初めての夏選抜の開会式は、汗の滲むような眩しい日差しの下だと、ずっと思っていた。
 和輝は空を仰ぎ、自然と零れ落ちる溜息と共に肩を落とした。今にも降り出しそうな曇天の下は、昨日までの暑さが嘘のように肌寒かった。連絡網で回された暑さ対策は無駄になり、出来れば上着の一枚でも欲しくなるような気候の変化に、和輝は傘を持って来ればよかったと心の中で呟いた。
 連絡網を回した張本人である晴海高校野球部キャプテンは、その不機嫌を隠そうともせず、眉間に皺を寄せてぶすっとしている。
 今日の天候は、どの天気予報も当てる事は出来なかった。誰がキャプテンであっても、今日は灼熱の太陽を予想した筈だ。なのに、肌寒そうに首を窄める部員の姿を見る度に、彼のプライドには傷が付くのだろう。高槻に非はない。ただ、運が悪かっただけなのだ。
 こんな天候で最後の夏を始める三年生に半ば同情しながら、和輝は会場を眺めた。地区予選の開会式に訪れるのは応援か、高校野球ファンか、マスコミだろう。カメラを首から提げる男が親しげに手を上げて合図し、大股で近付いて来る。それが自分へむけられていると気付くのに、和輝は時間が掛かった。


「よう、蜂谷和輝君」


 誰だっただろう、と和輝が目を瞬かせる。その答えを出す前に、二人の間に小さな少年が割って入った。我等がキャプテンは、いつもの仏頂面に不機嫌さを滲ませ、より一層険しい顔をしている。


「何の用ですか」


 それは問い掛けと言うよりも、近付くなという拒絶の色を強く示している。
 和輝は苦笑する男を見て、思い出した。新聞記者の碓氷研吾だ。彼のお陰で和輝が蜂谷祐輝の弟であることが広く知れ渡った。そのせいで、全く知らない他校の生徒には宣戦布告されるし、兄には拳骨を落とされるし、堪ったもんじゃない。
 碓氷は高槻の後ろにいる和輝に、首を伸ばして笑い掛けた。手には黒い手帳とボールペンが握られている。


「取材させてくれよ。地区大会を前に一言」
「和輝、行くぞ」


 高槻は碓氷を無視し、和輝の首根っこを掴むと、その体の何処にそんな力があるのかずるずると力強く引き摺って歩き出した。
 碓氷は困ったように笑い、大きな声で言った。


「蜂谷和輝君! またな!」


 周囲が少し、ざわめいた。高槻は憎々しそうに舌打ちし、歩調を速める。周りから向けられる好奇の目が煩わしいのだろう。和輝もまた、苦笑するしかなかった。
 別に、自分が蜂谷祐輝の弟である事を和輝は隠していない。弟である事を嫌だと思った事もない。ただ、そう思われる事が嫌だった。
 同情される必要なんてないのだ。なのに、可哀想と労わられることや、珍しいものを見たように囃し立てられるのが嫌だった。
 高槻の行動は、和輝の為にした事ではない。少なくとも、高槻自身はそう思っている。和輝がそうして囃し立てられる事で、これからの予選を勝ち進む為に支障を来たしたくないからだと思っている。それだけではない事も、本当は気付いていたかもしれないが。


「キャプテーン」


 引き摺られながら、和輝は力無く呼んだ。


「襟が、伸びます」


 そう言った瞬間、高槻は歩を止めて和輝を殴り捨てた。
 和輝に罪はない。あの新聞記者も仕事を全うしている。なのに、どうしてこんなに苛立つのだろう。高槻は行き場の無い怒りをぶつけるように、和輝を睨んだ。
 何かを言おうとして、高槻は口を噤んだ。言うべき言葉などありはしないと、高槻は理解している。その利口さが彼の最大の不幸だと、気付いている者は多い。
 そうして沈黙が流れ出した時、見計らったように桜橋が二人を呼んだ。開会式が始まる。
 和輝が膝を払って歩き出す。行進を始めた他校の選手の間を縫って二人は急いだ。「いっちにー」と喧しい中で漸く高槻が、聞き取り難い小さな声で和輝に訊いた。


「お前、雨男か?」


 漸く出た言葉はそんなものだった。和輝は、高槻が背中を向けているという事も忘れて首を振った。


「いいえ、晴れ男です」


 前方に晴海高校の仲間が見えた。高槻は小さな声で「そうか」と言った。そして、続け様に


「俺は、雨男だ」


 と言った。
 遅れて列に加わった二人を萩原が非難する。聞く耳持たない高槻は黙って足踏みを始めた。それにれに習って皆が足踏みと掛け声を始め、渋々萩原が折れた。
 会場に響くアナウンスが、晴海高校を呼んだ。高槻が、小さいが何故か最後尾まで聞こえる声で「行くぞ」と言った。進み始めた前の人を追い、和輝は暗い通路から出た。
 曇天の仄かな光を浴び、和輝はグラウンドを踏む。そして、鼻先にポツリと水滴が落ちた。


「やっぱり、降り出したか」


 苦々しそうに呟く、高槻の声が聞こえた気がした。


冷静な天国・2

冗談だと笑ってやった、笑ってやりたかった。


 開会式が終われば、すぐに戻る事の出来ない最後の夏が始まる。初戦の筈だった飯田高校は試合直前に棄権した為、抽選会で和輝が引き当ててしまった私立三鷹学園が初戦となる。神奈川の王者だ。
 逃れられない現実を前に、晴海ナインは何処か元気が無い。そう、まるでこの曇天のように。
 開会式から天候は崩れ、雨こそ降らないものの厚い雲に覆われ続けていた。気温も季節を忘れたような肌寒さが続き、夏前だと言うのに春先の服を押入れから引っ張り出さなければならなかった。
 第一試合である晴海高校と三鷹学園は早朝に球場へ到着した。王者の第一試合なだけあり、観客席は三鷹学園の応援と他校の偵察、そして、マスコミが大いに賑わっている。対する晴海高校と言えば、強豪サッカー部の応援に焙れた生徒の気の無い応援と、三鷹学園側の席に入り切らなかった応援が入り混じっている。どちらが勝っているかなど、言うまでもない。
 空は今にも降りそうだし、応援は盛り上がらない。相手は神奈川の王者で、此方は部員数ギリギリ。
 箕輪は試合の準備をのろのろとしながら、溜息を零した。その重い溜息に感化され、何人もの部員が表情を曇らせる。ただ、高槻と萩原は何事も無かったように綿密な作戦を再確認し、和輝と夏川は早々に仕度を終え、三鷹学園のチアガールの目立つ衣装に真剣な面持ちで話し合っていた。


「……やっぱり、一番下の子が可愛いよ」
「バカ、あんなもん近付いたらシンクロの選手みてぇな化粧だろうよ」
「そういう子程、すっぴんは素朴で可愛いんだよ。大体、お前がさっき言ってた子なんか見ろよ、あの太い足」
「ガリガリの女なんか気持ち悪ィだろ。適度に肉があった方がいいんだ」
「それにしても、あれは太過ぎる。たぷたぷしてんじゃん」


 真剣な顔で、なんと低レベルな話だろう。
 箕輪は黙って二人の後ろに立ち、その背中を蹴っ飛ばした。


「いってぇ!」
「何しやがる!」


 盛大に転げた二人に、皆が目を向ける。箕輪は腕を組んで怒鳴った。


「何馬鹿な話してんだ! これから試合だってのに、緊張感足りなさ過ぎるぞ!」
「ああ!?」


 夏川が立ち上がり、箕輪の襟首を掴み掛かる。


「目の前の敵見て、諦めたみてぇに暗い面晒してるお前よりマシだろ!」
「何だと!」


 俄かに騒然となり、和輝が慌てる様子もなく二人の間に入った。その顔は困ったように笑っている。


「いいじゃねぇか、どっちだって」


 二人を引き離し、和輝は笑った。


「泣いても笑っても試合は始まるんだ。楽しくやろうぜ」


 和輝は、作戦会議を中断して騒ぐ一年を見ていた高槻と萩原に目を向けた。


「ねぇ、キャプテン?」


 高槻は苦笑した。


「ああ、そうだ」


 高槻は持っていたバインダーをマネージャーである亜矢に押し付けるようにして預け、歩み寄った。


「皆、緊張してると思う。負けると思ってるやつもいるだろう。何で初戦が三鷹学園なんだって恨んだやつもいるだろう」


 何人かが、目を背けた。だが、高槻は気にもせず続けた。


「俺も最初はそう思った。初戦が王者だと、ふざけんなよ、どんだけ籤運悪ィんだって、籤引いたやつに腹が立ったよ。でもな、籤引いたやつは、狙って引きやがったのさ」


 萩原がくく、と喉を鳴らす。高槻は無表情で立つ和輝を一瞥し、すぐ皆の方へ目を戻した。


「勝てると確信して、三鷹学園を引いた。……それもまた、ムカつくけどな。そんな事されたら、勝つしかねぇだろ」


 口角を上げて笑う高槻は悪戯を思い付いた悪童のようだった。いつもは恐怖すら覚えるその笑顔は、今は何故か頼りがいを感じる。


「お前の考えは今も変わってねぇだろ、なあ、和輝?」
「勿論です」
「……だ、そうだ。糞生意気なこの一年坊主の尻拭い、やってやろうぜ」


 そう高槻が言った時、既に緊張や恐怖で凍り付いた目をする者は一人もいなかった。高槻は帽子を深く被り直し、グラウンドへの入り口に立った。
 皆がそれに習って、帽子を被り直す。アナウンスが、晴海高校の練習を告げる。そして、一際大きな高槻の声が響いた。


「――さ、行くぞ!」
「おおっ!」



 グラウンドに散った晴海ナイン。その様子を遠い目で、三鷹学園の主砲、速水鶺鴒が見詰めていた。


「何、見てんだよ」


 揃った声で、榎本春樹・夏樹が言った。速水は振り返り、苦笑する。


「いや」
「知ってるぜ、昔の仲間だから遠慮してんだろ」
「高槻君の事、大好きだな」
「違ぇよ、このバカ共!」


 好き勝手に囃し立てる双子に速水は溜息を零す。
 遠慮なんてない。ただ、感傷に浸ってしまっただけだ。彼のプレーする姿を間近で見るのは、中学以来だな、と。
 左のサイドスローは相変わらず、切れがある。速水は目を閉じ、その球を打ち砕くシュミレーションを鮮明に行った。そして、目を開ける。甲子園で見た灼熱の太陽は無いけれど。


「ああ、嫌な天気だな」


 憂鬱そうに春樹が言った。こんなぱっとしない天候で初戦を迎えるのは初めてだ。


「波乱の予感かな?」


 夏樹が困ったように笑う。


「そんなもん、ある訳ねぇよ! いつも通りの初戦さ」
「そうだな」


 速水が答えた時、アナウンスが晴海高校の練習の終わりを告げた。三鷹ナインはそれぞれ準備を済ませ、キャプテンである速水の声を待っている。


「準備はいいな?」


 空は曇天。微風は湿気を帯びている。今にも降り出しそうな天候は、この試合模様を予感させる。
 真っ直ぐ前を見詰める速水と、自分の片割れである春樹を横目に夏樹は笑った。二人の視線の先は異なる。
 嘗てのチームメイトを見詰める速水、嘗ての敵を睨み付ける春樹。どちらも挑戦的な笑みを知らず浮かべている事に、夏樹は少しだけ笑う。
 去年と一昨年の甲子園で、三鷹学園は全て翔央大付属高校に負けている。そう、和輝の兄である蜂谷祐輝だ。その整った顔立ちは流石兄弟としか言いようがない。


(俺達が、勝つんだ)


 二年間の苦汁を、返す日を待っていた。まずはその弟。
 夏樹もまた、兄と同じように和輝を睨み付けた。その口元は微かに笑っている。隣で速水が息を吸い込んだ。


「行くぞ!」
「おおっ!」


 グラウンドへ飛び出した瞬間、ベンチで聞いていた応援がより鮮明になった。喉を振るわせる声援は今にも張り裂けそうで、嬉しい反面、何だか申し訳無いように感じた。
 そう、これは初戦。この先続いて行く試合の始まりに過ぎないのだ。


(今からそんなに叫んで、どうすんだよ)


 皮肉っぽく胸の内に吐き捨てた筈の言葉を、双子の兄は拾い上げて笑った。


「ありがたいじゃねぇか」


 人を小馬鹿にしたようないつもの態度とは違う姿に、夏樹は苦笑せざるを得なかった。双子の兄に隠し事は出来ないな、と笑う。
 グラウンドに散ったレギュラーを応援する、三年間共に汗を流して来た仲間達。何十人もの期待を、責任として背負ってグラウンドに立つ。この重みが、あいつ等に解るものか。どんな些細なプレーにも妥協を許さないこのプレッシャーが、あいつ等に解るものか。
 解ってなど、欲しくない。



「――はっ!」


 グラウンドを一瞥し、高槻は馬鹿にするように笑った。
 隣で桜橋が「その笑い方、何とかならないのか」と言ったが無視した。グラウンドで練習する三鷹学園のレギュラーに降り注ぐ声援と言う名のプレッシャー。その重みが解るかと、三鷹学園の皆が言っているようだ。だが、高槻にとっては馬鹿らしいとしか思えない。
 それは、お前らが望んだものだろう。当たり前の事を当たり前にやって、何を偉そうにしているんだろうか。
 そのプレッシャーを生涯、背負わなければならない人間を知っている。その人間達は決して、そんな自分が不幸だとは感じていない。重いという事にすら気付かない。それが、選ばれるという事だ。
 ベンチの奥で和輝がまた、夏川とチアガール談義をしている。いつもの調子を取り戻した箕輪も加わって白熱しているようだ。


「初戦だな」
「ああ、初戦だ」


 隣で萩原が笑った。高槻も笑い、グラウンドに目を戻す。
 嫌な天気かもしれない。だが、曇天は嫌いじゃない。アナウンスが湿った空気に響く。三鷹学園の練習の終わりだ。そして、両校の整列を促す。
 両校一列に並び、互いに向き合った。


「これより、一回戦。三鷹学園と晴海高校の試合を始めます。両校、礼!」


 高槻が笑った。萩原が笑った。和輝が笑った。そして、速水も笑った。春樹が笑った。夏樹が穏やかに笑みを浮かべる。


「お願いしますっ!」


 初戦が、始まった。

2009.12.12