――如何してあいつ等が強くなれるのか、お前に解るか?


 高槻のその言葉が離れない。
 地区予選、第三回戦は突き抜けるような青空の下に行われた。夏らしい白い雲を眺めながら、眩し過ぎる太陽に目を細める。試合前の練習で、萩原を前に投球練習をする夏川は何処か浮足立っている。
 長いブランク明けの、久方ぶりの公式試合。緊張してまともに投球すら出来ないよりは遥かにマシかと、よく走る直球を受けながら萩原は思った。
 やがて、晴海高校の練習が終わる。晴海高校は後攻だから、そのまま整列に向かう。用具を簡単に片付け、再びグラウンドに向かう部員達の顔は明るい。先日の三鷹学園との激戦の末の勝利が、彼等の大きな自信になっているのだ。加えて、今日の対戦相手である星川学園は万年一回戦負けの弱小高校。
 だけど、それでも、これはトーナメント。一度でも負ければそこで終わりだ。そのことを肝に銘じなければならない。これから戦う星川高校の面々を眺めながら、和輝は思った。


「これより、星川高校と晴海高校の試合を始めます。両校、礼ッ」
「宜しくお願いしますッ」


 互いに帽子を取って礼をする。三鷹学園の声援とは比べものにならない、微かな応援が飛ぶ。
 応援されないというのは淋しい反面で、気が楽だった。無意識に向けられるプレッシャーから開放されたように感じ、和輝は苦笑する。なんだ、俺は、開放されたかったのか。
 後攻である晴海ナインは早々にグラウンドへ散った。湿気を帯びた地面から浮かび上がる陽炎に夏の到来を改めて実感する。夏はいい。


「しまってこー!」


 萩原のよく通る声が、今日もグラウンドに響き渡る。仲間達は皆、良い意味でリラックスしていた。――ただ一人を、除いては。
 マウンド上の夏川の目は真剣そのもので、仲間の掛け声にも反応を示さない。肩に力が入り過ぎているとは思うものの、夏川ならば本調子でなくても十分投げ得るだろう。
 トップバッターが現れる。夏川のスイッチは既に切り替わっているようだった。
 疎らな応援の甲斐無く、一番は三球三振。表情一つ変えない夏川は恐ろしいだろうと、和輝はバッターの内心を思い苦笑する。だが、一方で、和輝には夏川の内心など見えはしない。
 二番バッターも三球三振。圧倒的な才能の差に、バッターの顔色が変わる。一回表だというのに応援席からは既に溜息が溢れ落ちた。
 空を見上げる。真っ青な空に浮かぶ白い雲が実に柔らかそうだ。この蒼穹に白球が浮かぶことは無いだろうと、和輝は呑気に思っていた。そうしている間に三者三振。たったの九球で終わった相手チームの悔しさを思いつつ、審判の促しを受けてベンチに向かって走り出す。
 星川高校のピッチャーは諸星太一というサイドスロー投手だ。短身痩躯から夏川のような剛速球は望めないだろうが、コントロールが良く、変化球も種類が多い。特にその左腕から放たれるスライダーには目を見張るものがある。
 だから、和輝は星川との試合が決定したときから決めていた。諸星の一番を打ち砕くと。
 バッターボックスに蜂谷和輝。天才の弟と呼ばれ、僅かな観客から場違いな黄色い声が飛び交う。眉を顰めたピッチャーの諸星の顔に、不愉快だと書いてあるようだ。分かり易い人だな、と苦笑する。
 一球目はボールだった。警戒してのことだろうが、明らかなボールに溜息が溢れそうだった。
 コントロールが良いというのは、ガセか?
 そんな失礼なことを思いながらバットを構える。それとも、今日は偶々不調なのだろうか。だが、二球目。内角高め、顔の傍を通り抜けた速球に目を見開いた。


「――トーライッ!」


 際どいところだった。ギリギリ、ストライクといったところだろう。
 今のはわざとか、偶然か。油断していたとはいえ、反応できなかった。今のが最終回逆転の最後のチャンスだったとしたら、最低のプレーだ。
 自分を戒めながら諸星を見遣る。表情は変わらず不機嫌そうだ。これが彼のポーカーフェイスなのか、と思案を巡らせながらもバットは静止している。
 和輝の打席を見つめながら、夏川は額の汗を拭った。暑い、暑過ぎる。夏とは、こんなにも暑かっただろうか。
 カウントは1−1だ。まだ解らないが、互いの本当の力量は未だ見せていない。
 そして、次の瞬間。和輝のバットが一閃する。
 振り抜かれた銀色のバットは硬球を弾き返し、鋭いライナーとなって二遊間を駆け抜ける。和輝の足なら十分な長打コースだ。
 一塁を蹴った。外野が白球を捕らえ、振り被る。遅い、遅過ぎる。内心で罵倒しながら夏川は試合を他人事のように眺めている。
 二塁を人影が通り抜けると同時に到着した白球は、すぐさま三塁へ向かう。挟まれた和輝に焦りなどある筈も無い。追い掛ける白球を嘲笑うように和輝が滑り込む。砂塵が舞った。
 審判の宣告など聞く気も無かった。


「セーフ!」


 舌を巻く星川ナインには悪いが、当然だと思う。センター前ヒットが三塁打になるその俊足に、努力が無かったとは思わないけれど、明らかな才能の差に凡人は絶望する筈だ。
 どうして和輝が強くなれるのかって?
 高槻の問いを思い出し、夏川は頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。そんなものは才能に決まっているじゃないか。リアリストの高槻が、まさか努力だなんて言いはしないだろう。
 土に汚れた膝を払うこともせず、和輝はバッターボックスを見詰める。その顔は楽しくて仕方がないとでも言っているようだった。


虹の立つ場所・1

見えるけど辿り着けない場所


 一回の裏、晴海高校には『4』と表示された。
 一回戦に比べ、余りにも容易く入ったこの得点に、晴海高校の多くは、ほくそ笑んだ。楽勝だと高を括った。そして、迎える二回の表。星川高校の攻撃。バッターボックスには四番、葛西慎二郎。
 一年ながらに四番へ立つこの少年への警戒が無い訳がない。ただ、たかが弱小高校の四番だと侮っている者は多かった筈だ。そして、第一球。
 鼓膜を引き裂くような甲高い金属の悲鳴が轟いた。白球は一筋の白い閃光となって夏川の頬を撫で、二遊間を突き抜け、センターのグラブに飛び込んだのだ。


「アウト!」


 ワンナウト、とは誰も喜ばなかった。
 落ちることなく一直線に駆け抜けた打球の異常性、その威力。センターの藤は、グラブ越しに伝わった打球の威力に掌が痺れるのを感じていた。
 初球を叩かれたのだ。萩原は舌打ちしたかった。
 念の為にと警戒して外したボールを、当たり前のように葛西は打った。笑いもしなければ、悔しがりもしなかった葛西は、これがボールだと解って打ったのだ。
 去っていく葛西が夏川を睨む。その意味は、萩原には解らない。


「ワンナウトだぜ!」


 次の打者がバッターボックスに入る直前、思い出したように箕輪が叫んだ。続け様に審判が試合の再開を宣告したので、自分のバットタイミングに箕輪は頬が紅潮するのが解った。声を掛けた相手は振り返らず、黙って萩原のサインに頷く。
 和輝だけが苦笑する。きっと、箕輪の声援なんて夏川の耳には届いていない。彼に見えているのは目の前の打者とキャッチャーミットだけだ。打者は五番、投手でもある諸星だった。
 一般的に、投手をクリンナップに置くことは珍しい。それは投球への負担を減らす為だ。体力を消耗すると解っていながら、投手の諸星を五番に置く理由は何だ。和輝は帽子のツバの下、目を細めた。
 諸星は短身痩躯だ。他人事ではないが、非力と判断されるのは当然だし事実の筈だ。仮にこの選手のバッティングが優れていたとして、怪物と称される葛西の後に据えるのは聊か解せない。得点したいのなら、出塁の可能性のある諸星を三番に置き、葛西が帰すべきだ。
 一球目。当然、萩原も警戒しただろう外角低めのボールだ。諸星は釣られもせず、一瞥しただけだった。
 二球目は変化球だ。外から内に食い込む変化に、諸星のバットが後を追う。だが。


「トーライッ」


 ボールはバットを掻い潜り、ミットの中に飛び込んだ。審判が叫ぶ。
 甘いな、と和輝は口の中で呟いた。自分なら当然初球に釣られることも無いし、この一球を逃しもしない。諸星が、或いは葛西を越える強打者ということも考え得たが、今の一球で納得した。早計とは思ったが、そう判断されるも当然だったのだ。
 フォームが安定していない。あれでは近い内に故障する。今の変化球も予想出来ないものでは無いし、慌ててバットを振る程際どいボールでも無かった。


「バッターアウト!」


 バットを掠めたボールはぼてぼてのゴロとなり、敢え無く一塁に送られた。呆気ない。
 けれど、それでも諸星は一塁に滑り込んだのだ。両膝の砂を払うこともせず、黙って立ち上がってベンチに戻って行く。星川のベンチは葬式のように静まり返っていた。応援も無ければ、諸星への労りもない。
 ただ、葛西だけが迎え入れる。諸星はそのままベンチの奥へ消えた。
 三人目の打者は、明らかなボールに手を出し、サードゴロでアウトとなった。
 二回裏、晴海高校の攻撃は九番の箕輪からだった。相変わらず、ピッチャーの諸星は不機嫌そうにしている。面白くないのは当然だが、それが表情に表れ過ぎるというのも考えものだ。ネクストバッターズサークルで、和輝は片膝を着いたまま苦笑を漏らす。だからと言って、常日頃から仏頂面でいる必要は無いけれど。
 箕輪の打球はサードゴロだった。敢え無くワンナウト。ベンチから野次混じりの声援が飛んだ。
 騒がしい晴海高校とは打って変わって、一人目を仕留めたというのに星川高校から出るのは安堵の溜息ばかりだ。これでは、幾ら諸星が踏ん張っても孤軍奮闘だ。
 打席に立ち、和輝は笑顔を繕ってみる。お願いしますと礼をしつつ、その目は諸星を見詰めていた。相変わらずの仏頂面は崩れない。


(孤軍奮闘か……)


 野球をするには、仲間が必要だ。チームワークを謳われる団体競技ではあるけれど、マウンドに立つのはたった一人。唯一バッターと向かう合うピッチャーの重圧を、知らぬ和輝ではない。だからこそ、和輝は誓った。


(俺は絶対に、ピッチャーを独りになんてしない)


 静かに構えた和輝に表情は無かった。ピッチャーを見据える双眸に硬質な光が宿る。それは何処か冷たく鋭い。
 諸星が振り被る。和輝の口元が僅かに吊り上った。バットが振り抜かれると同時に白い閃光がグラウンドを走った。二遊間を、抜けた。
 常人から見ればそれはまるで野生動物のように、和輝は低姿勢で白線を駆けていく。一塁を蹴った頃、センターが漸く捕球。
 何塁打だ。和輝は思った。


「二つ!」


 諸星が叫ぶ。痛烈なライナーだったが、それにしても守備のもたつきが目に余る。お蔭で諸星の叫びも空しく、和輝は二塁を蹴った。
 三塁は目前だ。和輝は滑り込んだ。


「セーフッ!」


 三塁打!
 晴海高校のベンチが沸き立つ。反して、グラウンドの面々は苦い顔を浮かべて意気消沈し、ピッチャーに言葉を掛けることすらしない。
 これが野球か。これがチームか。
 膝に着いた砂を払いながら、和輝は溜息を零した。どうして誰も声を掛けてやれない。どうして誰も前を向かない。たった一人バッターに向かい合うピッチャーに、どうして手を差し伸べてやれない。
 お前等に出来ないなら――。
 と、怒鳴りたくなる衝動を呑み込みながら和輝は顔を上げる。初夏の黄色い太陽がグラウンドを照り付ける。
 マウンドの少年は振り返らない。振り返る意味が無いことを、知っているのだ。諸星にとってそれはどういうことなのか、和輝は測り兼ねていた。
 思い出されるのは三鷹学園との試合だ。あの時、和輝にとって観客――世界そのものが敵だった。天才の弟と呼び、誰も自分自身を見てはくれない。成功している時は天才と言って僻みながら、努力を黙殺する。失敗した時には鬼の首を取ったように責め立て、存在そのものを否定した。
 辛かった。苦しかった。悲しかった。だけど、それを誰に訴えればいい?
 独りでもいい。――でも、そんなの嘘だ。強い人間だって、思いたかっただけなんだ。そう気付いた時、自分がどうしようもなく弱い人間だと解った。


――裏切り者


 匠や陸が言った言葉が頭を過った。
 俺に仲間なんていない。独りきりだ。だけど、匠が俺の名を呼んでくれたから。
 俺は独りじゃない。強くなんかなくてもいい。そう言ってくれる仲間がいるから、俺は強くなれる。
 諸星にはいるのだろうか。試合中に敵の心配をするのはどうかと思うけれど、和輝は考えずにいられなかった。
 三鷹学園を破った晴海高校を恐れる敵チームは仕方が無いし、好都合だ。だけど、そのネームバリューに圧されて顔すら上げられないというのは如何なものだろうか。味方に声援一つ遅れずに意気消沈してしまうのは果たして。
 けれど、その時。


「バッチコーイ!」


 まるで場違いのような声援が、一塁から上がる。膝に手を突いて次の打者に構える男の表情は、帽子のツバの下見えない。だが、その男が誰なのか解ると同時に、和輝は自然と笑みを浮かべていた。
 葛西慎二郎――。怪物と呼ばれた夏川の嘗てのチームメイト。
 そうでなくちゃ!
 隠し切れない歓喜、興奮が輝くような笑顔に映る。視線はただ一点。本塁に定められていた。

2011.8.21