そこを訪れたのは、全くの偶然だった。
 以前の怪我の経過を見る為、父の古くからの友人が院長を務めるという大学病院の廊下を、和輝は一人で歩いていた。怪我は大したものではないけれど、何しろ、一度切った程度の怪我ではない。何度も何度も同じ場所を怪我し続けているのだ。どんな影響が現れるのか解らないから、心配した兄の勧めでわざわざ大学病院で精密検査を受ける羽目になった。
 午前中に部活が終了する日を狙って予約し、急いで帰って欠伸が出るような検査を重ねる。結局、兄が心配するような異常は欠片も見られなかった。
 全てが終わった時には、既に日は暮れた午後六時。病院の面会時間も終わろうかという穏やかな時間だった。
 廊下には大きな窓から朱色の光が差し込み、白い壁に長い影を落とす。静かに反響する靴底の音が物寂しく、擦れ違うのは患者服を着た老人程度になった。
 ところで、和輝の父である蜂谷裕は、致命的な方向音痴である。しかも、時間にルーズで、良く言えばマイペース。病院の都合などお構いなしに廊下を闊歩するだろう、そんな父の血を、和輝は色濃く受け継いでいた。
 道に迷ったのだ。それなのに、周囲になまじ気配があるから焦る様子も無く、歩いて来た筈の道をのんびりと急ぎもせずに戻って行く。勿論、それが正しい保証なんて何処にもない。
 溜息を零しながら廊下を行けば、病院の面会時間終了を告げるアナウンスが響き渡った。
 しまったなぁ、と思う。この大学病院の婦長は怖いのだ。父が陰で彼女の事を『鬼婦長』だなんて呼ぶものだから、恐怖はその三倍だ。
 なるべく婦長に見つからないようにして、こっそりと脱出しなければならない。
 面倒な事になったと考えながら横目に病室のネームプレートを確認する。三階という時点で、出口からは既に遠い事くらいは解るのだけど、エレベーターの場所が見当たらない。
 個室の並ぶ廊下を通り抜け、和輝は何気無く、ある病室を見た。偶然、扉が半分開いていたのだ。心細さか悪戯心か、和輝は足を止めて中を覗き込む、橙色に染まった白い病室で、表情の失せた死体のような顔の少年がベッドに横たわって遠くを眺めている。大きな窓の向こうで夕日は町並みの向こうに消えようとしていた。
 ネームプレートは、『日比谷信幸』だった。本当に、全くの偶然だ。
 この日この時間に検査に来て、偶然迷って、偶然扉が開いていなければ会う事は永遠に無かっただろう。だが、和輝はこの場所を訪れた。
 無意識の内に扉に体重が掛かり、微かに軋むような音がした。ぼうっとしていた筈の日比谷は音に気付いて顔を向け、和輝はギクリと肩を跳ねさせる。能面のように表情の死んだ白い面がじろりと和輝を見詰めた。


「誰だ?」


 和輝は動けなかった。初対面の少年が、どうしてだろうか、怖くて仕方が無い。
 寒気が足元から昇って来る。空気が凍り付いたようで呼吸もままならない。訳の解らない悪寒に襲われながら、和輝は日比谷から目を逸らせない。
 日比谷はきょとんと小首を傾げた。


「君、誰?」


 その瞬間、漸く空気は氷解した。和輝は空気の塊を吐き出した。心臓が大きな音で騒ぎ、体中の汗腺から一気に汗が噴出す。
 そのまま力が抜けて扉に凭れ掛かったが、日比谷は表情を変えないで和輝を見ている。


「名前は?」
「――あんた、もしかして」


 和輝は唾を呑み込む。頭の中には数年前の記憶が、昨日の事のように鮮明に思い出されている。目の前に居る少年を、和輝は知っていた。


(日比谷、信幸だ)


 咄嗟に部屋のネームプレートを確認した。やはり、名前は日比谷信幸。
 知っているのだ。彼がグラウンドを走り回っていた事も、どんな成績を残したのかも知っている。それ程、彼は有名な選手だった。兄からも何度と無く、彼について言われた。


「日比谷さん……」


 寒気の正体に気付いた。
 腕が無い。足が無い。表情は死に、感情は凍結している。目の前にいるのは本当に生きた人間だろうか。和輝はその名を口にしたが、それ以上の言葉を繋ぐ事が出来なかった。
 ポツリと涙が零れ落ちた。目頭に覚えの無い熱が広がり、堪え切れない雫は頬を伝う。
 日比谷はやはり表情を変えない。和輝は鼻を啜った。


「どうして」


 頬を伝った雫は顎に到着し、そのまま足元に落下する。床に涙の跡が幾つ出来ても、和輝は言葉を失ったままだった。


美しき世界・3

それでも、僕等は歩き続ける。
それでも、僕等は笑い続ける。
それでも僕等は戦い続ける。


 この地区の中高生でシニアをやっていた者で、日比谷信幸を知らない者は殆どいないだろう。和輝の兄である祐輝が天才と呼ばれ、早々に注目を集めていた頃、現れたのが日比谷だった。地区内で祐輝に対抗し得る唯一の天才投手として注目を集め、その存在は第二の蜂谷祐輝とさえ囁かれた。
 和輝が日比谷と出会ったのは、中学一年の練習試合だった。兄は三年生、日比谷は二年生。和輝はトップバッターとして日比谷と真っ先に対峙した。
 唸るような剛速球は、目の前を一瞬で通り過ぎて行く。キャッチャーミットから乾いた音が響く。振り切ったバットは追い付かない。カウントはあっという間に嵩んで行く。
 だからこそ、和輝はその打球を転がした。カツンと乾いた音がして、打球は三塁線に向かう。日比谷のフィールディングは完璧だったが、和輝の足はそれ以上だった。日比谷がバントを捌いて一塁に送球する間に和輝は滑り込んだ。審判がセーフを告げる。
 確かに間に合った。十分な仕事をした。一塁上で和輝は日比谷の背中を眺めた。続く打者が和輝を送り、四番の浩太がヒットで初得点。本塁に帰って来ても、和輝は遠く日比谷の姿を見詰めていた。
 その後も和輝は転がし続けた。一度としてバットを振り抜く事は無かった。
 届かなかったのだ。
 以来、日比谷とは会っていない。しかし、和輝はいつか、いつか彼に勝ちたいと思っていた。
 ……思って、いたのだ。


「日比谷さん、何があったんですか……?」


 和輝は、目の前にいる少年を見て言った。何もかも失った抜け殻のような少年。嘗ての目標。
 日比谷は、少しだけ笑った。


「そうか、お前、弟の方の蜂谷君か」
「和輝です」


 日比谷は喉を鳴らして乾いた笑いを漏らす。少し俯いて、暫しの間、自嘲気味に笑った。そして、虚ろな目を上げる。


「俺の事を覚えてるとは思わなかったよ。……無様だろ」


 和輝は頷かない。


「惨めだろ、なあ」


 それでも、頷かなかった。


「頷いてくれよ……」


 和輝は静かに首を振る。そして、答えた。


「日比谷先輩こそ、俺の事覚えていてくれてたんですか?」


 日比谷はきょとんとして、黙った。和輝は少しだけ笑い、穏やかに言う。


「俺なんかの事を覚えていてくれた人に向かって、そんな事言えません。あなたは俺の目標だったんだ」


 今ではすっかり色褪せてしまったけれど、今でも日比谷のプレーは思い出せる。和輝は零れ落ちた涙を拭って笑って見せた。
 日比谷は俯き、口を結ぶ。数年前にグラウンドで見た小さな少年の記憶が、セピアに染まりながら静かに蘇った。そして、色付いた現在が目の前にある。和輝は笑っていた。


「ありがとう、よ」


 ポツリと雫が零れ落ちた。和輝は気付かない振りをして笑みを浮かべたまま、黙っている。
 同情するには重過ぎる。かと言って、黙って通り過ぎる訳には行かないのだ。
 雫が白いシーツに染み込んで行く。和輝は何かを言おうと口を開いた。その時、背中を向けていた扉が乾いた音を立てて開いた。


「面会時間は終了よ」


 現れた看護婦が言った。和輝は言い掛けた口を閉じ、小さく頭を下げて、静かに病室を出て行った。後ろ髪引かれる思いだった。
 残された日比谷は半開きの扉を眺める。看護婦は廊下に響く走って行く足音を聞きながら、大きく溜息を吐いて言った。


「和輝君は本当に、昔から変わらないわねぇ」
「……知ってるんですか?」
「ええ、昔から知ってるわよ」


 中年の看護婦だった。昔を懐かしむように目尻を下げ、優しく口を開く。


「カウンセラーの、蜂谷先生の息子さんよ。よく病院に一緒に来て、お兄ちゃんと一緒に騒いで婦長に怒られてたわ」
「蜂谷先生の……」


 ぼんやりと、三人の姿が頭に浮かび上がった。裕と、祐輝と、和輝。思い出せば、確かに彼等は何かが似ているようだった。
 日比谷は和輝の消えた扉を眺め、そして、小さく笑った。
 静か過ぎる廊下に響く足音が嫌で、和輝は走り出した。擦れ違う医者や看護婦が注意して来ても黙って走り、病院を飛び出した。足音が反響している。
 外は既に日が落ちて、街灯が乾いたアスファルトを橙に染めていた。
 街中を暫くの間、一心不乱に走り続けた。だが、いつもの河川敷に到着し、鉄橋下の暗がりに転がり込むとコンクリートの壁を背中に大きく肩を上下させ、呼吸を整え始める。体内から熱がじわじわと込み上げた。額から流れた汗が頬を伝う。頭の中には日比谷の抜け殻のような横顔が思い出された。
 もう、彼と戦う事は出来ない。
 この世界は残酷なのだ。過去は永遠に戻らない。『いつか』が訪れず、望んだ未来に進めない事だってあるのだ。目の前のものは失われたら永遠に戻らないものだと、気付かなければならなかった筈なのだ。明日が訪れる確証なんか、何処にも無いのに。
 無念、絶望、諦観。世界が闇に包まれて行く。届かなかった未来が砕ける。拾い上げた指先の皮膚がプツリと切れた。
 それでも、諦めたくないと願ってしまう。


「何で」


 鉄橋下に差し込む街灯の光を、一つの影が遮って立っていた。和輝はゆるりと顔を向けた。見覚えのある顔は、何処か少し怒っているように見えた。
 雨宮は、壁に凭れ掛かっている和輝を何の感情も映さない目で見ている。彼の問い掛けた疑問の答えが返って来る事は無かった。和輝はだんまりを決め込んだまま、正面に流れる緩やかな川の流れに目を向ける。
 川のせせらぎが静かに世界を支配する。やがて、鉄橋を走る電車の轟音が静かな世界を破壊して行った。


「何で」


 今度は和輝が問い掛ける。


「何で、こんなところにいるんですか」
「……お前が」


 雨宮はやはり、無表情に言う。


「お前が、病院から飛び出して来たから」
「……日比谷さんは、どうして」


 その先に言葉は繋げなかった。踏み込めない。無言の見えないバリアが目の前に張られている。
 雨宮は皮肉そうに笑った。


「俺がやったんだ」


 和輝は眉を寄せた。


「俺があいつの未来を、夢を潰したんだ。俺があいつの野球を奪ったんだ」


 雨宮は薄く笑い、すぐ横まで歩み寄る。和輝は少し顔を上げてその表情を映さない顔を見た。


「事故でさ、俺なんかを庇いやがったんだ。右腕は使いもんにならなくなった。俺は片足を無くした」
「片足……」


 和輝は雨宮の両足を見た。雨宮は苦笑する。


「この右足は、ノブのものだよ」
「――」


 言葉を失った。怪我なんて、そんなものじゃない。移植されたものなのだ。


「出来過ぎた人間だと、思うよな」
「え?」
「頭脳明晰、温厚篤実、容姿端麗、スポーツ万能。事故に遭ったら自分の身も省みず親友助けて、そいつを救う為に自分の脚までやっちまうんだ。同じ天才のお前になら、理由が解るんだろ?」


 彼が何を言っているのか解らず、和輝は眉を寄せた。


「理由って?」
「俺は、あいつにとっちゃ親友でもなけりゃ、ライバルでもなかったって事か?」
「どうして?」
「同情されて、慰められて、恵んでもらって……。俺は惨めだよな」


 和輝は頷かない。


「どうしてそう思うんですか? 日比谷さんはどうして、雨宮先輩を助けたんですか?」
「同情だよ」
「俺は、違うと思います」


 雨宮は顔を上げた。和輝の真っ直ぐな目が正面から突き刺さる。ふと、彼の父である蜂谷裕の顔が過ぎった。


「お前の親父が……」
「俺の親父?」
「あいつが、ノブを惑わしたんだ」


 意味が解らない和輝は何も言えず、眉を寄せるだけだ。雨宮はそんな事知らず。胸の中に沸々と込み上げて来る怒りに少しずつ支配されて行く。


「あいつがノブを騙して、移植させたんだ……!」
「親父はそんな人間じゃない!」


 父がそんな事する訳ない。父は確かに嘘を吐く事があるけれど、それは必要だから嘘を吐くのだ。彼は必要な嘘しか吐かない嘘吐きで、悪戯に誰かを騙しはしない。
 だが、疑問が生まれた。
 どうして、移植したのだろう。雨宮を救おうとしたのは、誰なのだろう。
 その疑問こそが鍵なのだ。そう気付いた時、自ずと答えは出た。
 同情じゃない。自己満足じゃない。日比谷は、自分の為に、親友を救いたかったのだ。


「日比谷さんは……、雨宮先輩を救いたかったんだ」
「何だと」


 和輝は立ち上がって、雨宮を真っ直ぐに見据えた。


「独りきりで強い人間なんて、いないんですよ」


 あの抜け殻のような日比谷の横顔を思い出す。右手をと右足を無くし、夢を失い、未来を奪われ、彼は今、何の為に生きている。何を支えに生きているのだ。
 父が移植を止めなかったのは、雨宮を救う為じゃない。日比谷こそを救いたかったのだ。


「親父は、日比谷さんが雨宮先輩を救う事で、日比谷さんを救おうとしたんだ」


 日比谷信幸という人間を思い浮かべる。天才と呼ばれた名プレイヤー。誰もが彼の事を強いと思っていたけれど、独りきりで生きられる人間なんていないのだ。弱さを見せられない人間程脆いものは無い。弱さを隠す事こそが弱さならば、日比谷はきっととても弱い人間だ。
 彼の弱さは何処に隠されていたのだろう。彼は独りなのだろうか。


「雨宮先輩は、日比谷さんを理解しようとしましたか?」
「何?」
「あの人はきっと、みんなが思う程強くない」


 かっと雨宮の目が開かれた。手は既に和輝の胸倉を掴んでいた。けれど、和輝は眉一つ動かさずに視線を何処か遠くへ投げている。
 日比谷の孤独を思った。彼は何の為に、その身を裂くような孤独を堪え、今も生きているのだ。
 親友の為だと、雨宮は気付かないのだろうか。


「あんたは一度でも、……ありがとうと言いましたか!?」


 日比谷がそれを望んでいない事くらいは解る。謝罪だって彼は必要としていない。でも、雨宮は彼が欲しかったものを何一つ渡せていないじゃないか。日比谷は後悔なんてしていないのに。


「礼なんて、言えるかよ! 俺ははそんなものを望んだ訳じゃない!」
「日比谷さんだって!」


 和輝は声を張り上げ、目を伏せた。


「日比谷さんだって、そんなあんたを望んだ訳じゃない……」


 その時突然、雨宮の脳裏に日比谷の声が蘇った。


――……シンジ、無事で良かった


 そして、雨宮は息を呑んだ。
 理由を問う事を止めたのは、何時からだ。彼が移植させた理由は同情であると決め付けたのは、何時からだ。


「同情じゃないのか……?」


 雨宮は和輝から手を離し、一歩後ずさった。日比谷の顔が、和輝の言葉が頭の中でクルクル回転する。和輝は言った。


「同情なもんか……」


 視線を横に投げ、和輝は俯く。解って欲しかった相手に解って貰えなかった日比谷の孤独を思った。
 雨宮は唇が白くなる程噛み締め、踵を返して歩き出した。和輝はその背中を遠く眺めている。


 河川敷を離れた雨宮は、草生す斜面を登り切ってすぐに走り出した。辺りは既に暗くなり始めている。乾いたアスファルトを蹴る音が遠くまで反響する。雨宮の足は当然、あの病院へ向かっていた。
 心臓が嫌に騒ぎ立てる。冷や汗が頬を伝う。息が上がってスピードが落ちる。それでも、雨宮は走り続けた。
 訊かなければならない。言わなければならない。
 雨宮は気付かなかった。自分が、しっかりと両足を踏み締めて走っている事に。
 病院は既に面会時間を終え、静かな夜の時間を始めていた。日比谷はいつも通り病室で何をする訳でもなく、ぼうっとしているつもりだったが、暇を持て余して車椅子で中庭まで下りて来た。
 そして、日比谷は顔を上げた。中庭の茂みの奥に、見覚えのある少年が立っている。


「……シンジ?」


 名前を呼んで見たが、親友は肩で息をしながら此方を睨むように立ち尽くしているだけだった。


「お前、どうしてこんな時間に」


 車椅子を押して傍まで行くが、雨宮は口を開かない。不審に感じて顔を覗き込むと。漸く雨宮は言った。


「なぁ、ノブ」


 雨宮は、腕の失われた彼の自慢だった右肩に触れた。


「お前は、俺に同情したのか?」


 ぐっと日比谷は息を呑んだ。そして、呆然とした。
 自分の行為は、彼にそう受け取られていたのだ、と理解したのだ。勿論、そんなんじゃない。


「そんな訳ねぇだろ。俺がお前なんかに同情するか」


 なるべく明るく、日比谷は笑った、つもりだった。表情は引き攣っている。


「俺……、皆が思う程強くねぇんだ」


 掠れるような声だった。


「皆の期待裏切ったら、俺は独りきりになっちまうだろ。だから、本当はずっと怖かった。皆の期待から逃げ出したかった」


 日比谷は俯いていた顔を上げ、雨宮を真っ直ぐに見た。


「でもさ、お前だけは違っただろ。お前だけは俺の事、見損なわないでくれただろ。だから、俺、お前を失うのが怖かったんだ」


 雨宮は拳を強く握った。十数年親友として傍にいたつもりだったけれど、彼の本音を聞いたのは初めてだった。


「だから、だよ」


 日比谷は力無く笑う。


「見損なっただろ? 俺はこんなに弱い人間なんだよ……」


 雨宮は首を振った。漸く、和輝の言葉の意味が理解出来た気がした。


「ノブ」


 言わなければいけないんじゃない。言いたいのだ。


「ありがとう」


 日比谷は目を伏せた。涙が大粒の涙が頬を伝う。
 同情も謝罪もいらなかった。欲しかったのは感謝でもない。理解して欲しかった。他の誰がどんなに馬鹿にしても、ただ一人の親友にだけは。
 雨宮は日比谷の正面に歩み寄り、左手を差し出した。日比谷には右腕が存在しないからだ。だが、左手の握手にはライバルという意味が含まれている。手を取った日比谷に向かって雨宮は言った。


「お前の事、見損なったりしねぇよ。お前は俺にとって唯一無二の親友で、ライバルなんだ。だから、負けんなよ。……俺も負けねぇから」


 語尾は消えるように掠れていた。
 雨宮は密かに、癪だと思った。全てはあの『蜂谷』の思い通りじゃないか。けれど、心の何処かで雨宮はカウンセラーである蜂谷裕を認めていた。
 ……次に会う時は、挨拶くらいしても罰は当たらないだろう。


 河川敷に一人残った和輝は暫く立ち尽くしていたが、鉄橋を渡って行く電車の轟音ではっとしたように歩き出した。辺りはとうに暗い。アスファルトの地面を踏み締めて家路を辿る。その時、胸ポケットの中から羽虫のような音がした。
 携帯電話だ。バイブレーションと共に七色の光を輝かせている。着信、白崎匠。
 通話ボタンを押し、耳に押し当てる。


「――もしもし」


 電話の向こうで、低い声が返って来る。


『よう、和輝。元気か?』


 匠は笑っているようだった。釣られるように和輝も笑う。


「何の用だよ」
『いや、元気かと思って』
「何だ、それ」


 和輝は笑った。同じく、匠も笑う。
 不意に、雨宮と日比谷の姿が思い浮かんだ。和輝は口元に笑みを残し、静かに言う。


「俺達、結局何時までも変わらないな」
『何だよ、今更』
「きっと、十年経ってもこのままだな」
『百年経ってもこのままだよ』
「……本当に?」
『あ?』


 和輝は問い掛けた。


「本当に、そう思う?」


 匠は少し黙り、答える。


『俺達は永遠に変わらねぇよ、馬鹿』


 和輝は数秒沈黙し、声を殺して笑った。馬鹿馬鹿しい、一体何を言ってるんだろう。


「そうだな」


 短く答えて、和輝は空を見上げた。蜜色の満月が煌々と光っている。聞き慣れた親友の声を耳に、岐路を辿る。遠くで聞こえる電車の音は通り過ぎて行った。匠は言う。


『お前も変わってくれるなよ』
「……当たり前だ、馬鹿」


 和輝は答え、笑った。

2008.7.8