碌に練習も出来ていない野球部が練習試合だなんて、馬鹿げてる。
 練習試合の事を夏川に伝えると、和輝はさっそくこう切り替えされた。背中を向けて去って行く夏川に反論出来なかった和輝は溜息を零し、トボトボと肩を落として歩き出す。
 全くもって、その通りだ。校舎裏でチマチマ練習していた野球部がいざグラウンドに出て試合出来るのだろうか。
 和輝が部活の直前に、藤にそう漏らすと、傍で聞いていた高槻と萩原が顔を見合わせてニヤリと笑った。桜橋だけはニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべていたけれど、和輝はそんな三年生達を見て嫌な予感を感じた。
 そして、部活。いつも通り用具を抱えて校舎裏に向かうかと思いきや、高槻は自転車の後部に用具を乗せると、一年三人に向かって運べと命令した。仕方なく倒れそうな程に高く荷物が詰まれた自転車を押して高槻達の後を追うが、行き先は謎のまま彼等は学校を出た。
 自分達の荷物だけでなく、大量のボールやバットを運ぶ一年三人組の疲労は蓄積されて行く。曲がりくねった道を行き、山を登る。自然に包まれた山を登って行くのは雑用どころかもう罰に近い。和輝は目に入りそうな汗を拭って足を進めた。坂はどんどん急になるし、辺りの緑はどんどん濃くなる。これが住み慣れた町の風景の一部なのかと愕然とする。
 獣道のような土の露出した道を進み、先頭を歩いていた萩原は漸く足を止めた。最後尾を辿っていた三人は、先を歩いていた先輩達の横に並んで目を丸くした。
 視界は突然開けた。緑色の光に包まれた、何処か神秘的な空間が広がっている。天上を塞ごうと緑を茂らす枝が伸びて空を埋め尽くそうとしている。


「ここは……?」


 尋ねると、萩原は得意げにニッと笑った。


「見りゃ解るだろ、グラウンドだよ、グラウンド」


 見ても解らないから訊いたのだ。
 だが、言葉にはしないで和輝は目の前の景色を眺める。自然で埋め尽くさグラウンドらしい広場はまるで、緑色のカーテンの中に守られているようだ。足元を見れば確かに砂利が敷き詰められている事が確認出来るけれど、これをグラウンドと呼ぶのはおこがましいんじゃないだろうか。
 和輝は眉を寄せて注意深く辺りを見渡す。萩原は言った。


「元々、ここはゴルフ場建設予定地だったんだよ。その為に山を切り崩したんだけどさ、開発途中に予算が足らなくなったらしくて、急遽ゴルフ場からグラウンドに変更」


 萩原は皮肉そうに笑う。


「グラウンドにしてもな、こんな山の中じゃ不便過ぎるだろ。結局、もう何年も放置されててこんな状態になってる訳だ。向こうもほったらかしだからさ、整備してくれるなら勝手に使っていいよってね」


 そう言って、萩原は一年に運ばせた荷物の中から草刈鎌やら軍手やらを取り出した。それを部員それぞれに配ると萩原は笑って言う。


「さぁ、頑張ろうぜ」


 和輝と箕輪、夏川は顔を見合わせた。大荷物を運んだ重労働の後に、この荒れ放題のグラウンドを整備しろだなんて横暴過ぎる。けれど、整備しない事には練習出来ないのだ。
 覚悟を決めて唾を飲み下し、和輝は受け取った軍手と草刈鎌を装備する。早々に作業を始めた三年生と同じように、伸び伸びと育った雑草を手当たり次第に刈り始めた。箕輪と夏川も顔を見合わせて溜息を零して作業を始める。
 マネージャーを加えた総勢十一人でグラウンド整備と名付けた雑草毟りが、春にしては聊かきつい日差しの下で行われる。
 土の露出した地面から沸々と湧き上がる熱気。和輝は手の甲で額の汗を拭う。まるで、見計らったかのような炎天下だ。だが、暫くその作業を黙々と繰り返し、周囲のもの刈り終えると場所を変える為に立ち上がった。傍にいた夏川はいかにも不満だと言いたげな顔で、ヤケクソのように手を動かし続けている。
 その姿に苦笑すると、気付いた夏川がじろりと睨んだ。和輝は肩を竦める。


「似合ってるよ、草毟り」
「ぶん殴るぞ」


 夏川は溜息を零した。


「やっぱ、野球部は失敗だったな」
「結果を出すには早過ぎるさ。大体、俺に負けた時点でお前に選択権は……」
「サボってんじゃねぇぞ、一年!」


 突然、怒鳴り声が飛んで来て二人は肩を跳ねさせた。同じ場所から殆ど動かず、箕輪は知らん顔で草を刈り続けている。夏川はそんな箕輪の後ろに回って、無言でその後頭部を叩いた。


「ったく、こんな事してても野球は上達しねぇぞ」
「まぁまぁ」
「今頃、他の学校は青空の下で白球追い駆けてるってのに……」


 夏川を宥めていた和輝だが、その言葉であの見浪翔平を思い出した。あの糸目をした少年は確か私立光陵学園の一年生だった筈。
 和輝と夏川はシニアリーグ出身だが、箕輪は普通の中学の軟式野球出身だ。


「光陵の見浪翔平って知ってる?」
「光陵って、そこの?」


 訊き返された質問に頷くと、夏川は少し考え込んだ。


「見浪……翔平……」
「見た事あるような気はするんだけどさ、思い出せないんだ」
「……もしかして、あの見浪翔平か?」
「どの見浪翔平だよ」


 夏川は自分の目尻を引っ張って「こんな顔」と言う。


「ひょろっとした糸目の男だろ、その見浪翔平ってのは」
「ああ、知ってる?」
「お前に負けず劣らずの、有名人だったぜ」


 和輝は眉を寄せ、夏川はふうっと溜息を零す。


「シニアの強打者って言えば白崎匠が有名だったけどな、中学野球の強打者って言ったら見浪翔平が有名だ」
「道理で……」


 中学の軟式野球なら、知らなくても無理はない。和輝の中学には軟式も硬式も無かったのだから、他の中学の野球部の事なんて知っている筈がない。何時か何処かで見たから和輝も知っているのだろうが、深くは思い出せなかった。


「そうか、光陵ってこの近くだもんな」
「て言うか、何で夏川は軟式のやつ知ってんだよ」


 そう問い掛けると、夏川は無表情に答えた。


「有名だったぜ。えげつないホームランバッター……、見浪翔平」


 それだけ言い残して夏川は背中を向けた。和輝の頭の中に夏川の言葉が過ぎり、同時にあの人の良さそうな笑顔を浮かべた見浪翔平の顔が蘇っていた。


坂道・2

不可能の海、絶望の空、嘲笑う太陽と向かい風


 黒土を跳ねるボールはまるで雪兎のようだ。和輝は目の前でバウンドする打球を包み込むように捕球し、素早く一塁でミットを構える夏川に送球した。
 パンッ。
 久しく聞かなかった乾いた音が空気を震わせる。和輝はグラウンドを踏み締め、夏川のミットに納まったボールを見つめ続けていた。口元は無意識の内に緩み、微かな笑顔が浮かんでいる。
 桜橋が打ち分ける打球を捕って投げる。極普通の練習だが、晴海高校野球部には数ヶ月ぶりの練習に勤しんでいた。少し離れたところでは高槻と萩原が投球練習をしている。たった九人が使うグラウンドはとても広く感じられるが、これまで校舎裏でちまちま練習していたのだから、いい羽伸ばしになるだろう。
 練習はいつもより活気に溢れている。誰かが率先しなくても自然と声が出て、普段以上に良いプレーが見られた。そして、普段の練習では到底満足出来なかった和輝も今日のグラウンドを使った練習では、すっかり息を切らして、休憩時間には倒れるように座り込んでしまった。
 体が酷く重い。服が水を吸ったかのように動き辛く、全身から汗が吹き出ているようだった。
 桜橋に嵌められた感は否めない。どうも、此方に来る打球はどれも厳しいコースのライナーだったような気がする。けれど、求めていたのはこの疲労感だった筈だ。辛さも苦しさも全部呑み込んで歩いて行かなければ意味が無いのだ。嫌な事から逃げたって何も変わらない。
 和輝は気だるさを呑み込んで立ち上がり、ゆっくりとグラウンドに向かって歩き出す。短い休憩時間は終了し、その後の練習は今までの遅れを取り戻すかのような勢いで、日が暮れるまで続いた。
 練習が終了したら大急ぎで学校に戻って片付けて着替える。嵐のような一日はあっという間に終わり、今日ばかりは和輝も自主練習に出掛ける事は出来なかった。
 久々の酷い疲労感を抱えて帰宅すると、珍しく先に帰宅していた祐輝が驚いた顔で出迎えた。


「……どうした?」
「練習だよ、練習」


 鞄を引き摺って階段を上がり、そのまま自分の部屋のベッドに倒れ込む。体が重くベッドに沈み込んで行くようだった。
 しかし、一階で兄が夕飯だと呼ぶので、和輝はのそのそと歩き出した。
 食卓には既に料理が並べられていて、父は相変わらず器用に新聞を読みながらテレビを見て笑っている。兄は人数分の味噌汁を用意して運んでいるところだった。
 変わらない食卓の風景に何処か安心しつつ、和輝も席に着く。祐輝は裕の新聞を取り上げて手を合わせた。


「頂きます」
「頂きまーす」
「うーす」


 それぞれの声がリビングに響く。
 和輝は言った。


「今日、久しぶりにグラウンドで練習したんだ」
「お、そりゃ良かったな。何処のグラウンド使ったんだ?」


 ご飯を頬張りながら裕が訊く。


「山の中!」
「山ぁ?」


 黙っていた祐輝は眉を寄せ、思い出したように裕は手を打った。


「もしかして、ゴルフ場建設予定地のグラウンドか?」
「知ってるの?」
「ああ。ゴルフ場建設は町全体で反対運動が起こったからなァ」


 萩原の言っていた情報と違うな、と和輝は思ったが、何も言わなかった。


「親父も参加したの?」
「一応、署名だけな。あそこは……俺にとっても思い出の場所だからさ」


 裕は顔を上げ、テレビの横に並べられている寄せ書きを見つめた。色褪せた台紙は茶色くなり、インクの文字は薄れ、辛うじて読める状況だ。けれど、それは裕が高校卒業時に同輩・後輩から貰った大切なものなのだ。中には有名人が幾つも名前を連ねているが、裕にとっては仲間から貰ったものであり、それ以上でも以下でもない。
 そして、裕は昔を懐かしむかのように少しだけ笑った。
 今から数十年前、裕は高校三年生の時に野球部のキャプテンとして甲子園で優勝している。その時のチームメイトは今でも語り継がれる程の有名人ばかりのチームだった。そのチームのエースは裕の従兄弟で、元プロ野球選手でもある。
 あの山は、その従兄弟との思い出の場所なのだ。出会った場所であり、いつも二人で自主練習をした場所でもある。
 何時までも思い出にしがみ付く程、裕は弱くない。思い出の場所が永遠に失われなければいいと思う程にロマンチストでもない。冷たい現実を知りながら受け止められるような人間だ。けれど、何もかも無かったみたいに失われてしまうのには抵抗がある。
 黙り込んだ裕に、祐輝と和輝は顔を見合わせて首を傾げた。テレビだけが暫くの間、騒いでいたけれど、裕はふっと笑った。


「今度行った時、時間があったら祠を探して来てくれないか?」
「祠?」
「ああ、あのグラウンドからそう遠くない場所だと思う。もう何十年も昔の話だから、今はどうなってるのか解らないけど」


 それきり、裕はその話題には触れなかった。
 自分の事は多く語らない父だったから、息子達も敢えて追及はしない。和輝はそんな父の昔を懐かしむような微笑と共にその話を胸に刻んだ。


 翌日も山中のグラウンドで練習は行われた。皆、筋肉痛で気だるそうだったが、大荷物を三人で分担して運ぶ一年の比では無い。流石に筋肉痛の翌日は、荷物が崩れそうな為、藤達二年生が多少手伝ってくれた。
 練習が始まってしまえば皆殆ど会話をしない。それだけの余裕が無いのだ。
 和輝は昨日の疲れは完全に癒し、皆が泥のように休む休憩時間に、昨夜父が言っていた祠を探し始めた。
 春の新緑を体全体で感じながら、和輝は山道をぶらぶら歩く。何十年も昔の、誰も知らないような祠だからもう残っていないのかも知れない。そんな事を考えながら和輝は獣道を通り、木々の間を潜り抜けた。そして、太い枝を屈んで避けると、目の前に小さな空間が広がっている事に気がついた。
 緑の光に包まれたそこは、他の何よりも神秘的で空気が澄んでいた。広場の中央には木で出来た、ボロボロの祠らしきものが置かれている。傍には祠を守るようにして、崩れ掛けたブロック塀が存在していた。
 ここが父の言っていた場所なのだと理解するのにそう時間はかからなかった。
 そっと祠を覗き込んで見ると、扉の向こう、奥に鈍く光る金色の小さな像が置かれているのが何とか見える。それが何なのか、一体この祠が何を祭っているもので、何時からここにあるのかも和輝は知らない。ただ、扉のの手前に置かれた白く丸いものに目が向いた。
 白、と言うよりは茶色に近い。一応手を合わせてから扉を開け、その丸いものを手にとって和輝は呆然とした。
 それは一つの硬球なのだ。牛革はすっかり色褪せて茶色くなり、赤い縫い合わせの糸は解れてしまっている。だが、それを掌で転がして和輝は気付いた。


『最高のチーム。絶対、甲子園』


 白球に書かれた文字は大分薄れてしまっているけれど、馬鹿丁寧に書いてある。きっと一文字一文字、念を込めるようにして書いたんだろう。
 脳裏にふと、嘗て父が率いた県立阪野第二高校野球部の集合写真が思い出された。彼等は果たしたのだ、甲子園という舞台で優勝という偉業を。


(俺にも、出来るだろうか)


 ボールを掴む指先が僅かに震えた。
 道程はきっと、恐ろしく厳しい。坂道なんてものじゃなく、壁に次ぐ壁、苦難の連続だ。それでも、捨てられない意地が、諦められない夢があるから。
 坂道なら、登ってやろう。壁なら乗り越えてやろう。どんな困難にも打ち勝って、最後に俺はやったと笑ってやりたいから。
 和輝はその白球を祠に戻し、扉を閉じて再び手を合わせた。


(出来るかどうかなんて、結果がはまだ誰にも解らないんだ。……やろう、俺に出来る事を)


 解らない未来を諦める事はしたくない。
 閉ざしていた目を開け、正面の祠を見詰める。ここは父が仲間と、夢を誓った場所なのだろう。
 両手で拳を握る和輝は黙り込んでいる。一陣の風が吹き、入学式の頃よりも伸びた髪を僅かに舞い起こした。その横に、すっと一つの影が並んだ。和輝は目も向けずに正面を見つめたまま動かない。
 高槻は寂れた祠を一つ眺める。休憩時間が終わろうというのに帰って来ない和輝を呼びに来たのだが、当の本人はそんな高槻を殆ど無視しているようだ。


「何の祠だ?」


 居た堪れなくなって訊くと、和輝は素っ気無く「知りません」と答えた。
 高槻は溜息を零す。


「もう、休憩終わるからな」


 踵を返そうとすると、和輝が一言「キャプテン」と呼び止めた。


「明日の練習試合、頑張りましょうね」


 振り返った顔は、酷く優しげに微笑んでいた。和輝はそれが父そっくりのものである事を知らない。
 高槻はふっと笑う。


「当たり前だ。……早く戻って来いよ」


 そのまま戻って行った高槻の背中を見送り、再び祠に向き直る。吹き抜ける風が木々をざわめかせた。


「さて」


 ポケットに手を突っ込んだまま、和輝は振り返る。生い茂る緑、一本の木の影に微かな気配があった。
 黙ったまま返答しない気配を見詰め、溜息を吐いた。


「何時まで隠れてるつもりだよ」


 そう声を掛けると、木の影にいた気配はやれやれとでも言うようにふらりと現れた。和輝は、現れた少年を見て目を丸くする。


「……見浪君!?」


 見浪は悪戯をした後の子供のように笑った。


「何時から気付いてた?」
「……最初から」


 和輝は困ったように眉尻を下げて言う。


「何でここに?」
「ちょっと君に用があってさ、学校に訊いたらここにいるって言われて」
「用?」


 見浪は笑顔のまま頷いた。


「君って、あの蜂谷祐輝の弟でしょ。姉貴がファンでさ、サインもらって来てって」


 鞄の中から色紙を取り出して見浪は照れ臭そうに笑う。和輝は苦笑した。


「悪いけど、兄ちゃんに怒られるから勘弁してくれよ」
「はは、解ってたけどね」


 見浪は色紙を鞄に押し込んでまた、笑う。
 どうにも、この男は胡散臭い。得たいの知れない不気味さを感じながら和輝が見ていると、見浪は笑顔を張り付けたまま言った。


「来週の土曜、午後から東谷高校と練習試合なんだろ?」
「そうだよ」
「その日、部活が午前中で終わるから見に行くよ」


 和輝は首を傾げる。


「どうして?」
「将来のライバルは早い内から見ておきたいからね」
「……随分と準備が早いね」
「当たり前だろ」


 見浪は糸目を僅かに開いた。


「天才・蜂谷祐輝の弟と、元プロ野球選手の息子がいるチームだぜ?」


 ああ、と和輝は思う。世間はきっと、そういう見方をするのだろう。
 胸の中にあるのは世界に対する諦観だ。きっと自分達がどんなに頑張っても、偉業を成したとしてもそういう見方をするのだ。
 でも、そんな事はもう関係ない。


「関係無いよ」
「うん、そうだよな」
「……そうだよ。例え世界がどんなに理不尽な見方をしたって、俺達は自分と向き合って歩き出せる」


 真っ直ぐに見詰める丸い目が見浪に突き刺さる。見浪は、その目の奥に何か青白い炎のようなものを見た。
 嘗てテレビで見た彼の兄、蜂谷祐輝も瞳に炎のような光を宿していたが、和輝は何か種類が違う。熱血とも闘志とも掛け離れた、足元から込み上げて来る恐怖を誘う――鬼火だ。
 色素の薄い双眸の中にちらつく青白い炎。見浪は寒気を感じて鳥肌を立たせながら、無意識に笑っていた。つい、笑ってしまったのだ。新しい玩具を手に入れた子供のように、何処か残酷な無邪気さを胸に宿して。


「ねぇ、君ってさ」
「和輝でいいよ」


 さっきから呼ばれる『君』という単語に面倒臭くなって和輝が言うと、見浪は込み上げて来る可笑しさを殺せぬまま続けた。


「叩き潰してやりたいって、言われない?」


 今度は、和輝が鳥肌を立たせる番だった。笑みを浮かべながら言う見浪が不気味で仕方がない。
 何なんだ、こいつは。
 吐き出したくなる、言いようの無い不安を押し込んで和輝は首を振った。


「そう。でも、俺は思うよ」
「……叩き潰してやりたいって?」
「うん」


 見浪は、それまでの不気味な笑みを消し去って、今度は子供っぽく笑った。


「何もかも失って、絶望して両膝を突く和輝が見たい」


 和輝は半ば半ば呆れながら思った。


(あ、こいつドSなんだ)


 見浪の言葉には何も返さず、和輝は練習に戻る為にそのまま足を踏み出す。すると、見浪はまたあの胡散臭い笑顔で手を振った。


「じゃあ、また土曜日にね」
「……ああ」


 素っ気無く返し、和輝は戻って行く。見浪はその背中を暫く眺めた後、ふっと笑った。
 あの青白い炎が脳裏に蘇る。見浪は、新しい玩具を見つけたのだと、笑っていた。

2008.5.16