あの秋の空を忘れない。俺は永遠に、あの日の事を忘れたりしない。
高速道路を延々と走るバスに揺られながら、少年は見覚えのある首都圏の景色をぼんやりと眺めていた。周りは遠足気分で浮かれて騒いでいるというのに、ただ一人、まるでその場には存在しないかのように空気に溶け込んでしまっている。
青樹大和は、溜息を零した。
住み慣れた町を離れてまだ、半年と経たないのに、この胸に込み上げて来る懐かしさは一体なんだろうか。町への愛着か、仲間とも言うべき人々への友愛か。しかし、どちらも今まで不可蝕であった訳ではないはずだ。来ようと思えば来れたし、連絡を取ろうとすれば声だって聞けた。――ただ一人を除いては。
トンネルに入れば、暗い硝子に自分の顔が映る。それは驚くほど疲弊し、沈み切っている。
らしくない。そう思うが、気分は晴れない。今朝までは、この町に来る事をどれ程待ち侘びていたのだろうかとわくわくしていたのに、今では到着する事すら恐ろしく感じる。
この胸の中にある感情は、何だろうか。
そうして青樹が大して面白くもないだろう景色ばかりを眺めていると、隣に座っている浅賀達矢は怪訝そうに眉を寄せた。
「……なんや、大和。試合前からお疲れモードか」
関西独特の口調は、何処か苛立っていた。
出会って半年と経たないが、青樹は彼、浅賀の性格を既に把握している。
「今日の対戦相手、俺の中学のチームメイトなんだ」
「前、言ってたな。宣戦布告しといたか?」
「いや……。卒業以来、会ってないからな」
浅賀は何も言わず、首を竦めた。
中学卒業以来と言っても、シニア引退後程無くしてから、まともに会話などしていなかった。卒業間近となった頃ではもう、挨拶すらしなかった。いや、出来なかったのだ。
今でも彼の顔は忘れない。忘れたくとも、彼の兄がああも頻繁にテレビに出る以上、忘れる事なんて不可能だろう。天才・蜂谷祐輝の面影を残したその弟の顔、名前。
(蜂谷和輝)
シニアの、キャプテンだった。そして恐らく、チーム内では最も信頼出来る少年だった。
全ては過去でしかない。彼は今、何を思っているだろう。練習試合で自分と顔を合わせる時、どんな顔をするだろう。子供みたいにいつもニコニコしているくせに、変なところで大人だったからきっと、どんな感情を抱いたとしても顔に出す事は無いだろうけれど。
バスはトンネルを抜けた。途端に明るくなった視界に目が眩み、青樹は目を細めた。そこには住み慣れた町が広がっていた。
「なあ、大和」
青樹は呼ばれて目を向けるが、呼んだ本人である浅賀は正面を睨むように見詰めたままだった。
「あの蜂谷祐輝の弟って、野球上手い?」
「あ、ああ。……見た目じゃ、解らないだろうけどな」
「ふうん?」
浅賀は意味深に笑う。
「お前がそう言うんなら、そうなんやろな」
何処か楽しげに、目を細めて笑う浅賀。青樹は苦笑した。
(ぐだぐだ考えたって仕方無いな)
そう決め込み、青樹は正面に目を向けた。見慣れた景色が、目的地への到着を予感させる。晴海高校の白く大きな校舎が視界には映っていた。
県立高校とは思えない広い敷地内にバスは停車し、ぞろぞろと降りて行く部員達はだるそうに体を伸ばしては次々に欠伸をする。午前十一時を回った空は青く澄み渡り、今日も猛暑を予感させた。
北里工業の到着を知り、キャプテンである高槻と、副キャプテンである桜橋は挨拶に駆けて来た。二軍の代表として青樹は、監督と浅賀と共に挨拶をし、今日一日の流れを確認する。
「……では、今日はグラウンドが全て使用出来ますので、北里さんは手前をご利用下さい」
やけに小さいキャプテンが慣れた口調で言った。青樹は軽く礼をし、監督の指示を受けて仲間を練習へと促す。必要な道具が次々に運ばれて行く中、グラウンドの奥に、小さな背中を見つけた。
「和輝ー!」
高槻が大きく声を張り上げた。小さな背中が振り返る。その瞬間、青樹の中で時間が止まった。
小さい身長も、整った顔も変わらない。髪は少し伸びたようだが、中学の頃、いつもグラウンドで見たあの幼い無邪気な笑顔が其処にはあった。
「こっち来い!」
不満そうな顔が遠くからでも確認出来た。しかし、和輝は渋々小走りでやって来る。そして、到着した瞬間、彼は表情を強張らせた。
「――」
言葉を失い、和輝は青樹を見て呆然とした。
青樹大和。その記憶が、断片的に頭の中に浮かんでは、消える。
「や、まと……?」
「……和輝、久しぶり」
青樹は力無く笑った。
そして、青樹は唐突に気付いた。自分の胸の中にあるこの感情は、『罪悪感』であると。
汚名・3
本当はただ、――――だけだったのに。
青樹大和の顔を見て、和輝は漸く腑に落ちた。
知らない訳がない。彼は、自分のかつてのチームメイトで、同じグラウンドに立っていた作戦の要、キャッチャーだったのだ。何故、覚えていなかったのだろう。
試合開始を目前に、ベンチに入った和輝は目を伏せた。脳裏を、夏川に言われた言葉が掠める。都合の悪い記憶を忘れるという人間の愚かな機能を、改めて実感した。
(俺は、大和に会う事が怖かったんだ)
すっと背が高く、薄い体をした青樹。目は真ん丸で色素の薄い眼球はいつも微笑んでいたように思う。
けれど、和輝は覚えている。匠が自分に向かって『裏切り者』と言った事を、青樹が自分を避け続けた事を。だから、会うのが怖かった。これ以上、何も失いたくなかった、傷付きたくなかった。
「おい、和輝」
呼ばれ、和輝は顔を上げた。呼んだ筈の夏川は、練習を行う北里の様子を眺めながら言った。
「過去ってのは、時間が経つ程重みを増す。昇華出来なかった感情は、終わらせられなかった過去は現在に復讐する」
「……?」
「顔を上げろ。逃げるのは、止めたんだろ」
はっとして、和輝は唇を噛み締めた。夏川の、言う通りだ。
ぐっと顔を上げれば眩し過ぎる太陽が眼球を焼く。しかし、目を背ければ二度と顔を上げられない気がして和輝は目を閉じた。
「ああ。俺は、俺に出来る事をするだけさ」
笑った顔はきっと引き攣っただろう。辛くて悲しい、怖くて痛い。けれど、これが向き合うと言う事だ。今まで逃げ回った結果がこの痛みなのだから、誰も悪くは無い。
漸く和輝が顔を上げた事を確認すると、高槻が言った。
「和輝、お前の元チームメイトはどんな選手なんだ」
「……大和は」
彼の過去を思い出すが、それも全て断片的だった。しかし、忘れた訳じゃない。
「大和は、すごい選手です。体は細いから、キャッチャーとしては不向きに見られるかも知れない。昔は本塁滑り込みで何度も吹っ飛ばされていました。見たところ、それは変わっていないようです」
「技術は?」
「あいつに不可能はありません。どんな球種もどんなコースもあいつには通用しない。過去には打率八割、十二打点を記録しました」
「十二……!?」
箕輪の声が裏返った。和輝は無表情にグラウンドの青樹を見た。
「でも、打撃はそんなに恐れる必要は無いんです。あいつが本当に恐ろしいのは……」
その時、グラウンドで甲高いホイッスルの音がした。練習終了の合図だった。
北里ナインがベンチへと戻って行く中、和輝は軽く咳き込んで気を取り直し、静かに言った。
「本当に恐ろしいのは、キャッチャーとしての青樹大和なんです」
グラウンドが均されて行く。そして、試合開始の為の整列へと北里が動き出した。
晴海ナインもベンチを出る。顔は普段よりも強張って見えた。和輝はその最後尾から、小走りで整列へ向かう。なるべく、青樹と正面で向き合わないで済むように。
そして、整列。和輝がふっと顔を上げ、正面を見ると、やけに目付きの鋭い少年がいた。
「宜しくな、蜂谷君」
独特の訛で、浅賀は言った。和輝は「はい」と返事をし、後は何も言わなかった。
相手のチームに青樹がいる以上、自分の情報は漏れているだろう。勿論、それはお互い様なのだが、和輝には青樹に関する情報が最早断片的でしかない。
「これより、北里工業高校と晴海高校の練習試合を行います。両校、礼!」
「お願いします!」
活力に満ちた声が、昼下がりのグラウンドに響き渡った。プレイボールだ。
先攻は晴海高校。トップバッターは蜂谷和輝、対するバッテリーは浅賀投手に、青樹捕手。
浅賀はマウンドに立ち、先程の青樹との遣り取りを思い浮かべた。
『なあ、俺、あの蜂谷君と真剣勝負してみたいんやけど』
『駄目だ』
『何でやねん。ええやんか』
『駄目だ』
『ええやん。俺が打たれる訳無いやろ』
『お前が打たれない訳無いだろ』
『どういう事やねん』
結局、青樹は答えなかった。
大きな声で挨拶をし、バッターボックスに入った小さな少年。確かにこの顔はあの天才・蜂谷祐輝の面影がある。以前、彼のいる翔央大付属高校と一軍が試合する機会があり、浅賀はそれを見ていた。登板する機会は無かったが、あの試合は大きな衝撃として残った。
天才と呼ばれるその理由が、そこにはあった。
その弟がどれ程のものか。浅賀は無意識に笑みを浮かべている。
青樹のサインはボールだった。何を警戒しているのだろう、と浅賀は密かに思った。
(あいつ)
青樹は、微かに笑みを浮かべている浅賀を見て、彼の投げるだろう球を予測した。試合前、確かに真剣勝負したいと言っていた。結果、青樹が今出したボールと言うサインに浅賀は首を振る。
仕方ない、と望み通りのサインを出せば、浅賀はゆっくりと投球に入った。
後で言われるよりは、打者のいない今の方がマシだろう。浅賀が振り被る。
和輝はじっと浅賀を見詰めている。何処かで見た事がある顔だと、ぼんやり考えていた。だが、そのボールを頂上に掲げる投球フォームで全てを思い出した。
(俺は、この人と会った事がある)
尤も、小学校入学前かそのくらいの幼い頃だ。だが、彼を語る上前に、彼の父を話さねばならない。
プロ野球選手、浅賀恭輔。甲子園を二連覇し、高校卒業と同時にプロとなり、MVPを幾度と無く受賞し、若くして惜しまれながら引退した、今や伝説となりつつある選手だ。その浅賀恭輔と、和輝の父である裕は中学からの友人であり、ライバルであったと言う。彼の甲子園三連覇を食い止めたのも父だった。古くからの友人である為に、正月等は度々大阪へ行ったものだ。
浅賀達矢は、浅賀恭輔の息子だった。
吸い込まれそうな迫力。叩き付けられる強烈な球筋。一緒に野球をするのは、何の因果か初めてだ。だが、和輝は奥歯を噛み締めた。
(その程度のストレートで、俺を打ち取れるとでも?)
嘗められているのだろうか。和輝は左足をふわりと浮き上がらせ、バットを振り抜いた。
金属の澄んだ音が響いた。ベンチがざわりと揺れ動く。打球は二遊間を一瞬で抜け、外野まで到達した。ライトがそれを捕球し、振り被ったところで、止めた。和輝は二塁に立っていた。
青樹は表情一つ変えず、静かに次の打者の準備をする。
(解っただろ、浅賀。あいつにお前の球が打てない訳が無いって)
当たり前だろう。和輝は普段、全国一の投手の投げる球を見ているのだ。あの蜂谷祐輝の弟である彼に、まだまだ発展途上である浅賀の直球が通じる筈が無い。
次の打者がバッターボックスに入る。和輝は投手の後姿を見たが、別段、変わった様子は無い。ショックを受けた訳でも無さそうだ。まさか、打たれると解っていて投げた筈も無いだろう。
青樹もまた、和輝の一打には目もくれずに次のサインを出す。
(お前には、打たせて取るって言う遣り方を叩き込めって監督から言われてるからな)
浅賀を見ながらサインを出すと、あからさまに嫌そうな顔をするのでつい笑ってしまった。
その頃、晴海ベンチでは浅賀の球を見て高槻が唸る。
(オーバースローか)
長身を生かした投法だ。真上から来るような落下する球筋。早さも然る事ながら、当然重いだろう。
トップバッターは和輝だったから、まるで大した球ではないように見えたかもしれないが、実際、打つのは骨だろう。
「すげぇ速ぇな」
隣で萩原が言った。
「ああ、150km近くあるだろうよ」
「……化け物か」
「それを打ったあいつも、当たり前のように捕ってるやつもな」
高槻は青樹を見た。
和輝に打たれても、浅賀も青樹も眉一つ動かさなかった。まるで、打たれる事が解っていたかのように。それは良い意味で嘗められていないと言う事なのだろうが、どうして打たれる事が解っていて投げたのだろう。
グラウンドでは、三番の藤が三振していた。何時の間にかネクストバッターズサークルに入っていた萩原はバッターボックスに向かう。
北里は一番打者以来、打たせて取る戦法に変えて来ている。夏川はネクストに入り、投手を見詰めていた。
(あいつ、見た事あるな)
恐らくそれは正解である事も、夏川は悟っている。
グラウンドからバッターアウトの声が聞こえた。チェンジだ。和輝がとぼとぼと帰って来る。
「ナイバッチ」
「ああ……サンキュ」
和輝は静かにベンチへ入った。
「どうした?」
明らかに気落ちしているので夏川が声を掛けると、和輝は困ったように笑った。
「この試合、嫌な感じがする」
「嫌な感じ?」
「何だろうな……」
和輝は困ったように笑い、グラブを片手に走り出した。
夏川もまた、疑問に思いつつミットを持って走り出す。その背中は余りにも小さく、儚く見えた。
そしてまた、北里ベンチ。一回の守備を零で抑え、今度は自分達の攻撃。青樹はドリンクを喉の奥に少しだけ流し込み、汗を拭った。
キャッチャーの装備は暑い。この炎天下ではサウナ状態だ。青樹がそうして汗を拭っていると、浅賀が横に座った。
「蜂谷和輝君、やるなぁ」
「だから、言っただろ。あいつは普段、全国一のストレートを間近で見てるんだぜ」
「そうやな……」
浅賀は蜂谷祐輝を思い出す。
「……で、どうするんや。お前はこのままあいつに好きなようにさせとくんか」
「ああ」
青樹が即答したので、浅賀は眉を寄せた。
「何でやねん」
「いや、いいんだ。あいつは好きなようにさせておく。蚊帳の外に出して置くんだ」
それが、彼を一番傷付けると知っている。
青樹は目を伏せ、笑った。しかし、笑っていない事など、浅賀には解っていた。
「よう解らんけど、俺はお前のサインに従う。お前が打ち取りたいって言うなら、俺は全力で投げるけどな」
「お前には打たせて取るって言う遣り方を学ばせるように、監督から言われてるから」
ちぇ、と浅賀は笑った。
青樹は、グラウンドに散った晴海ナインの中から素早く、三塁の和輝に目を向けた。あの頃と殆ど変わらない姿のまま、和輝は其処に立っている。
だが、あの頃とは違う。自分達は決別したのだ。
――解って欲しいとは、言わない。解って欲しいとも、思わない。俺は、人に期待する事を止めたんだ
あの和輝の言葉を忘れない。彼がそれをどんな気持ちで言ったのか。いや、どうしてそんな事を言わなければならなかったのか。
それを考えれば罪悪感に押し潰されそうになる。
だが、あの秋の空の下で、自分達は裏切り合ったのだ。
青樹は奥歯を噛み締め、零れそうな嗚咽を呑み込んだ。
2009.7.31
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