五月を迎えると太陽はその輝きを増し、冬の燻りを補うように地上を照らし始めた。晴海高校野球部の練習グラウンドを覆う緑も色を深くし、茂る若葉が日光に透き通る。
ゴールデンウィーク。高校入学後、初めての連休。本当は合宿をしたかったらしいが、野球部には決まった顧問がいない為に学校側からの許可が下りなかった。合宿をするとしたら、個人で行うしかない。勿論それは、場所があればの話だが。
合宿が出来ない穴埋めをするかのように、連休は全て練習に埋まった。早朝から日が暮れるまで、グラウンドを駆け、白球を追い駆ける。ユニホームは泥だらけだ。
グラウンドの出入り口近くに聳える大木の日陰で、和輝はぼんやりと立ち尽くしている。涼しげな風が頬を撫で、髪を揺らす。和輝の目は、グラウンド等見てはいなかった。フェンスも、春の新緑も越えた更に向こう。
脳裏を掠める兄の横顔、匠の後姿、そして、見浪の不適に笑う双眸。
(俺は、全部超えて行かなきゃならないんだなぁ)
和輝には、具体的な夢や目標なんて無い。
誰にも負けたくない。自分から逃げたくない。だから、戦おうと思った。その戦場が高校野球で、最終的には甲子園に辿り着く事であるというだけの話だ。
そんな話は、口にすれば否定され、馬鹿にされ、虐げられるだろうから言わないけれど。
「和輝」
呼ばれ、はっとして目を向けると、無表情で此方を見詰める夏川がいた。夏川は黙ってすぐ傍まで歩み寄ると、少しだけ笑った。
「叩き潰されんなよ」
和輝は、くすりと笑う。
「誰に言ってんだよ」
そう、ここは戦場なのだ。背中を向けたが最後、命は無い。
遠くで高槻が休憩の終わりを告げたので、和輝は先を行く夏川の背中を追い駆けるように走り出した。彼方此方に散っていた部員がわらわらと、次の練習の為に集まって行く。
不意に、横に目を向けた。和輝よりも少し背の高い少年が、走っている。一つ上の先輩、二年の雨宮シンジだった。雨宮は和輝には目もくれず、他の皆と同じように走って行く。和輝はその後姿を見て、一人首を傾げた。
歩行の釣り合いが取れないらしく、酷く奇妙な走り方だ。跳ねるような、引き摺るような。
「雨宮先輩」
簡単に追い付けてしまう雨宮の横に並び、和輝は問い掛けた。
「足、怪我してるんですか?」
「……いいや、これは癖だよ」
「癖?」
訊いても、雨宮はそれ以上答えようとしなかった。そのまま群れの中に合流すると、まるで追及を逃れるかのように離れて行く。和輝は怪訝そうに眉を潜めたが、やはり、それ以上は何も言わなかった。
晴海高校野球部は、それぞれの学年に個性豊かな面々が三人ずつ在籍している。三年にはキャプテンの高槻、副キャプテンの桜橋、そして、萩原。次世代を担うだろう二年には藤、雨宮、そして、良くも悪くも気分屋である蓮田という先輩がいる。一年には和輝、箕輪、夏川。更に、マネージャーには一年生の水崎と霧生という女子が二人。これが全てだ。
先にも言った通り、野球部面々は相当個性豊かだ。短気者もいれば穏やかな人間もいるし、熱血がいれば冷血もいる。お調子者もいれば真面目もいる。そんな対極同士がこうして練習しているのは、高槻の技量と言えなくもない。ただし、高槻は冷めた性分だから、面倒事には自分から首を突っ込まない事無かれ主義の一面も持っている。
つまり何が言いたいかと言うと、この部活にはまだまだ問題の種が眠っているという事だ。
(夏前には、無くなればいいけれど)
半ば祈るような気持ちで、和輝はそんな事を考えていた。
美しき世界・1
それは試練か、ただの時間の無駄か
雨宮シンジは晴海高校の二年生で、学年では十番に入る頭脳の持ち主だ。
性格は温厚で、桜橋のように実は腹黒いなんて言う曲者でもない。多くは語らず、ただ黙々と練習を続ける日陰のような人間だった。
ただし、彼の努力は報われていない。それは、彼の右足に原因があった。
理由は解らないが、彼はその右足を文字通り足枷としている。部内一の鈍足はそれが原因だった。その足枷は走るだけに留まらず、バッティングや守備に置いても彼を苦しめている。
それでも、雨宮は語ろうとしない。
誰にだって後ろめたい過去はあるものだ。そう自己完結して、和輝は何も追及せずに自分の練習をこなした。だが、山道を利用したマラソンで、雨宮一人が置いて行かれるように遅れる姿を見るとどうしても足が鈍くなる。甘さと優しさは違うと解っているけれど、自分も大概、お人よしなのだろう。
歩調を緩め、遅れた雨宮との距離を縮める。しかし、雨宮はすぐにそれに気付いて鋭い視線を投げた。
「何のつもりだ」
「……ちょっと、きつくて」
「嘘吐くなよ、天才の弟」
和輝は苦笑した。
雨宮は、和輝がそう呼ばれるのが嫌だと知っていて、わざとそう言って遠ざけようとする。彼は偽悪だ。
「足、故障してるんですか?」
土から頭を出した岩を軽く飛び越え、和輝は横顔だけ振り返って問う。雨宮は何も言わず、傍の木に手を置いて岩を乗り越えた。
何気なく、雨宮の右足に目を向ける。ズボンの上からでは当然、何も解らない。
「隠されるより、言ってくれた方が気楽ですけどね」
「うるせ、黙って前向いて走れ。キャプテンに叱られるぞ」
息を切らした雨宮の速度が更に落ちる。和輝は黙って歩調を合わせた。
「心配されたくないなら、黙っているより他の方法があるでしょう」
雨宮は何も言わない。
和輝は黙って山道を走り続ける。道を遮るように伸びる蔓を避け、土に埋もれる階段を上った。急斜面になって、皆の姿が見えなくなっても振り返る事は止めなかった。その行為が、今まで兄にされて来た事と同じだと解っても。
同情も労わりもいらないのだ。けれど、雨宮は自分のように残酷さを求めている訳では無いだろう。そう考えて和輝はその走りを止めない。暫くして、雨宮は、彼らしくもなく苛立ったように言った。
「そんな事されて、俺が喜ぶと思ったか?」
和輝は背中を向けたまま、苦笑した。
「俺は本当に、疲れただけですよ」
すると、雨宮は皮肉そうに一声笑った。
「お前はその程度なのかよ」
安い挑発だな、と和輝は笑う。
「俺は先輩が思ってる程、すごくないんですよ」
第一、胸を張れるような夢も目標も無い好い加減さだ。
和輝はその言葉を呑み込んで、ふと雨宮に目を向ける。
「すいませんね、期待を裏切るようで」
雨宮は欠片も笑わず、悔しそうに目を背けていた。
訳も無く、和輝は雨宮と話してみたいと思った。純粋な人間ではなく、歪んだ人間でもなく、熱血でもなく、冷血でもなく。ただ、全てを諦めてしまうように歩き続ける彼と話してみたい。
「雨宮先輩の夢ってなんですか」
訳が解らなかっただろう。
雨宮は眉を寄せ、馬鹿にするように、或いは呆れるように和輝を見た。
「夢、だと?」
「そうです」
暫しの間、雨宮は黙り込んだ。和輝が何も言わずに待っていると、雨宮はふっと笑って答える。
「『甲子園』とは、言えないなぁ」
「どうしてですか」
「おこがましいだろ。そんな恥ずかしい事言えるかよ。俺にはそんな才能はない」
和輝は少しだけ笑った。
「俺も、『目指せ甲子園』とは言えませんよ」
何かを疑うような色が、雨宮の目に映る。和輝は言った。
「負けたくないんです。俺の目標は勝つ事ですから、甲子園は単なる物事の結果でしかない」
目指している訳ではない。そこはゴールではないのだ。
その微妙なニュアンスが彼に伝わるかどうかと思ったが、雨宮は無表情に「そうか」とだけ言った。
雨宮は、『誰に』とは訊いて来なかった。悟ったのか、勝手に自己完結したのかは解らないけれど。
その先はお互い無言だった。和輝も後ろを向く事は無く、雨宮も文句を投げ掛けて来る事は無かった。黙って山道を駆け上り、漸くゴールであるグラウンドに辿り着くと、既にゴールしていた面々が文句を言って笑った。
時間を持て余した箕輪と夏川は二人でキャッチボールしていたが、和輝のゴールに気付くと駆け寄って笑った。
「遅ェよ、この鈍間」
「うるせーな、いつもはお前が言われてる事だろ」
「だからこそだろ」
言い合っていると、タイムを計っていたマネージャーの亜矢がドリンクを手渡した。和輝は軽く礼を言い、一口一口、冷えたスポーツ飲料を喉の奥に流し込む。不意に雨宮に目を向ける。雨宮は、相変わらず奇妙な歩き方で木陰に向かっていた。
謙虚なのか、傲慢なのか、……臆病なのか。
和輝は黙って目を背け、箕輪と夏川の会話に混ざって行った。そして、入れ違うようにして雨宮は振り返って和輝を見た。知り合って一ヶ月程しか経たない仲間と楽しそうに談笑する小さな後姿。
脳裏を掠める、何処か冷えた口調。子供っぽい天真爛漫な笑顔の裏側に張り付いた、底冷えするようなリアリズム。隠し、演じているのか、それとも。
(何れにせよ、曲者には変わりないか)
雨宮はそうして自分の疑問を自己完結させ、再び背中を向けて歩き出した。
少しの休憩を挟んだ後、練習は再開される。終わるのは日が暮れてからで、その時は使った用具を学校まで運ばなければならない。かなりの重労働だが、それらの仕事は主に一年が任される。
太陽が西の空に沈んだ。朱を帯びた空がだんだんと紺色に染まって行く中、漸く練習は終了し、皆は重くなった体を引き摺って片付けを始める。グラウンドを均す者、用具を纏める者。それぞれの役割を確実にこなして行く。
和輝は足に残った疲労を誤魔化すようにアキレス腱を伸ばしつつ、ゆっくりと用具を自転車の荷台に纏めた。帰り道はあの急斜面を下るのだから、途中で荷物を落としてしまったら大変な事になる。今日は自分のペースを崩して山中マラソンをしたせいか、足に疲労が違和感として残った。
「大分、しんどそうだな」
片付けを続ける和輝の背中に向かって、高槻は何気無く声を掛けた。
和輝は手を止めて振り返り、苦笑交じりに答える。
「今日はちょっと」
「マラソン、随分と遅かったしな。不調か?」
曖昧に笑って誤魔化そうとすると、その内心を見抜いたのか高槻は目を細めた。
「お前には、時間が無いんじゃないのか」
思わず、ギクリとした。和輝の顔から表情は消え、嫌な沈黙が流れる。
高槻は暫く意味深な鋭い視線を向けていたが、ふっと笑った。
「図星かよ。なら、他人になんざ構ってんな」
「……どうして」
どうして、そう思うんですか。
和輝の問いは喉の奥から二酸化炭素に消えた。高槻は、和輝がそんな反応をすると思わなかったので居た堪れない気持ちだった。確証があって言った訳では無い。そんな気がしただけなのだ。しかし、今更後には引き返せない。
「お前は此処に居ながら、遠くを見てる」
高槻にしてみてば行き当たりばったりな言葉だったが、和輝は胸の内を見透かされたような居心地の悪さを感じた。だが、本音なんて言う必要はない。
捻くれるように、和輝は軽く笑いながら口を開いた。
「そうですね。夢はでっかくないと、面白くないですから」
そうあしらって誤魔化してしまえばいいのだ。和輝はそれだけ言うと、すぐに片付けを再開した。
自分も人の事を言えないな、と一人ごちる。結局は、臆病なのだろう。
そんなやりとりを遠く、雨宮が聞いていた事等、和輝は気付きもしない。
(あいつは、俺に、いや、誰にでも似ている。……それなのに、誰とも違う)
この矛盾は一体何なのだろう。
自分の中で幾ら問答を繰り返したところで正解が出る筈も無い。そもそも、正解という概念さえ曖昧だ。
天才を兄に持った弟。体格には恵まれなかったが、溢れる才能と抜群の運動神経。頭は悪いが下手なアイドルよりも容姿は整っている。そこに加わる性格は未だ誰にも掴めない。純粋なのか、歪んでいるのか。熱いのか、冷めているのか。
いずれにせよ、雨宮はそれを知る術を持たない。
諦めるように、半ば投げやりな気持ちで溜息を一つ零し、雨宮はゆっくりと歩き出した。
明らかに自転車の限界を超えた巨大な荷物を、危ういバランスで支えながら斜面を下って行く。明かり一つ無い山中は、手ぶらであっても危険が伴うのだ。舗装もされない獣道で、自分と体重よりも重い荷物を運ぶ和輝の視界を照らすのは、自転車の小さな弱々しいヘッドライトのみだった。
見兼ねた二年の藤が先を歩いて障害物の有無を確かめながら、自転車の籠を支えて進む。
途中、横に伸びる蔓を弾き、藤は足元に転がる石を横に蹴飛ばす。何時の間にか最後尾をになっていた和輝の後ろには八時半を回った濃い闇が広がっていた。
「藤先輩」
列から完全に遅れていると知りつつ、和輝は藤に話し掛けた。
「雨宮先輩って、足、怪我してるんですか」
藤は振り返りもせず、地面から頭を出した石を避けて答える。
「怪我なんかしてねぇよ」
「でも、妙な歩き方してませんか?」
「癖だって、言ってたよ」
納得はしていないが、和輝派それ以上の追及は止めた。何より、藤がそれを拒否しているようだったからだ。
暫しの間、居心地の悪い沈黙が流れた。和輝は無言で自転車を押し、藤は黙ったままそれを支える。やがて視界は開け、目の前には舗装されたアスファルトの道が広がる。ぽつりぽつりと点在するオレンジ色に輝く街灯の向こうに皆の後姿が見えた。
漸く一安心と、和輝は大きく溜息を零した。そして、後一息と意気込んだ時、ポツリと藤が言った。
「誰にだって、人に言えない秘密があるんだよ」
「……追及するつもりはありませんてば。俺はただ、気になっただけです」
「ああ、そうだろうな。お前はそういう人の境界線を見極めるのが、大層上手らしいし」
「?」
「人が望む分だけ踏み込んで、人が拒否すれば即座に足を止める」
「気に入りませんか?」
「いいや」
藤は意味深に薄く笑って首を振る。
「そういう人間がいるから、この野球部は漸く動き出したんだろ。その意味では借りもあるし、高がそんな事でお前の人間性まで否定する気にはなれねぇよ」
和輝は眉を潜めて黙った。全くフォローになっていないと思うのだ。これは遠回しな文句じゃないだろうか。
だが、藤は尚も言葉を続ける。ポツポツと点在するオレンジ色の街灯が、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「お前の事を、八方美人だと言う人間もいる訳だよ」
「……言いたいやつには言わせておけばいいんです」
「否定はしないのか?」
「何が、いけないんでしょうか」
自転車のハンドルを握り直し、和輝は俯いた。車輪が乾いたアスファルトの上を回転して行くのが闇の中で薄く見える。
「俺だって、嫌われたくて生きてる訳じゃありません」
藤は背中を向けたままだった。和輝は顔を上げ、苛立った口調で言う。
「何が言いたいんですか。俺がずるいって思うんですか?」
「ああ」
藤は即答し、横顔を向けた。
「お前は何時だって安全なところまでしか踏み込まない。自分も相手も傷付かずに済むところで足を止める」
「必要以上に踏み込む必要は無いでしょ」
「だから、ずるいんだよ」
ぴたりと藤が足を止めるので、和輝も合わせて止まった。荷物の重さが圧し掛かって来たが、そんな意識は直ぐに過ぎ去った。
「何で踏み込まないんだ。怖いのか」
和輝はいかにも不満げに眉を寄せる。
「いけませんか?」
和輝の目は、既に藤を睨んでいた。
「傷付くのも、傷付けられるのも怖いんですよ。当たり前でしょう」
童顔に見合わない鋭い目だった。だが、藤は睨み付けられていると知りつつ、笑った。
「そうだろうな」
「……?」
和輝は訳が解らなくなって眉を潜めた。藤が何を言いたいのか、全く解らない。否定したいのか、馬鹿にしてるのか、慰めてるのか、励ましているのか。
藤は笑う。和輝は漸く気付いた。彼は桜橋と同じタイプの人間らしい。
「俺に、踏み込ませようって……?」
乾いた笑いが零れた。肯定を意味するその行為に対して、和輝は忌々しそうに鋭い視線を向ける。
「俺を利用しないで下さい! 知りたいなら、藤先輩が勝手にすればいいでしょう!」
「誰もそんな事は言ってないだろ」
「でも、あんたは俺にそうさせようとしてた」
「うん。でも、強制はしていない」
和輝は黙った。
藤は、和輝が拒否出来ない事を承知で言っているのだ。悔しいのは、その通りだからだろう。
誰かの望む通りには生きたくない。だからと言って、切り捨ててしまえる程に強くもない。全て承知で、まるで操り人形みたいに藤は自分を利用しようとしているのだ。
苛立つ。
「俺には何も関係無い事です!」
藤の支えを振り払うようにして、和輝は再び自転車を押し始めた。追って来る気配は無かったけれど、暫くは顔も見たくなかった。だから、早足に進む。
そして、後ろからの足音がすっかり聞こえなくなった何個目かのオレンジ色の光の下で、唐突に気付いた。
(もしかして、助けられたのか?)
何も無く雨宮の心に踏み込んだら、責任は一人で背負わなければならない。今のやり取りがあれば、藤が嗾けた事になる。
気付いた時、むず痒いような苛立ちが足元から上った。堪らなくなって頭を掻き、和輝は走り出した。
泥まみれのユニホームがオレンジ色を吸い取っている。和輝は溜息を零した。
2008.7.8
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