携帯電話が鳴った。
 マナーモードに設定してあったそれは、机の上でバイブレーションを酷い音として響かせながら淡い光を放っている。持ち主である匠は慌てて引っ掴み、画面を確認した。

 着信、青樹大和。

 大方、先日の先週試合の報告だろう。そう思い、匠は通話ボタンを押した。
 夕食後の寮の広間は、仲間の穏やかで賑やかな声が聞こえている。それらが通話の邪魔にならぬように壁際に寄り、匠は耳を澄ませた。


『もしもし、匠?』


 懐かしい声に顔が綻ぶ。凛とした良く通る声。和輝のボーイソプラノとは違う、落ち着いた声だった。


「どうした、こんな時間に」


 白々しいとは、青樹も思っただろう。電話の向こうで苦笑する微かな声がした。


『この前の、練習試合なんだけどな』
「ああ、どうだった?」
『負けた』
「へえ、あの北里が」


 厭味を言った訳じゃない。匠は純粋に驚いた。
 以前は野球出来る必要なメンバーすら揃っていなかったのに、二軍とは言え青樹の通う野球の強豪として有名な北里に勝ってしまうなんて、誰が想像できただろう。
 だが、匠は電話の向こうの青樹には悟られないほど微かに、笑った。和輝なら、そんな奇跡みたいな事も起こせるんじゃないかと思っていたからだ。
 青樹は深く溜息を零した。


『俺な、あの試合で……和輝の打席、全部敬遠にしてやったんだ』


 匠は言葉を失った。
 会話を目的とした小さな機械の箱を通した沈黙がこんなに痛いとは、思わなかっただろう。匠は少しのその重苦しい沈黙の後で、低く聞いた。


「何で?」


 声は明らかに怒りを帯びていた。


「何で、そんな事したんだ。引退試合、忘れた訳じゃないんだろ」
『ああ。だから、さ。結果として、あいつは二回連続のエラーで、失点をした』


 匠は苛立ちつつも驚いた。和輝のエラーなんて、ずっと一緒に育った自分でさえ、野球を始めたばかりの頃以来一度だって見ていないのだ。
 青樹は言った。


『でも、最終打席、あいつは振らなかった。最後までバット構えたまま立ってた。それで、次の打者に頼みますなんて言ってたよ』


 その様子が目の前に浮かび上がるような気がして匠は笑った。
 あの引退試合では、和輝はツーストライクまで届く筈の無い打球に手を出した。その理由は、仲間への信頼が無かった訳ではないと思いたい。ただ、悔しかった。それだけだと信じたい。
 親友は大人になったのだろうか。それとも、漸く仲間を信じられるようになったのだろうか?
 青樹は静かに、何処か躊躇うように言う。


『あの引退試合の後、和輝、泣いてなかったよな。ずっと笑って、仲間励まして……。すっげー格好良かったよな』
「ああ」
『でもさ、俺はそれが嫌だったんだ。泣く価値すら無いって言ってるように感じた。その後、あいつは晴海高校に行くって言い出した。だからさ、俺はあいつに裏切られたと思ったんだ。ずっと一緒にプレーして来たのに、仲間だと思ってたのは俺達だけなんだって……』


 匠は目を伏せた。青樹があの引退試合を通してそんな風に考えたなんて、知らなかった。ただ、自分と同じように裏切られたのだと思ったと、思っていた。
 だから、匠は罪悪感を感じた。もっと早く聞いていれば、二人はこんな風に傷付く必要なんてなかった。


「和輝は、泣かなかった訳じゃない」
『えっ?』
「俺の家、あいつの家の向こう隣だろ。だから、聞こえたよ」


 帰り道だって明るく笑っていた彼が、庭で一人でバットを振っていた事も知っていた。そして、兄の胸で大声で泣いていた事も解っていた。
 和輝は、皆の前で泣いてはいけないと思ったんだろう。何も出来なかった不甲斐無いキャプテンでも、仲間の為に、後輩の為に、最後は格好良く終わりたかったんだろう。
 その為に全部抱え込んで、自分が苦しむと解っていても。


「あいつ、本当はすっげー泣いてたんだ。俺達には見せられなかったんだろ。ああ見えて、気ィ強いからな」
『……どうして、俺には何も言ってくれなかったんだ……』


 聞こえるか聞こえないか、微かな声で呟いた青樹のそれはきっと独白だった。匠は困ったように笑う。


「あいつは気ィ強いけど、変なとこで臆病だったからな。特に、人を信じるって事においては、さ」
『信じられなかったのか……?』
「って言うよりも、信じるのが怖かったんだろ。何時裏切られるのか、ずっとそうやって生きて来た。お前も、あいつに信じていいなんて言わなかっただろうしさ」


 匠の言葉が、和輝の言葉と重なる。信じていいなんて、わざわざ伝えるものではないだろう。匠は青樹がそんな風に考えているだろう事を悟って、言った。


「そう伝えないと解らない人間もいるんだ。……でもさ、あいつは多分、お前に話したかったと思うぜ?」


 中学時代の青樹と和輝を見ていれば、そう思う。人を余り頼らない和輝が、青樹にはよく相談を持ち掛けていた。それは人からすれば少ないかもしれないが、和輝にすれば十分多かっただろう。
 引退試合の事、仲間の事、高校の事。きっと、色々話したかっただろう。あの頃、匠も和輝を突き放した。誰にも相談出来ず、ただただ否定され続けたあの頃の和輝を思うと胸が痛くなる。中学の思い出の品を片付けた事も、携帯電話を川に投げ捨てた事も理解出来ない訳じゃない。


「俺もお前も、間違ったのさ。勿論、和輝も。でも、もういいんだ。皆、道は違えたけども、今の道に十分満足してる。今は寂しいとか、物足りないとかって感じるかも知れないけどな」


 電話の向こうで、青樹は笑った。眉を下げ、何処か困ったように笑ったのだろうと思った。


『……そうだな』


 同じように匠も笑った。
 そろそろ部屋に戻ろうかと時計を確認した時、思い出したように青樹が声を上げた。


『そういえば、陸って、どうしてんのかな』
「ああ……」


 そういえば、と匠もその『陸』を思い浮かべる。赤嶺陸。切れ長な目をした長身の少年だ。橘シニアの、エースだった。
 思い出した時、匠は何とも言えない表情で低く唸った。


「俺、全然、交流無いな……」
『一匹狼だからなぁ……』


 青樹は苦笑した。二年以上一緒に組んだ相方だが、中々あれは気難しい方だったと思う。我が強く、妥協を許さない。意見の違いから匠は殴り合った事もある。
 だが、悪い男ではない。根は優しい。ただし、頭が固い。
 中学最後の年、和輝が一人で晴海高校に行くと言った時、匠は裏切り者と罵った。一緒にいたのは、赤嶺だった。きっと、赤嶺は未だに和輝に怒りを感じているだろう。もしかしたら、憎しみまで感じているかもしれない。
 青樹もそう考えたのだろう。慌てて言った。


『俺、連絡取ってみる』


 今のまま和輝に会ったら、殴り合いどころか、一方的な暴力になるだろう。その前に何とかしなければ、と青樹は考えたが、どうしようもないのだ。匠は冷静に言った。


「やめとけ。どうせ、何も出来ない」
『どうせって……』
「陸に何て言うつもりだよ。和輝の事は誤解だったんだーなんて言ったら、お前までとばっちり食うぜ」
『でも、このままだったら、でかい問題になりそうだぜ?』
「それも含めて、俺らのキャプテンだったあいつに任せよう」


 そう言って、匠は窓に映る小さな星空を見た。神奈川に住んでいた時よりも星は大きく輝いて見える。その星空を見ながら、匠は親友を思い浮かべた。同じように青樹も星空を眺め、苦笑し「そうだな」と呟いた。


冷静な天国・1

子供の頃に夢見た天国なんて、存在しない。


 庭の片隅に置かれた物置の、闇に沈んだ隅の方にダンボールが一つ。大して時間も経っていないというのに、酷い埃に塗れたそれは、一瞬手を伸ばす事さえ躊躇した。
 和輝は覚悟を決め、手前の荷物を退けると引き摺るようにして引っ張り出した。ふわりと舞い起きた埃に鼻の奥がむず痒くなる。
 芝生の広がる庭の中央まで引き摺りだすと、腰に手を当ててふっと息を吐いた。無地のダンボールの蓋はガムテープでしっかりと封がしてある。まるで、開ける事を忌み嫌うかのように、簡単には開けないように。だが、それをしたのは和輝自身だ。だからこそ、自分自身の手で開けなければならない。
 ガムテープにそっと手を当て、静かに埃を払った。中に入っているのは、中学時代の思い出の品だ。目に付かぬように、隠すようにしてこの物置の中に押し込んだのだ。けれど、もう、逃げるのは止めにしようと思った。
 青樹との練習試合を通して、彼が今まで何を思い、結果何を望んでいたのか解った。また、自分は全てと向き合う為に晴海高校へ進学したというのにも関わらず、大切な中学時代から逃げ続けていた。
 覚悟を決めるように深呼吸をし、一気にガムテープを剥がし切った。蓋を開けた中から現れたのは、赤い布張りに、金の箔押しで『神奈川県立阪野第一中学』と記されていた。久しぶりに見る卒業アルバムに、指先が震えた。
 このアルバムには、匠や奈々、青樹も載っている。また、ずっと避けられ続けた中学時代の仲間達も載っているのだ。けれど、もう、向き合おう。
 自分は何か、大切なものをここに押し込んだまま忘れようとしている。それでは、駄目なのだ。
 アルバムを開けば、懐かしい教師の面々、白い校舎とグラウンド。また、各クラスの写真。
 匠とはずっと同じクラスだった。集合写真はいつも隣にいる。青樹は別のクラスだったが、体育祭ではいつも競い合っていた。体育祭を特集したページには、懐かしい少年が一緒に笑っていた。


「あ、」


 つい、声が漏れた。
 匠に肩を組まれ、苦笑する自分の横で青樹がピースしている。自分の後ろ、顔を覗かせて笑う、切れ長な目をした背の高い少年。


「り、く」


 赤嶺陸。和輝の指が無意識にその顔をなぞった。
 橘シニアの、エースだった。唯我独尊、大胆不敵。常に一匹狼であった彼は、妥協を許さず、少々頭が固かった。けれど、とても友達思いで、ぶっきら棒な言い方をする癖に根は優しい。負けず嫌いで、互いに気の強かった匠とは殴り合った事もある。


「陸、か」


 その名前を思い出した瞬間、肩の力が抜けた。
 秋のあの日、匠と一緒に自分に『裏切り者』と言ったのは、彼だった。
 彼はとても不器用だった。親切でした事が何かと裏目に出てしまい、それを顔には出さずに落ち込む。また、試合ではいつも仏頂面で、乱調で追い詰められている時さえもその冷静そうな態度は崩さず、裏で潰れている事もあった。
 けれど、自分は。彼のそんな不器用さが大好きだった。その全ては仲間の為から来る優しさだと知っていたからだ。
 元気だろうか、と思う。また、誤解されていないだろうか。ちゃんと彼を理解してくれる人と出会えているだろうか。そんな事を思い、苦笑した。自分は、彼に嫌われているというのに。
 思えば、中学のチームメイトの連絡先なんて、匠と青樹しか知らない。
 ふっと顔を上げ、紺色に染まった空を見遣る。星は町の光に追い遣られて、ただただ微かに煌くばかり。家から漂うのは夕食の良い匂い、塀の向こうを走って行く車の音。和輝は再び箱に目を戻し、元通りに片付け始めた。思い出を振り返り、浸るのは今ではないのだ。


(やるって、決めたんだ。振り返る必要なんてない)


 自分が間違っているなんて思わない、思いたくない。自分の意思で選んだこの道は、きっと明るい明日へ繋がっていると信じていたい。例え誰が傷付いても、何を失っても、最後には全部背負って笑える筈だと、生半可な覚悟で選んだ訳じゃないんだから。
 ダンボール箱を元に戻した時、ポケットの中の携帯が鳴った。初期設定のまま変えられていない電子音は静かだった庭に響いた。
 取り出してみると、着信だった。相手は、高槻。


『――よう』


 ぶっきら棒な物言いは、不機嫌さを感じさせる。いつもより低い声も、同じだ。


『明日の事について、連絡網だ。……生憎、桜橋が多忙でな』


 なるほど、と和輝は思った。
 晴海高校野球部の連絡網は、最も上に高槻がいる。三人の最上級生が打ち合わせをし、桜橋が連絡を回すなどの事務作業を行う。今回は桜橋が多忙な為、高槻が直々に連絡を回しているのだろう。このような地味な作業は、彼の性に合わない。


「明日、ですか」
『ああ、解ってるだろ。開会式だ』


 全国高等学校野球選手権。俗に言う、夏の甲子園だ。
 その予選である神奈川県大会の開会式は、明日。高槻達三年生は、最後の夏になる。


『日時、場所は先日連絡した通りだ。猛暑が予想される。各自、十分に注意しろ』


 本当に確認だけだと、和輝は苦笑した。高槻はその全てを簡潔に、一方的に話し、一呼吸置いた。
 その奇妙な間に和輝は違和感を感じ、黙っていた。


『明日、最後の夏が始まる』
「……そうですね」
『お前らには、最初の夏か』
「はい」


 感傷に浸るなんて、高槻らしくない。そう思ったが、和輝は黙っていた。


『なあ、天国ってあると思うか?』
「え?」
『いいから、答えろよ』


 突拍子も無い質問だった。和輝は小さな声で唸りながら、考える。


「天国は、ありますよ」
『本気か?』
「……行った事なんてありませんから、確証はないです。でも、俺はあってほしい」


 自分を産んで死んだ母は、其処で自分達を見守ってくれている。そんな御伽噺は流行らないと、幼稚だと笑われるかもしれない。けれど、そう信じていたいのだ。


「高槻先輩は、あると思いますか?」
『……俺が、お前と同じ答えを出すと思うか?』


 和輝は苦笑し、電話だということも忘れて首を振った。高槻がそんな事を言う筈がない。


『天国なんざねぇよ。肉体を失った魂は消滅するのを待つだけだ』
「本当に、そう思うんですか?」


 今度は高槻が苦笑した。


『天国なんてのは、生きてる人間が勝手に作り出した妄想の産物だよ。でも、肉体を失った魂が行ける場所がもしあるなら……いいな』
「でも、それは天国じゃないんですね」
『ああ。きっとさ、天国ってのはこの世の事なんだよ。腹一杯飯食って、鼾掻いて寝て、馬鹿な夢見て、泥まみれで走り回ってさ』
「ここが天国……」
『昔さ、どっかの坊主が言ってただろ。念仏唱えりゃ、極楽浄土に行けるって。ありゃあ、とんでもない嘘だな。信者はまんまと騙されて、飯も食えない、眠れない、夢見る事も、走り回る事も出来ない世界に行っちまったんだ。気の毒だよな』


 くす、と和輝は笑った。


「でも、きっと、本当に苦しかったんですよ。死後の世界に憧れちゃうくらいに」
『そりゃ、苦しいだろ。念仏ばかり唱えてたんだから』


 高槻は何かを考えるように一呼吸置き、言った。


『この世はさ、冷静な天国なんだよ。勿論、神様なんていない』
「俺は、神様はいると思いますよ。ただ、何もしてくれないだけで」
『何もしないで何が神だ』
「困った時にすぐ助けてくれたら、皆堕落しちゃうでしょ。だから、何もしないんです。でも、一人ひとりをちゃんと見てる。良い事も、悪い事も」
『天国はやっぱり、冷たいな』


 電話に出た当初より、大分穏やかで明るくなった口調で、高槻は言った。和輝は小さく笑う。
 そのまま自分勝手に電話は切れた。無機質な文字がディスプレイに表示され、和輝はその指示に従って電源ボタンを押した。いつもの待ち受け画面に戻った携帯電話を閉じ、和輝は一人、呟いた。


「きっと、見てますよ。……弟さんも」


 その言葉が届かないと解っていても、言いたかった。冷静な現実主義者で、唯物主義の彼が決してそう言わないと解っていたから、代わりに言いたかったのだ。彼の代わりに祈りたかった、信じたかった。
 つくづく損な性格だと、そう思ったのはお互い様だ。和輝は苦笑して携帯電話をポケットに突っ込んだ。

2009.11.18