六回表、晴海高校の攻撃。バッターは三番、藤。一点差で負けているこの状況は、天下の三鷹学園を相手にしている晴海高校にとっては中々のプレッシャーになっている。
 一塁側のコーチャーに入った和輝は、バッターボックスをじっと見詰めていた。自分に打てなかった榎本夏樹のボール。確かに速い、確かに重い。けれど、打てない球なんて無いのだと、和輝自身が誰よりも知っている。知っているからこそ、打てなかった事が誰より悔しいのだ。まだ試合は前半戦だ。引っ繰り返す事は不可能ではない。
 自己暗示のように自分に言い聞かせる和輝の耳には、周囲の応援は届かない。その癖、高性能マイクのように微かな声を拾い上げてしまう。
 お前は蜂谷祐輝の弟だと、何処かで誰かが言い聞かせる。
 だから何だと、心の中で言い返すけれど、届かない声は虚しく胸の内に霧散する。応援はバッターボックスに向かっている筈だ。例え視線が自分に向けられていても、グラウンドにいるプレイヤーなのだから当然のことだ。そう、頭では解っている。
 頭と心は別の器官なのだ。幾ら理解しても、受け入れる事なんて出来ない。けれど。それではいけないのだと和輝は既に気付いている。だから、言わない。感じないふりをしていつまでも平静を装っている。
 藤の打球はピッチャー返しだ。だが、夏樹は素早くそれを捕球した。ピッチャーはボールを投げた後には九人目の野手となることをよく知っているいい投手だ。
 ワンナウト。審判が宣告した。
 藤がベンチに戻ったとき、応援の声量が増したことで、次が四番の萩原であると気付いた。和輝は大きく息を吸い込む。けれど、その萩原へ向けた筈の応援は言葉にならず、喉が奇妙に鳴った。


「今年も三鷹学園の優勝だろうな」


 聞き覚えのある声だった。反射的に見上げた応援席の最前列で、ポケットに手を突っ込んだままのふてぶてしい態度の男が立っている。健康的に焼けた肌と短い短髪の青年、首に下げられた一眼レフ。
 和輝に視線に気付き、碓氷はにやりと笑った。


「試合に集中しなくていいのか、弟君?」


 はっとして知らん顔をしようとした和輝の行動など解り切っていると言わんばかりに笑った碓氷は、くつくつと喉を鳴らしながらしゃがみ込んだ。


「スランプか? 打席に立つ度にフォームが崩れてるぞ」


 そんなことは言われなくても解っている。視線を真っ直ぐバッターボックスに向けたまま、萩原への応援を叫ぶ。
 碓氷の声など、和輝以外には聞こえていないだろう。当たり前だ。今は試合中で、神経は全てグラウンドへ向いている筈なのだから。
 ならば、こうして碓氷の声が聞こえている自分は一体何なのだろう。そう思ったとき、指先が微かに震えた。
 チームに貢献することもできず、ただ身勝手な強がりでペースを乱し、試合にも集中できないでいる自分は一体何なのだろう。


「この試合を見ている誰もが、三鷹の勝利を予想しているだろうな。神奈川では無敗を誇る王者と、無名の少数チーム。火を見るより明らかだろう」


 その声が聞こえないように、応援への声を張り上げるけれど、耳ははっきりと碓氷の声を拾い上げている。萩原が振り被ったバットは、夏樹の放ったカーブを霞めた。打球がファールゾーンに転々とする。
 ツーストライク。


「世間が予想する勝率を教えてやろうか?」


 話がし易いように、としゃがみ込んだ碓氷の口元は不敵に弧を描いた。まるで愉しくて仕方が無いと嗤う。和輝は視線を向けず、試合に集中しろと自分に言い聞かせる。けれど。


「勝率、0.01%だ」


 碓氷がそう言い放った瞬間、真夏とは思えぬ冷たい風が全身を吹き抜けた気がした。だからなんだと、いつもなら笑えただろう筈の笑顔が作れない。代わりに地震でも起こったかのように足元が揺らいだ。それでも何か言い返そうと拳を握ったその瞬間。


「そいつは、良かった」


 和輝の横で、高槻が堂々と応援席を見上げて言った。
 グラウンドに背を向け、応援席の他人と会話をするなどキャプテンとしてはあるまじき行為だ。その態度に微かに応援がざわめく。だが、高槻は動じず真っ直ぐに碓氷を見ていた。


「それは諦めじゃなくて、希望の数値だ。百試合して九十九回負けても、一回の勝利が今来ればいい。それが、トーナメントだろうが」


 凛と立つその姿は、グラウンドに背を向けようが試合に集中していなかろうが、キャプテンと呼ぶに相応しかった。和輝は応援席に目を向けることもできないまま、高槻の言葉を噛み締める。


「あんたもスポーツ記者なら解ってんだろ。余計な茶々入れしてんじゃねぇよ、妨害で訴えるぞ」


 そう言い放って睨み付け、高槻は背を向けた。
 グラウンドから鋭い金属音が聞こえた。萩原のバットが一閃したのだ。打球は二遊間を抜けセンター前に転がった。ツーベースヒット。久しく聞かなかったいい当たりに自然と応援も盛り上がる。
 高槻は何も言わなかった。責めることもしない、慰めることもしない。ただ、当たり前のように其処に立っているだけだ。その意味が、理由が和輝にはまだ解らない。顔は俯き、目は砂に汚れたスパイクの爪先を見詰めていた。
 言葉にすることは容易い。けれど、幾ら綺麗事を並べたとしても、それは安っぽく意味の無い言葉の羅列だ。かといって、黙っていたまま伝わる訳でもないのだと、高槻も解っている。
 だが、それは高槻に言えることではない。高槻の声が通じる訳ではないし、重荷にもなり得る。


(どうするかな)


 このままの状態で三鷹に勝てるとは思えない。
 ワンナウト・ランナー二塁。五番の夏川が打ち上げた打球が、曇天の薄明かりの中で落下を始めた。雨粒にもにたそれがストンと、ピッチャーである春樹のグラブに飛び込んでいく。ツーアウト。
 六番の千葉がバッターボックスに入る。その様を、応援席から見詰める人影があった。肩で息をしながら、米神から零れた汗を肩口で拭う。それが誰かなど、和輝は気付かなかった。


泥中の蓮・2

言葉にしなくても伝わること
言葉にしなければ伝わらないこと
言葉にしても伝わらないこと


 千葉がサードゴロを打ったもののアウトとなり、六回表の攻撃は終わった。一点差で勝ち越しの三鷹学園だが、その裏の攻撃は萩原の巧みな配球と、高槻の抜群な投球によって三者三振。三鷹学園から八つ目の三振を取った高槻へ、少しずつ注目が集まる。無名だが、高槻は良い投手だと萩原は思った。
 中学時代のことを聞けば、高槻は必ず普通のチームで普通に野球し、普通に引退したと言う。けれど、自分へ余り興味を持たない彼は自己評価がとても低い。
 神奈川の覇者である三鷹学園の主将、速水鶺鴒。彼と同じチームで投手として過ごして来た高槻のことを普通とは言わないと、萩原は思うのだ。
 球種が多彩で、コントロールが抜群。自身非常に頭が良く、捻くれた性格故かバッターの裏を掻くのが上手い。けれど、思考は柔軟で理に適っていればどんなキャッチャーのサインにも頷く。キャプテンという重責も淡々とこなし、後輩の面倒見もよく、視野が広く一つの物事に囚われず先を見越している。
 決して口にはしないが、高槻は良い選手だ。多くの人間はそれに気付いていない。
 ベンチに入り、これまでの投球による疲れなど微塵も見せないで高槻は萩原に視線を送った。目が合うと高槻は萩原の傍に寄り、囁いた。


「この回が勝負だぜ」


 そう言って不敵に高槻は笑ったけれど、微かな呼吸の乱れが解った。疲れていない筈はないのだ。それでも、七回表の晴海の攻撃は高槻からだ。彼ならばきっと出塁するだろう。そして、最低でも一番の和輝まで回る。


「あいつ、面倒臭ェよな」


 溜息混じりに萩原が言うと、高槻は笑った。


「そうかもな」
「そうだよ。北里と練習試合したときと同じだ。メンタルが弱過ぎる」


 尤もだなと、高槻は笑う。そう、和輝はとても弱いのだ。確かに実力はある。天才と称されるだけの才能を持ち、期待に応えようと努力も重ねて来ただろう。けれど、彼はまだ十五歳の少年だ。
 もっと我侭でいい。もっと格好悪くていい。もっと、弱くていい。それがあるべき姿だということに、気付いて欲しい。それが普通なのだと解って欲しい。強迫観念など持たなくていい。
 和輝はきっとこの先、何度も迷い、何度も後悔し、何度も悲しみ、そして強くなるだろう。そういった機会を奪われ続け、強さだけを求められた結果が今なのだろう。それなら、自分はその機会を何度でも与えてやりたい。悩みながら、間違いながら、それでも進むことの難しさと、乗り越えた後の達成感。それが大切なのだと思うから。
 他人に干渉するのは好きではないけれど、その為の苦労なら進んで引き受けよう。


「これから、強くなればいい」


 そう言った高槻を、萩原は驚いたような目で見た。既に高槻はバットを肩に乗せ、背中を向けてしまっていたけれど、萩原は暫くの間呆然と見ていた。
 高槻は四年前に弟を亡くしている。母子家庭で育った彼は弟という存在を助けながら、支えられて来たのだろう。そんな存在を失った彼の悲しみなど誰にも解らない。けれど、今、高槻はきっとその失った弟と和輝を重ね合わせている。
 それが良い事なのか萩原には解らないけれど、高槻は今までの押し殺したような無表情と冷たさを少しずつ消して、人間らしく笑うようになった。それが和輝のお陰ならば、萩原は幸運だと思った。
 プレッシャーに押し潰されそうな小さな少年はベンチの奥ですっかり腐っている。萩原は苦笑した。
 応援席からしきりに聞こえる蜂谷祐輝という名前にはもう気付いている。和輝が打席に立つ度に向けられる好奇の目と、落胆の溜息。


(否定するだろうけど、お前は可哀想なヤツだ)


 天才を兄に持ち、周りから期待と羨望の眼を向けられる境遇を憐れだと思う。だが、彼の最大の不幸は、それらを全て背負って行けるだけの強さを持ち合わせてしまったということだ。
 もっと弱ければこんなに苦しむこともなかっただろう。世間一般が思う以上に彼は強く、彼自身が思う以上に彼は弱い。その違いから生まれた矛盾こそが恐ろしいのだと思う。ただ、彼の最大の幸福は、それらを全て受け入れて支えてくれる仲間が大勢いるということだ。


『七回表、晴海高校の攻撃は、七番、バッター高槻君』


 バッターボックスに高槻。マウンドには榎本夏樹と、キャッチャーに榎本春樹。三塁手の速水はじっと高槻を見詰めていた。
 東広陵中学の野球部は、部活という枠組みを大きく越えた強豪チームだった。二軍であろうと三軍であろうと様々な高校からのスポーツ推薦が受けられる程に野球部は突出している。それは今も変わらず、特に一軍に所属していた者は皆、高校では甲子園に出場するような連中なのだ。名門中の名門。そして、速水は其処の一軍に所属するキャプテンだった。
 部内の情報は全て掌握している。ただ一人、高槻を除いては。
 高槻は二軍の控え投手だった。背が低く痩身だったため、周りからの評価は低かったが、速水だけは高槻という人間を常に警戒していた。どんな試合をしても、どんな選手を相手にしても表情一つ変えずに淡々とプレーし続ける不気味さと、決して本当の実力を測らせないそのプレー。ぶっきら棒ながらも彼への信頼は厚かった。故に、速水は常に高槻を警戒していた。


(そいつを甘く見るなよ)


 蜂谷和輝という選手の前に、本当に警戒しなければならないのは。
 速水がごくりと唾を飲み込んだと同時に、春樹は強烈なストレートを放った。全国でも十分に通用するストレートだ。けれど。
 目は細めたまま、口元は真一文字に結んだまま、ゆるりとした動作で振り切られた高槻のバットからは、酷く澄んだ音が響いた。
 白球が一直線に二遊間を駆け抜ける。鋭いライナーとなって打球はセンターの横を跳ね、飛んでいった。
 わっと盛り上がる応援と、喧しく叩かれる太鼓の低い音。余裕のスタンディングダブル。高槻の無表情は変わらずだった。


(ちょっとくらい、嬉しそうな顔をしたらいいのに)


 仏頂面の高槻を見て、萩原は苦笑した。
 これで、最低でもまた和輝まで回る。


「キャプテンって、すげぇよな」


 興奮気味に箕輪が言った。これまで全て出塁しているのは、高槻だけだ。
 どんな相手と試合したときも、あのふてぶてしい態度を微塵も崩すことなく、当たり前のように当て続ける高槻は本当に頼り甲斐のある選手だ。
 それに比べて、と和輝は自嘲気味に思った。
 八番の雨宮がサードゴロで高槻は三塁に滑り込む。ワンナウト。
 バッターボックスに入る箕輪と入れ違いに、和輝はネクストバッターズサークルへ。片膝を着いてグラウンドを見詰めるけれど、薄暗い曇天の下では気分まで曇ってしまうような気がした。そんなことではいけないと頭を振って、また、声がした。


「全然ダメじゃん」
「蜂谷祐輝の弟のくせに、情けねー」


 駄目だ、聞くな。試合に集中しろ。
 審判のコール。ストライク。


「弟ってだけで、ちやほやされて来てんだろ」
「なにそれ、ムカツク」


 放っておけ、関係ない。今、試合の経過は。
 ストライクツー。掠りもしない箕輪のバットが風を切った。ひゅう、と鳴る中に降って来るのは雨なのか、声なのか。
 ああ、とうとう降り出した。
 ぽつりぽつりと小さな粒が、ヘルメットのツバに落ちては弾けて消える。忌々しそうに顔を顰める高槻の姿が歪んだ。目に砂が入ったようだと、目頭を押さえた。風など吹いていないのに。
 ストライクスリー。バッターアウト!
 三振。わっと盛り上がる三鷹の応援。これでツーアウト。悔しそうに頭を下げ、バッターボックスを出る箕輪と擦れ違い、和輝はバットを強く握った。
 ツーアウト、ランナー三塁。試合はもう七回だ。二点差がどんどん重く圧し掛かって来るだろう。ランナー残留になんてできない。


(せっかく、キャプテンが作ってくれたチャンスなのに)


 俺が打たなければ、いけない。
 それは一種の強迫観念だ。バッターボックスへ入っていく和輝と擦れ違った箕輪が、ぎょっとして振り返る。いつもの和輝を知っている者なら誰もが目を疑うような酷い顔をしていた。


「お願いします!」


 顔は笑っている。目が据わっている。三塁ランナーの高槻が、舌打ちをした。
 高槻にだって声は聞こえている。高槻だけじゃない。晴海ナインは皆解っている。けれど、何も知らない勝手な観客が、どんな野次や罵声を放ったとしても、和輝はきっと背筋を伸ばして立とうとするだろう。それが彼の矜持と思うから、何もできなかった。


(でも、お前は誰にも見えないところで崩れるだろう)


 そんなものは強さじゃない。強いとは何かと問い掛けたのは、和輝だった。片意地張って生きるのは強さではないと言ったのは、和輝だった。
 結果が、この様なのか。
 高槻の胸中など、和輝には解らない。ただ、マウンドの夏樹を穴が空くほど見詰めている。
 歓声が、応援が、罵声が、雨音が、全てぐちゃぐちゃに交じり合って不協和音を奏でている。まるでノイズのように耳の中で響き続けるそれをどうにかしたくて、苦し紛れに奥歯を噛み締めた。けれど、その様子を見て春樹は思った。


(……固い)


 どんどんフォームが崩れている。自然体だった筈が、何時の間にかガチガチに固まってしまって、こんな打者に打たれる筈がないという安心感さえ覚えた。その理由も、春樹は薄々気付いていた。


「なあ、弟クン」


 審判に聞こえないような小さな声で、春樹は囁いた。丁度夏樹がロージンバッグを手で弄んでいる。


「君って、本当に、可哀想」


 その言葉に、血液が逆流する程の怒りを覚えた。けれど、和輝は表情を崩さずに前だけを見ている。
 可哀想などと思われたくない。同情されるくらいなら叱咤される方がずっとマシだ。
 口には出さないまま、和輝はバットを握り締める。やがて、ロージンバッグを足元に落とした夏樹が、ゆっくりと和輝を見た。
 まるで、氷のような目だ。
 第一球。膝を襲うような内角低めのストレートだった。咄嗟に手が出ない。


「ットラーイ!」


 審判が声を張り上げる。
 春樹は返球の為に腰を上げた。それと同時に、囁く。


「君の味方って、いるの?」


 その瞬間、全身に鳥肌が立った。足元から崩れ落ちるような感覚がして、下ろしていたバットを杖代わりにどうにか支える。
 春樹の言葉に意味などない、と思い込もうとして、和輝はマウンドに目を戻す。けれど、大勢の応援に埋まった観客席と、三鷹ナイン。彼方此方から降って来る罵声。視界がぐるりと一回転したような気がした。
 二球目、変化球。和輝は動けなかった。


「トーライッ!」


 ツーストライク、追い詰められた。
 縋りつくような視線と、罵倒する声。味方のいない世界と、独りぼっちの自分。頭がガンガンと痛む。誰かが中で叩いているような強い痛みに眩暈がした。和輝はぎゅとっと目を閉ざす。


(……何なんだよ、皆)


 蜂谷祐輝の弟、と。弟クン、と。
 誰一人、自分の名前を呼んではくれない。自分は一体誰なのだ。此処にいるのは、一体誰だというのだろうか。
 春樹が返球する合間、バッターボックスから出てスパイクの裏の土を落とす。こんなものは気休めなのだと誰もが解っただろう。
 世界がぐらぐらと揺らぐ。それでも前に進むしかないと解っている足はバッターボックスへ入ろうとするけれど、一瞬、和輝の脳裏にある考えが過ぎった。

 もう、いいだろうか?
 もう、終わってしまえば楽になれる?
 そうしたら、自分のことを見てくれる?

 違う、と首を振るが、一度過ぎった考えはすぐに離れてはくれない。もう、諦めてしまえ。もう、終わりにしてしまえ。だって、どんなに頑張ったって誰一人自分のことを見てはくれない。
 誰かの評価が欲しくて頑張って来た訳じゃない。それでも、何も無いみたいに通り過ぎられてしまうのはもう、限界だと気付いた。

 苦しいんだ、すごく。心臓がドクドクいって、胸がズキズキと痛むんだ。
 息ができないよ。視界が霞む。――逃げ出したい。

 一度でいい。誰でもいい。蜂谷祐輝の弟じゃない、俺の名前を呼んで。
 そう願った。それが酷く恥ずかしいことのように感じ、目を伏せる。けれど、その願いの奥で、聞き慣れた懐かしい声がした。






「和輝!」






 パチン。
 まるで夢から覚めたような奇妙な感覚だった。呼ばれるまま振り向く。緑色のフェンスの向こうで、猫のように大きな双眸が此方をじっと見ていた。


「た、匠……?」


 幼馴染の顔を、声を間違える筈がない。けれど、その姿をまじまじと見ても尚信じられない。
 彼は栃木の強豪にいる筈だ。彼が此処にいる筈無い。だが、其処にいるのは白崎匠以外の何者でもない。
 匠はすっと息を吸い込み、酷く真剣な目を向けた。


「諦めんのか? 逃げんのか? 俺がライバルと認めたのは、そんな男だったのか!?」


 ああ、と思う。逃げる訳にはいかない。いや、違う。逃げたくないのだ。向き合わなければならないのではなく、向き合いたいのだ。そして、勝ちたいのだ。
 その瞬間、白く霞んでいた視界がすっと薄れて鮮明になった。ここは、グラウンドだ。
 審判に促され、バッターボックスに入る。匠に背中を向けたまま、マウンドを見詰めた。
 小雨が降り出している。微風が前髪を僅かに揺らす。三塁の高槻がじっと此方を睨んでいる。晴海高校のベンチから、不揃いだけど頼もしい応援が聞こえる。


「頑張れ!」


 それが誰の声かなんて知らない。けれど、和輝は笑った。


「……榎本春樹先輩」


 春樹は顔を上げた。和輝はそれまでとは違った晴れやかな笑顔で、はっきりと言った。


「自己紹介がまだでしたよね。俺の名前、蜂谷和輝って言います。覚えといて下さい」


 そうして構えた。必要外に力が入っていない自然体。春樹は不敵に笑った。


(そう来なくちゃ、面白くねぇよな!)


 夏樹へサインを送る。はっきりと頷いた夏樹が構えた。
 真っ向勝負。高槻が腰を落とす。夏樹がボールを放ったのは、その僅か数瞬後。唸るような剛速球だ。けれど、和輝もまたバットを振り切った。


「行けッ!」


 誰かの叫びだ。春樹の、夏樹の、和輝の口元に笑みが浮かんでいた。

2010.9.30