スポーツ雑誌の一面に、大々的に名前が載ったのは初めてだった。
『蜂谷祐輝の弟、宣戦布告』と言う見出しが躍っていた。和輝がその雑誌を家で見た時、笑っていたのは暢気な父ただ一人だった。
「いやー、よくやった」
安い缶ビールを片手に、上機嫌で裕は笑っている。祐輝は雑誌が皺くちゃになるのも構わず、力一杯握り締め、鋭過ぎる眼光で和輝を睨んでいた。
「どういう事だ、和輝」
「違うんだ、これは」
「こ、の、馬鹿っ!」
一瞬で祐輝の拳骨は振り上げられ、雷のように落下した。それを避けられる筈も無く、和輝は脳天に受けて転がり込んだ。
「これだけでっかく取り上げられたら、俺だってフォロー出来ないからな!」
早口に怒りを露にする祐輝は、腕を組んで和輝を見下ろしている。怒気が全身から吹き出ているかのようで、恐ろしくなって和輝は目を逸らした。
こんなつもりじゃなかった。いや、そもそも宣戦布告と言う表現は間違っていると思った。
和輝は別に、兄に対して挑むと言った訳じゃない。その時目の前にいたあのいけ好かない記者に向かって、お前の思い通りにはならないと言ったのだ。
「まあまあ、祐輝。ちょっと落ち着け」
漸く重い腰を上げた裕は、微笑を浮かべたまま緩々と二人の間に入った。
「なあ、和輝」
ひょい、と和輝の前にしゃがみ込んで、裕は怒るわけでも無く、諭す訳でもなく、ただ穏やかに語り掛ける。
「お前がこの時どんな風に思って、この言葉を言ったのかなんて俺達は知らない。いや、本当は言っていなくたって解らない」
酔っているのか、若作りな父の顔はほんのりと紅かった。だが、その穏やかながらもしっかりとした口調は普段と何等変わらない。
「マスコミを甘く見るな。彼等の書く一文が、その人の人生を丸っきり変えちまう事だって、世の中には起こり得る」
ぞっとした。あの時、和輝は其処まで考えて言葉を選び、行動を起こした訳では無かった。ただ、悔しかったから言い返しただけなのだ。
息を呑む和輝の頭を優しく撫で、裕は続けた。
「だけどな、それを恐がっていたら何も出来やしない。時には悪者になれ。聖人になんかなれやしねぇのさ、人間なんて誰だって臆病な未熟者なんだから」
「――でも、」
和輝は目を伏せた。その先の言葉は続かなかった。裕はふっと笑い、言う。
「人に嫌われたり、誤解される事を恐れて自分を殺すのは、実に勿体無い事だよ」
そして、和輝が顔を上げた時、裕は透き通るような微笑を浮かべていた。
祐輝はその後ろで溜息を零し、面倒臭そうに頭を掻いた。
宣戦布告・2
独りじゃない
「さて、諸君に重大なニュースがある」
部活開始前の集合で、高槻は皆の前に立って言った。其処に表情は無く、機械的に話すその様は皆に恐怖を抱かせた。高槻にはそういった、何か得体の知れない恐ろしさがある。
和輝は目を伏せた。あの雑誌の事だと思った。いや、和輝だけじゃない。恐らくは部員の誰もがそう思った。今日学校でクラスメイトに問い詰められたばかりなのだ。
だが、高槻は言った。
「もうすぐ、地区大会の抽選会だ」
和輝ははっとして顔を上げた。
地区大会の抽選会。つまり、全国高等学校野球選手権。夏の甲子園、予選の組み合わせだ。それが甲子園への明暗を分けると言っても過言ではないだろう。
自然と拳に力が篭る。皆は高槻の次の言葉を待った。
「俺は、全員で抽選会に行ってもいいと思っていたんだが」
ぎくりとした。
高槻の目が酷く冷たい。
「ある部員が問題行動を起こしたせいで、晴海高校はちょっと有名になっちまったんだ」
誰とは言わないが、と言いつつ目は確実に和輝を捕らえている。和輝は居た堪れなくなって目を伏せた。
高槻はやはり無表情のままで言葉を続ける。
「お陰で、全員で行動するのは面倒な状況なんだ。悪いが、行くのは三人に絞らせてもらう」
隣で箕輪が不満そうに声を上げた。和輝は知らん振りしていた。
「まず、俺と、桜橋」
桜橋が人の良さそうな笑顔で手を上げた。キャプテンと副キャプテンが行くのは当然だろう。もう一人は萩原だろうと思っていた。だが、高槻は平然と言った。
「あと、和輝。お前も来い」
和輝は目を瞬かせた。時間が止まったように感じた。視線が一気に集まり、奇妙な間を置いてから、ゆっくりと自分を指差した。
「俺、すか?」
「そうだ」
間髪入れずに高槻は言った。
「全部お前がやった事だ。責任を取るのは当然だろう」
高槻の無表情は何処か、苛立ちを隠しているような、そんな気がした。一体何に対して、誰に怒っているのか。和輝は何も言えなかった。
それ以上は何も言わず、高槻は話を纏めると皆を練習へと促した。釈然としないまま、皆はバラバラとグラウンドに散って行く。和輝もその中に混ざり、その場を離れようとしたところで高槻が後ろから呼んだ。
「解るか、和輝」
和輝は振り返った。
「ああいう事が、これからお前にはついて回るんだ」
高槻に表情は無い。
「天才の弟と言う刻印を捺されて、蜂谷和輝と言う人間が上塗りされて行く。誰も理解なんてしてくれない。お前がどんなに訴えても、それは贅沢だと嫉妬さえされる。お前の努力なんて誰も認めてくれない。初めから何でも出来たみたいに、出来ない事が許されなくなる」
それこそが高槻の隠していた苛立ちなのだと、和輝は唐突に気付いた。これから和輝が世間の好奇の目に晒される事を思い、苛立っているのだ。
和輝は笑った。高槻のその不器用な優しさが泣き出したい程、嬉しかった。
「でも、俺はそれを承知でここにいるんです」
全部覚悟して来た筈だ。
和輝が頭を下げようとした時、遠くから箕輪が呼んだ。
「早く来いよ、和輝!」
「遅ぇよ!」
萩原が怒鳴る。夏川が面倒臭そうな顔で待っている。藤が溜息を零し、雨宮が笑う。同じく二年の千葉が腕を組んで見ていた。
どうして誰も責めないのだろうと思った。どうして誰も、迷惑だから辞めろと言わないのだろうかと思った。
同時に、そう思う事が彼等に対して失礼なのだと気付いた。ここにいる彼等はそういった事を一切考えずにいられる、ある意味不器用な人間達なのだ。仲間を切り捨てると言う選択肢は端から存在していないのだろう。
「キャプテン、俺、まだ何が出来るか解らないけど……」
和輝はもう一度高槻を見て、微笑んだ。
「頑張ります」
胸の中に何か熱いものがある。込み上げて来る熱の正体はまだ知らない。
そして、和輝は走り出した。その背中が小さくなるまで高槻は見詰め、溜息を零した。口元には笑みが浮かんでいる。
「遣ってみろよ」
その言葉が届かないと解っていても、高槻は口にした。返事なんて無くたって、答えは解っている。
きっと、笑って頷くのだろう。何も無かったみたいに笑顔で全て覆い隠してしまうのだろう。それでも、何一つ恨む事をせずに背負い続けるのだろう。
――それが嫌なのだと、和輝は気付かないのだろう。
面倒臭いと切り捨てられない甘さが、いつか自分の首を絞める事になるのだろうと高槻自身気付いていた。しかし、以前、体育館倉庫に和輝が閉じ込められた事件で、形振り構わず必死に走り回るあの蜂谷祐輝の姿を見て、覚悟はもう決まっていた。
迷惑だとか、重荷だとか、面倒臭いとか言って切り捨てるのはもう止めよう。独りきりで生きるのは、誰にも迷惑を掛けないし、誰かに足を引っ張られる事もないけれど、それではいけないのだ。
晴海高校の野球部キャプテンとして、胸を張って歩いて行きたいから。嫌な陰の部分を全部背負い込んで来た萩原の為に、何も知らない解らない、それでも信じていてくれた桜橋の為にも、キャプテンと呼んでくれる後輩の為にも。そして、死んだ弟の為にも。
高槻は空に手を翳した。太陽を掴むように伸ばした掌を握る。当然、太陽なんて掴めない。そんな事は解っている。
(夏が、始まる)
高槻は走り出した。
その頃、県内、私立三鷹学園高校。
野球部の部室は、冷暖房完備で広々としていて、暑っ苦しい男所帯の中にも関わらず快適であった。窓の向こうはまだ梅雨の時期だというのにも関わらず真夏のような太陽がギラギラ照り付けている。
速水鶺鴒は、ふうと溜息を吐いた。
「――なあ、見たか?」
榎本春樹は、にやりと笑って言う。少しつり上がった目には、何か悪戯っぽい子供のような光がある。速水はやれやれと首を竦めた。
「見たよ。あれだろ……、天才の、弟」
「ご名答」
春樹は、速水の目の前に雑誌を突き付けて笑う。
モノクロの写真には、苛立ったような表情で此方を睨み付ける、酷く整った顔の少年が映っていた。確かにその顔は、世間を賑わす天才、蜂谷祐輝とよく似ている。
「面白い夏になりそうだよな。……なあ、ナツ!」
ベンチに座って背中を向けていた少年の背中が揺れた。ゆっくりと振り返るその顔は、春樹と瓜二つだった。
「ああ、そうだね」
春樹の双子の弟、榎本夏樹はにっこりと微笑んだ。春樹はにんまりと笑いながら夏樹に歩み寄り、肩を組む。
「だよなぁ! 流石、ナツは解ってる!」
「ったく、ハルは元気だな。蝉みたいだ」
皮肉っぽく速水が言うと、困ったように夏樹が言う。
「夏が終わったら、死んじゃうな」
一瞬、空気が凍り付いた。必要以上に温度を下げた冷房のせいではないだろう。
夏樹の冗談は笑えない、時がある。速水は視線を足元に彷徨わせ、溜息を零した。名前とは違うこの零点下の空気を、何事も無く切り返せるのは双子の兄だけだ。
「ひでぇなぁ!」
春樹の声で空気が溶けた。
生来の柔らかな物腰と、穏やかな微笑みに隠れた氷のような本性。それが榎本夏樹だった。
見た目は冷酷無比な問題児だが、本当は熱血、人情に厚い榎本春樹。彼等の名前は、逆の方がいいんじゃないかと、幼馴染である速水はいつも思うのだ。
じゃれ合う双子の兄弟は学校一の有名人だ。いや、県内で彼等の名前を知らない高校球児はいないだろう。三鷹高校のバッテリー、榎本春樹・夏樹。
そんな有名人である双子を含めた、猛者ばかりの三鷹学園野球部を束ねるのは、速水鶺鴒。彼もまた、県内では特に有名人であった。
「……いいから、練習に行くぞ」
双子の後頭部を軽く叩いて、速水は部室を出た。初夏の日差しは眼球を刺すように強く、熱かった。
目を細め、真っ青な空を眺める後ろから、双子が「わっ」と大きな声を揃えた。
「何やってんだ、セキレイ」
「置いて行っちゃうよ、セキレイ」
笑いながら双子が言う。
「……お前等を待っててやったんだよ!」
速水は走り出した。双子はケラケラと子供みたいにはしゃぎながら、グラウンドへ向かって走って行く。グラウンドは後輩がすでに整備を終え、綺麗に均されていた。その足跡一つないグラウンドを、何の躊躇いも無く双子は走って行く。
「なあ、ハル」
追って来る速水を茶化しながら走る春樹に、夏樹は小さな声で言った
「甲子園、行こうな」
春樹は暫し瞠目し、夏樹の頭を叩いた。
「バーカ、それを言うなら、『優勝しような』だろ」
夏樹はくすぐったそうに笑った。
「そうだな」
「待て、てめぇら!」
後ろを全力で追って来る幼馴染を見ながら、夏樹は微笑んだ。
その頃、開け放されたままの部室に一陣の風が舞い込んだ。風は涼しい室内を走り抜けると同時に、一枚の旗を揺らした。――それは、優勝旗。
神奈川県の覇者、私立三鷹学園。
二年連続甲子園出場を果たしている。特に彼等三人が入部してからは、神奈川内では未だ無敗の王者である。
2009.7.10
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