち込みのスポーツ飲料を喉に流し込んで大きく深呼吸を繰り返す。視界がチカチカと白く点滅していた。
 頭の中に響く藤の言葉。それを誤魔化すように、気付かなかったふりをしている。けれど、和輝はそんな自分がいる事に気付いている。それこそが最大の不幸なのだ。和輝は飲み終えたペットボトルを専用のゴミ箱に放り込んで溜息を吐いた。
 幾ら水分を摂っても喉が渇く。仕方なく傍の自動販売機でもう一本飲み物を買おうとポケットから小銭入れを取り出す。ジャラジャラと小銭を探していると、突然背後から頬にペットボトルを当てられた。冷たさに驚いて和輝が肩を跳ねさせると、後ろから笑い声が聞こえた。


「何してんだよ」


 振り返ると二つ年上の、祐輝の幼馴染の涼也が立っていた。飄々とした態度は相変わらずで、何処か軽薄な笑顔を貼り付けたまま涼也は言う。


「自棄にでもなったか?」
「涼也君には、関係無いよ」


 冷たく言い放つと、涼也はにこりと笑って見せた。


「うん、俺も興味無い」


 はっきりと涼也は答えて笑うのだ。昔から、和輝は同じ幼馴染の中でも涼也の心だけは読めない。匠のように単純明快なら一緒にいて楽だが、涼也は何を考えているのか解らないのだ。長い付き合いだから悪い人間ではないと知っているけれど、その笑顔の裏には一体何が張り付いているのだろうか。
 涼也は押し付けるようにして、良く冷えたスポーツ飲料を和輝に渡してベンチに寝転んだ。


「欠片も心配なんかしてねぇさ。ただ、お前に何かあると祐輝に怒られちまうからさ」


 和輝は力が抜けたように肩を落として苦笑する。涼也は昔から好い加減だと言われていたが、和輝だけはその緩さが嫌いではない。
 受け取ったペットボトルを開けながらベンチに腰を下ろし、和輝は頭の中に響き続ける藤の言葉を思い出した。晴海高校の野球部員は、初秋の事件を経験した為か、皆、変なところで現実主義だ。
 壁に凭れ掛かったまま、何も存在しない筈の正面の壁を見詰める和輝の横顔を見て、寝転がっていた涼也はやれやれと溜息を零す。


「何考えてんの?」
「涼也君」


 和輝はふっと顔を上げて涼也を見た。


「涼也君は、俺が晴海高校に行くって言った時、どう思った?」
「どうって?」
「馬鹿らしいと思った?」
「どうして? お前が自分でちゃんと考えて選んだ道なんだろ。俺は何も思っちゃいないよ。ただ、頑張れって思っただけさ」


 涼也は両手を頭の後ろで組んで、どうでも良さそうに言う。


「そろそろ、キツくなって来た?」


 和輝は首を振った。


「まだ、大丈夫だよ」
「弱音は呑み込むのがお前の癖だった」


 涼也は指を突き付けて楽しそうに笑う。


「辛かったら辛いって言ってもいいよ。別に言い触らす訳じゃないし、大して興味も無い」


 本当に、欠片も興味無さそうに寝転がって涼也は言った。


「辛いんだろ」


 否定を許さないような厳しい口調で涼也が言うので、和輝は思わず押し黙った。数秒間、居心地の悪い沈黙が流れた。和輝は黙って俯き、涼也はそんな和輝の頭をくしゃりと撫でる。


「辛かったり苦しかったりするのはさ、それが上り坂だからだよ」


 涼也は笑った。


「上ってる最中は誰だって苦しいもんさ。でも、高けりゃ高い方が上った時に見える景色も格別ってもんさ」
「……うん、俺もそう思う」
「上れよ、和輝。お前が選んだ道の答えはまだ出ちゃいないんだから、最後まで諦めないで頑張れ」


 和輝は頷き、一口だけ飲み物を喉の奥に流し込む。そして、ゆっくりと立ち上がって背中を向けた。


「諦めない。負けない。最後まで頑張るよ」


 それだけ言って、和輝は歩き出した。だんだんと小さくなり、光に満ちた扉の向こうへ消えていく背中を遠く眺めながら涼也はポケットから携帯電話を取り出した。
 リダイヤル機能で彼の兄、祐輝の名前を探し出して掛ける。
 数回のコールの後、普段なら部活の時間だろうが、祐輝は珍しく電話に出た。


「よう、祐輝」
『何か用か?』
「和輝の事なんだけどさァ」


 微かに、電話の向こうの空気が変わった。過保護は健在らしい、涼也は笑う。


「中々、良い性格になったな」
『そう、……か?』
「ああ、俺は好きだね。あの歪んだ性格」


 涼也はクスクスと声を殺して笑っている。


「わざと苦しい道選んでるみたいだよな。周りが心配する事は解ってる癖に、心配されたくないんだ。我侭なのかと思えば、呆れる程自己犠牲だ。でも、それがいいんだよ」
『何が言いたいんだ』


 その頃、祐輝はいつもと変わらず部活中だった。休憩時間、部室に忘れ物をして取りに戻ったところで、携帯電話が鳴った。時間にも限りがあるから、出来れば用件を聞いてさっさと切ってしまいたかった。しかし、涼也は相変わらずのマイペースで言う。


「顔も性格も良くて、運動神経まで抜群なんてずりィだろ。完璧なものも、真っ直ぐなものも見てて面白くないからさ」
『俺の弟を玩具にするなよ』
「してねぇよ」


 そして、電話は切れた。
 怒ったのかも知れないと思いながら、涼也は繋がらない携帯電話を見つめて笑う。相変わらず、からかい甲斐のある幼馴染だ。
 そうして涼也は退屈凌ぎのように言ったけれど、和輝はバッティングセンターを出て、自転車に跨ってすぐにまた、あの坂道に向かった。中腹までしか上り切れなかった急斜面。競輪やロードレーサーでも難しいだろうと思うけども、和輝は大きく深呼吸を繰り返し、覚悟を決めたように前を見据えた。
 頭の中には藤の声が蘇る。その度にちらつく弱音は呑み込んだ。


(俺は、逃げたくないんだ)


 楽な道なんてもう解ってる。正解だって知ってる。でも、与えられた未来に意味はないと思うから。
 息を吸い込み、ペダルを大きく踏み締めた。自転車はその勢いと共に大きく進むが、やはり、急斜面。車輪が後退しようとする。けれど、和輝は更にペダルを踏んだ。酷く重い。


――……悪ィが、俺はお前みたいに胸張って甲子園だなんて言えねぇや。小せぇ人間だからさ、恥かくのも泣くのも嫌なんだよ


 夢を見て何が悪い。恥ずかしいと言われても、諦められない思いがある。
 負けたくないのだ、誰にも。逃げたくないのだ、何処からも。いつだって誇れる自分でいたい。弱っちい自分も受け入れて歩き出したい。


――辛かったり苦しかったりするのはさ、それが上り坂だからだよ


 上ってやる、上ってやる。
 和輝は大きく呼吸をする。カーブを曲がる自転車の車輪が揺れた。ハンドルを握る手が震えた。膝に走る鈍痛、頬を伝う汗、上がって行く息。それでも。
 上り切って、あの景色を眺めたいから。
 突然、正面から風が吹き付けた。突風に驚いて足を突いてしまったが、暫く閉じていた瞼を開けて和輝は驚いた。斜面ばかりを映していた視界は急激に開けている。目の前に広がる景色、町を一望出来る高台の場所。和輝は息を吐いた。


「……良い、景色」


 ふっと独り笑う。誰もいない――筈だった。


「本当だよな」


 頭上から降って来た声に驚いて和輝は顔を上げた。突風の吹き付ける高台の中、太陽の光を全身に浴びる一人の男の横顔が見える。見覚えがあるような、気がする。
 すっとした長身の、浅黒い肌と爽やかな短髪。何時か何処かで見た筈だが、和輝は思い出せなかった。


「ハジメマシテ」


 振り返って笑った顔も見覚えがある気がした。歪められた糸目だとか、人懐っこい笑顔だとか。
 誰だ。


「俺は見浪翔平、宜しく」


 見浪は太陽光を背中に受けながら笑う。和輝はその正体も思い出せぬまま、笑い返した。


「初めまして。俺は蜂谷和輝」


 太陽の中にいるように見える見浪の顔は、影が落ちて黒くなってしまっている。けれど、そこにいる男が悪い男とは思えないのだ。そんなところも覚えがあるような気がしたけれど、思い出せない。


「この坂道、よく自転車で最後まで上ったね。すごい、すごい」
「棒読みだよ、見浪君」
「はは、ばれた?」


 見浪は子供っぽく頭を掻きながら笑った。


「だって、馬鹿らしいぜ」


 随分とはっきりものを言う男だな、と思った。和輝は苦笑する。


「俺もそう思う。でもさ、上り切った後に見える景色は格別だよ」
「ふうん、変わり者だねぇ」
「お互い様。それより、見浪君は何でここに?」
「ここは俺のお気に入りの場所だよ」
「ここが――?」


 和輝は辺りを見渡す。
 確かに景色は良いし、人気がなくてのんびり出来るかもしれない。でも、ここは寂しい。孤独だ。気分転換に来る事があったとしても、長時間いたいとは思えない。


「ここは、寂しいよ」
「そうかな。俺は孤独主義だからね、独りになりたい時はここに来るんだよ」


 和輝は何も言わなかった。見浪は思い出したように手を打つ。


「あ、俺、そこにある光陵学園の一年。ちなみに野球部」
「俺もそこにある晴海高校の一年で野球部」


 互いに、景色の一部に溶け込んでいる自分の学校を指差して笑った。
 光陵学園と言えば、野球の強豪として有名な私立学校じゃないか。和輝は心の中で驚きつつも何も言わず、笑う。
 その時、和輝のポケットにしまってあった携帯電話が鳴った。チープな音が静かな空間に響く。見浪に断ってから開くと、メール受信と表示されている。相手は、高槻。
 メールは酷く簡単で、難しいものだ。


『再来週の土曜日、東谷高校と練習試合。遅刻厳禁』


 それは、和輝にとっては高校初の練習試合だった。

2008.5.16