榎本兄弟の両親が無くなったのは、今からおよそ三年前。高校入学を控えた春休みの事だった。企業で働く彼らの父は、毎日忙しい日々を送っていた。平日は早朝から夜遅くまで働いていたが、会社が休みになると決まって彼ら兄弟を連れ、河川敷でキャッチボールをするなど、子煩悩な良い父親だった。
 母は専業主婦だったが、趣味の水彩画をコンクールに出展して賞をもらう事もあり、その腕前はちょっとしたものだった。
 二つ年下の妹もまた双子であり、名前を秋実と冬実という。年の近い兄の後について育った為、若干男勝りではあるが、可愛い妹達だった。
 双子の兄弟である春樹と夏樹は、その理想的な家族の中で育った。誰もが思い描く理想の家庭は近所からも羨ましがられ、とても可愛がってもらった。
 そんな彼等が難関と言われる野球の強豪校である三鷹学園への入学が決まった初春。入学祝ということで家族旅行へ出掛けた。父の仕事の都合から一泊二日の温泉旅行だったが、家族皆が楽しみにしていた。小さな温泉街の観光名所を調べ、時間を考え、いよいよ待ちに待った旅行へ出発した朝、悲劇は起こった。
 途中立ち寄ったパーキングエリアで、お手洗いへ出た母と妹を待つ車内。乗りのいい音楽をかけながら、父がぽつりと言った。


「……なあ、春樹、夏樹」
「何?」


 二人は揃って顔を上げた。


「高校行ったら、野球頑張れよ」
「ああ、当たり前だろ」


 突然何を言い出すのかと二人が笑った。父は苦笑し、続けた。


「高校って言ったら甲子園だな」
「うん。甲子園、絶対行くよ」


 二人は、昔は父も高校球児だったことを思い出し、言った。地区予選の決勝で惜敗し、ついに甲子園の土を踏む事はなかった青春時代。勝利こそが全てだったと父は言わないけれど、きっと、未だに悔しさは残るのだろう。


「絶対、親父を甲子園に連れて行ってやるよ」


 ぶっきらぼうに春樹が言い捨てれば、夏樹も当然だと笑った。運転席に座っていた父は約束だ、と後部座席の二人に振り返り、拳を向けた。
 古臭い、とは笑わなかった。二人は一瞬顔を見合わせ、拳をぶつけた。
 その時丁度、母が車の助手席のドアを開けた。


「あら、秋実と冬実戻ってないの?」


 困ったように言う母に、二人は顔を見合わせた。


「ちょっと見て来るよ」


 二人は揃って車を降り、二人の妹を探しに出た。初春とはいえ、まだ寒さの残る山道。土産物屋から昇る湯気に誘われたくなりながら、中々戻らない妹の姿を、人で溢れる駐車場から探した。きっと、車の場所が解らなくなったのだろう。
 夏樹がふうと呆れ半分に溜息を零した。すると、春樹が言った。


「なあ、絶対甲子園行こうな」
「……ああ、行ってやろう。連れて行ってやろうな」


 目の前で夢を失った父の気持ちなどまだ二人には解らない。その惜敗が父に齎したものはきっとマイナスばかりではないだろう。しかし、まだ大人になりきれていなかった二人には絶対に父を甲子園に連れて行ってやろうという若いが故の情熱に溢れていた。
 その時だ。


「だーれだ?」


 二人の両目を背後から小さな掌が押さえた。春樹と夏樹は大して驚きもせず、自分の目を押さえている妹の名前をそれぞれ言い当てた。
 当てられた妹達は笑いながら、その手を外した。


「当たり!」


 二人が振り返ると、探していた妹達は笑顔でそこにいた。春樹が盛大に溜息を零す。


「ったく、母さんが困ってたぞ」
「あたし達だって、お母さんのこと待ってたよ。でも、お母さんが先に戻っちゃったんだもん」


 ねえ、と顔を見合わせる妹達。夏樹は苦笑し、戻ろうと歩き出した。
 待っても来ない母を捜しに出た妹達は、丁度運悪く擦れ違ったらしかった。今となってはそれが不運だったのか、幸運だったのかなんて解らない。
 遠くで何かのぶつかる鈍い音がした。両親の待っている車付近に人だかりが出来、サイレンの音が響き渡っていた。嫌な予感がした。
 自然と早足になり、その光景を目撃した二人は咄嗟に、先程妹達が自分達にしたように後ろからその両目を覆った。


「……だーれだ」


 妹達が笑いながら、それぞれ兄の名前を挙げる。


「……当たり」


 それでも、二人はその手を離さなかった。不審に思った妹達が顔を向けようとするが、二人は呆然と、トラックに潰された両親の車と、大きな血溜まりを見詰めていた。


「……だーれだ……」


 呟いたのはどちらだっただろうか。兄の春樹だったのか、弟の夏樹だったのか。それとも、見も知らぬ他人だったのだろうか。もう、解らない。
 だが、これだけは解っただろう。悲劇とは突然やって来るものであること。そして、それは逃れられぬ大きな津波のように全てを呑み込み、壊してしまうものである。
 もう、二度と戻れない。


泥中の蓮・1

それを悲劇と、人は呼ぶ。


「悲劇って何だと思う?」


 和輝は顔を上げた。結び直していたスパイクの紐はそのままに、問い掛けて来た人物を見れば、相変わらずの仏頂面で視線すら此方に寄越さない。
 試合は四回の裏を終え、両者無得点のままもうじき後半戦を迎える。空はすっかり深い鉛色の雲に覆われ、ついにぽつりぽつりと降り出したのはつい先程のことだ。
 問い掛けたのは高槻だと言うのに、真っ直ぐグラウンドだけを見詰めるその横顔からは何の感情も読み取れはしない。和輝は少し考え、答えた。


「魂の内側で、死ぬ事ですか?」
「シュバイツァーの格言だな。引用は無しだ。却下」
「ええー」


 不満そうに口を尖らす和輝に、高槻は答えた。


「悲劇ってのはな、そこらじゅうに転がってるものなのさ。死と同じだ。死というものが目に見えないから、人が希望を抱くのと同じだな。悲劇が自分の身に降り掛かると思っていないから、人に同情するんだ」
「でも、死ぬ事が全て悲劇とは括れないでしょう?」
「死ぬ事は悲劇だよ。殆どの者が死にたくないと願ってるだろ。最も、死にたくて死んだ方が悲劇だけどな」


 何が言いたいのだろう、と和輝が考え込んでいると、高槻が言った。


「人は必ず死ぬ。だが、それが目に見えないから人は希望を抱き、絶望する」
「高槻先輩は最近、死についての話ばかりしていますね」


 困ったように和輝が言った。すると、高槻は苦笑し頷いた。


「そうだな。……俺の周りにはさ、どうしてか死に囚われてる人間が多いのさ」
「それは、高槻先輩も同じでしょ」
「ああ」


 静かな無言が流れた。和輝はそのままスパイクの紐を結び始める。


「悲劇とは、生きているのにその人間の内側で死んでいること……か」


 結び終えた和輝は再び高槻を見た。その格言は、先程和輝が言ったものだ。


「生き生きと生きるってのは難しいよな。勢いのある様を生き生きと定義するなら……、そうだな、千葉や箕輪みたいなのを言うのかな」


 部内一短気な男、千葉が丁度箕輪をしばいているところだった。和輝は苦笑する。


「常に生き生きしてる人間なんていませんよ。皆、何処かで疲れて力抜いてる筈です」


 アナウンスがグラウンドに響き渡る。


『――五回表、晴海高校の攻撃です。バッター九番、箕輪君』


 箕輪がバッターボックスに入ったのを確認し、和輝はネクストバッターズサークルへ向かう。高槻は既に和輝を見てはいなかった。
 和輝がベンチからいなくなれば、高槻の傍にすっと萩原が寄った。


「随分、和輝がお気に入りみたいだな」
「……お気に入り……」
「あいつは、お前の弟じゃないぜ?」


 一瞬、高槻の目が鋭くなった。そのまま手が出る事も予想していた萩原だったが、高槻は静かに笑った。


「知ってるよ。……俺はさ、あいつが心配なのさ」
「心配?」


 高槻は答えなかった。黙ってグラウンドを見詰めている。
 五回表の攻撃は、晴海高校。下位から始まる打線だが、続くのが和輝なだけに期待は高まっている。何か起こるのではないか、いや、きっと何かが起こる。グラウンドを囲む観客の視線はバッターボックスの箕輪ではなく、ネクストにいる和輝に向けられていた。
 箕輪が三振に終われば、一死・走者無の状態で和輝がバッターボックスに立つ。自然と集まる期待の念に和輝は肩を落とす。
 過度な期待はもう慣れているし、もう乗り越えた。自分は自分でいいのだ。
 自分の後ろにいる不穏な目をしたキャッチャーも、関係ない。あからさまな敵意を向けるピッチャーだってどうだっていい。自分には何の関係もないのだから。
 一球目、ストレートだ。
 相変わらずの速さに動きそうになるが、寸でのところで押さえる。ボール。


「蜂谷祐輝の弟だって」


 観客席の何処かから、声がした。それが耳に入ったと同時に自己嫌悪に襲われた。バッターボックスにいるというのに、観客席の声が聞こえるなんて、集中していない証拠だ。
 二球目はストライクだった。タイミングを崩したせいでバットはボールにかすりもしなかった。


「あれが、弟?」


 また、声が振った。まるで曇天から降り始めたにわか雨のように、ぽつりぽつりと零れ落ちる言葉に和輝は溜息を零した。観客席が揺れ動くのは自分への好奇ではなく、純粋な応援の筈だ。
 もう慣れただろう。何度と無く自分に言い聞かせた。全ては覚悟した。嫌な事も悲しい事も、苦しい事も全部背負って行くと決めた。だから、もう迷わない。
 春樹の放った三球目をチップする。バットに掠った打球は主審の後ろへ落下した。


(タイミングは掴めてる)


 スイングの速さに不安はある。けれど、当てる事は出来る。
 四球目の変化球につられそうになるが、堪える。ボールだ。これでカウントは2−1になった。定石なら決め球がくる筈だ。


(打ってやる)


 走者はいない。自分一人で点を取る事は出来ない。自分が出塁し、チャンスを作り出す事で得点に繋げなくてはならない。
 深く、深く息を吐く。そして、静かに春樹を見た。真っ直ぐな、澄んだ目だ。春樹は内心悪態吐く。


(非常に残念だが、良い選手だよ)


 世間に出回った蜂谷祐輝の弟というネームバリューが無くたって、自分はこの少年を軽視する事はないだろう。それだけ、良い選手だ。目が違う、空気が違う。無駄な力が一切入っていない自然体の構え、流れるような緩やかなステップ、風切り音が聞こえて来るような鋭いスイング。これでまだ中学を卒業したばかりの一年なのだから、全く嫌になる。
 五球目。ボールギリギリのストレート。和輝はぴくりとも動かなかった。


「ボーッ!」


 カウントは2−2になった。俄然、応援が盛り上がる。
 ち、と舌打ちしたい気持ちを堪え、正面でミットを構える夏樹を見て、春樹は眉を寄せた。表情が無い。豪く真面目な顔をして、その目は冷たく何処か遠くを見詰めているような気さえした。
 何かが起こっている。何の根拠もなく、そんな気がした。
 そして、六球目。


「――――ストラーイクッ! バッターアウト!」


 嗚呼、と彼方此方から感嘆の声が漏れた。バッターボックスの和輝もバットを下ろし、挨拶をして走り出した。雨が降っているような気がした。


「本当に、蜂谷祐輝の弟?」


 頭の上に何かが振って来る。冷たい、何かが。


「ガセじゃね? 弟なら、もっとすげぇだろ」


 心臓を刺すのは、何だ。背中を這う冷たいものは一体何だ。
 その目に見えない降り注ぐものから逃れるように、和輝はベンチの奥に座った。得体の知れない寒さに身震いする。


「……報告をしろ」


 不機嫌そうな低い声で、高槻が言った。それにはっとして、和輝は慌てて立ち上がった。晴海高校の選手は皆、ベンチから力強い声援を送っている。それは当然、つい今さっきまで打席に立っていた和輝にも送られていた筈なのに。

 聞こえなかった。


「……す、みません。えっと」
「試合に集中しろ。相手は天下の三鷹学園だぞ」
「……」


 何か考え込むような素振りで、和輝は言った。


「次は、打ちます」


 いつもは任せてみようかと思う筈の言葉に、説得力がまるで無い。
 打てないだろうな、と高槻は思った。
 グラウンドは二番の桜橋が、ピッチャーゴロに終わったところだった。チェンジだ。
 高槻から逃げるように、和輝は早々にベンチを立った。仲間は何も言わなかった、きっと、和輝は高槻に叱られて落ち込んでいるのだろうと思った筈。詮索されたくもないから、丁度良かったけれど。詮索されたとしても、答えられた自信もない。
 五回裏、三鷹学園の攻撃。バッターは四番。三鷹学園最強の打者、速水鶺鴒。
 バッターボックスに入って来る速水を、高槻は掌でロージンバッグを弄びながら見詰めていた。一度目の打席は、何事も無く抑えた。しかし、この男がそのまま終わる筈がないと思うのは、速水を過大評価しているのではなく、中学時代を共に過ごしたからこその見解だ。
 速水の姿が、中学時代何度と見たあの頃の姿に重なる。中学時代のスター選手といえば、今も世間を賑わす蜂谷祐輝だろうが、それ以外にも白崎浩太など有名な選手は多くいた。速水といえばその最たる存在で、個性的な名前からの印象も強いが、何より実力とその存在感は並外れていた。
 今にして思えば、並外れていたあのバッターボックスでの存在感は、きっと、威圧感と言い換える方が相応しいのだろう。


(相変わらずだな、速水)


 また、こうして向き合うのは何の因果だろう。高槻は足元にロージンバックを落とした。
 元々長身ではあるが、バッターボックスの速水の威圧感は凄まじい。まるで、自分が今にも飲み込まれてしまいそうな感覚さえ与えられる。けれど、そんな男と自分は三年間を過ごし、今、向き合っている。
 劣等感なんてない。高槻は自分に余り興味の無い人間だ。他者と自分を比べるなど、愚の骨頂。
 一球目、振り被った。
 珍しいサイドスロー。小柄な割りに球は速く、変化球も多い。コントロールも良い。見た目で判断すると痛い目に遭う。中学のチームメイトである速水が、油断する筈もない。けれど、高槻は打たせないと思っていた。
 しかし、グラウンドに響き渡る音はその予定を裏切った。銀色に光る金属バットは、鋭い高音と共に白球を弾き返していた。
 打球は二遊間を抜けた。センターの千葉がボールを捕った時、速水は二塁に滑り込んだ後だった。


「セーフ!」


 無死・走者二塁。
 三鷹学園の応援席から歓声が上がった。
 高槻は眉一つ動かさず、手元に戻った白球を見詰める。


(タイミングが合ってた)


 あとほんの少し、バットを振るのが上だったならば策を越えていたかもしれない。
 だからといって、今の打席を引き摺るようなか細い神経を高槻は持ち合わせてはいない。それはそれ、これはこれだ。
 だが、次の打者である五番、キャッチャー榎本春樹によって、晴海高校はこの試合を左右する大切な一点を渡してしまう。
 一塁線ぎりぎりに転がった打球は失速し、停止した。送りバントにより、速水はその俊足で本塁に滑り込んだ。タッチの差で判定はセーフとなった。


(嫌な流れだな)


 心の中で呟き、高槻は黙って構えた。
 その後続く打者を三振で抑え、五回の守備が終わった。

2010.2.28