マウンドの少年は振り返らないだろう。ピッチャーの背中を見詰めるのはファースト、葛西慎二郎。二回裏、四点差で負けている。勝利を信じているのは――否、勝ちたいと願っている人間がこのグラウンドにどれ程いるのだろうと葛西は自嘲した。
 バッターは二番、桜橋。小技の上手い三年生。ノーアウトだ。打って来るかも知れない。一回では何の不安要素も無い程綺麗な送りバントだった。それがキャッチャーの頭の中にあるからこそ、星川は前進守備。その判断の甘さを、葛西は嗤うのだ。
 キャッチャーのサインはボール。諸星は枠ギリギリのアウトコースを突いている。けれど、桜橋は眉一つ動かさずにそのボールを打ち貫いた。
 打球は一塁正面。グラウンドを跳ねた白球を、葛西は片眼を閉じて受け止めた。同時に踏み締めた一塁ベース。審判がアウトを宣告すると共に、本塁をあの小さな少年が駆け抜けた。


(滑り込む必要すらないってか)


 全く以てその通りなのだが、先程の舌を巻くような俊足も見せずにホームベースを踏んだ少年はにこりともしない。相手を嘗めているのではなく、冷静に判断した結果だろう。長く続くこの夏大会のトーナメントを勝ち進む為に、無用な体力は使いたくない筈だ。


「ワンナウトー!」


 誰も言わないから、葛西が声を上げる。仲間は誰一人顔を上げない。実力差があることは認める。それでも、ゲームセットになるまで解らないのが勝負というものだ。
 顔を上げているのは葛西と――、諸星だけだ。
 葛西が入部した星川高校野球部というのは、こういうものだった。万年一回戦負けの弱小も弱小。楽しく野球出来ればそれでいい。覚悟も信念も無いお遊びの野球しかして来なかったクズ共の溜まり場だった。入部する前にその現状が解っていたから、葛西は端から此処に入部するつもりなど無かったのだ。諸星に、会うまでは。
 染み着いた負け犬根性と、自分より優れた人間を妬むばかりの卑屈な心。そんなチームとも言えない集団の中でただ一人、火の点いた目をしていた。
 チームメイトが幾ら馬鹿にしても一人黙々と練習を続け、決して蹲ったりしないで前を見据えている。その実力は中堅校ならば十分にエースを張れるだろうものだったにも関わらず、こんな底辺のような、風の吹き溜まりのようなチームで燻り続けている。
 諸星に興味を持った。信じ合える仲間もいなくて、励まし合う友もいなくて、支えてくれる相棒もいない。それなのに、どうして諸星は絶望しないのだろう。
 事の真相を聞いたのは、つい最近だ。
 諸星は元々シニアリーグで野球をしていた。高校の硬式野球にも興味はあったが、共働きの両親と恐らく先の長くは無い祖母の為に自転車で通える近距離の公立高校を選んだのだ。入部した当初は、あの荒んだ野球部に呆れたし、絶望もした。こんな場所でまで野球を続ける意味を自分に問い掛けた。
 だが、同時に気付いたのだ。周りが何を言っても関係無い。俺は俺の好きなようにしよう。誰かに共感も見返りも求めず、ただひたすら自分自身の為に。――野球が、好きだから。
 そういう純粋さを、葛西はとうの昔に失くしてしまった。だからだろうか。時々、諸星が眩しくて直視出来ない。
 葛西は、中学までで野球は辞めるつもりだった。だから、家から近いという理由で星川を受験した。プロ野球選手だった父は賛成も反対もしなかった。それに甘えた葛西だったが、諸星を見て考えが変わった。この男が、何処までやれるのか見てみたいと思った。
 仲間全てが勝利を諦めても、俯き声を上げることすら出来なくても、諸星は決して俯いたりしない。そういう強さが何処から来るのか、葛西には解らない。
 三番打者がバッターボックスに立つ。中学時代のチームメイト、夏川啓だった。プロを父に持つ者同士、周りから期待や羨望を受けて来た。チームを引退したとき、夏川もまた、野球を続ける気は無いと言っていた筈だが、何が彼を変えたのだろう。
 ――否、誰が、だ。
 夏川のフォームは変わらない。一回裏の鋭いスイングも、あの頃のままだ。
 キャッチャーのサインはインコース。葛西は溜息を零す。諸星は首を振ることもなく従うだろうけれど、ピッチャーを相手にインコースに投げさせられる諸星のプレッシャーも、少しは考えてやれよと思う。
 初球、インコース。諸星の球は走っている。夏川は見送った。


「トーライッ」


 打球に備えながら、葛西は目を細めた。葬式のようなグラウンド。小さく咳払いを一つして、葛西は声を上げた。


「ナイピッチー!」


 諸星は振り返らない。勿論、期待なんてしていないけれど。
 二球目、インハイのストレート。夏川がバットを振り抜いた。打球はファースト正面。痛烈なライナーを、低く構えて危なげなく捕球する。審判が叫んだ。


「アウト!」


 ツーアウトだ。


「ツーアウトー!」


 葛西が声を上げる。キャッチャーを睨んだ。あんたの仕事だろう。そう言ってやりたかったけれど、それは諸星の主義に反するから黙っておく。
 こんなチームで野球する意味、あるんですか?
 葛西はずっと、諸星に訊きたかった。口にしたことはない。沈んだままのチームメイトの顔を一瞥し、葛西は次の打者に目を向ける。四番だ。だが、その前に、騒がしいグラウンドに酷くよく通るボーイソプラノが響いた。


「ドンマーイッ!」


 冗談のような声量だった。瞠目する葛西が見たのは、あの小さな少年だ。天才の弟。蜂谷和輝。
 声の大きさに驚いただろう夏川がベンチに入ると同時に小突く。溢れた笑いは決して嫌味ではなく穏やかなものだ。
 あの少年は、どうして此処にいるのだろう。誰もが抱くだろう疑問を、葛西もまた抱いた。


虹の立つ場所・2

当たり前のことを、言わせるなよ


 二回裏、晴海高校の得点は五点だった。現在九点。
 三回表の星川高校の攻撃。打者は六番からだ。夏川はマウンドで、ロージンバッグを弄びながら打者を見詰めた。大した打者ではない。三鷹学園をたった一人で抑えたあの時の高槻に比べて、今の自分はどれ程に気楽なのだろう。夏川は足元にロージンバッグを落とした。
 高槻の声が頭を過る。


――如何してあいつ等が強くなれるのか、お前に解るか?


 幾ら考えても、答えは解らない。俗に言う熱血野郎の問いだったなら、努力だとか友情だとか、そんな答えを返せば間違いないだろう。だが、高槻がそんな薄っぺらい言葉を求めるとは思えない。
 構える。夏川の目に映るのは萩原のキャッチャーミット。それが一瞬、和輝に見えた。左腕が振り抜かれる。ズドン、と。鈍い音がした。


「トラーイッ!」


 バッターに見える明らかな絶望の色。下らないと、夏川は胸の内に吐き捨てる。星川高校野球部が、相手にする価値も無いクズばかりだと夏川は気付いていた
。高校野球を侮辱する為だけに存在するような彼等に同情する価値も無い。当然、全力で戦ってやる義理もない。


「トーライッ! バッターアウッ!」


 見送り三振。見っとも無いことだ、と夏川は口角を釣り上げた。
 こんな試合でわざわざ自分がピッチャーをする意味があるのか疑問に思った。だが、同時にエースである高槻が登板する意味も無いと思い至る。
 七番がバッターボックスに上がる。下位打線など相手じゃない。キャッチャーを見詰める。正捕手である萩原が変わらず其処に座っている。けれど、何故だか其処に座っているのはあの小さな少年に見える。投球。


「ボーッ!」


 コントロールが安定していないのは、夏川自身解っていることだ。
 ボールが続く。フォアボール。走者一塁。
 舌打ちを零し、夏川は足元を均した。萩原は心配することもなく、当然のように声を掛ける。


「ドンマイ!」


 その声を追うようにグラウンド中から声援が掛かる。
 気負わなくていいぞ。リラックスしていけ。後ろは任せとけ。
 この声援につい最近まで、自分は気付かなかった。夏川は自嘲する。追い詰められているつもりはないけれど、悪い気はしない。
 だが、その気持ちとは裏腹にボールが続き、一時満塁になるも最後は三球三振で抑えた。三回表の星川高校の得点は零だ。
 ベンチに入った夏川を迎えたのは、この試合で登板することはないだろうエースの高槻だった。


「よう。相変わらずコントロール悪いな」


 責めるのではなく茶かすように高槻が嗤う。夏川は眉一つ動かさない。


「無得点に抑えたんだから、いいでしょう」
「無得点に抑えたのはお前じゃねぇ。守備だよ」


 舌打ちしたいのを呑み込み、夏川はベンチに座った。高槻はグラウンドを眩しそうに見ている。


「あの答え、解ったか?」


 それが何を指すのか察して、夏川は首を振った。
 バッターは再び一番、蜂谷和輝。初夏の太陽に負けない明るい声で、和輝が挨拶をする。応援席から穏やかな笑みが零れた。三鷹学園との試合とは大違いだ。
 高槻は和輝をじっと見詰めている。夏川は皮肉っぽく言った。


「キャプテンは、随分と和輝がお気に入りみたいですね」
「ん? まあな」


 当然のように高槻は肯定する。
 和輝には恩がある。過去を顧みればお互い様なのだろうけれど、萩原との和解においては和輝がいなければ永遠に離別したまま野球部も動き出すことは無かっただろう。それを恩に着せるどころか、そんなこともあったかと忘れているような呑気な少年だ。夏川は野球部始動の経緯を知らないが、今更話す必要も無いし関係も無い。


「尤も、俺は初めの頃、あいつが酷く気に食わなかった」
「……同感です。俺も、あいつが気に食わなかった」


 それがどうして、こんなに大きな存在になったのだろう。考えても夏川には解らなかった。だが、高槻は鼻を鳴らした。


「あいつは、鏡なんだよ」
「鏡?」
「ああ。俺達みたいに、胸の中に後ろめたいもの抱えてる奴にとっては特にな。俺達はあいつを通して、自分自身を見るんだ。隠して置きたかった醜悪な感情をあいつは曝け出す。……あいつが気に食わなかったんじゃない。怖かったのさ。あいつを通して、自分自身を直視することが」


 過大評価だと、夏川は嗤おうとして失敗する。
 色素の薄い大きな双眸は、まるで澄んだ湖のように透き通っている。その目で真っ直ぐ見詰める。
 グラウンドから澄んだ音が響いた。打球は低い弾道のまま内野を突き抜ける。和輝が飛び出した。輝くような笑顔だ。


「ツーベース!」


 箕輪が叫んだ。二塁に立つ和輝の口元は弧を描くが、過剰に喜ぶような愚行はしない。どんな相手にも敬意を払うのはスポーツマンとして当然のことだ。
 続く打者は桜橋だ。夏川はベンチを出た。高槻が笑っていた。
 バントでも何でもなく、桜橋は諸星の球を打ち返す。ピッチャー返しだ。グラブに衝突した打球が諸星の足元に転々と転がった。和輝が三塁を蹴る。
 諸星が拾い上げ振り被る。本塁は既にセーフだ。送球は一塁。


「セーフッ!」


 これで、十点差。
 現在三回裏。四回の時点で十点以上を取り、五回でそのリードを保持したまま終了させることが出来ればコールドゲームだ。
 漸く、キャッチャーがタイムを取った。ぞろぞろと足並み揃わぬまま星川ナインがマウンドに集まって行く。


「――ったく、付いてねぇよな」


 誰かが言った。葛西は怪訝そうに眉を寄せ、耳を疑った。
 星川ナインの面々が頻りに頷くが、諸星は無表情だった。


「晴海は選手がギリギリだって聞いてたから、誰かが体調崩して不戦敗もあり得ると思ったんだけどなー」


 揺れるように笑いが零れる。
 何を言っているのか、葛西には理解出来なかった。相手は甲子園出場を目指して本気で野球をしているチームだ。たかが体調不良で試合を取り止める筈が無い。高熱が出たって、骨折してたとしても彼等は誰一人欠けることは無いだろう。それが高校野球だ。


「俺、この後、出掛ける用があったから丁度いいや。さっさと終わろうぜ」
「そうだな。でも、腹立つよなー。そうだ、諸星。デッドボールでも食らわせてやれよ」


 また、笑う。
 諸星は何も言わない。その目に仲間など映ってはいない。


「目指せ甲子園なんて、今時寒いよな。熱血かよ、馬鹿みてぇ」
「そうそう。俺達クールな野球部だからな」
「で、どうする? デッドボール大作戦?」


 キャッチャーが薄笑いを浮かべて諸星を見る。諸星が頷く筈も無かった。


「俺はやんねーよ。最後まで投げる」


 そう言った途端、白けたと言わんばかりに目を細める。
 セカンドががしがしと頭を掻きながら言った。


「そうだ。諸星もあいつ等と同じ熱血君だったもんな」
「下らねぇ。泥まみれになって格好悪ィな。――噂の蜂谷祐輝の弟も熱血君だし、馬が合うんじゃねぇ?」


 十点目を取られた腹癒せだと解っているが、同時にブツン、と。頭の中で何かが切れる音がした。唇が戦慄くのが解る。葛西は拳を握った。――だが。


「――好い加減にしろよ!」


 叫んだのは、諸星だった。
 握った拳が、肩が震えている。諸星の大声を聞くのは初めてだと、葛西は見当違いのところで考えていた。


「何が可笑しいんだよ! 何が恰好悪いんだよ!」


 諸星が顔を上げる。興奮故か、熱気のせいかは解らないが、その顔は赤く上気している。
 何事だと晴海ナインは身を乗り出して様子を伺う。審判もまた目を丸くしていた。振り絞るように、泣き叫ぶように、諸星は声を上げる。


「勝ちてぇと思うことの、何処が恥だってんだ!!」


 息を弾ませながら、諸星は腕で顔を擦った。汗を拭ったのか、それとも。
 星川ナインは黙り込んだ。反論出来るなら、すればいい。葛西は握っていた拳を解いた。胸の内で猛り狂っていた憤怒が急激に収縮していくのが解った。
 諸星は今まで一度だって誰かに何かを求めることは無かった。諸星はただ、野球が出来ればそれでいいのだ。誰が馬鹿にして否定しても、何を言われても構わない。――ただ、野球がしたいだけだ。
 けれど、俺達がしているのは本当に野球なのだろうか。
 自分の弱さを棚に上げて、相手を馬鹿にして見下して、誰かのせいにして逃げ回って、責任を擦り付けて。

 これが、本当に野球なのか?


「……何で、勝ちたいんだよ」


 負け惜しみのように、ぽつりとキャッチャーが言った。
 諸星は大きく呼吸しながら、何か言おうと口を開くが言葉が続かない。それを見て黙っていたサードが言った。


「勝って何になるんだよ。下らねぇ」


 どうして勝ちたいのか?
 葛西もまた、黙った。考えたことも無かった。諸星が何も言わないのを嬉々として同じ質問を繰り返し、自分達の正当性を訴える。
 言葉が見付からない。だけど、その時。


「そんなこと、言われなきゃ解んねぇのかよ」


 本塁から、あの酷く良く通るボーイソプラノが聞こえた。両膝を茶色に染めて、浅黒く焼けた肌に汗の滴を張り付けて、天才の弟と呼ばれた少年が真っ直ぐに此方を見ている。透き通るような双眸が星川ナインを射抜いている。
 お前には関係無いだろ。誰かが言った。だが、和輝は無表情のまま、距離を詰めることもなく声を張り上げた。


「勝ちてぇから、勝ちたいんだろ。他に理由がいるのかよ」


 その通りだと、葛西は思った。勝ちたいと思うのに、理由なんていらない筈だ。誰かの為だとか、将来の為だとか、そんなことは関係無い。微々たる理由だ。
 勝ちたいのだ。負けたくない。それだけで十分の筈だ。
 黙り込んだ星川ナイン。奇妙な静寂がグラウンドを支配する。ベンチで高槻が呆れながら箕輪に耳打ちする。ベンチを飛び出した箕輪が和輝を引っ張った。


「もうお前、本当に余計なことすんな。ややこしくなるんだよ」
「だって、こんなのおかしいだろ!」


 箕輪に引き摺られながら和輝が言った。


「一生懸命やって、何が悪いんだ!」


 文句を垂れる和輝を引き摺る箕輪が溜息を零す。すれ違いざま、和輝は打席に向かおうとして立ち止まっていた夏川に同意を求めた。


「なあ、夏川もそう思うだろ!?」


 夏川は、何も答えない。和輝がベンチに押し込まれる。高槻の拳骨が落ちる音がした。

2011.8.21