行けっ!
 バットを振り切ったとき、そんな声がした。苛立ったような口調で、大勢の誰かが叫んだ。
 掌が痺れている。バットは振り切ったあと、バッターボックスに置いた。金属バット特有の軽い音がしたのだ。打球は一塁方向に一筋の白い閃光となって走った。地を這うように低い痛烈なライナーだ。それがグラウンドに着地したと思われたその瞬間、セカンドが飛びついた。けれど、打球はそれを嘲笑うように跳ねて在らぬ方向へと跳んだ。


「イレギュラー!」


 ベンチで千葉が叫んだ。高槻と和輝が一直線に走っている。コーチャーが興奮気味に腕を回す。
 長打コースだと、誰かが早口に言った。
 一塁を蹴った和輝の耳に、聞き覚えのある声が津波となって押し寄せる。けれど、それらは全て同じことを必死に伝えようとしているのだ。


――味方なら、此処にいるだろう


 今なら、中学時代の仲間の気持ちが解る気がした。
 皆、俺のことを無条件に信頼してくれていたんだ。俺に期待しながらも、俺が駄目になりそうなときは絶対に支えようと思ってくれていたんだ。


(俺はそれを、踏み躙った)


 強くなければいけないと見えない誰かが脅していた。それが仲間の本音だと思っていたし、世間はそうなのだと信じていた。けれど、そうして脅していたのは他ならぬ自分自身だ。
 仲間を頼っちゃいけないと思っていた。そうしたら、仲間が離れていってしまうと思った。期待を裏切っちゃいけないと感じていた。それこそが強迫観念だ。
 何も頼れず信じられず、黙って離れていった俺を恨むのは当たり前のことだ。皆きっと、悲しかっただろう。けれど、簡単に人を頼れる程、俺は強くなかった。――違う、頼らないことこそが強さと、心の何処かで思っていたんだ。そうしたら、一緒にもっと見苦しい姿も見せてしまうような気がしたから。
 でも、それでいいと言ってくれる仲間がいる。昔も、今も。


(その優しさを、俺はもう、踏み躙りたくはない)


 傷付けるのも、傷付くのも、嫌なのだ。
 二塁を蹴った和輝の表情が酷く苦しげで、桜橋は応援することも忘れて悔しげに奥歯を噛み締める。
 ライトの捕球と同時に高槻がホームイン。これで一点差。和輝は三塁へ向けて疾走している。ライトが振り被る。和輝は、三塁を蹴った。


「無茶だ! 戻れ!」


 三塁コーチャーの雨宮が焦ったように叫ぶ。けれど、和輝は止まらなかった。
 此処で止まってしまったら、試合の勝敗以上にもっと大切なものを失くしてしまうような気がした。
 仲間の信頼? 仲間の応援? 仲間の期待?
 違う、そんなものじゃない。


(俺の、意地だ)


 セカンドが中継に入り、其処から流れるように送球。同時に和輝が本塁に滑り込んだ。
 小雨の振るグラウンドで砂埃は舞わない。土塗れになって突っ伏す和輝と、険しい顔で見詰める春樹。一瞬の静けさ。審判の声。


「セーフ!」


 わっと歓声が溢れた。同点――。
 息を弾ませたまま起き上がらない和輝の頭に、春樹はそっと掌を置いた。大きくて温かい掌だ。


「変なこと言って、悪かったな」


 そう言って苦笑を漏らし、春樹はすぐに立ち上がった。
 ツーアウト、とグラウンドに叫ぶ春樹は既に気持ちを切り替えている。和輝はゆっくりと立ち上がり、ベンチに向かって歩いて行った。


「お前、なあ!」


 戻った途端に、千葉が和輝の頭を叩いた。


「先輩の言うこと、聞けよな!」


 三塁コーチャーの雨宮の指示を、無視したことを言っているのだとすぐに気付いた。怒るに怒れないだろう雨宮の代わりに、怒っているのだ。
 すみません、と歯切れ悪く和輝が言うと箕輪が笑った。


「やるじゃん、ランニングホームランだぜ」


 七回表、晴海高校に二点が追加される。これで、逆転。
 電光掲示板を見詰め、波のような歓声の中で和輝は空気の塊を吐き出した。体が軽く感じられた。――違う、軽いのは心だ。


「もう、気付いてるんだろ?」


 ベンチに入ると、高槻が感情を読ませぬ無表情に言った。


「それでいいんだよ、お前は」


 お前はお前のままでいい。高槻は嘗て、和輝にそう言った。けれど、それでも偽りの仮面を被り続けて来た和輝に、高槻はそれ以上何も言えなかった。言葉にするのは容易いが、それでは何も伝わらない。


「もっとガキでいい。もっと我侭でいい。もっと迷惑掛けろ。それが有るべき姿だ」
「――はい」
「解らねぇなら、何度でも言ってやる。お前はそれでいいんだ」


 人を頼ること、それもまた強さだ。信頼することと甘えることは違うことだと、何度でも教え続ける。
 一回二得点と沸く観客席に、和輝は幼馴染の姿を探した。あのとき、名を呼んでくれたのは間違いなく匠だったのに、今はもうその姿さえ見つけることができない。
 そうして辺りを見回していると、隣で藤が言った。


「むかつくよな、あいつ等」


 酷く苛立った声で、忌々しそうに観客席を睨み付ける藤の目は鋭い。


「調子良過ぎるだろ。打った途端、手のひら返して喜んで」


 なあ、と藤が言った。きょとんとしている和輝を見て、帽子の上から頭を撫でた。


「全部、聞こえてたよ。解ってた」


 観客が勝手なことを言って罵倒するのも、揶揄も野次も全部届いてた。それが理由で和輝が崩れていることも解っていた。けれど、何も言わないで前だけを見ていこうとする和輝に何も言うことができなかったのだ。


「でも、お前が平気なふりして踏ん張ってるの見てたら、何も言えなかったんだ。それが理由で崩れちまったら、それこそ本末転倒だろ?」


 少し困ったように眉を下げて言う藤に、いつものつんけんとした空気は無い。


「俺達はお前を見ていることしかできなかった」


 だから、あのとき叫んだやつに感謝しろ。
 そう言い捨てて藤は背中を向けたけれど、本当は酷く悔しかった筈だ。藤だけでなく、皆きっと悔しかった。力になりたかったのだ。――仲間だから。
 既に背中を向けてしまっているけれど、和輝は黙って頭を下げた。感謝と、懺悔と。
 けれど、あのときどうしたらよかったかなんて和輝には未だに解らない。同じ場面を何百何千と繰り返したところで和輝は誰かに助けを求めることなんてできなかった。だが、きっと高槻は何度でもそれでいいと言ってくれるだろう。
 二失点を記録した三鷹ナインはタイムをとってマウンドに集まった。各々が落ち着いた様子で、グラブで口元を多いながら夏樹への励ましを送る。速水も同様に声を掛けながら、切り替えていこうと笑い掛けた。一点差で負けているとは言っても、このまま負けるなんて誰も思っていない。
 夏樹の背中を軽くタッチしながら、再びグラウンドに散っていく。その中で、速水は一度だけ夏樹を振り返った。春樹と作戦会議をしている。快活に話しながら笑う春樹の横で、凍りつくような冷たい眼差しをしていた。


(夏樹……)


 夏樹の目は、冷たい。それは以前から気になっていた。けれど、だからと言って夏樹は心まで凍り付いていないからそういう性質なのだろうと思い、殊更触れることもしなかった。夏樹のことは信頼している。ただ、時折酷く恐ろしく感じるのだ。いつか、心まで凍り付いてしまうのではないかと。


――夏樹の投球が変わったのは、その回からだった。


泥中の蓮・3

そして、君は夢から目覚めた


 鬼気迫るものがあった。殺気に程近いものだと、顔を曇らせて桜橋は言った。
 マウンドから陽炎のように立ち上るオーラが見えるようだった。それが何なのかは誰にも解らない。ただ、和輝は凍り付いた眼差しが目の前の相手を射殺そうとしているかのように思えて、恐ろしく感じた。
 七回の裏、三鷹学園の攻撃。二番から始まるこの回、クリンナップを通過する。四番の速水には柵越えの一歩手前に打ち込まれた苦い記憶が新しい。
 四番の前に走者を残したくないのだ。グラブの中で白球を握りながら、高槻は無表情に前を見据えた。
 一方で三鷹学園のベンチでは、夏樹が空気の塊を吐き出して座り込んだところだった。雨が強くなって来ている。後半戦ということもあり疲労が溜まっているのか、夏樹は投げ込みをしなかった。スポーツ飲料を少しずつ舐めるように口に含んでいく夏樹を確認し、速水は隣に腰を下ろした。


「お疲れ」
「――うん」


 夏樹は速水を見ると、穏やかに微笑んだ。常と変わらぬその態度は安心させてくれると共に、恐ろしくも思った。双子の兄である春樹は三番打者だ。故に此処にはいない。
 今話す必要はない。否、話すべきではない。けれど、このままにしてはおけない。
 速水はぐ、と拳を握り切り出した。


「あそこにいるのは、蜂谷和輝って言う一年だ」
「うん。……だから?」
「蜂谷祐輝の弟である前に、蜂谷和輝っていう別の選手だ」
「だから、何なの?」


 夏樹の苛立ちが手に取るように解った。当然だろう。これまで一人で投げ切って、疲れてベンチに入ればキャプテンに訳の解らないことで責められている。春樹なら怒鳴っているな、と速水は苦笑した。けれど、これだけは言わなくてはならないと思った。


「そんな目で、あいつを睨むな」


 ぴたり、と夏樹の動きが止まった。もう後戻りはできないという焦りと責任感から、速水は早口に言った。


「お前はいい選手だ。実力があるのに、それに驕らず努力を惜しまない。不平不満を言わず、誰にでも平等に接して来た。――『蜂谷』を除いて」


 そう、和輝だけではない。夏樹は蜂谷祐輝には、親の仇とでも言わんばかりの冷たい目を向けて来た。顔にも態度にも出しはしない。そんなに子どもではないけれど、その眼差しだけは明らかにおかしい。


「蜂谷祐輝がいなければ、甲子園優勝も可能だった。だからか? だから、あいつ等が憎いのか?」


 甲子園優勝は、確かに速水にとっても喉から手が出る程欲しい栄光だ。だが、人を恨んだり憎んだりしてまで縋りつくものではないと思うのだ。それが努力して勝ち取るものだ。あいつが悪い、あいつのせいで、と言ったところで何も変わりはしない。それはスポーツマンとしてあるまじき姿だ。
 夏樹は、死んだような無表情になった。けれど、次の瞬間にはくすくすと笑った。


「そうだよ?」


 まるで、当たり前のことを聞くなと言わんばかりに夏樹は言った。速水の背筋に冷たいものが走る。
 グラウンドから、ストライクツーと声が聞こえたが、まるで遠い世界のことのように感じられた。


「鶺鴒には解らない。言わない俺が悪いのだろうけど」
「夏樹、それは違う」
「解らなくていい。解って欲しいとは思っていない。だから」
「ナツっ!」


 夏樹との距離が離れていく。そんな気がして速水は声を荒げた。けれど、夏樹は酷く冷たい目をして、感情を感じさせない淡々とした口調で言った。


「俺に干渉するな」


 今まで聞いたこともないような、冷たい声だった。目の前にいるのが、これまで一緒に過ごして来た夏樹とは思えなかった。
 グラウンドからワンナウトと声が聞こえた。ファーストフライ。三番打者の春樹が打席に入る。速水は、ベンチを出なければならなかった。
 悔しそうに奥歯を噛み締め、引っ手繰るようにバットを掴むと速水はベンチを出て行った。仲間が普段と異なる速水の様子に動揺するが、夏樹は無表情のままだった。
 ワンナウト。バッターボックスに三番、榎本春樹。高槻は右手にロージンバッグを遊んだ。
 とうとう雨が降り出したかと思えば、だんだんと強くなる。天候に恵まれないのはいつものことだと、高槻は思った。ただ、気になるのはグラウンドのコンディションだった。水溜りという程にグラウンドは湿っていない。だが、濡れている。
 嫌な予感がした。三振で終わらせたいと、思った。
 けれど、それが焦りに繋がったのか、単純に雨でボールが滑ったのか。いつもの高槻からは想像もつかない程、ボールは甘いコースに入り込んだ。それを見逃す春樹ではない。
 短く構えられたバットから、濁った音が響いた。打球は一塁線に転がる。マウンドから高槻は走り出していた。打球が思った以上に転がらなかったのだ。それに動揺する程に高槻は軟ではなかったけれど、結果として一塁に春樹を置いてしまう。
 逆転の狼煙だと、三鷹の応援が大きく揺れた。次は四番、速水鶺鴒。
 速水は苛立っていた。それは敵である高槻に見て取れるほど明らかな苛立ちだ。幼馴染として育ったが故の信頼も信用も何一つ通じない。長い時間共に過ごして来たのに、何一つできない。それが悔しかった。歯痒くて、自分の無力さに腹が立つ。けれど、今この試合中にできることはただ一つ。選手として、最善を尽くすことだ。
 速水の並々ならぬ覚悟を感じ、自然と高槻も覚悟を決めざるを得なかった。グラウンドを嫌な緊迫感が占拠している。こういうときは、何が起きても不思議ではない。
 此処で終わる三鷹学園ではない。そんなことは、百も承知だ。
 一塁ランナーに牽制の視線を送りながらも、高槻は振り被った。例え春樹に走られてしまっても、速水を三振に抑えられるのなら安いものだ。一球目は様子見の意味も含め、ボールから入った。速水は微動だにしない。


「ボーッ!」


 萩原も表情を変えず、返球する。速水の様子には気がついているようだった。
 安っぽい小細工は通用しない。二球目はアウトコース。


「トーライッ」


 カウント1−1になり、返球を受けて高槻は短く息を吐いた。そして、三球目。速水の目が一瞬光ったのを、高槻は見逃さなかった。
 まるで、断末魔のような高音が雨雲の下で響き渡る。コーチャーがぐるりと腕を回す。
 速水が右手を突き上げた。


「ホームランッ!」


 叫んだのは三鷹学園だった。観客席から校歌が流れ、高槻はボールの消えて行った方向をじっと見詰めていた。
 三点目。更に、逆転――。
 ゆっくりとダイヤモンドを回って行く春樹と速水。晴海ナインはマウンドに集まった。
 ドンマイ、とは誰も言わなかった。否、言えなかった。高槻がすぐさま、話を切り出したからだ。


「――で、次の打者なんだが」


 高槻は、速水の本塁打を欠片も気にしていない。あくまで予想の範囲内である。眉一つ動かさずに、皆に的確な指示を送る高槻の姿に誰もが安堵した。強がる訳でもなく、落ち込む訳でもなく、前だけを見て当たり前のように進み続ける。
 その強さこそが、和輝は欲しかった。自分はそうならなければいけないと思っていた。けれど、和輝のように小さな出来事を拾い上げ、苦しむことも解っていながらも振り返ることも大切だと、高槻は知っている。それは強さではない。和輝のそれは、優しさだ。
 速水がホームを踏んだと同時に割れんばかりの歓声がグラウンドを包み込んだが、晴海ナインは既に気持ちを切り替えて各ポジションに散ろうとしていた。その統率力を、速水は尻目に見ながら苦笑した。先程までの苛立ちはもう無い。
 夏樹と話をしなければ、と思った。だが、その速水の胸中を察したのか、春樹が肩をそっと叩いて行った。
 喜びも一入に、ベンチで他の皆と同様に喜んでいる夏樹が、果たして本当に喜んでいるのか、速水には最早判別つかなかった。春樹は黙って夏樹の肩を叩き、ブルペンへと連れて行った。
 七回の裏は、堅実な投球と配球によってツーアウトを取り、チェンジとなった。雨は更に勢いを増し、既に小雨の域を脱し、雨粒は大きくなって行く。八回は晴海高校、三鷹学園共に動かず、共に無得点。膠着したまま試合はいよいよ最終回を迎えた。
 晴海高校最後の攻撃は、先程反撃の狼煙を上げたキャプテン、高槻からだった。俄然盛り上がる応援を余所に、ヘルメットに落ちては散っていく雨粒を感じ、高槻は溜息を零した。
 脳裏に過ぎるのは、中学時代を共に過ごした速水のことだ。東広陵という強豪でキャプテンだった彼は、何かと自分の世話を焼こうとしていたように思う。そんなものは必要としていない。むしろ、余計なお世話とさえ思っていた。弱者の味方をすることで、人気者にでもなりたいのかと苛立ったこともあった。真意は測れないが、もはや興味も無い。必要なのは、今までの記憶をどのように活用して得点するかだ。速水は敵なのだから。


「お願いします」


 すっとバットを構え、背筋を伸ばして前を見据える。身長が低くとも、この貫禄はキャプテンと呼ぶに相応しい。夏樹がゆっくりと構えると同時に、仲間の応援が聞こえた。


「キャプテン!」


 振り返ることはできないけれど。


「キャプテン、頑張れ!」


 微かに口元が弧を描いた。喉が裂ける勢いで声を張り上げる仲間、後輩達。面倒臭いと思うときも多くある。独りならば無かった手間が幾つもあるだろうけれど、彼等の信頼を一身に受けて此処に立っていることが誇らしかった。
 東広陵は戦場だ。数少ないレギュラーに入る為に、仲間の失敗を喜び、蹴落とそうと弱みを探る。それは当然のことなのかもしれないけれど、性に合わない。速水が何を思って三鷹学園に進学したのかは解らないけれど。


(――俺は、此処がいい)


 高槻の眼に、小さな光が灯っている。速水はそれを見逃さなかった。
 一球目、内角ギリギリのストレート。常人ならば反射的に避けてしまうだろうその打球に、高槻は振り切った。打球は金属音と共にフェンスに弾け跳んだ。


「ファールッ!」


 吹奏楽の応援歌が喧しい。高槻は無表情に構え直す。
 自信があった。試合をする前から、三鷹学園に負けないという自信があったのだ。それが何処から沸いてくるものなのか、高槻はもう十分に解っている。


「キャプテーンッ!」


 自分をキャプテンと呼んでくれる仲間の信頼が、自信になる。
 二球目、外角のストレート。溜息が出てしまうくらい、いいコースだった。けれど、高槻には最早そんなことはどうでもよかった。


「――おおッ!」


 強く、強く振り切った。夏樹のボールはとても重いのだ。けれど、そんなものに負ける訳にはいかない。打球は力強いライナーとなって三遊間を抜けた。そして、レフトが捕らえようとする手前で地面に跳ねた。高槻は走り出している。
 高槻は足が速い。和輝程に俊足ではないものの、一番打者として足で掻き回せる程には速い。送球が一塁に向かったと同時に、高槻はタッチを擦り抜けるようにして駆け抜けた。


「二塁!」


 ファーストが素早く送球する。けれど、高槻は滑り込んだ。
 泥水が音を立てて跳ねた。しがみ付くように二塁ベースを掴む高槻の傍で、審判は素早く両手を開いた。


「セーフッ!」


 無死走者二塁。またしても、反撃の狼煙は高槻から上がった。ベンチで萩原は賞賛の拍手を送る。
 八番の雨宮がバッターボックスに入ろうとすると、高槻と目が合った。真っ直ぐ、強い意志を感じさせる目を向けるその意味はもう解っている。
 自分のような下位の打者にも、当たり前のように向けられる信頼。頼んだぞ、任せたぞ、と目が言っている。それに答えられないような選手にはなりたくないのだ。


「お願いします」


 外野から見ている速水には、晴海高校の誰もが同じ光を目に宿していると気付いていた。それは神奈川の王者を相手にしている弱小チームの目ではない。あの光の正体を、夏樹は気付いているだろうかと思った。
 気付け、と願った。その声が届くならばと祈った。


(――ハル、ナツ)


 仲間は見えているか?
 二人だけで試合しているのではないんだと、言ってやりたかった。

2010.10.10