バッターボックスに立った高槻の脳裏に、和輝の青樹への評価が過ぎる。加えて、今までの冷静な判断、無表情を思い出し静かに思った。
 青樹は上手い。一年とは言え、確かに北里の八十を超える部員の中でレギュラーを掴み取るだけの実力を持っているだろう。普段なら、それだけで良かった。上手いと言う事を評価しつつ、それを軽く抑えてお終いの筈だったが、状況が変わった。今の和輝への敬遠から、その裏側に潜む薄汚れた感情が解った。だからこそ、高槻はキャプテンとしてそれを打ち砕かなければならない。
 背が高かろうが、打率が幾つだろうが怖くはない。高槻が中学時代を過ごした東広陵は、そんな選手がごろごろいたのだ。周りは長身、才能に恵まれている。その中でピッチャーを続けた高槻にとって、そんな評価は最早どうだって良かった。他人の評価よりも、自分が実際に肌で感じたものを信じる。その結果、高槻は、青樹を打ち砕くと決めた。


(和輝、見てろよ)


 和輝と自分は全く違う環境で育ったのだ。身長が低く非力だと、相手にもされなかった高槻。同じ体格ながら、期待を背負った和輝。評価を得る為に努力を続けた高槻と、期待に応え続けた和輝だ。どちらが良いかなんて解らないけれど、高槻はもう、決めた。
 浅賀をじっと見る高槻の目は酷く冷たかった。その奥にあるものは、きっと、怒りに近かった。浅賀はそれに気付き、頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。
 敬遠をする事で、和輝があんなにも崩れるとは思わなかった。結果として、二つのエラーから得点出来たが、その代償は少し大きかったように思うのだ。あの一回で、流れが変わった。風は北里ではなく、晴海に吹き始めたようだ。
 青樹は気付いているのかいないのか、黙ってサインを出す。警戒しているのか、始めはボールだった。


「……なあ、和輝」


 グラウンドをじっと見詰めていた和輝は、声を発した箕輪を見た。箕輪も同じく、ベンチから身を乗り出して高槻へ声援を送っていたが、その表情は何処か楽しそうだった。


「俺さ、お前がエラーした時、ちょっとだけ、ちょっとだけだぞ? ちょっとだけ、嬉しかったんだ」


 浅賀の投げた球が青樹のミットに収まった。乾いた音を追うように、審判がボールを宣告する。
 箕輪は困ったように頭を掻いた。


「天才だなんて呼ばれるお前が、練習でも試合でも何でも出来て活躍するお前が、エラーするなんて夢にも思わなかったんだ。……酷いかも知れないけど、俺は性格も良くて何でも出来るお前よりも、ちょっとした事で落ち込んだり、エラーしたりするお前の方が好きだな」


 第二球は、変化球だった。高槻は黙ってそれを見ている。審判が再び、ボールと告げた。これでカウントは0−2になる。


「お前の頑張れが、身近に感じた。……弱っちいけど、必死に頑張ってるお前となら、頑張れると思った」


 箕輪は和輝を見た。普段のお調子者の様子など微塵も感じさせない、真剣な表情に和輝は少し驚いた。


「天才じゃなくってもいいよ。エラーしたっていいからさ、ベンチの外で落ち込むなよ。キャプテンが連れて来るまで見付けられなかったけど、皆、本当に心配したんだぞ」


 真剣な眼差しの中には、確かに和輝を気遣う色が映っている。同時に、無力な自分と、独りで落ち込んだ和輝への怒りが見えた。和輝は少し目を伏せた。言うべき言葉は、謝罪ではない。


「……ありがとう……」


 その時だ。和輝の言葉に箕輪が反応するよりも一瞬早く、グラウンドで高音が響き渡った。バッターボックスに立っていたのが高槻でもなければ、ホームランも連想出来るような綺麗な金属の音に和輝はグラウンドを見る。
 一塁コーチャーが腕を回す。打球は、鋭いライナーとなり、ショートの手前で鋭く跳ねると、ライトを越えた。長打だ。高槻は一塁を蹴った。


「回れー!」


 ライトが捕球、そして、送球。ボールは二塁へ向かっていたが、高槻はそれを越えて三塁へ走った。一塁にいた千葉がホームイン。
 ボールは二塁へ、そして、高槻は三塁へ滑り込んだ。


「セーフ!」


 ベンチからわっと声が上がった。


「三塁打! ナイバッチー!」


 晴海ベンチが盛り上がる。三塁の高槻は汚れた膝を叩き、何処か満足そうな無表情で大きく息を吐いた。
 和輝はその様を見て、仲間の中から叫んだ。


「ナイバッチー!」


 声は届いたようだった。高槻は当たり前だろう、とでも言いたげに親指を立てる。言っただろ、お前のエラーなんて簡単にカバー出来るんだ。高槻の声が聞こえた気がして、和輝は笑った。
 これで同点。一死走者三塁。追加点のチャンスだ。八番の雨宮がバッターボックスに向かい、箕輪はネクストに入った。
 和輝と箕輪の話を聞いていた夏川は、ベンチの奥で目を伏せた。
 どうして、自分と彼らはこんなにも違うんだろう。浅賀のように走り続ける事も出来ず、和輝のように手を差し伸べてくれる存在もいない。自分がどうしようもなく惨めに思えた。何の価値も無い、無駄な存在に感じられた。だが、そんな夏川の横に和輝が座った。


「箕輪は優しいな」
「あ?」
「何でも出来る俺じゃなくっても、いいってさ」


 和輝は嬉しそうだった。


「俺、何時の間にか、何でも出来なきゃいけないって思ってた。中学の時も、全部俺がやらなきゃって思ってた。出来ない自分が嫌いで、許されないって思ってたんだ」


 それがどういう事なのか、夏川には痛い程解っている。周りからの期待とは、そういうものだ。強迫観念は自分の意思を殺す。だが、和輝は笑った。


「でも、いいんだ。俺は俺で、いいんだ。……なあ、夏川。俺はきっと、怖かったんだよ。天才って言われるような俺でなかったら、皆が離れて行っちゃうような気がして、ずっと怖かったんだ」


 でも、と和輝が続ける。


「でも、そう思うって、仲間に対して失礼だったんだな。俺はきっと、仲間を心の何処かで疑っていたんだ。裏切られても『やっぱり』って言って、傷付かなくて済むように。……信頼してなかったのは、俺だったんだ」


 和輝は青樹を見た。青樹は背中を向けているけれど、どうしてか和輝には、その後姿が今までと違って見えた。諦め続けた世界がどうしてか、とても優しいものに感じられた。
 グラウンドでは、晴海にとっては追加点のチャンスだったが、生かす事が出来ずに雨宮、箕輪共に三振で終わり、チェンジとなった。
 ネクストにいた和輝はがっかりもせず、怒りもせず、ただただ守備の為に動き出す。戻って来た高槻が擦れ違い様に肩を叩いた。


「……な?」


 和輝が振り返った時は既に背中を向けてしまっていたけれど、高槻はそう言ってベンチに入って行った。


無知の知・3

本当に大切なものは、失くしてから気付く


 信じられぬと嘆くよりも、人を信じて、傷付く方がいい。求めないで優しさなんか、臆病者の言い訳だから。
 和輝は守備位置に着き、それが何の歌だったかと考え、思い当たって苦笑した。卒業シーズンでよく耳にする歌だった。
 それがどうして頭の中で流れ続けるのかは解らなかったが、正にその通りだと思った。人を信じて傷付いた事も無い癖にと言われる筋合いは、無い。今までの人生で信じて裏切られた事なんて数え切れない。だからと言って、全部諦めてしまうのは勿体無いのだ。
 バッターボックスに四番、青樹大和。かつてのチームメイトは酷く冷たい眼差しを向けるけれど、それが過去に諦め逃げた代償ならば、受け止めなければならない。自分ばかりが辛かったと思うのは良くない傾向だ。皆きっと、辛かったし、悲しかった。
 過去は未来に復讐する。だが、和輝はそれを知り、笑った。
 青樹の二回目の打席だ。一回目はサードライナーだったが、その威力は掌の痺れと共に鮮明に覚えている。和輝の頭に、高槻の声が過ぎる。出来るかどうかなんて、どうだっていい。出来る事をやっていれば、見えて来るものなのだから。
 そんな高槻は静かに構え、青樹の持つ妙な威圧感もものともしないでただ、投球の時を待つ。青樹がバットを構えた。ワインドアップ、そして、左足を後ろへ引き、一気に前へ踏み出す。右手は力強く前へ振り切られた。
 青樹のバットは鋭く振られ、風を切る音が和輝の耳にも届いたような気がした。だが、ボールは萩原のミットの中だ。


「ストライクッ!」


 何か違和感を感じた青樹は、ボールの収まったミットを確認する。確かにストレートだった。サイドスローの直球はコースが違うとか、そんな問題ではない。今の直球は、今までの直球と違う。


「速いな」


 ベンチで、浅賀が独り言のように呟いた。
 青樹も同じ事を感じていた。今まで見て来た高槻のストレートを見て、青樹は遅いと感じた。それは浅賀などの天賦の才を持つ投手との比較だったが、エースの名を持つには余りにもお粗末だと思ったのだ。だが、今投げられた球はそれまでと違う。
 高槻は腑に落ちないとでも言いたげな青樹の顔を見て、鼻を鳴らした。


(お前らが練習を兼ね、尚且つ勝ちに来ているのはよく解ったよ。でも、俺だって負けるつもりは毛頭無ェ)


 高槻は今までの試合を見て、彼らを所詮二軍と評価した。その判断に間違いがあるとは思っていない。それはつまり、全力で相手をする必要を感じていなかったという事だ。だが、今は違う。叩き潰すと、決めた。
 二球目、再びストレートだった。だが、青樹はまたも空振りした。


(遅い……?)


 一球目と二球目が余りにも違い過ぎる。二球目は今まで見て来たあの遅いストレート。
 ツーナッシングに追い込まれた青樹を見て、和輝は少し笑った。


(布石か)


 一球目は単なる見せ球。あの一球で、高槻の本当のストレートは青樹が思っていたよりも早いと頭に刷り込まれた。きっと青樹は、高槻には二種類のストレートがあると思っただろう。だが、本来高槻にあるのはこの打席の最初に投げたストレートだ。高槻のストレートは元々、遅くなんて、ない。
 140km越えのストレート。それも慣れないサイドスロー投手。打ち砕くのは相当困難だ。加えて、元来の卑屈からか高槻は自分のストレートが打たれないとは一切思っていない。だから、浅賀のように打たれて驚く事もない。
 三球目、高槻は振り被った。青樹の中には二種類の直球が鬩ぎ合う。だが、高槻はもう直球を投げるつもりもない。投げられたのは、何の変哲も無いカーブだった。


「ストライクッ! バッターアウト!」


 三球三振。青樹は驚いたように目を丸くして、バットを下ろした。丸い目が見詰める先は表情を映さない高槻だった。


「チビのストレートが遅いなんて、決めんなよ」


 そう言って、高槻が笑ったような気がした。
 続く五番打者がバッターボックスに入った。青樹はまだ驚いたように、マウンドの高槻を見ている。ベンチに戻って監督に報告した後も、グラウンドから目が離せない。


「中々やりよるな、あのキャプテン」


 浅賀がぽつりと言った。青樹は黙って頷いたまま、グラウンドに釘付けになっている。


「あのキャプテン、うちのキャプテンと同じ中学だったらしいで」
「……どうりで」


 そんなキャプテンを筆頭に、曲者揃いのチームだ。始めから練習を兼ねて試合するようじゃ勝てない。青樹は少し目を伏せた。
 和輝はきっと、恵まれている。もっと別の場所で野球をしていたら、嫉妬や羨望からイジメのターゲットになっていたかも知れない。けれど、高槻というキャプテンがいて、決して見捨てずに頭から否定しない仲間がいる。だが、青樹はそれを認める事が怖かったのだ。
 グラウンドでは、五番、六番が続いて三振に終わった。あっと言う間にチェンジだ。青樹はレガースを付け、グラウンドへ走った。
 五回表の晴海高校の攻撃は、一番の和輝からだった。和輝がバッターボックスに立つと、すぐに青樹も立ち上がった。敬遠だった。
 和輝は黙ってただ、ピッチャーである浅賀を見詰める。和輝は浅賀に訴え掛けるような目で、ずっと見ていた。だが、浅賀は大きくストライクゾーンを離れた青樹のミット以外に、投げる事は無かった。
 敬遠。和輝はバットを置いて走り出す。無死走者一塁。
 だが、やはり、攻撃は続かなかった。二番の桜橋が和輝を送り、自身も盗塁で三塁まで到達するも、三番の藤が三振、四番の萩原がショート真正面に打ち、敢え無くチェンジだった。
 そこからの試合は膠着が続く。五回、六回、七回と両校無得点のまま八回の晴海高校の攻撃。和輝は七回の四回目の打席も敬遠のまま、八回は五番の夏川からの攻撃だった。
 この試合、全打席三振という、夏川らしくない成績からか、焦りが滲んでいた。そんな夏川の脳裏に、初打席以降、敬遠が続き、バットを振る事が無い和輝の後姿が浮かんだ。
 笑ってはいたけれど、きっと、悔しかっただろう。そんな和輝にどうして皆が揃って手を差し伸べるのか、夏川には解っている。和輝は今まで同じように手を差し伸べて来たのだ。だから、皆が和輝を救おうとする。それに比べ、自分は何が出来ただろう。人に期待するのではなく、自分が動かなければいけないのだ。だから、独りぼっちだったんだ。
 そう思った時、一瞬、和輝の声がした。


「頑張れ!」


 ベンチで一際声を張り上げ、和輝はそう言った。振り返りもせず、夏川は少し驚いた。どうしてそんな事を、言うのだろう。和輝が元々恩着せがましい性格ではない事くらい、解っている。けれど、今までの言動が土石流のように一気に押し寄せて来た。
 それらは決して、見返りを求めての行為ではないのだ。自分には何の特にもならないのに、今まで和輝は何度も何度も、手を差し伸べていたではないか。自分は今までそれに、気付かなかっただけだ。


(独りじゃない)


 振り返ればいいんだ。小さな彼と同じように、逃げるのはもう止めよう。
 バットを構えた夏川の顔は、今までの試合の中では一度だって見せなかった真剣な顔だった。真っ直ぐ前を向くその姿勢はまるで高槻や和輝のようで、浅賀は少しだけ驚いた。


(こいつ、何処かで見たような顔やな)


 それが何処だったか、浅賀は解らない。それがまさか、テレビの中で見たプロ野球選手だったとは、夢にも思わない。
 青樹のサインを見て、浅賀は舌打ちしたい気分になった。サインはボール。青樹も今の夏川に何か感じ取ったらしく、警戒している為慎重だった。だが、浅賀にはそれが気に食わない。
 和輝への敬遠にしても、高槻への対応にしても、今の状況にしても、だ。青樹の判断は間違っていないのだろう。自分を成長させる為に打たせて取るという技術を育てるべく取った作戦も、浅賀には解っているし、感謝もするべきだろう。だが、気に食わない。青樹の目は、正面にいる自分を見てはいない。
 青樹が見ているのは、かつてのチームメイトだ。彼を警戒する余り、青樹は何処か慎重になり過ぎている。確かに敬遠をしなければあのエラーの回はなかっただろう。けれど、結果として青樹は眠れる獅子を起こした。


(お前、何処を見てんのや。誰と戦っとんの。なあ、こっち向けよ)


 声は、届かない。浅賀はサイン通りゆっくりとワインドアップした。


(お前の投手は、俺やぞ!)


 北里に帰れば、本当のエースと組むのだろう。けれど、この試合では、青樹は自分のキャッチャーの筈だ。
 浅賀は振り被った。その掌から白球が放たれる。ボールを狙った筈だった。だが、浅賀の放った球は内側に食い込んだ。驚いたのは青樹だった。だが、それを見逃す夏川ではない。
 夏川のバットが一閃した。久しく見せなかった彼のフルスイングに、ベンチは嫌でも盛り上がった。打球は内野を軽く越え、センターの頭を越え、落ちる。長打だ、とベンチが叫ぶよりも早く夏川はバッターボックスを離れている。
 センターが捕球、そして、夏川は二塁へ滑り込んだ。


「セーフ!」


 無死走者二塁。晴海への追い風はまだ、止んでいない。
 ベンチから飛び交う仲間の声に、夏川はつい笑ってしまった。


「ナイバッチー!」


 ずっと敬遠をされ続けて、本当は悔しいだろう和輝が率先して声を上げた。夏川はその和輝へ向かって少しだけ笑った。
 一方で、青樹は驚いていた。浅賀が強引に自分のサインを無視する事はない。その必要性が無かった筈だ。まず、自分の非を考える。だが、結果として、青樹は珍しいと思いながらも浅賀のミスだと結論付けた。それは確かに正解だが、それだけで終わらせてはならなかったのだ。
 和輝は、マウンドに駆け寄らない青樹を見て少し悲しそうな目をした。


(なあ、大和。お前の目には何が見えてるんだ。浅賀君が何を考えてるのかなんて、俺にだって解るよ。なのに、キャッチャーのお前がどうして気付かない)


 青樹なら気付く筈だ。自分の知っている青樹ならば。
 和輝の中に、かつての青樹の姿があるだけに、悲しかった。


(浅賀君を見ろよ。お前、このままじゃ独りになっちまうぞ)


 声が届かないと知っていても、和輝には祈る事しか出来ない。もしも、青樹のチームに自分がいられたなら、きっと声を掛けられただろう。だが、もう違うのだ。
 続く千葉は夏川を三塁に送り、一死走者三塁の得点のチャンスだった。その場で、北里としては最も迎えたくないだろうこの試合のキーマン、七番、ピッチャー高槻智也を迎える。エースにしてキャプテンだ。
 高槻はやはり、表情を映さなかった。だが、三塁を見て少し納得した。夏川の表情が、穏やかになっている。まるでさっきまでは殺し合いでもするかのような形相だったが、漸く落ち着いたようだ。何が原因なのかは知らない。だが、せっかく可愛い後輩が変わった大切な時なのだ。最大限に活かしてやりたい。
 青樹のサインはストライクだが、変化球だった。それがどうしてか、浅賀には納得出来ない。青樹が浅賀を見縊って、お前には無理だと主張している訳じゃない事も、解っているのだ。それでも、頭に血が上っているせいか、納得出来ない。
 投げられたカーブに、高槻は正直呆れた。変化の幅の少ない、スピードも無い。疲れているようにも見えないのに、こんな球を自分に放るとは、やる気が無いのかと思った。高槻の方がやる気を失くしてしまう。けれど、この打席は大切だ。高槻はその変化球を綺麗に捉えると、サードとショートの間を縫うように打ち抜いた。
 打球は絵に描いたような綺麗なヒットとなり、夏川は悠々ホームインした。追加点、これで3−2で勝ち越しだ。
 ベンチへ戻った夏川に和輝が拳を向けた。


「ナイバッチ」


 夏川はむず痒いような気持ちになり、その拳に思い切りパンチした。和輝が驚き、痛いと声を上げたが、夏川自身も正直痛かった。
 北里は追加点を許してしまう結果となり、とうとう青樹はマウンドに駆け付けた。浅賀のプライドに触ると思って、近付くのは控えていたのだが、そうも言っていられない。


「どうした、不調か?」


 少し冗談めかして、青樹は軽く言った。だが、それさえも癪に障る今の浅賀は強く睨み付けた。


「お前、一体何やねん」


 こんな事を言っても仕方ない。青樹は間違っていない。浅賀もそんな事は解っている。だが、脳と心は別の器官なのだ。


「お前、さっきから誰と戦ってん。何処を見てん。お前の視界に俺は映っとんのか。俺は、お前が蜂谷君と戦う為の道具やないぞ!」


 青樹は驚き、首を竦めた。浅賀がそんな事を言うとは思わなかった。
 浅賀がそんな事を言うのにも理由はある。恐らく大半は焦りや苛立ち、それもこの試合とは全く関係の無いものだ。北里に帰れば正捕手としてエースと組める青樹と、競争率の高いピッチャーの中で戦っていく浅賀。たかが練習試合でも、向ける意識は全然違う。
 それらを知り、青樹は少しだけ笑った。投手のそんな心の不安定さにも気付けないなんて、捕手失格だと思った。同時に、この場に和輝がいたなら、状況は大きく違っただろうとも思った。それが例え、浅賀に対して失礼であっても。


「浅賀、焦るな」


 必要なのは謝罪ではないのだ。青樹は穏やかな表情で、諭すように言う。


「俺がいるんだ、心配するなよ。この試合のエースはお前だろ。エースの球を受けるのが、俺の仕事だ」


 青樹は拳を向けた。何時かも、こんな風に誰かと拳を向け合ったなあ、なんて思いながら、青樹は微笑む。


「この試合、俺は負ける気なんてない。お前もだろ?」
「当たり前やろ」
「よし、この回終わらせるぞ」


 ガツン、と強めに拳をぶつけ、青樹はポジションに帰って行く。和輝はその青樹の顔を見て、少し驚いた。何時の間にか、自分の知っている青樹に戻っている。
 一点差で負けている一死、走者一塁。だが、そこからのバッテリーは噛み合い始めた。何よりも、青樹の組み立ては何処か攻撃的で、思わず息を呑むようなものだった。
 八番の雨宮、九番の箕輪を三振で抑えると、晴海高校の攻撃は終わってしまった。
 そして、八回裏、北里の攻撃。一番から始まるチャンスだった。
 高槻は北里を嘗めてはいない。だが、二軍は所詮二軍だと理解しているのだ。故に手を抜く事も無く、淡々と投球し、打者を抑える。しかし、その八回裏、ツーアウトの中で三番打者が出塁した。
 続く四番。高槻も萩原も、せいぜい『あーあ』だとか『やっちまったな』くらいにしか思っていなかった。それが、甘いのだ。その打席で、青樹のバッティングの恐ろしさを体験する事となった。
 まるで断末魔のような高音が響き渡り、和輝は呆然とした。ピンチを切り開く時や、勝利への決定打を青樹が決める時、いつも聞いた音だった。
 打球は青い空にぽつりと浮かび、白い雲に消えたかと思えばそのまま、フェンスの向こうへ落ちた。


「ホームラン……?」


 この状況で打つのか、と箕輪が呆然として言った。青樹はメットで表情は隠しているが、笑った口元だけはそのままにダイヤモンドをゆっくりと回る。そして、和輝の横を通り過ぎる瞬間、その足が僅かに鈍った事にお互い気付いていた。
 逆転ツーランホームラン。今度は北里のベンチが盛り上がる番だった。
 しかし、高槻の表情は変わらない。驚いた顔もすぐに消え、いつもの無表情に戻っていた。高槻に驕りや慢心はない。確かに油断はしていたが、それで挫ける程可愛らしい神経は小学校の頃に失くしてしまった。故に、気持ちは次へ切り替わっている。
 仲間もそれを悟って、高槻への声援を投げる。いよいよ試合らしくなった、とキャッチャーマスクを上げていた萩原は下ろし、笑った。
 その八回裏、五番を三振で抑えると晴海高校は最後の攻撃を向かえる。ここで得点出来なければ試合終了だ。打者は、一番に戻った。
 和輝はバッターボックスに立った。
 浅賀はサインを見て、頷く。サインに従うという事は、キャッチャーの言いなりになるという事ではない。それも気付いているからこそ、頷いたのだ。
 青樹は最後の最後までその姿勢を崩さなかった。何の迷いも無く立ち上がり、そして、浅賀は投げた。


(敬遠……)


 カウントと同時に嵩む絶望感。まるで引退試合の再現のようで、和輝は泣き出したい衝動に駆られた。あの試合も、最終回まで、敬遠で終わった。
 負けているのだ。自分が、何とかしなければらない。
 そんな風に思った時、ベンチから強い視線を感じた。思わず振り向けば、其処には高槻が腕を組んで立っている。まるで怒っているかのような形相に和輝の表情は強張った。
 カウントが三つになり、大きく息を吐いた。


(そうだ。俺は、信じなきゃいけない)


 四つ目、ボール。


「ボール! フォアボール!」


 審判が和輝を一塁へ促す。和輝はバットを置き、なるべく明るい表情で走ろうとした。その背中に、二番である桜橋の声が聞こえた。


「……心配すんな」


 和輝は振り返った。


「心配なんか、していません。……頼みます」


 その一言を言うのが、ずっと怖かった。だが、桜橋は笑った。


「ああ、任せろ」


 和輝は一塁へ向かって走り出した。
 続く二番打者、桜橋は、三番である藤と共に和輝を送り、二死走者三塁にした。バッターは四番、萩原。和輝はリードしつつ、萩原をじっと見詰めた。
 萩原は和輝が真剣に見詰めている事に気付き、苦笑する。そんなに心配な顔をされても、困ってしまう。


(そんなに俺は、頼りねぇかよ)


 確かに、高槻ほど大活躍はしていない。けれど、大切な後輩がこんな過去のトラウマを抉られるような目に合わされて、相方であるピッチャーはホームランを打たれて。ここで黙っていたら男じゃない。
 一球目はボールだった。否、和輝への牽制だった。素早く戻った和輝はセーフだったが、青樹の肩に少々驚いた。だが、二球目、ストレート。
 浅賀の球は速いし、重い。こんな化け物のような球を思った通りに動かせるのなら、楽しいだろう。だが、萩原にとっては今が大切なのだ。チビで非力で、才能も無いと呼ばれ続けた高槻とだからこそ、野球が楽しいのだと思う。実際、高槻は非力でもないし、才能が無いかと言われればそうでもないだろう。けれど、高槻のような投手とやるからこそ、仲間の大切さはより実感するのだろう。
 萩原はバットを振り抜いた。
 打球は驚くほど簡単に、呆気なく、先程の青樹と同じように緑色のフェンスを越えて行った。


 ホームラン。
 本日二度目のホームランは、晴海高校の四番、萩原によるものだった。
 再び逆転ツーランホームラン。萩原は和輝の後を追うようにダイヤモンドを回った。青樹はマスクを上げ、マウンドに歩み寄ると浅賀の肩を叩いた。
 ベンチに戻ると、まず始めに桜橋が萩原をもみくちゃにした。それに続くように二年の後輩達が駆け寄って行く。和輝はその隙を抜けてベンチの奥へ入った。
 奥で座っていた高槻は小さく笑った。


「信じる事がどういう事か、解ったか?」


 和輝はくすぐったそうに笑った。
 その後、晴海高校の攻撃は惜しくも続かず、一点差で勝ち越したままチェンジとなった。そして、恐らくは最後になるであろう作戦会議の中で高槻は何処か嬉しそうに言った。


「勝利祝いは、千葉の家にしよう」


 千葉の家は肉屋だと、藤が耳打ちした。
 俄然盛り上がる晴海高校。最終回、裏。グラウンドへ散って行く。高槻は仕度の遅れた萩原を待つように横に立った。


「なあ、萩原」
「……何だよ」
「あの頃はさ、こんな風に野球が出来る日が来るなんて、思わなかった」


 高槻らしくも無い、と思いつつも萩原はつい微笑み頷いた。


「俺達ももう、年だな。後輩がさ、どうしてか可愛くて仕方ないんだよ」


 萩原らしくも無い、と高槻は笑った。


「ああ、その気持ち解るよ。……そういう訳で、最後は格好良く三者三振だな」
「当たり前だ。ヘボんなよ」
「誰に言ってんだよ」


 高槻は笑って走って行った。
 その言葉通り、高槻は北里の六番打者から三人をきっちり抑え、ゲームセットとした。
 試合終了の挨拶をする為、整列をする。和輝の前に立っていたのは、青樹だった。


「晴海高校と北里工業高校の試合は、五対四を以って晴海高校の勝ち! 両校、礼!」
「ありがとうございました!」


 その全体の挨拶から一足遅れ、和輝と青樹はじっと目を合わせ、同時に頭を下げた。


「ありがとうございました!」


 そのままグラウンドを貸していた晴海高校はグラウンドを整備しなければならないのだが、好意からか礼儀からか北里も手伝いに来た。高槻は監督と今日の試合について話している。
 和輝はトンボを持って歩き出したが、正面に立つ少年を見て足を止めた。


「大和……」


 青樹は苦笑し、傍に歩み寄る。


「お疲れさん」
「ああ、お前も、お疲れさん」


 青樹もトンボを持ち、歩き出す。和輝はその横に並んだ。


「なあ」


 突然、青樹は言った。


「晴海高校、楽しいか?」


 和輝は困ったように笑う。


「見て解んないのかよ」


 くすり、と青樹が笑った。
 解るさ、痛い程な。その言葉を呑み込み、青樹は続けた。


「どうして、晴海高校を選んだんだ?」


 和輝は一瞬、息を呑んだ。


「お前なら、もっといいとこ行けただろ」
「いいとこって、何だよ。名監督のいるところ? 天才の集まるところ? グラウンド設備のいいところ?」


 咄嗟に青樹が答えられないと、和輝はすぐさま続けた。


「俺には見合わないよ。俺はもっと、地べたで這いずり回るくらいが丁度いい」


 和輝は子供っぽく白い歯を見せて笑った。だが、青樹は無表情で、まるで理解出来ないとでも言うように言った。


「お前が晴海を選んだのは、俺達を見限ったからじゃないのか?」
「えっ?」
「あの引退試合で、俺達に幻滅したから、知り合いのいない晴海を選んだんじゃないのか」


 和輝は言葉を失った。青樹はずっと、そう思っていたのだろうか。そう考えると、悲しくて、辛かった。仲間にそう思われていた事も、それに対して何も伝えられなかった事も、全てが苦しかった。


「違うよ」
「じゃあ、どうして」
「俺は、あの引退試合で、自分に絶望したんだ」


 地面を忙しなく均していた筈の手は、すっかり止まっていた。和輝は目を伏せ、あの日の野球を思い返している。


「俺、お前らに何も出来なかった。本当は謝るべきだったのかも知れない。でも、大和、俺の事避けてただろ」
「それは」
「怖かったんだよ。面と向かって、否定されるのが。だから、俺はお前らのいないところで強くなりたかったんだ」


 青樹はその言葉を聞き、苛立ったように和輝の頭を叩いた。


「な、んだよ、それ」
「大和……」
「何だよそれ! 俺は、ずっと、お前が裏切ったと思って、ずっと、許せないと思って……!」


 その時、青樹の目から大粒の涙がぽつりと零れたので、和輝はぎょっとした。


「俺は、お前の事ずっと避けてて、責めてたのに、お前は一人で全部抱え込んでたのかよ……!」
「大和」
「だって、お前、あの試合の後ずっと笑ってたじゃねぇか!  何でもないみたいな顔で……」


 和輝は目を伏せた。ずっと笑っていた訳じゃない。ただ、皆の前で泣く資格が無いと思っていたのだ。結果として兄に迷惑を掛けてしまったけれど。


「大和、一つだけ、言っていいかな」
「……んだよ。一つだけ、かよ」
「うん」


 何処か困ったように笑う和輝が悲しくて、青樹は拳を握った。


「他人と同じ気持ちを分かち合う事は無理だよ。お互い意思のある人間なんだから、違って当然のものを押し付け合ったって駄目だって、解ってる。でもさ」


 和輝は目を伏せ、搾り出すような声で言った。


「俺はお前に、信じて欲しかった……!」


 ぽつりと和輝の目からも涙が零れた。


「お前なら、解ってくれるんじゃないかって、思ってた……。俺はきっと、そうやってお前に甘えてたんだよな……」
「ふざけんなよ、馬鹿! 言えよ、そのくらい! 何で言ってくれなかったんだよ!」
「お前だって、言ってくれなかったじゃないか」


 和輝はごしごしと目を擦る。


「信じていいなんて、一言も言ってくれなかったじゃないか」
「信頼なんて、言葉で説明しなきゃ解らないもんじゃないだろ!」
「おい、大和」


 何時の間にか後ろに立っていた浅賀が、そっと大和を呼んだ。


「大和、それは違う。それはお前の持論やろ。全ての人間がそう思っている訳やない」
「浅賀」
「決め付けるな。お前がそれを普通って言うてもうたら、そうして生きられん人間はどないしたらええねん」


 浅賀に表情は無かった。


「そうとしか生きられん人間の生き方を否定するって事はな、暗に死ね言うてるのと同じやぞ」
「そんなんじゃない!」
「せやから、それはお前が決める事やない。受け取った本人が決める事や」


 青樹はついに言葉を失った。浅賀の冷静な答えが、青樹の言い訳を尽く潰して行く。青樹は黙ったままだった和輝を見た。
 和輝は何も言わずに、ただただ呆然としている。浅賀は言った。


「……確かに、大和の言う通り、言葉にしなくても伝わって、信じ頼れる事が信頼ちゅう事やろうな。仲間を信頼出来なかった君を責めるつもりは無いけど、当たり前のように信じてもらえなかったこいつの虚しさも解るやろ」


 皆、辛かった、あの引退試合が自分達を決裂させるなんて考えもしなかった。
 重苦しい沈黙が流れた。しかし、それを破ったのは、青樹だった。


「人を頼るのが悪いって、どうして思うんだよ。どうして何でも一人で背負い込むんだよ」
「……ごめん」
「お前が悪いって言いたいんじゃない。俺は」


 青樹は一瞬目を伏せたが、すぐに顔を上げて和輝を睨んだ。


「俺は、お前と野球したかったんだよ……!」


 和輝はそれを聞いて、デジャヴだと思った。春に会った時、匠にも同じ事を言われた。改めて、自分は本当に仲間に恵まれていたんだと思い知った。
 青樹は問い掛けた。


「お前はもう、一緒に野球したいとは思わない、か?」


 その意味を理解するのに、和輝は少し戸惑った。だが、意味を悟って答えようとした時、遠くで高槻が呼んだ。


「和輝! ベンチの片付け手伝え!」
「はーい!」


 和輝は返事をして苦笑し、青樹を見た。それまで見せた何処か弱々しい和輝ではなく、中学の頃、キャプテンとして皆の前に立っていた時の心強い和輝になっていた。


「お前等との野球がつまんない訳じゃない。また、一緒に野球出来たらいいかも知れない。でも、俺は自分の選んだ道を後悔なんてしていない」


 はっきりと言い切った和輝は、微笑を浮かべていた。
 遠くでもう一度高槻が呼んだので、和輝はまた返事をした。


「俺、行くよ。あ、そうだ」


 和輝はポケットから油性ボールペンを取り出し、青樹の手を掴んでペン先を立てた。


「おいおい」


 青樹は呆れたようにその様を見ていたが、和輝は笑った。青樹の硬い掌に書かれたのは短いアルファベットと記号の羅列だった。


「俺のアドレス。俺の携帯中学の頃、壊れちゃったからさ」


 和輝は苦笑しているが、青樹は何も言わなかった。中学の頃、和輝が携帯電話を川に投げ捨てた事は匠から聞いている。ついでに、この試合まで、自分の名前を聞いても和輝が思い出せなかったという事も。


「じゃあな。悪戯メールすんなよ」


 からからと笑いながら、和輝は走って行った。その後姿を見送った後、青樹は苦笑して掌を眺めた。相変わらず、彼らしい短いアドレスと思った。


「そういえばさ」


 そのアドレスを横から覗き込みながら、浅賀が言った。


「俺、大昔に蜂谷君と会うた事あるわ」
「はあ?」
「俺の親父の親友の息子やねん。ここ数年は会うてへんかったけど、昔はよう来とったわ」


 だから、と浅賀が笑う。


「そのアドレス、俺にも写させてな」


 青樹が悪戯っぽく笑った。


「どうするかな?」
「何でやねん」


 ニッ、と笑って青樹は走り出した。慌てて浅賀が追い駆ける。そんな姿を見て、和輝は笑った。
 過去の自分達を見ているような気持ちで、心が温かくなるような気がした。
 今でも中学時代、自分の行為への後悔はある。だが、またこうして笑い合えるならば、それもまた良かったのだろう。そんな事を思いながら、和輝は片付けを再開する。
 だが、和輝は未だにまだ、思い出していなかった。秋のあの日、河川敷で匠と一緒に、『裏切り者』と自分に言った人間の顔を、未だに靄が掛かったままで、思い出す事すらも忘れていた。

2009.8.11