「匠ッ!」


 降り頻る雨の中、球場を後にした匠が駅に向かおうとするその背中に和輝の声が突き刺さった。振り返った匠の目に映ったのは、真っ白だったユニホームを泥塗れにして叫ぶ和輝の姿だ。脱げ掛かった帽子と擦り傷と泥だらけの顔。世間を賑わす蜂谷祐輝の弟とは思えぬ姿に、匠は心の何処かで安心した。
 世間の目は冷たい。勝手は噂は尾ひれが付いて勝手な妄想に変わり、期待を裏切ったと口汚く彼を罵る。それでも、負けずに前を向いて行けるだけの強さが彼にはある。


「和輝ッ」


 匠は笑った。互いに傘も差さず、濡れそぼったまま。何かに突き動かされるように、拳を向けた。
 暫しの沈黙が流れた。和輝もまた拳を向ける。二人の腕を冷たい雨が濡らした。何も言わない匠に痺れを切らしたように、和輝は叫んだ。


「――ありがとうっ!」


 その感謝の意味を、匠は知っていた。
 試合中に投げ掛けた叱咤の言葉に対する感謝だけではなく、此処にいてくれた親友への感謝だった。
 匠は思う。自分の幼馴染のこの少年はとても強い。けれど、余りに純粋過ぎる。頑なに真っ直ぐであろうとするその心がどんなに悲鳴を上げたとしても、彼はきっと彼のまま変わろうとはしないだろう。けれど、だからこそ、匠は和輝が好きだった。同じチームで野球をしたかった。彼を支えてやりたかった。
 でも――。


「和輝ー」


 球場の出入り口から大きく手を振る二人の少年。泥塗れの雨に濡れたユニホームは、和輝のチームメイトであることを知らしめている。振り返ろうとする和輝に、胸が痛んだ。俺達は道を別ったのだと、思い知らされるようだった。


「今、行くよ!」


 そんな声が雨の中に響いた。仲間に声を掛けた後、和輝はゆっくりと振り返って匠を見た。


「この借りは、必ず返すぜ!」


 大きく手を振って、笑った。この少年が自分に向けて借りだなんて言葉を使ったのは、初めてだった。
 何時だって隣にいた距離感が何時の間にか離れて、今は向き合っている。それを寂しいと思うのは仕方の無いことだ。けれど、それでもいい。


「三倍返しだからな!」


 匠が叫べば、和輝は可笑しそうに一層笑みを深くする。
 真っ直ぐ向けられた目が訴えて来る。俺は此処にいる、と。
 匠もまた、大きく手を振った。歩き出さなければいけない。


(結末を知らない俺達は、立ち止まってる暇なんてない)


 そう、気付いてしまったから。


ダイヤモンド・1

誰もが強くなりたいと願っている
誰もが何処かで諦めている


 怪物と呼ばれる人間が世の中にはいる。性質。行動などの測りがたく、力量の衆に優れた人と辞書は記しているが、実際に見たことがある人は少ないだろう。
 夏川は通学路をぼんやりと歩きながら、一昨日行われた地区予選の一回戦を思い出していた。だんだんと強くなる雨脚の中、見事な逆転劇。また、その中に潜む人間の期待という名の醜い嫉妬や羨望。翻弄されながらも立ち上がった一人の少年が試合の流れを変えた。
 和輝のことを天才だと思うけれど、その一方で否定する自分がいる。彼は今まで見て来た天才と呼ばれる人間とは何かが違う。天才達を金銀財宝とするなら、和輝はまるで泥塗れの石ころだ。けれど、その石ころは磨けば光り輝くダイヤモンドの原石。そんな人間がこの世にいたということ、そして出会えたことが幸運だと思う。そうして思い出す自分の中学時代。
 他人を蹴落とし踏み躙り、期待に押し潰され、嫉妬に引き摺り落とされる日々。それが当然で仕方がないことだと思っていたけれど、そうではないと全身全霊で主張しながら足掻こうとする人間がいる。自分の嘗ての中学時代を思い返し、もしも、彼のような人間がチームにいたのなら何かが変わっただろうか。そんなありもしないことを考えては苦笑する。
 らしくない。全くらしくない。
 一昨日の雨天が嘘のような晴天の下で辿る通学路は実に喉かだ。早朝五時に始まる朝練とは言え、活気に満ち溢れている。校門を目前に律見川のせせらぎを聞きながら、背後に自転車の走る音が聞こえていた。
 大方野球部の誰かだろう。そう思って振り返った夏川の目に、久しく見なかった少年の顔が映った。


「――お前……」


 動揺を隠し切れないまま夏川が呟けば、自転車を走らせていた少年も驚いたようにその場に止まった。
 まだ初夏だというのに真っ黒に日焼けした大柄の少年。すっと通った鼻筋や、鋭く切れ長の目も記憶の中のその少年と相違なかった。


「夏川、か?」


 少年は夏川の名を呼び、白い歯を見せて笑った。嬉しそうとも可笑しそうとも、作り笑いとも取れる意味深な笑みだ。


「よお、久しぶりだな。中学以来か」


 その少年は夏川の中学時代のチームメイトだ。夏川は中学時代を思い噛み締めるように彼の名を呼んだ。


「お前こそ。……葛西」


 彼の名は葛西慎二郎という。中学時代、夏川にとって最大のライバルであった少年は目の上の大きなたんこぶだった。卒業後、二度と会うこともないと思っていたが、世間はやはり狭い。
 葛西は夏川の姿を見て笑う。


「晴海高校だったのか。噂になってるぜ、蜂谷祐輝の弟がいるんだろ?」
「……」


 答える義務はないと思った。けれど、そのとき、アスファルトを蹴る乾いた音が響いた。
 遠くから鞄を引っ掴んで走るその姿は起き抜けで飛び出して来たというのが正しく、と言った調子だが、整ったフォームと顔立ちが一目でその正体を知らせている。
 夏川の姿を見て、酷く焦っていた顔が一瞬にして笑顔に変わる。和輝は大きく手を振った。


「夏川、おはようー!」


 止せばいいのに、と夏川は溜息を零した。和輝を見て葛西が驚いたように目を丸くする。


「急がないと遅刻するぜ!」
「まだ余裕だろ。寝ぼけてんのか」


 呆れたように夏川が言って、携帯で時刻を見せれば和輝がおお、と声を漏らす。


「何だ、良かった。兄ちゃんが叩き起こすから飛び出して来たのに」


 如何してこの少年はこんなにも間が悪いのだろうと、夏川は思う。葛西が無表情に品定めをするように和輝を見ている。その視線に気付いた和輝が、漸く葛西を見た。


「あ、っと。悪ィ、話してたか?」
「いや、いい。終わったところだ」


 そう言って切り上げようとする夏川を、葛西が呼び止める。否、呼び止めたのは和輝だ。


「あんたが蜂谷君?」
「――君は?」


 否定も肯定もしないまま、和輝はきょとんとして葛西を見る。
 葛西は人受けのいい笑顔を浮かべたまま言った。


「俺は星川高校の葛西慎二郎。夏川とは中学のチームメイトなんだ」
「そうなんだ、へぇー」


 大して興味も無いだろう。そう思いながら夏川は二人の間に入ろうともしない。けれど、和輝は思い出したように言った。


「星川高校か……」


 にっと好戦的な笑みを浮かべ、和輝は復唱する。
 星川高校は晴海高校から電車とバスを乗り継いで一時間ほどで到着する長閑な県立高校だ。地元に住む和輝が知らない筈もないだろうと夏川は思うが、その意味は違った。


「負けねぇぜ、俺達は」


 和輝の言葉に対して、葛西がくつりと笑う。


「そっくりそのまま返してやるよ」


 そう言って、葛西は意味深な笑顔を貼り付けたまま走り出す。小さくなっていく葛西に手を振るどころか目も向けない和輝に、夏川は先刻の言葉の意味を問い掛けた。


「負けねぇって、何のことだ?」


 すると、眉を寄せて不機嫌そうに和輝が夏川を睨む。普段とは逆転したその立場に苛立ちながらも、和輝の言葉を待った。和輝は大きな溜息を後、呆れたように言った。


「次の対戦相手、星川高校だぜ?」


 夏川は息を呑んだ。
 初戦の三鷹学園が大き過ぎて、次戦のことをすっかり失念していた。和輝の態度も頷ける。苛立つのは変わらないが。
 呑気に鼻歌交じりに校門を潜る和輝が独り言のように言う。


「どんな相手なんだろうなぁ」


 楽しみで仕方がないとでもいうように、その足取りは軽い。一昨日の試合の疲れなど微塵も感じさせないその姿は流石としか言いようがないだろう。
 夏川の脳裏に浮かぶのは葛西の姿だ。


(星川高校か……)


 思い出される中学時代。確かに彼は優れた選手であったけれど、それ以上に、夏川にとって彼は大きな影響力を持った相手であった。
 部室に到着すると、既に数名が着替えを終えてグラウンド整備に向かうところだった。野球部という上下社会において先輩より後に来た後輩は鉄拳制裁など日常茶飯事だが、晴海高校はキャプテンである高槻が非常に淡泊な性格である為か余りに拘っていない。勿論、先輩に気を使うのは常識だ。
 既に脱げ掛かっていた制服を手品のような早さでユニホームに着替え、和輝はあっという間にグラウンドに飛び出していく。その天真爛漫さは、自分がこれまで見て来た天才と呼ばれる選手達とは余りにも掛け離れている。
 既にグラウンド整備をしていたらしい箕輪が扉越しに夏川を呼ぶ。喧しく、平和な一日の始まりを実感した。
 グラウンド整備が一通り完了したところで集合する面々の前に、無表情の高槻と仏頂面の萩原が登場する。恒例の打ち合わせは形式的なものに過ぎないが、この日ばかりは違った。
 体育会系の挨拶もそこそこに、高槻は普段と変わらない落ち着いた平坦な口調で、淡々と言った。


「三回戦の相手の星川高校についてだが」


 咳払いを一つして、高槻は続けた。


「まあ、所謂弱小高校だな」
「えっ?」


 声を上げたのは夏川だった。周囲が目を向けるので、何だか気恥ずかしくなって夏川は黙った。高槻は何事も無かったかのように言った。


「万年一回戦負け。コールドゲームもざらだ」
「楽勝っすね」


 箕輪がおどけて言うのに対し、高槻は鋭い視線を向ける。


「去年までは、な」


 じろりと見られた箕輪が、肩を竦める。その意味を問おうと口を開こうとする仲間を制すように、高槻は告げた。


「今年、すげぇ新人が入ったんだ」
「すげぇ新人?」


 桜橋が頻りに頷く横で、千葉がその言葉を復唱する。高槻は少しだけ声を張った。


「葛西慎二郎」


 夏川の横で、和輝が視線を送る。今朝の少年だろうと視線が言っているが、夏川は無視した。


「一年だが、四番でファースト。体格がいいからな、こいつの一発は相当でかい。所謂ホームランバッターだ。……まあ、それから余談だが。こいつはプロ野球選手の葛西憲明の息子だそうだ」


 プロ野球選手の息子という言葉には覚えがあった。和輝は黙ったまま、隣には視線も送らずに高槻を見ているが、夏川は気付いているだろう。
 高槻もまた、夏川に気付かないかのような素振りで話し続けている。


「葛西には要注意だ。あと、今回の試合で一つ試したいことがある」


 文章を朗読するかのような静かで緩やかな口調のまま、高槻はゆっくりと夏川を見た。けれど、何か言い難そうに視線を逸らした高槻の代わりに萩原がぶっきらぼうに言った。


「予選を勝ち進む上で、投手が一人というのは多少無理がある」
「無理ではねぇけどな」


 ぽつりと負け惜しみのように高槻が呟くが、萩原は無視した。


「怪我をしないとも限らねぇ。炎天下にぶっ倒れないとも限らねぇ。つまり、投手は一人じゃ足りねぇ。其処で、最低もう一人投手を作りたい」


 それは高槻も快諾しない訳だと、誰もが思った。高槻は元来の卑屈さから自分の投球に対して打たれないとは微塵も思っていないが、それは自信が無い訳ではない。投手としての誇りも自信もある。しかし、萩原の言葉は尤もだ。渋々了承した仏頂面の高槻の隣で、萩原は淡々と続ける。


「時間も無いことだし、手っ取り早く即戦力の投手経験者を起用する」


 即戦力の投手など、一人しかいない。これまで投手として多少なりとも練習して来たのは、夏川だけだった。皆が夏川に視線を集める中で、高槻が不満げに言った。


「いいな、夏川」


 有無も言わせぬ睨んでいるような鋭い視線だった。


「次の星川戦、お前が投げろ」


 誰もが息を呑んだ。けれど、夏川は虚ろな目のまま言った。


「俺が投げていいんすか」
「何だ、自信ねぇのか」
「……俺は、既に攻略された投手です」


 それは夏川の入部を巡って和輝と三球勝負したときのことだ。確かに和輝はブランクがあったとは言え、たったの三球で夏川の剛速球を捉えた。それが未だに夏川の中にしこりとして残っているのだろう。
 高槻は言った。


「打たれることが怖いか」


 にやりと笑みを浮かべた高槻は好戦的だ。夏川は苛立ったように目を細めた。


「怖くなんてありません」
「どうかな。鏡を見せてやりたいぜ。今のお前は……臆病者の目だ」


 安っぽい挑発だとは夏川も思った。けれど、的を得ているその発言に感情が抑え切れない。高槻は言った。


「お前は怖がってんだよ。まあ、お前が投げなきゃチビが投げるだけだ」


 それは当然、高槻のことではない。
 和輝は目を伏せたままだ。高槻は気付いている。和輝は確かに野球が巧いが、それにしてはやはり投球フォームが整い過ぎている。それは単なる野手のフォームではなく、間違いなく投手のそれだ。和輝は投手経験者だ。
 しんと静まり返った中、面倒臭そうに頭を掻きながら高槻は言った。


「さて、練習を始めよう」


 強引な打ち合わせの終了に戸惑いを隠せない面々だが、元気よく返事をするとグラウンドに散っていく。
 皆と同様に練習へ向けて歩き出す高槻の背中に向かって、和輝は呼び掛けた。


「高槻先輩!」


 振り返った高槻は何処か眠たそうに目を細めている。和輝は困ったような、少しだけ泣き出しそうな顔で訴えるように言った。


「俺、投手は……」
「知ってる。別に、お前に投手をやらせようとは思ってねぇよ」


 さも当然のように、既に用意していたかのような即答だ。高槻はまた背を向け歩き出そうとするその瞬間、聞こえるか聞こえないか程度の声で言った。


「出しに使って悪かったな」


 そのまま歩いて行く高槻の背中を見詰めながら、和輝は漸く先刻の話の意味を悟った。

2011.1.29