「お前もお節介だよな」


 観客席の端で、深く帽子を被った少年が言った。
 振り返った匠は、その人物が誰であるのか察して苦笑する。いる筈のない人間という意味では、自分も彼も同じだった。


「……練習は無かったの?」
「あったよ。この雨じゃ、中止にせざるを得ないだろ」


 雨が強い。これまでの猛暑を打ち消すような強く冷たい雨だ。
 翔央大付属高校は、今日もこの豪雨の下でぎりぎりまで練習していたらしい。けれど、やはり雨が強過ぎて解散になったのだろう。室内に移って筋トレでもするものと思っていたが、どうやら今日は休みらしい。予選を目前に余裕なものだな、と笑った。
 祐輝は、じっとグラウンドを見ている。晴海高校のベンチがよく見えた。九回裏。神奈川の覇者を相手に一点差で負けている。こんなことは誰も予想しなかっただろう。晴海ナインは誰一人、負けるとは思っていない。瞳に映る強い光は、希望なんて儚いものではない。あれは、自信だ。


「三鷹学園のエース、榎本夏樹は、嫌な投手だ」


 全国一の投手として名高い祐輝が言うのだから、間違いないのだろうと匠は思った。祐輝はマウンドをじっと見詰め、忌々しげに口元を歪めた。
 グラウンドから金属音がした。八番の雨宮が送りバント。高槻は三塁へ進み、ワンナウト。いよいよ大詰めだ。匠は、ネクストに入る和輝の背中を見詰めた。


「なあ、祐輝君」
「あん?」
「……和輝はさ、この試合すっげー辛かったんだぜ」


 匠は目を伏せた。
 観客の独り善がりな期待、勝手な野次と罵声。誰が敵で誰が味方かも解らない。周り全てが敵かもしれない。そんな中で、彼が何を思い何を願い、何を望んだのかなんて匠には解らない。


「みーんな、蜂谷祐輝の弟って呼んでた。何も知らない大勢の奴等が、好き勝手に期待して罵倒して野次飛ばして。それって、おかしいよな」
「うん」
「祐輝君が悪い訳じゃない。でも、あいつは苦しかった筈だ」
「うん。――知ってる」


 晴海高校へ行くことで、和輝が苦しまなければならないことは解っていた。だから、本当は護ってやりたかった。けれど、それでも強くなりたいからと独りの道を選んだ弟に、兄として何ができるのかなんて解らない。
 九番の箕輪がピッチャーフライを打ち上げた。ツーアウト、ランナー三塁。このまま終わってしまえば、九回裏の守備はない。バッターは一番に戻る。


『バッター一番、蜂谷和輝君。背番号――五番』


 アナウンスが高く響いていく。バッターボックスに蜂谷和輝。
 ざわりと揺れ動く応援の中、祐輝は無表情に階段を下りていく。和輝はもう観客席に目を向けたりしないだろう。集中力が違う。祐輝が見ているのは、和輝ではなかった。祐輝が睨んでいるのは、マウンドの榎本夏樹だった。
 この手が、この声が届かないのが何より辛い。祐輝は右手でフェンスを強く握った。
 ヘルメットを深く被った和輝の表情は解らない。だが、口元が微かに弧を描いているのを見て、祐輝は安心した。いつもの和輝だ。それに対して榎本夏樹は、人形のような無表情に、凍り付くような瞳で和輝を見ている。やはり、と祐輝は忌々しく思う。
 榎本夏樹はいい投手だ。けれど、祐輝は嫌いだった。三鷹学園と試合するとき、彼はまるで『お前のせいで』とでも言いたげに睨んで来る。それが気に食わない。
 真剣勝負の試合で、どちらが勝ったからといって誰が悪いとも誰のせいでとも言ってはならないと思うのだ。誰もが必死に勝とうとした結果、勝者と敗者が決まる。幾らそれに意義を唱えたって、結果は変わらない。誰を恨んだって、誰を憎んだって変わらない。
 けれど、祐輝はそれでもいいと、思っていた。常に一線引いた遠くから見ていた、感情を窺わせない彼がそうして、呆れてしまうような子どもっぽさを垣間見せることは構わなかった。幾ら自分を嫌おうと構わなかった。そういう真っ直ぐな敵意は嫌いではなかったからだ。だが、今は違う。どうして、和輝がそんな目で睨まれなければならないのだ。そう思うと、腸が煮えくり返るような気がした。
 一球目、内角高めのボール球。顔のすぐ横を通り過ぎて行った。


「ボーッ!」


 和輝は微動だにしない。安い挑発だと、やけに冷静に思う。自分でも如何してこんなにも落ち着いていられるのか不思議だった。周りの騒音や景色が消えていくような集中しているときは違う。
 野次も罵声も、勝手な期待や羨望も、何もかも変わらないのに。世界はこんなにも冷たくて凍えそうなのに、どうしてこんなにも落ち着いているのだろう。この背水の陣で、どうして。
 ただ、匠の声がしただけだ。それはただの妄想だったのかもしれないのに、どうしてこんなにも励まされているのだろうか。
 脳に直接響くような耳鳴りがした。ハウリングにも似たその耳障りな音が何処から響いてくるのかとマウンドを見て、悟った。これは誰かの、胸を裂くような悲鳴なのだ。
 冷たい目で睨む夏樹に、息を呑む。そんな目で見られる謂れはない。けれど、それでも目の前の青年とも呼ぶべき少年は今にも泣き出しそうな気がした。鋭く睨む双眸から大粒の涙がぽつり、ぽつり。そんな気がして、和輝は肩を落とした。諦めや呆れではない。無駄な力が抜け、フォームは自然体に戻る。


(こんなやつに、俺は負けない)


 夏樹が素早く投げる。和輝はバットを強く、強く振り抜いた。この一打が全てを清算できるように、祈りにも似た思いで振り切る。打球は白い閃光となって、温く湿ったグラウンドを這うように飛んだ。そして、低い弾頭のままグラウンドに着地してもなお進んだ。
 内野を抜けた打球が、センター前に墜落する。三塁ランナーの高槻があっという間にホームイン。和輝は一塁を蹴っている。
 センターが右手を振り切った。和輝は、二塁を走り抜ける。
 ポツポツ、と雨粒が顔に跳ねる。それが煩わしいと思うくらい脳は冷静だった。


(皆、皆、俺を信じてくれてた)


 仲間の顔が、次々に浮かぶ。当たり前のように其処にいてくれたこと、信じてくれたこと、思ってくれていたこと。本当に申し訳ないと思う。けれど、嬉しかった。
 その仲間に報いたい。そのためには。


(同点じゃ、意味ない!)


 この回で逆転する。そう決めた。
 三塁に滑り込んだ和輝の顔に、泥が跳ねる。一瞬遅れた送球に、審判がセーフと叫ぶ。悲鳴のような歓声が雨のように降り注いだ。
 同点――。ツーアウト、ランナー三塁。
 夏樹が酷く驚いたような顔をした。目を真ん丸にして、穴が開く程に和輝を見ている。泥塗れの小さな少年は、白いユニホームを土色に染めて拳を握った。嬉しくて仕方ないと、幼い顔が綻んでいる。
 この、少年の名前は。


「蜂谷……和輝」


 目の前にいるこの少年は、蜂谷和輝。今更になって、やっと気付いた。この少年は蜂谷祐輝ではない。祐輝はこんな泥臭いプレーはしない。王子様だなんて呼ばれるあの男はもっと煌びやかで、天才的で、万人に愛される。けれど、この少年はまるで違う。
 観客からの野次・罵声を浴びながら、自身の弱さに挫けながら、泥塗れで一点を取ろうと縋るこの少年は、違う人間だ。その、意味は。
 蜂谷祐樹こそが最強なのだと、誰が決めた。


「は、はは」


 僅かに弧を描いた口から零れ落ちるのは、乾いた笑い。春樹が驚いた顔をしている。


「ははははっ!」


 笑いが止まらない。仲間が、敵が、観客が、審判が、皆一様に驚きを浮かべている。けれど、その中でただ一人だけが妙に真剣に、夏樹を見ていた。
 蜂谷和輝と呼ばれるその少年、ただ一人が。
 そう、彼の名は蜂谷和輝。一頻り笑った後、夢から覚めたような心地で、夏樹は和輝をじっと見た。

 お前なんか、怖くない。

 そんな子どもの負け惜しみにも似た言葉が、真直ぐに見詰めて来る少年から聞こえてくるような気がした。けれど、もう睨み付ける気は無かった。
 完璧な人間なんていない。完璧なものなんて何もない。完璧なことなんて、美しくない。
 不完全こそが強さだと、痛感した。目の前にいるこの小さな少年が、何度蹴落とされながらも、何度踏み躙られながらも此処に立っていることがそれを証明している。
 夏樹に構わず、試合はゆっくりと動き出す。次のバッターがバッターボックスへと入っていく。何事もなかったかのように紡がれる応援歌。夏樹はただ黙って、ボールを投げた。それが全ての終わりで、始まりだった。


泥中の蓮・4

“ありがとう”よりも深い感謝の言葉を


 九回裏二死走者三塁。バッターは二番、桜橋。
 バントを警戒しての前進守備の中、桜橋は皆の予想通りバントをした。ただ、それは三鷹学園の誰もが予想できないほど巧い場所に転がっていく。三塁線ギリギリをゆっくりと転がる白球は、グラウンドの悪条件の中で鈍間に動きを停止した。
 予想外に転がらなかった打球に守備は一瞬の遅れを取った。けれど、その一瞬が命取りだ。走者は本塁に滑り込んでいた。


「セーフ!」


 それが、逆転の一打だった。
 夏樹も春樹も表情を崩さなかった。ただ黙って、電光板から引っ繰り返された試合状況を嫌という程に思い知る。ざわりと三鷹学園の応援に広がる不安と疑心。負ける筈がない、負けてはならない。こんなところで、こんな格下を相手に。
 けれど、目の前にあるのは疑いようのない事実。夏樹は両腕をだらりと下げたまま、春樹は拳を強く握り締めた。


「何なんだよ、これ。おい、嘘だろ。……ふざけんなよ!」


 叫んだのは春樹だった。呆然とする三鷹学園。神奈川の覇者と呼ばれた彼等が動けないのは、この事態を誰一人として予想していなかったからだろう。春樹の後ろで、滑り込んだ和輝が立ち上がる。何かを言おうとして口を開き、閉じる。自分には発言する権利はない。そう考えたところで、顔まで泥塗れの和輝を迎えに来た小さなキャプテンが凛として言った。


「喚くな」


 有無を言わさぬ威圧的な態度で、和輝を引っ張り起こしながら言った。高槻は、振り返った春樹には一瞥もくれずに吐き捨てるように続けた。


「誰を憎んだって、誰を恨んだって結果は変わらねぇだろ。何かを変えたいなら、人のせいにばかりしてないで自分達が変わる努力をしろ」


 他力本願が見苦しい、と侮蔑の眼差しを向け、高槻は背中を向けた。
 自分の足で歩く努力もしないで、差し出された手を拒むことで矜持を守ろうとする。結果、何が変わるというのだろう。哀れで醜い。高槻は早足にベンチへ戻った。
 マウンドに三鷹ナインが集まる。心配そうな仲間の顔を見て、夏樹が少しだけ笑った。


「……悪ィ、逆転されちった」


 舌を出して笑って見せる夏樹は何処か子供っぽく、遠い昔に見た彼を思い起こさせる。口々に心配するなと言い放つ仲間の中で、速水だけが通り過ぎる時間の流れに置いて行かれるような心地で見ていた。
 此処にいるのは、誰だろう。
 そう考えて、すぐに馬鹿らしいと自分の思考を否定した。夏樹以外の何者でもないというのに。


「此処で止めるから、後ろ、頼んでもいいか?」


 夏樹が困ったように笑う。速水が考えるよりも先に、口が動いていた。


「任せとけ!」


 本心からの言葉だった。夏樹が誰かを頼りにすることなんて、一度も無かった。何があっても仕方がないと通り過ぎるのを待っていた夏樹が、こうして目の前の事実に抗おうとしている。そして、その為に自分達を頼ってくれている。
 それだけで、十分だった。春樹はミットを強く叩いた。


「よっしゃ、しまっていこうぜ!」
「おおっ!」


 その後、三鷹学園は皆冷静さを取り戻していたが、夏樹の好投によって次の打者を三球三振に抑えた。試合は最終回、三鷹学園最後の攻撃を迎える。打者は二番から始まり、最低でも四番の速水鶺鴒には回る。
 神奈川の覇者と呼ばれる三鷹学園のキャプテンを務める速水への信頼感は大きい。それはつまり、速水は危機でも好機でも、仲間や観客の期待に応えてきたということだ。晴海高校も、それは十分に理解している。守備に構える面々の表情は固い。速水には本塁打も既に打たれている。こういった場面で打つ男なのだと、誰もが理解していた。
 もし、この試合が延長戦になったとしても構わない。否、延長戦で済むのなら安いものだ。そう思った。けれど。
 強張った表情の面々を一瞥し、元来の冷めた態度で、すっと背中を向ける高槻を見たとき、皆の表情は徐々に和らいでいった。
 声など掛けていない。笑い掛けてもいない。ただ、冷めた目で一瞥して背中を向ける。ただ、それだけのことが晴海ナインには奇妙な安心感を与えた。
 高槻は変わらない。どんな相手でも、どんな状況でも、当たり前のように投げ、当たり前のように打ち取る。向けられた背中が小さいなど、晴海ナインは誰も思わない。部内でも一、二を争う背の低さでありながら、その背中は誰よりも大きい。それがキャプテンの器なのだと、言っているようだった。
 ストライク。
 ストライク。
 ストライク。
 バッターアウト。
 淡々と流れていく試合を、それでも当事者だけが鮮やかに見ている。一瞬の焦りと興奮を、過ぎ去った後の苛立ちを安堵を。
 ストライク。
 ストライク。
 ファール。
 ストライク。
 あっという間に三振が二つ。追い詰められた三鷹学園だが、それでも誰も諦めることがないのは、そこにキャプテンの速水がいるからだ。
 速水は真っ直ぐに高槻を見据え、バットを構えた。観客席からの応援がまるで別の世界のことのように感じられた。それでも、仲間の応援が酷く鮮明だった。


「キャプテン!」
「打てぇー!」
「信じてます!」


 縋るような、託すような。祈りにも似たその叫びを、以前も何処かで聞いたと速水は思った。それが誰だか解ったとき、振り抜いたバットは小気味いい音を立てた。
 キィン。
 白球は僅かにフェンス上のポールを外れ、ファールゾーンへ飛び込んだ。
 ファール。
 あと少しずれていたらホームランだ。同じことがあったと思い、速水は直ぐに合点した。この打球は、僅かに外れたのではなく、外されたのだ。ホームランに程近い球を打った速水が凄いのではない。紙一重で躱していく高槻が凄いのだ。
 そう思い知り、目の前の男の深さを実感する。危機も好機も眉一つ動かさないこの男を、誰もが見縊っていただろう。けれど、自分は。


(俺は、一度としてお前のことを見縊ったことはない)


 放たれた変化球。速水の振り抜いたバットはその僅か下を掠めた。
 ファール。打球が後ろに弾け飛んだ。
 二球目のファールにどよめく観客席。鋭いスイングは、観客席にまでその風を切る音が届くようだった。それでもストライクツーと春樹と夏樹が拳を握る。掌はじわりと汗ばんでいた。
 三球目が放たれる。


「頑張れ、セキレイ!」
「打て!」


 堪らなくなって、二人が叫ぶ。その声に反応して速水が口元に弧を描く。向けられた横顔が、力強く微笑んで『任せろ』と言っているようだった。
 バットを握りながら、速水は春樹と夏樹を思った。甲子園に固執する二人が今どんな気持ちでいるのかなんて解らない。凄惨な事故で両親を亡くしたことは知っているが、それが二人にどんな影響を齎しているのかなど誰にも知れない。
 夏樹は、解らなくていい、解って欲しいとも思わないと言った。春樹は自分に任せろと言って、まるで自分が干渉するのを拒むかのように夏樹から遠ざけた。けれど、それでも。


(俺は、お前らのこと、解りてぇよ)


 全て理解できるとは思っていない。けれど、話を聞くくらいできるだろう。
 桜舞い散る中の入学式、真夏の陽炎の昇るグラウンドでの練習、紅葉に色付く街の帰り道、降り積もる雪の中で飲んだ缶コーヒー。三人で過ごした思い出が走馬灯のように過った。
 速水のバットが振り抜かれた。鋭い風切り音の後、雨音だけの静寂が一瞬過ぎ去った。けれど、カラン、と軽い音を立ててバットが落ちる。
 萩原は、確かにミットの中にその存在を握り締めていた。


「ストライク! バッターアウト!」


 一瞬遅れた大歓声が球場を包み込んだ。


「ゲームセット!」


 試合終了を告げるブザーが不気味に鳴り響く。それはまるで誰かの悲鳴のようだった。
 バットを落としたまま、強く強く目を閉じて上空を見上げる。速水の面には雨粒が幾つも落ちては弾けた。それでも動けぬまま、拳は握り締められた。
 整列しなくては。
 頭では理解できているのに、体がまるで鉛のように重かった。夢の中にでもいるかのような奇妙な浮遊感と胸を強く締め付ける痛み。金縛りのように動けない速水の両肩を、誰かが叩いた。


「「セキレイ、行くぞ」」


 二人の声が揃って掛けられた。解き放たれたように、速水は二人の顔をゆっくりと見た。春樹と夏樹は無表情だった。
 けれど、その手は縋りつくように強く速水の肩を掴んでいる。
 整列していく三鷹学園と、晴海高校。ぼんやりと和輝は立ち尽くしていた。高校初の公式戦が今、終わったのだ。自分の追い求めたものが目の前にあることよりも、同時に潰えた誰かの夢の欠片を眺めていた。


「両校、礼!」
「ありがとうございました!!」


 義務にも似た感謝の言葉を落として、三鷹学園が背中を向ける。歓声の中でも確かに聞こえる嗚咽や鼻を啜る音が胸を締め付ける。初めての公式戦は、勝利の喜びよりも、敗者への罪悪感が残った。
 それではいけないと自分を?叱咤して、この長い試合を応援してくれた味方へ礼をしに行く。それも、形ばかりの義務にも似た感謝だ。自分の中の卑屈な部分が、じりじりと抵抗する。一体何に感謝しろというんだ。感謝じゃないだろう、お前が本当にしたいのは。


「和輝」


 試合前と比べると、流石に何処か疲れたような顔で高槻が呼んだ。だらりと下げられたグラブは雨でしとどに濡れている。和輝はじっと高槻を見据え、居心地の悪さを感じながら苦笑した。
 晴海高校の勝利に湧く観客席と、喜びを噛み締める仲間たちの中で、和輝と高槻だけが無表情だった。高槻の声で頭を下げる。


「応援ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」


 わっと歓声が零れ落ちる。声を張り上げて何か叫んでいる。誰かの知り合いだろうか、と思いながら、自分のクラスメイトがいることに気付いて笑った。社交辞令のつもりではなかったけれど、薄ら寒い作り笑顔だった。
 手を振りながらグラウンドを早足に去っていく。後に控えていた試合は中止になったようだった。


「勝ったな!」


 後ろからタックルするかのような勢いで、箕輪が和輝の肩を組んだ。賑やかな中でよく通る声が、嬉しくて仕方がないと言っている。
 その反対側から、夏川が肩を並べる。口元には確かに笑みがあった。


「初戦突破だ」


 何処か浮足立った口調で夏川が言う。
 そう、これは初戦だ。この先も続く試合で、勝敗の数だけ誰かの夢が消えていく。全ては誰かの身勝手な夢の為に消されてしまうのだ。
 和輝が曖昧に笑って俯くと、箕輪が何か悟ったようににっと笑った。


「いいんだぜ、喜んでも」


 ふつりと。
 雨粒にも似た何かが、胸の中に染み込んでいった。何が、とは言えなかった。


「――っ」


 零れ落ちたのは、嗚咽だった。
 泣くべきではない、笑うべきなのだ。そう思って堪えようとする度に、見っとも無く嗚咽が零れる。今まで堪えていたものが溢れてしまう、呑み込まなくては。けれど、箕輪も夏川も見限ったり軽蔑したりしない。夏川は呆れたように溜息を吐いた。


「泣いたっていいだろ」
「そうだ、嬉しくったって涙は出るんだぜ」


 箕輪が笑った。言葉にならない嗚咽ばかりを零しながら、後から後から落ちて来る涙を、雨で湿った袖で何度も拭った。
 喜んでもいいのだ。泣いてもいいのだ。誰に笑われても馬鹿にされても何も言われても。
 誰かの夢が音を立てて壊れた。その破片の上を歩いている。それでも構わない。
 球場を出たところで、速水と春樹と夏樹が立っていた。先頭を歩いていた高槻が怪訝そうに眉を寄せ、立ち止まる。速水の手には大きな千羽鶴があった。


「お疲れさん。……これ、うちのマネージャーと応援団が作ってくれたんだ。持っていてくれないか」


 差し出された千羽鶴を、何の迷いもなく高槻が受け取る。その面は終始無表情だった。
 速水は目元を少し赤くしながら、苦笑して言った。


「俺、お前の球、打つ自信あったんだよ」
「ああ」


 素っ気無く高槻が言う。


「俺の球を打てないと思うなんて言うやつ、俺は聞いたことねぇよ」


 速水は息を吐くように笑った。


「中学の三年間。俺のライバルは、お前だったんだ」


 発言を疑うかのように、高槻が目を細める。けれど、速水ははっきりと続ける。


「お前の投球をいつも見てた。他の誰が何て言っても、お前はいい投手だったよ。だから、お前がいて本当に良かった」
「そうかよ」


 高槻は居心地が悪そうに視線を逸らせた。褒められたからではない。高槻にはライバルという概念そのものが無かったからだ。誰にも負けたくないとは思うけれど、それは本能からの闘争心に近い。誰かと競っている訳ではない。だから、速水の言うことが俄かに信じ難かった。
 俺は、お前のことをライバルだなんて思ったことはない。
 そう思った。けれど、言うべき言葉ではないと思い至って無言を通した。ただ、不意に中学時代を思い出す。集団行動が苦手で何かと一人を好んだ高槻を、協調性が無いだの自己中心的だの偉そうだのという連中は多かった。けれど、それを何かと速水が庇っていてくれていたことも知っていた。
 帰り道が同じだった。同じバスに乗って十五分程で速水が先に降りた。自然と隣に座っていた。何を話したかも覚えてはいないけれど。
 何も詮索しない、要求しない、干渉しない。そんな速水が隣にいてよかったと、思う日もあった。キャプテンだから部内の軋轢を防ぎたかったのかもしれないけれど、それでもいい。


「俺も、お前がいてよかったよ」


 長い沈黙の後で、呟くような小さな声で高槻が言った。速水が驚いたように目を丸くする。
 その横で、春樹が和輝を呼び止めた。箕輪と夏川に挟まれた泣き顔の和輝は、困ったように眉を下げている。春樹は手を出した。


「ありがとな、和輝君」


 それが形ばかりの感謝ではないと知り、和輝は慌てて掌の汗を拭き取って春樹の手を取った。


「此方こそ、ありがとうございました!」


 二人の握手を見ながら、夏樹は毒気を抜かれたような何処かさっぱりした顔だった。春樹と入れ替わるように手を差し出し、言った。


「君はきっと、強くなるよ」


 今よりも、ずっとね。
 和輝が手を取ったと同時にそんなことを言った。その意味を問おうとするが、夏樹の手は離れていく。
 雨の中、互いに傘も差さずに歩いていく。少しずつ騒がしくなる周囲から逃げるように球場を離れる。速水は大きく息を吐き出した。疲れたのかもしれない。そう思いながら、夏樹は言った。


「なあ、鶺鴒」


 何かを躊躇うように、彼にしては珍しく口籠りながら言った。


「お前に話したいことがあるんだ」
「話したいこと?」


 零れそうなほど涙を溜めながら、速水が夏樹を見る。夏樹は困ったように言い直した。


「いや、違うな。……聞いてほしいことがあるんだ」


 どんな叱咤も罵声も受けるつもりでいた速水だが、どうやら違うらしい夏樹の様子に戸惑いながら頷いた。


「いいよ。俺でいいなら、何でも聞くよ」
「違ぇよ、馬鹿セキレイ」


 春樹が速水の頭を小突く。


「お前に、聞いてほしいんだ」


 少し前で、春樹と夏樹が並んで立っていた。その眼は互いに何かを覚悟したかのような真剣さを帯びている。速水は笑った。


「――遅ェんだよ、馬鹿野郎……」


 零れ落ちたのが涙だと、気付いただろうか。その涙の訳を、知っているだろうか。


 嬉しくても涙は出るのだと、理解したのは二人の話を聞き終えた後だった。

2010.11.4