夏川が投手となり、晴海高校の練習は僅かに変わった。
 投球練習をする高槻と、それを受ける萩原。そして、その隣には新たな投手としての夏川と、それを受ける和輝の姿があった。


「ナイスボールッ」


 威勢のいい音を立ててミットに収まった白球を、和輝は笑顔を浮かべて右手に握った。
 投手を新たに作る上で、当然必要になるのは捕手だった。けれど、現在の部員ギリギリ九名の中に、萩原以外の捕手、若しくは経験者はいない。即席で作るとしても、常人とは一線を引く剛球を放つ夏川の球を受けることのできる者はいなかった。ただ、一人を除いては。


「軸足がぶれてるぞ。もっと踏ん張れ」


 まるで、何でもないことのようにアドバイスを送る和輝の言葉は的を得ている。夏川は黙って頷き、返されたボールを受け取った。隣で、高槻が無表情にそんな二人のやり取りを横目で見ている。
 流石だな、と思う。
 初めて経験するだろう捕手を、捕るだけとは言え難なくこなし、的確なアドバイスをする。其処には何の迷いも間違いもない。
 世間は彼を天才と呼び、身勝手な期待と、醜い嫉妬と羨望を込める。けれど、それも仕方がないと思うのだ。それだけ、彼は凄い男なのだ。


「……休憩だ」


 腕を下し、ぽつりと高槻が言った。それを聞いて、防具を纏った萩原がよく通る低い声でグラウンドに散る面々に休憩を促す。彼方此方から返事が聞こえ、高槻は早々に背を向けてドリンクの元に歩き出す。
 和輝は慣れない手付きで防具を外しながら、ドリンクの元へ向かおうとする。追い越していく先輩達の中で、片足で跳ねながらプロテクターを外す。けれど、中々外れず俄かに苛立った。と、そのとき。


「こうだ」


 そう言って、背後に回った萩原が軽々と外した。地面に落下したプロテクターを見詰め、振り返った和輝は苦笑交じりに礼を言った。
 萩原は、落ちたプロテクターを拾い、小さな声で呟いた。


「お前は、本当にすげぇな」


 まるで意味が解らないというように、和輝が目を瞬かせる。萩原は苦笑しながら言った。


「お前は何でもできるもんな」
「そうですか?」


 驚いたように和輝が目を丸くする。けれど、萩原は続けた。


「どんなポジションもこなし、どんな問題も解決し、どんな壁も乗り越える。お前は本当に」


 萩原が何か続けようとしたところで、和輝が軽く笑った。


「でも俺は、俺以外にはなれませんけどね」


 その言葉の意味を問おうとしたところで、和輝は萩原の拾ったプロテクターを受け取って歩き出した。その後ろ姿は、真っ直ぐに背筋を伸ばして歩いて行く。何の迷いも無く踏み出される力強い一歩一歩から、萩原は後輩の成長を感じた。
 確かに彼はとても強い人間だった。常人ならば挫けてしまうだろう道程を、背筋を伸ばして歩み続けた。けれど、その反面で常に強迫観念を抱え、自分を貶めていた。他者を信じ守ろうとするのに、自分を疑い蔑んだ。それはとても辛くて苦しいことだ。それが今、変わろうとしているのだ。
 萩原は穏やかに微笑んで、ゆっくりと歩き出した。そして、そんな彼等の姿を金網の外から遠く眺めている人影が一つあった。
 カメラを構え、ファスナーの開いた鞄からは乱雑に突っ込まれたメモやら書類やらが顔を出している。浅黒く日に焼けた肌に、皺が寄りながらも洗濯された白いシャツが際立っていた。
 碓氷は、何か吹っ切れたような少年の姿を見付け、得も知れぬ焦燥感に駆られた。
 顔付が違う。空気が違う。其処にあるのは自信と揺るぎない信念。あの三鷹学園との試合を通して、彼は大きく成長したのだ。
 碓氷が和輝に求めたのは、天才の弟というプレッシャーに押し潰される将来有望な選手という、所謂悲劇のヒーローだ。けれど、彼はもう悲劇のヒーローなどではない。立派な一人のヒーローだ。


「……期待外れだったか?」


 突然、背後から掛けられた声に驚き、反射的に振り返る。そこに立っていたのは、晴海高校野球部キャプテン、高槻智也。
 十八歳とは思えない落ち着いた物腰に、感情を感じさせないポーカーフェイス。そして、此方の意図を読み切って裏を掻く頭の良さに、碓氷はこれまで幾度となく、悲劇のヒーローというものの取材に失敗して来た。
 高槻はいつもの無表情を崩さず、淡々とした口調で続けた。


「あいつはもっと強くなる。いつか、本当のヒーローになる」


 はっきりとした口調で、高槻は言った。それは、これまで他人を信じようとしなかった高槻には無かった信頼という確固たる自信の表れだ。
 碓氷は、笑った。


「ヒーローだなんて、君らしくないね」
「ああ。……だが、あいつにはそう信じてみたくなる何かがある」


 それが何かは解らないけれど。
 高槻はそう続けて、少しだけ笑ったようだった。


「あいつを天才の弟と呼ぶならそれでもいい。悲劇のヒーローに仕立て上げたいなら、勝手に書けばいい。でも、あいつは絶対に負けない」


 報われない努力も、孤独の辛さも、傷付け傷付けられる苦しさも全部知っている。これまで幾度となく苦しんだ。世間はそんなものに気付きもしないで、勝手な嫉妬と独り善がりな羨望を向ける。その軋轢すらなかったように笑顔を貼り付けて来た少年だ。和輝は本当に優しいと、高槻は思うのだ。彼は誰よりも優しい。だから、強いのだ。
 黙り込んだ碓氷と高槻が対峙する。だが、そのとき。


「キャプテーン」


 呑気な顔に笑みを浮かべて、駆け寄って来る和輝に碓氷の姿は見えてはいないだろう。高槻もそんなこと気にも留めず、走り寄って来る和輝に目を向ける。


「休憩、終わりますよ」
「ああ、今行く」
「――あ」


 今気付いたように、和輝が碓氷に目を向ける。
 碓氷の脳裏に過るのは、三鷹学園との試合だ。散々挑発し、調子を崩すような暴言にも近い言葉を掛けた碓氷に対して、和輝が好意的である筈もない。そう思っていた。けれど――、和輝は笑ったのだ。


「記事、読みましたよ」
「え?」
「公平な視点で、解り易くて斬新な内容でした」


 敵視しているだろうと思っていた。少なくとも、試合前の彼はそうだった筈なのだ。毒気抜かれたような顔をする碓氷に、和輝は何でもない顔で言った。


「ありがとうございました」


 それは何に対しての礼なのだろう。碓氷には解らなかった。
 けれど、高槻に促されて先にグラウンドへ戻ろうと背を向ける和輝の笑顔に陰りは無い。彼は本当に、碓氷に対して恨みも憎しみも無い。かといって、無関心でもない。
 既に背を向け歩き出していく和輝を追うように、高槻が半身のまま言った。


「終わったことは引き摺らねぇよ。あの試合を通してあいつは強くなった。だから、あの試合に関わった全ての人間に感謝してるのさ」


 解らないだろうな、と高槻が笑った。


ダイヤモンド・3

「俺はもう迷わない」


『投手を発表する』


 夕焼けに響いた監督の声に、自然と背筋が伸びた。寝床へと向かう烏の群れが黒点のように浮かんでは小さくなり、消えてゆく。夏川は、監督の話が重要なものと理解しながらも意識を向けることができなかった。興味が無かったのだ。
 固くなり、監督へじっと視線を向けて動かないチームメイト。恒例のことに零れそうな溜息を呑み込む。監督はもったいぶるように言った。


『――夏川』


 ざわり、と。感嘆とも悲観とも付かぬ溜息が彼方此方で聞こえる。予想の範疇だった筈だ。否、予想通りだった筈だろう。夏川はそう言ってやりたかった。
 中学時代のレギュラー発表は一つの儀式だった。形式として毎試合ごとにレギュラーが発表され、面子もその度入れ替わる。だが、実際のところ殆どの面子は不動だった。夏川が投手というのも、一年の頃から変わりなかった。
 そして。


『ファースト、葛西』


 また、溜息。
 夏川と葛西は同じだった。一年の頃からレギュラーとして名を連ね、仲間からは期待と羨望の眼差しを受ける。けれど、時としてそれは醜い嫉妬に変わる。
 打順が発表され、ミーティングが終了する。ぞろぞろと解散していく中、夏川と葛西だけがぽつんと取り残された。出る杭は打たれるのだ。野球部というと爽やかなイメージがあるかもしれないが、実際は虐めもはぶきも呼び出しもあった。夏川や葛西も、一年の頃には生意気だと呼び出されて殴られたこともあった。それでもレギュラーの座を譲らない自分達を、プロを父に持つが故の依怙贔屓だと無視するチームメイトもいる。
 闘争社会というのはそういうものだ。中学三年にしてそれを悟った夏川は自分が酷く冷たい人間のように思えていた。けれど。


『帰ろうぜ』


 葛西は何一つ、気にしない。弱者の言葉に耳を向けることも、後ろを振り返ることもしない。自分だけを信じて真っ直ぐ歩き続けられる人間だ。夏川とて天才と称賛を受けていたが、葛西はそれと違う。
 この男は怪物だ。夏川は常々そう思っていた。自分は怪物ではない。一人の人間だ。虐げられれば苦しいし、馬鹿にされれば悔しい。否定されれば悲しいし、認めてもらえなければ悲観的になる。けれど、この男は違う。
 肩を並べてロッカールームへと向かう。葛西は思い出したように言った。


『蜂谷祐輝って、知ってるだろ?』


 夏川は顔を上げた。高校野球界の王子様と称される怪物投手だ。素人ですら知っているその名を夏川が知らぬ筈がない。葛西は何処か楽しそうに笑いながら続ける。


『その弟が、俺達とタメらしいんだ。天才とか呼ばれてる。……今度、そいつの試合見に行かねぇか?』


 その時、自分がどのように返事したのかは覚えていない。だが、後日、夏川は葛西と共に蜂谷兄弟が所属していた橘シニアチームの試合を見に行くこととなる。その時のことを、自分は生涯忘れないだろうと思った。




「――なーつかわ」


 厭きれる程明るい声で、まるで歌うような口調で、目の前に立つ少年が呼んでいた。
 休憩終わったぞ、と和輝が笑う。木陰で休んでいた筈が、知らぬ間に記憶が過去に回帰していたらしい。らしくないな、と思いながら空を見上げる。記憶と同じ夕焼け空が広がっていた。


「今行くよ」


 重い腰を上げ、グラウンドに向かう。初夏の厳しい太陽が傾き、涼やかな風が流れている。
 踊るような足取りで練習の場へと戻っていく和輝の後ろ姿は幼い。大人と子どもの境目と呼ばれる高校生ながらも、彼は外面の幼さばかりが際立ち、大人びた内面との差が余りにも大きい。


「葛西慎二郎かぁ」


 その言葉にぎくりとする。まるで、記憶を読んだかのようなタイミングだ。だが、和輝の穏やかな顔は恐らく次戦の星川高校との対峙を思い描いているのだろう。負ければ終わりのトーナメントに、負けるなど微塵も考えていない。否、勝敗など二の次なのだ。


「楽しい試合になりそうだな」


 それが本音だろう、と夏川は思う。
 中学時代、葛西と見に行った橘シニアの試合。白崎匠や青樹大和、赤嶺陸などのスター選手の中で一際目立ったのはネームバリューだけではないだろう。
 どんな窮地でも、決して諦めない。敗北への恐怖ではなく、試合を全力で楽しもうとする。その姿に驚いた。小さな選手がチームの要となって試合を動かしていく。才能に恵まれながら、後ろを振り返りながら、それでも進んでいく。それがこの少年の強さだ。


「明日の試合、不安は無いか?」


 ふと思いついたような口調で、夏川は問い掛けた。相手を試すようなその質問の真意に気付いたかどうかは解らない。だが、和輝は満面の笑みを見せた。


「無いよ」


 はっきりと答え、和輝は丸い目を向ける。


「試合が怖かったこともあった。負けたら如何しようと、思う日もあった。でも、俺はもう迷わない。俺は俺らしくいていいと、言ってくれる仲間がいるから」


 そうして笑い、和輝が駆け足に先を行く。夏川の投球練習を兼ねて捕手の練習を行う和輝は、未だ苦戦するプロテクターの早着に向かったのだ。明日の試合では捕手は萩原だが、もしものことがないとは言えない。
 バッティングの練習が好きだという和輝が内心ではどう思っているのかは解らない。けれど、其処にある楽しくて仕方がないとでもいうような満面の笑みが全ての答えでいいだろう。
 そんな後ろ姿をぼんやりと眺め、苦笑する。と、同時に声が掛けられた。


「ピッチングは順調か?」


 驚いて振り返れば、厳しい練習にも表情一つ変えない高槻がいた。頬を伝う汗を拭きながら、夏川を見遣る。
 驚きを隠せないまま、夏川が曖昧に返事をすると高槻が悟ったように言った。


「試合が不安か」


 それは、数秒前に夏川が和輝に問い掛けたものだ。
 ぎくりとしたのは、どうしてだろうか。夏川は動揺したまま、否定も肯定もしなかった。けれど、高槻はそんな心中を読んだように嗤った。


「当然だ。長いブランク、嘗てのチームメイトとの対戦、比較対象の急成長。全て不安と焦りの要素だ」
「比較対象……?」


 何の事だか解らないと、夏川が復唱すると高槻はいとも簡単に答えた。


「和輝のことだよ。お前は、無意識の内に自分と和輝を比べている。だけどな、今のお前じゃ永遠に和輝には勝てない。今に箕輪にも抜かれるよ。あいつも今、急激に伸びている」
「……」
「如何してあいつ等が強くなれるのか、お前に解るか?」


 夏川は答えられなかった。それは才能や運、友情などという陳腐な言葉ではない。
 黙り込んだ夏川に、高槻はにやりと不敵に笑い掛けた。


「明日の試合で、その答えが解る」


 そう言って、高槻は駆けて行く。その背中を呼び止めることも、答えを示すこともできず立ち尽くしたままだった。そうして足を止めた夏川の肩を、後ろから追って来た箕輪が軽く叩く。
 普段と変わらずおどけたように笑う箕輪は確かに、急激に伸びている。凡人だと、お荷物だと思っていた。それが何時の間にかチームに不可欠な存在となりつつある。
 それは如何して。
 自然と睨んでいたらしく、箕輪が困ったように眉を寄せる。けれど、夏川は大きく溜息を零して再び歩き出した。頭の中には高槻の問いがくるくると回っていた。


(……俺は、負けねぇ)


 そう固く誓う。
 見上げた空には夕闇が迫る。今に空は紺色に染まり、やがて朝が来る。星川高校との試合は目の前だった。

2011.2.12