グラウンドは湿気を帯びていた。
それは今にも降り出しそうな雨を予想させる空気と同じで、和輝は土を踏み締めながらバッターボックスに向かう。トップバッターは晴海高校、一番、サード蜂谷和輝。
空気を揺るがす振動は三鷹学園サイドだ。攻撃だというのに、晴海高校の応援はどうしたのかと観客席を見上げれば、三鷹学園の応援に侵食されつつある晴海の応援団がいた。
(なんだかなぁ)
いまいち上がらない気持ちで、和輝はバッターボックス手前で挨拶をした。大きな声で「お願いします」と言ったつもりだったが、その声は三鷹学園のトランペットに掻き消されたようだ。
出鼻を挫かれた気分でバットを握ると、キャッチャーマスクを被った少年がそっと声を掛けた。
「や、弟クン」
和輝は目を細める。ただでさえ暗い曇天、マスクの下など見難い。
確か、キャッチャーは三年生。
「えっと、榎本……」
「春樹だよ、弟クン」
そういえば、バッテリーは双子だったなと思い出す。県内bPの実力派バッテリー、榎本兄弟。
和輝は怪訝そうな顔をしている。試合中にお喋りなどしていたら、審判から注意を受けるだろう。それに、キャプテンからの鉄拳制裁が恐ろしい。黙っている和輝を見て、春樹は小さな声で言った。
「宜しく、ね」
その一言に含まれた深い意味など、和輝は知らない。勿論、知る気もないけれど。
はい、と小さな声で返事をしてマウンドに目を向けた。十八・四四メートル先に榎本夏樹。身長差は二十センチ以上だが、そんな数字、和輝には慣れっこだ。自分より小さい選手を探す方が難しい。
審判がプレイボールと叫ぶ。和輝はゆっくりとバットを構え、夏樹のボールに身構えた。
平均球速153kmという速球派の投手だ。強烈なバックスピンを掛けた直球は空気を滑る時、奇妙な音を鳴らす。恐ろしいのはそのスピードだけではない。和輝にとって問題なのは、そちらの方だった。
身長152cmという超小柄な体格では、物理的にホームランは打てない。それはつまり、非力だということだ。相手もそれは重々承知だろう。夏樹の直球は、速い以上に重い。その球を飛ばすのは容易な事ではないのだ。
ワインドアップ。和輝は無意識に奥歯を噛み締めた。
恐ろしい威圧感だと思った。神奈川の王者と呼ばれるだけの事はある。そこからのステップ、そして、撓る腕から白球は白い閃光として発射された。
奇妙な音が鼓膜を揺らした。和輝のバットは空気を切り裂いた。
「ストラーイク!」
観客席が揺れた。
和輝は足場を均しながら「まだ初回の、一球目じゃないか」と喧しい応援に悪態吐いた。
しかし、中々いい投手だ。和輝は自然と湧き上がる喜びを殺し切れず、笑みとして零してしまった。その笑顔は楽しそうだ。
中々いい投手などと、評価する人間は殆どいない。榎本夏樹は正真正銘のいい投手なのだ。高校ドラフトでは上位指名を得られるだろう。その実力を目の当たりにして、笑った一年など夏樹は始めて見た。
だからこそ、叩き潰してやりたい。だからこそ、踏み消してやりたい。
胸の中に湧き上がる凶暴な感情を理性で押さえ付け、夏樹は笑った。その笑みには、子ども特有の残酷さが滲み出ている。
春樹からの返球を受け取る。そして、素早く夏樹は構えた。和輝も素早く構え、その一球を待った。
空気を滑る音が耳障りだ。こんな音はさっさと消し去ってしまいたい。和輝の構えたバットは鋭く振り抜かれ、夏樹の放った白球を殆ど真芯で捕らえていた。
しかし、グラウンドに響いたのは濁った音だった。白球がふわりと頭上に上がる。後ろで春樹がゆっくりと立ち上がるのが解った。
白球は静かに落下し、春樹のキャッチャーミットに納まった。
「アウトー!」
審判の宣告を耳に、和輝はバットを下ろした。そして、それを握っていた自分の掌を眺め、一つ溜息を零す。すぐさまバッターボックスを出て行った和輝の後姿を、暫くの間、春樹は見詰めていた。
ベンチに戻ると、皆が揃って声を掛けた。曇天で暗いベンチは明るく感じられた。その奥で、闇に二つの目玉がギョロリと光っている。
「よぉ、報告しろ」
ベンチに座ったまま、腕を組んでいかにも偉そうに高槻が言った。和輝はバットとメットを戻し、ゆっくりと歩み寄って行く。
「一球目は内角低めのストレート。二球目は外角低めのストレート。殆ど芯で捉えましたが、力負けして飛ばせませんでした」
淡々と説明する和輝は何処か苛立っている。高槻は可笑しそうに口角を吊り上げた。
「力負け、ね」
その言葉を言うのがどんなに屈辱か、高槻には痛い程解る。体格的には和輝と殆ど変わらない高槻だからこそ、中学時代からのコンプレックスは相応の重さがあった。
高槻の目は、一塁を守る速水を見ている。実力至上主義の強豪中学で三年間を過ごした高槻は、かつてのチームメイトである彼の実力を嫌と言うほど知っている。あの体格故の強打に苦汁を舐めさせられ続けた三年間。勿論、彼はその体格だけではなく強い精神力と素晴らしい判断力を持っていたが、その頃から高槻にとっては彼の身長ばかりが羨ましかったのだ。
あの身長が欲しい。力強い腕が、逞しい脚が、強い力が欲しい。どれ程願ったか解らない。解らないけれど、叶わぬ願いならば願うのは無駄な事だ。
(それでも、俺は、願っていた)
それは和輝も同様だろう。だから、悔しいのだ。今の打席、和輝は殆ど真芯でボールを捕らえていた。それを跳ね返せるだけの力があれば、間違いなく白球は観客席に消えていた筈なのだ。力が無いが故に、空に浮かんで落ちた白球を見て、彼が何を思ったかなんてすぐに解る。
「……でも、次は飛ばします」
高槻は、はっとして和輝を見た。その目は既にピッチャーの春樹を睨むように見ている。グラウンドでは桜橋がピッチャーゴロでアウトになったところだ。
何の確証がある訳でもない。その言葉はただの意地だろう。けれど、きっと高槻もその意地だけでここまで来た。
「当たり前だ。次もフライだったら、許さねぇからな」
「はい!」
元気よく返事をした和輝が応援の中に混じって行く。高槻はふっと息を吐いた。
高槻は、極力登板以外で投げる事を控えていた。それは、この試合で自分が捕まれば負けると解っているからだ。変化球が命の非力なピッチャーだからこそ、ここで読まれる訳にはいかない。晴海高校のピッチャーはあと一人、一年の夏川だ。しかし、彼も調整して来ているとはいえブランクを抱えている。まだ試合には早い。
(まだ、始まったばっかりだ)
自分に言い聞かせるように心の中で呟き、高槻は目を伏せた。組んだ手は強く握り締められている。グラウンドからアウトと審判の声がした。チェンジだ。高槻はゆっくりと立ち上がり、薄明かりのグラウンドへと歩き出した。
冷静な天国・3
お前を待っていた
(気持ち悪い)
三塁に向かいながら、和輝は思った。胃の中に何か有害な物質が溶け出しているかのような不快さに眉を寄せ、誰にも気付かれまいと深呼吸する。傍にいた箕輪が「緊張してんのか」と暢気な声で言った。
緊張ではないと思う。確かに高校初の公式戦で、相手は王者三鷹学園だ。けれど、この状況を望んだのは和輝自身なのだから、緊張して不調なんて笑い話にもならない。
けれど、この不快さは一体何なのだろう。
何気なくふと見た三鷹ベンチで、夏樹が此方を見て笑った気がした。その笑みの意味など解らないけれど、彼ら双子が何かと自分を『弟』と呼ぶ事を思い出して溜息を零した。
もう慣れている。世間が自分をどんな風に見るのか、判断するのか。もう気にならないくらいに慣れている。
「しまってこーッ!」
キャッチャーである萩原の声がグラウンドに響く。喧しい応援の中でよく通る力強い声だ。それが耳に届いてなんだか少し楽になった気がする。和輝は晴海ナインと共に精一杯の大声で応えた。
一番打者がバッターボックスへ入る。テレビで見たことある選手だな、なんて遠いところで和輝は思った。何せ、現実感がないのだ。何度も何度も見て来たこの甲子園予選に自分が参加している。これはあの灼熱の太陽の下で繰り広げられる夏の舞台へ繋がる道だと思うと、これが本当に現実なのかと思ってしまう。
一方で高槻は無表情を崩さず、黙って頷く。トップバッターは自分を見て打てると思ったのか、力が入り過ぎているようだ。萩原のサインは、内角低めから逃げて行く変化球。アッパースイングに近いこのバッターにとって内角低めは好きなコースだ。だから、そこから逃げて行く球を投げるのだ。
高槻がサインに従って投球した瞬間、バッターが俄かに笑った。しかし、その笑みがすぐに引き攣ることなど解り切っていた。グラウンドに濁った音が響く。打球はのろのろと三塁線へ転がる。俊足のトップバッターならセーフになるかもしれないと、かつての高槻なら思っただろう。けれど、その身に合わない強い肩を持った三塁手が当たり前のように拾い上げ、軽々とアウトを取るのは解っていた。
「アウト!」
その宣告を聞き、落胆した一番打者は一塁を走り抜け戻っていく。彼もきっとセーフになると思っていただろう。ベンチに戻って報告し、きっと、三塁への警戒が敷かれる。そうすればもっと球の組み立てが楽になるだけだ。
高槻は、つい浮かび上がる不敵な笑みを目を閉じてやり過ごす。ここで笑うのは得策ではないからだ。だが、同時にどこかから強い視線を感じて背中に冷たいものが走った。このグラウンドの中心近くにいる自分に視線が向けられるのは不思議ではないのだけど、嫌な緊張感が纏わり付くのだ。
それが何処からなのか、高槻には解らない。次のバッターが立った。
三鷹ベンチでは、キャプテンである速水がじっと高槻を見詰めていた。嘗てのチームメイトの身長は相変わらず伸びなかったようだけど、その実力は中学時代より、去年よりも確実に上がっている。あの見た目に騙されてはいけない。切れのある変化球は、いかに三鷹のレギュラーと言えど簡単に捕らえられるものではないのだ。
「……相変わらず、お前は高槻君のことばっかり見てるな」
何時の間に隣に立ったのか、夏樹は言った。夏樹は恐ろしい事に、いつも気配を感じさせない。速水は三年目となる彼との付き合いにもう慣れてしまったが、多くの人間はそれに恐怖すら覚えるのだろう。
「確かに、高槻君はいい投手だけどね」
「……お前こそ、やけにあの弟君に構うじゃねぇか」
ぼそりと言い捨てた速水を見て、夏樹は瞠目し、笑った。
「当たり前だろ。だって、あの蜂谷祐輝の弟なんだ」
「弟は弟だが、あいつは蜂谷和輝って別の選手だぜ?」
「知ってる。……でも、弟には変わりない」
埒が明かない、と速水は溜息を零した。速水だってあの蜂谷祐輝と対峙し、その圧倒的な実力に驚き、手も足も出なかった苦い思い出だってある。けれど、それでも今グラウンドにいるのは別の人間だ。夏樹にはそんなこと、どうだっていいのだろう。
蜂谷祐輝の弟だと知って、腕が鳴ると笑った春樹とは大違いだなと思う。
グラウンドで、三番打者がピッチャーフライに終わった。チェンジだ。夏樹は早々とプロテクターを着け、グラウンドへ走っていく。速水は、その後姿を遠く眺めていた。あの冷たい印象さえ与える穏やかな夏樹が一度だけ、感情的に叫んだ事を思い出した。彼が感情をそのまま表に出したのは、この三年間でたったの一度だけだった。
去年の夏、甲子園の三回戦で蜂谷祐輝のいる翔央大付属に負けた日だった。帰りのバスでも穏やかに仲間を慰めていた筈の彼が、宿泊していた旅館の誰もいない廊下で、春樹に縋りつくようにして叫んでいた。
――勝たなきゃ、何の意味もないんだ……ッ!
その叫びの真意を速水は知らない。しかし、その言葉を聞いて、何としても勝ってやろうと、勝ってやりたいと思ったのだ。
勝利への飢え、渇望、執着。何と例えてもその意味には追い付かない気さえする、あの血を吐くような叫びは速水には決して解らない。もしかしたら、彼らの両親の死がその闇を作り出しているのかも知れないが、真意は知れない。
(なあ、夏樹。お前、何を見てる?)
いつもにこにこ笑って、良い事も悪い事もただ通り過ぎて行くのを待ってる。何に執着する事もなく、ただ黙って見てる。
諦めるなよ、追い駆けろ。捨てるなよ、守れ。お前がそうして目を背けてるものは、すごく、すごくすごく大切なものなんだって、どうして解らない。
速水は唇を噛み締め、帽子を深く被った。グラウンドに飛び出すと、白く淀んだ日光が目に入った。
二回表、バッターは四番萩原英秋。ポジションはキャッチャーだ。晴海高校は殆どデータのない学校だ。残っているデータでは、今の彼らを量りきれない。それならば、過去のデータに拘らずにこの試合で量った方がいいだろう。
「お願いします!」
顔は強面だが、しっかりした挨拶と真摯な目が印象的だ。右打・右投。肩は強かった。
夏樹がそんな事を考えていると、前から強烈な視線を感じて顔を上げた。マウンドで春樹が、じっと此方を見ている。
ぐだぐだ余計な事考えてんじゃねぇ。どんなやつだって、俺達に打ち取れない訳ねぇだろ。
春樹が思っているだろう事を察して、夏樹は密かに笑った。
(そうだな、その通りだ)
春樹が振り被る、そして、投球。ボールは一直線にミットへ飛び込んだ。ズドン、と低い音が喧しい応援の中で響き渡る。
「ストライク!」
萩原はミットを見詰め、唇を結んだ。神奈川の王者と呼ばれるだけのことはある、全国レベルの投手。和輝がキャッチャーフライを打った時には何してんだと苛立ったが、なるほど、これは速い。
ミットの音からも相当な重さが解る。確かに、和輝や高槻のような小柄な選手や、藤や雨宮のような痩せっぽちには中々難しい球だ。だからこそ、自分が打たなければならない。
そうして萩原が意気込んでいるのなんて知らないまま、高槻はその様子を遠く眺めている。
「大した投手じゃねぇ」
「……でしょうね」
その呟きを聞いて、和輝は笑ってしまった。高槻にして見ればどんな投手も皆大したことないのだから、彼にとってどんな投手ならそのお眼鏡に敵うのか知りたいものだ。
グラウンドから聞こえた音は、萩原のサードゴロだった。高槻は忌々しそうにそれを眺め、溜息を吐いた。
「ねぇ、キャプテン」
ぼんやりとグラウンドを見ながら、和輝は問い掛けた。
「見ていたくない目に、出会った事はありますか?」
「――は?」
高槻は怪訝そうに眉を寄せ、和輝を見た。和輝はただただグラウンドを眺めている。
「……俺の親父、臨床心理士、所謂カウンセラーやってて、職業柄色んな人に会うんですよね。自殺願望を持つ人や、鬱病の人、殺人衝動を抱える人、本当に色んな人がいるんですって。皆それぞれ抱えているものは違うけど、どれも皆、きちんと向き合って受け止めるんだって言ってました。それってすごいなって思うんです」
「まあ、な」
「だって、自分と違う考えを持っている人間を、俺達は簡単に見下したり虐げたりするでしょう。それなのに、親父は目の前で人を殺したいと願う人間にもきちんと向き合って受け止めるんだ。俺には出来ない。だから、本当に尊敬してます」
グラウンドを見る和輝の目は遠い。
「でもね、親父は今まででたった一度だけ、見ているのが辛くて見られなかった目があるって言っていました」
「どんな目だ?」
和輝は答えた。
「――凍り付いた目」
ふと高槻を見た和輝の目も、氷のように冷たい光を放っていた。高槻は寒気を感じつつ、和輝の話を聞く事にした。
「出会ったのは高校の頃だけど、今でも忘れられないって。あ、その人、今は元気にやってるらしいんですけどね」
和輝は困ったように笑った。
「皆、自分の身は可愛いでしょう? 親父が言うにはね、どんな人も自分が大好きで、自分が可愛いんですって。口じゃ自分の事嫌いとか悪く言うけど、本当に嫌いなら生きてないでしょ。俺達が怖いって感じたり、驚いたり、拒絶したりするのは、全部自分が大切だからなんですって」
一理あるな、と高槻は思う。けれど、全ての人間が本当にそうかなんて解らない。勿論、彼の父親はその枠に収まらない人間がいる事も解っているだろうけども。
「自分を否定して、それでも生きなければならなくて。自分を責めて、全て諦めて、何かに追われるみたいに怯えながら生きて来た人がいたんですって。心の中は常に冷静で、表面繕って生きて来た人。まるで、あの人みたいだ」
「……あの人?」
和輝は笑みを返し、答えなかった。
何時の間にか六番は三振に終わり、チェンジを迎えている。和輝が早々とグラウンドに向かう後姿を見て、高槻は溜息を零した。二回の試合状況がまるで頭に入っていない。
それだけ、和輝の話に意識を奪われていたという事だ。
「凍り付いた目……」
それが誰を指しているのか、高槻には解らない。だが、この試合中には解るだろう。そして、試合が終わった頃には何かが変わる。そんな気がしていた。
三塁へ向かおうとする和輝は、ゆっくりとベンチに戻って行く夏樹と擦れ違った。夏樹の顔はマスクの闇に沈んで見えないけれど、笑っていない事はすぐに解る。
擦れ違う和輝の顔は、あの蜂谷祐輝の面影がある。それと同時に両親の笑顔が脳裏を掠めた。
――約束だ
もう朧気にしか思い出せない父の声。
その声が過ぎり、夏樹は横目に通り過ぎて行く和輝を強く睨み付けた。その時。
「……行くぞ」
春樹が夏樹の肩を叩いた。夏樹は静かに頷き、また、ゆっくりと走り出した。
2010.2.11
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