熱気沸く埼玉私立翔央大付属高校のグラウンド。取り囲む観客の顔は興奮からか、皆一様に紅潮し、マウンド上にいる彼を見詰める目は朝露のように煌いていた。
 初夏を感じさせる太陽が笑っている。祐輝は顎から滴り落ちる汗を手の甲で拭い去ると、帽子を被り直し、ゆっくりとワインドアップした。
 三点の勝ち越しで迎えた九回裏のグラウンドには、味方以外のプレイヤーは存在しない。完封試合を目の前に、祐輝は眉一つ動かさず、最後の打者に、最後の一球を放った。白球が祐輝の指先を離れた時、観客達がざわりと揺れた。それは白い閃光のように、キャッチャーミットまでの距離を駆け抜け、乾いた音をグラウンドに高々と響かせた。


「――トラーイク! ゲームッセット!」


 審判の声が終了を告げる。予想通りの結末を、誰もが驚愕を胸に受け止めた。
 緑色のフェンスの向こうから、黒い手帳を片手に試合を覗いていた新聞記者の碓氷研吾は生唾を飲み下した。ボールペンを握る手は小刻みに震えている。
 碓氷は首からぶら下げたカメラを構え、グラウンドを去って行こうとする祐輝の背中に標準を合わせた。ユニホームを着て生まれて来たのかと問いたくなるくらい、絵になる背中だ。深く被った紺色の帽子は試合開始直後のように綺麗なまま、ユニホームも殆ど変わらない。
 後姿など、撮ってどうするのか。
 碓氷は自分に問い掛けた。しかし、指先はシャッターを押していた。乾いた音が一度鳴った。その瞬間、祐輝は僅かに振り返った。整った顔立ちが碓氷の目をレンズ越しに見る。碓氷の指は再びシャッターを押した。
 彼の写真がミーハーなファンの間で高値で売られている事は知っていた。だが、その写真はミーハーではない碓氷でさえも、手放したくないと思う程の写真だった。
 その写真を家に帰って現像し、碓氷は俄かに驚いた。何が影響したのかは解らないが、祐輝の周りに、まるで闘志のような空気の歪みが陽炎のように写り込んでいたのだ。
 後日、碓氷は再び翔央大付属高校の校門を潜り、グラウンドへと足を運んだ。野球部は相変わらず毎日の練習をこなしていた。単純な基礎練習の中にも、他の学校とは違う精錬された動きが垣間見え、それだけで強豪、或いは名門と呼ぶに相応しい実力を持っている事が解る。そんな中で、目的の人物である祐輝はピッチング練習を繰り返し、休憩を迎えた。
 グラウンドの外から飛ぶ黄色い声には見向きもしないで汗を拭き、水分を補給する。そして、再び練習に戻ろうと歩く途中、碓氷はフェンス越しに声を掛けた。


「蜂谷君」


 祐輝はチラリと目を向け、興味が無いとでも言うようにふっと溜息を零した。


「……練習中の取材はお断りして……」
「一つだけ」


 指を立てて、子供っぽく片目を瞑れば祐輝は再び、わざとらしく溜息を吐いた。彼は、マスコミの扱い方を解っているだろう。祐輝は半ば睨むように目を向けた。


「何でしょう」


 その場から一歩も近付かず、半身のまま言う。拒絶の意味を込めているだろうその姿勢さえも、写真にすれば売れるのだろうと思った。
 碓氷はポケットからいつもの黒い手帳を取り出し、自分の走り書きのナメクジが這ったような文字を目で追った。


「今、注目している選手はいるかい?」
「……皆、ライバルだと思っています」


 用意されていただろう言葉を流暢に話し、祐輝は早々と背中を向ける。しかし、碓氷は口角を吊り上げて笑った。


「君の弟の名前は和輝君と言うらしいね」


 踏み出した筈の祐輝の足は止まり、油が切れたようにゆっくりと首が回って、再び碓氷を見た。整った顔には、絵に描いたような驚愕が映り込んでいる。


「弟さんは元気かい?」
「……とても」


 祐輝の顔に、沸々と苛立ちが浮かぶ。眉間には皺が寄り、笑みは口元だけで引き攣っていた。碓氷は心の中でほくそ笑んだ。どうやら、アキレス腱を見つけたらしい。


「和輝君も中々有名な選手だったみたいだね。それなのに、有名高校のスカウトまで蹴って、どうして無名の、潰れ掛けの野球部に行ったんだろう。不思議だと思わないかい?」
「……そんなの、勝手でしょう」
「ああ、確かに勝手だ。でもね、気になるじゃないか。天才の弟がどうして。もしかして、劣等感を感じていたんじゃないかなと思って」


 碓氷の頭の中には既に、祐輝のアキレス腱を世間に晒すゴシップ記事が浮かんでいた。世間を賑わす完璧な王子様である蜂谷祐輝の弟が、兄に対するコンプレックスを抱えて表舞台から消えた。なんて、愉快な物語なんだろう。
 祐輝の切れ長な目には、隠す事無く怒りが映っていた。一度は離れ掛けた足をフェンスに向け、ゆっくりと近付いて行く。そして、フェンスの目の前まで来ると不敵に笑って見せた。


「あいつはそんなタマじゃねーよ」


 もう、目に怒りは無かった。


「表現の自由だ。書きたきゃ勝手に書けばいい。でもな、あんたはすぐこう呼ばれるようになるよ」


 クスリと笑い、祐輝は踵を返す。そして、一言落として行った。


「大嘘吐き、ってな」


宣戦布告・1

もう、後戻りは出来ない


 五月が終われば六月が早足に通り過ぎて行った。ジメジメした梅雨は夏の太陽に掻き消されたように消え、毎日水浸しだったグラウンドは今度はカラカラに乾いてしまっている。
 コンピューターで整備される学校のグラウンドには適度にスプリンクラーで水が撒かれているけれど、野球部が使う山の中のグラウンドは違う。和輝達はバケツと柄杓を持って、毎日の日課になった水撒きをしている。
 水など、撒いても乾く。練習をする為に山を登らなければならず、それに慣れれば今度は水撒きというトレーニングが自然と増えた。水道が離れているので、バケツに水を汲んで運ぶだけでも十分な練習になる。気温も急激に上がったせいで、部員の体力は練習を始める前から大きく削られていた。
 だからといって、メニューが減る訳ではない。むしろ、夏の大会を目前に練習は激しさを増していた。
 和輝は大きな溜息を零し、柄杓を振った。
 ばしゃん、と、乾いた地面に跳ねた水がダイヤモンドのようにキラキラと輝く。


「あーあ」


 夏川が言った。


「他の部活は今頃、あの馬鹿綺麗に整備されたグランドで練習してんだろうなー」
「馬鹿みてぇに集まった、マスコミに囲まれてな」


 箕輪が笑いながら言った。
 晴海高校のサッカー部は超有名な強豪チームだ。お陰でマスコミや偵察が集まるので、他の部活にしてみても迷惑はこの上無い。それと比べれば、このグラウンドは静かなもので、野球部以外には野鳥や蝉等の虫くらいしかいない。


「マスコミなんざ、来られちゃ困るだろうがよ」


 自分の担当区域の水撒きを早々に終えた高槻が傍に来て、面倒臭そうに零す。縦社会の野球部で最年長の三年生の水撒き区域は極端に狭い。
 和輝は苦笑した。


「そうですね」


 当たり前だろう。
 元プロ野球選手の息子、世間を賑わす天才の弟が在籍するチームなのだ。しかも、その裏に暴力事件なるものがあったのだから、マスコミに嗅ぎ付けられれば、それはもう、完膚無きまでに叩かれるだろう。
 夏川は舌打ちした。


「でも、キャプテン。だからと言って、こんなところで隠れるように練習しなくてもいいじゃないですか」


 すっかり水の撒かれたグラウンドを眺め、夏川は盛大に溜息を吐く。夏の日差しは思いの外強く、グラウンドは既に少しずつ乾き始めていた。
 流石の高槻も苦笑し、それ以上は何も言わなかった。
 練習が始まってしまえば、文句を言う者は誰もいない。メニューは基礎に重点を置いたもので、休憩もベストタイミングで取られている。守備の連携、バッティングもバントから打ちっ放しなど、一日を使ってじっくりと進めて行く。
 確かに、午前と午後を通して、グラウンドを広々と使う練習は学校では出来ないだろう。
 昼食の為の昼休みに入り、和輝は彼方此方に広がったボールを一つ一つ拾いながらグラウンドを見渡していた。
 初夏の太陽がやけに眩しく、足元から昇る熱が陽炎となって視界を歪ませる。ボールを拾い終え、マネージャーが用意した昼食の場に向かって歩き出す。肉刺や胼胝で硬くなった掌で、出入り口の金網の扉を押し開けようとしたところで、向こう側から桜橋がそれを阻んだ。
 グラウンドに閉じ込められ、和輝を含む一年三人は眉を寄せる。冗談みたいに暑いと言うのに、こんなくだらない冗談で足止めされたくは無い。苛立ちを呑み込んで、再び扉を押そうとして、桜橋が口の前に指を立てたのが見えた。思えば、桜橋はこんな冗談をする男ではない。


「何スか?」


 後ろで、夏川が低い声を出した。桜橋は扉に身を寄せ、声を潜めて答えた。


「今、記者が来てる。高槻と萩原が対応してる」
「記者……?」


 何の事だろう、と和輝は首を傾げた。すると、桜橋は言う。


「蜂谷君と夏川君はいるかって」


 和輝は息を呑み、夏川と顔を見合わせた。流石に言葉を失った。桜橋はそんな二人に目を遣る。


「情報が早過ぎると思うんだよなぁ。和輝の事は学校じゃ有名だから、知られても仕方ないんだけど、夏川はつい最近入部したばっかりで、写真部と掛け持ちしてる。お前の事知ってるやつはいないだろ?」


 箕輪が隣で低い声を出して肯定を示す。
 だから隠れていろと言う桜橋に、和輝は苛立ちを覚えた。暑さのせいもあるだろうが、それよりも、どうして隠れなければならないのか不思議に思った。


「俺は行きます」


 和輝は扉を押し開けた。油断していたのか、扉は軽々と開いた。和輝は桜橋の横を擦り抜け、恐らく記者がいるだろう休憩所に向かって歩き出す。


「おい、和輝!」


 桜橋が呼び止める。


「お前の為に言ってんだよ!」


 和輝は振り返った。


「それは解ります。でも、俺は逃げたくないんです」
「格好付けるなよ! 逃げる事だって、必要な事だろ?」


 だが、真っ直ぐな目が正面からぶつかって桜橋は押し黙った。和輝は再び歩き出し、半身のまま振り返って問い掛ける。


「逃げてしまったら、俺は後で世間に何て言い訳すればいいんですか?」


 箕輪と夏川ははっとして顔を見合わせた。桜橋は沈黙し、夏川はふっと息を吐いて扉を押し開ける。桜橋はもう止めようとはしなかった。
 和輝は顔を上げ、高槻達がいる休憩場所を目指して歩いて行く。隣で夏川は言った。


「お前の生きて来た道が、ちょっとだけ解った気がするよ」
「何の事?」
「……俺は今まで、夏川大智の息子って事を隠し続けて来た。でも、お前は蜂谷祐輝の弟だって胸張って来たんだろ?」


 和輝は答えなかった。
 胸を張って来たとは、言えないのだ。天才の弟と呼ばれる事は、誇らしかっただけじゃない。確かに自慢の兄だけども、その弟としか見てもらえないのに、プレッシャーだけは人一倍だなんて不公平だと感じていた事だってあった。だから、歩いて来た道は立派じゃない。
 ただ、逃げ出す事は向き合う事よりもリスクが高いと知っている。向き合えなかった現在は過去となって、必ず未来へ復讐するのだ。
 和輝と夏川がグラウンドを離れた頃、高槻は碓氷を追い返そうと遠回しに、なるべく棘を含まぬよう言い包めようとしていた。しかし、碓氷が立ち去る気配は一向に無い。県予選を目前に控えた野球部としては、相手が記者なだけに些細な事で出場停止になる訳にはいかないのだ。
 そこに、最も現れるべきではなかった筈の二人が現れた。
 二人は背筋をぴんと伸ばして、真っ直ぐに高槻達へ向かって歩いて来る。萩原は一度は瞠目したが、すぐに額に手を当てて大きな溜息を吐いた。


「俺達の苦労は水の泡かよ……」
「すいません」


 和輝は苦笑した。高槻も同じく苦笑し、黙って道を空ける。
 碓氷は目の前に現れた二人の少年を見て、なるほどと頷いた。天才・蜂谷祐輝と、元プロ投手夏川大智の面影がそこにある。無意識に指先はカメラのシャッターを押そうとしていた。


「はじめまして。晴海高校一年の蜂谷和輝です」
「同じく一年の夏川啓です」


 暫しの間、碓氷は自己紹介する事さえ忘れた。二人が怪訝そうに覗き込んで来た事で、ようやく我に返った。慌てて懐から名刺を取り出して渡す。内容をじっと見詰める和輝とは違い、夏川は名刺には目もくれずに碓氷を見た。


「取材ですか? プライバシーは守って下さいね」


 冷ややかな笑みを浮かべたまま、夏川は言った。


「碓氷研吾さん、名前を聞いた事ありますよ。食い付いたら離れないスポーツ記者」
「……それはどうも」


 二人の冷戦の横、和輝だけが蚊帳の外で口を尖らせて頷いている。


「一体何の取材ですか? 個人的な事なら、お断りしますけど」


 碓氷は薄く笑った。確かに、夏川はそう言って拒否出来るのだ。


「……和輝君」


 人の良さそうな笑顔が、和輝の方を向いた。


「お兄さんについて訊かせてくれるかな」


 和輝は一瞬動きを止めたが、すぐに笑った。


「いいですよ」


 和輝が拒否出来ない事を、碓氷は知っていた。拒否すればするほど、碓氷の思い通りになる。逃げ道など無いのだ。


「兄ちゃんは俺の憧れで、目標です」


 まるで、型に嵌ったような模範的でつまらない答えだった。碓氷はメモするふりだけで、次の質問に移った。


「君にも翔央大付属からの誘いも来ていただろう。それなのに、どうして君はその憧れのお兄さんとは違う学校を選んだんだい?」
「俺、朝がすごく弱くて。早起きするの苦手なんで、兄ちゃんみたいに遠くまで通える自信無かったんですよね」
「翔央は寮もあっただろう?」
「いやあ、やっぱり、地元が好きなんで」


 全て事前に用意された回答である事は明白だった。すらすらと返って来る答えに、碓氷は腹の中で笑った。それこそが、彼の中の歪みを象徴しているのだと。


「単刀直入に訊こう。君は、蜂谷祐輝の元で野球するのが嫌だったんだろう?」


 和輝が反論する間を与えず、続け様に碓氷は言った。


「天才の弟と言う目で見られたくなかった。重圧、嫉妬、コンプレックス。そういったものから君は逃げ出したんだ」
「おい」


 夏川が間に入る。


「気にする事は無いさ、寧ろ当然。あんな兄を持って、普通の生活が送れる訳が無い。君は常に比べられて来た筈だ。そして、その果てに憎しみさえ抱いたんじゃないか」
「やめろ!」


 夏川が叫んだ。和輝は目を丸くして、碓氷の言葉をじっくりと噛み締める。


「こっちが黙ってりゃいい気になりやがって、何を言いやがるんだ!」


 反論する夏川の声を遠くに、和輝は呆然とした。
 誰も、誰も理解なんてしてくれないのだ。世間は皆、今碓氷が言ったように思うのだろう。当然だ、兄や親友の匠でさえもそう思っていたのだから。
 反論なんて意味が無い。全ては結果でしか語れない。感情を殺せ、冷静に対処しろ、今までそうして来たように。――でも。


「俺が逃げた、だって?」


 もう嫌だ、こんなのは。もう沢山だ。
 誰も解ってくれない、誰も共感してくれない、誰も信じてくれない。誰もが皆、同じシナリオを描いて押し付ける。
 全部押し殺して、何も無かったみたいに笑っているのはもう疲れた。


「逃げるもんか! 俺は、逃げるのが嫌だったから、ここにいるんだ!」


 両手をぎゅっと握り締めて、奥歯を噛み締めて、そして。


「重圧? 嫉妬? コンプレックス? 兄を憎む? 嘗めんなよ! 俺はそんなに弱くない!」


 もう十分だと夏川が横から制す。高槻が、萩原が慌てて跳んで来る。
 けれど。



「見てろ! 俺はお前の思い通りになんかならない!」


 彼等の描くしみったれたシナリオはもう聞き飽きた。そんな詰まらない結末なんて越えてやる。


「――俺は、必ず越えてやる!」


 その時、乾いたシャッター音がした。
 和輝は瞠目した。碓氷は嫌な笑みを浮かべて、カメラを下ろして言った。


「――忙しい中、わざわざありがとう」


 今まで見せた事も無いような、充実した笑顔を向け、碓氷は素早く背中を向けた。そして、呆気無く帰って行く背中を和輝達はただただ見詰めている。
 高槻が一言、零した。



「……やられた……」

2009.3.21