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『――この歓声が、聞こえるでしょうか!? 政和賀川、ピッチャー交代です。マウンドに上がるのは、大本命緑ヶ丘学院を無失点に抑えた一年の怪物投手。その名は――』 切り口上で息吐く間も無く告げたアナウンサーの興奮が、ブラウン管の中でも伝わって来るようだ。昨日の試合のダイジェストを報道する番組はこの時期恒例だが、スターでも発掘したかのような賑わいを現実味を帯びない心地で眺めていた。 マウンドに上がる長身の少年。帽子のツバに隠れている表情は窺えないが、和輝にはその表情も内心も手に取るように解っていた。 彼は、周りの評価など欠片も気にしない。そして、自分を理解して欲しいとも思っていない。あるのは凍り付くような無表情だけだ。 「陸……」 その名を告げたと同時に、テレビは闇に消えた。和輝の後ろで、リモコンを向ける祐輝が電源を落としたのだ。 「兄ちゃん、まだいたの?」 時刻は午前六時。今日は祐輝の通う翔央大付属高校の三回戦が行われる筈だ。第二試合だと聞いているが、直接球場に向かうとも思えない。 祐輝は、ふんと鼻を鳴らした。 「忘れ物だよ」 「珍しいね」 「俺のじゃねぇよ。親父が、弁当忘れたんだよ」 そう言って机の上を指差し、祐輝は不満そうに眉を寄せた。 オレンジのペイズリー柄のバンダナで包んだ弁当箱が、テーブルの上にぽつんと残されている。今日の食事当番である祐輝が、自分より早く家を出る父の為に用意して置いたのだ。それに気付かなかった父の為に、わざわざ取りに来たお節介な兄を笑いながら、和輝はソファから身を起こした。 「今日、試合だろ?」 「俺は出ないけどな。お前は学校だろ。遅刻するぞ」 「うん。もう、出るよ」 傍に置いてあった荷物を掴み、立ち上がる。何事も無かったかのように笑う和輝を冷ややかな目で見下ろし、祐輝は溜息を零した。 「赤嶺陸か……」 その名に、支度をしていた和輝の動きが止まる。すぐに何事も無かったかのように動作は開始されたけれど、それを見逃す程に祐輝は愚鈍ではない。同時に、容易く触れる程に浅はかでもない。 祐輝は一つ咳払いをして、玄関に向かった。思い出されるのは中学時代、シニアリーグに所属していた頃。チームを引退した自分の代わりにマウンドに立った少年を、祐輝はよく覚えていた。 頭角を現したのだろう。中学の頃から化物と評価されていた赤嶺陸を、今更になって持て囃す報道機関に呆れてしまう。急ぎ足で玄関を飛び出していく和輝を追って、祐輝も荷物を担ぎ直した。 玄関を出た和輝は目を細めた。頭上から一杯に降り注ぐ光が眩しく、目を開けていられない。不意に、声がした。 ――顔上げろ そうだね。俯いていたらいけないね。 なあ、陸?
「好い気になってんじゃねぇよ!」 ゴツンとも、ブツンとも付かない鈍い音がした。 賑わっていたグラウンドが一瞬の静寂に包まれる。風の音すら止んだ沈黙の中でパタパタと、何かが落下する音が連続した。誰もがその一点を凝視し、確認すると同時に傍にいる者と囁き合った。 何が切欠だったのかなどもう解らない。両手で顔を覆って膝を着く少年の足元に、大粒の血液が落下する。 「う……」 微かな呻き声。指の間に覗く大きな双眸が痛みに細められる。顔を真っ赤にして興奮している少年は、大きく肩で息をしながら血液を零し続ける少年を睨み下ろしていた。 それは和輝達が中学二年の頃。祐輝達が引退し、新たな年を迎えたばかりの初夏の夕暮れだった。祐輝を中心とした昨年は当たり年と呼ばれ、当時レギュラーを張っていた将来有望な面々は、それぞれ名のある強豪チームに引き抜かれた。そして、その二つ下の和輝の代もまた当たり年として、多くの才能ある少年達がレギュラーの座を掴んだ。間に挟まれた現在の最年長である少年達は所謂外れ年――。祐輝達の引退を切欠に、幾度と無く衝突を繰り返して来た。 止め処無く流れ続ける鼻血を両手で押さえながら、和輝は立ち上がった。 「和輝!」 駆け寄ったのは匠だ。正面で大きく呼吸を繰り返す少年の名は廣瀬という。和輝達の一つ上の中学三年生で、新年度になりレギュラーの座を掴んだ少年。強く握られた両拳がぶるぶると怒りに震えている。 ぶつけられたであろう白球は、泥と血液に汚れていた。 「……顔、洗って来ます」 声が震えている。素早く背を向けた和輝が小走りにグラウンドから離れ、匠が支えるようにして隣に並ぶ。残された面々は動揺を隠せないまま、騒ぎによって止められた練習後のグラウンド整備は中々再開されない。 傍に設置された水道で顔を洗う和輝の背中が震えている。流れ続ける水道水は赤く染まっていた。 「兄貴の七光り野郎が! お前を評価してる奴なんて、いねぇ!」 そんな筈無い。 和輝の背中を摩りながら、匠は言い返してやりたかった。けれど、言い返す為に振り向こうとする匠の手首を、強い力で和輝が握り締めている。悔しいのか悲しいのか、苦しいのか腹立たしいのか。それとも、その全てか。 「お前等もそう思うだろ!? あいつはへらへら笑って、俺達のこと、皆見下してんだよ!」 言い返す必要なんてない。他愛の無い嫉妬だ。無言で匠の手首を掴む和輝は、止まらない血を流し続ける。茫然とその出来事を見遣る廣瀬が、酷く苦しそうに周囲に訴え掛けていた。 「あんな奴、このチームにいらねぇ! 誰も必要となんかしてねぇんだよ!」 和輝の背中がびくりと震えた。否定の言葉を吐こうとした匠が振り返る。だが。 「――黙れよッ!」 叫んだのが誰なのか、廣瀬が視線を巡らせる。 此方を睨むナイフのように鋭い眼差しは、殺気にも似た炎を宿しながら真っ直ぐ廣瀬に突き刺さっている。大きな影を後ろに落とす少年が、軋む程に拳を握って振り絞るように叫んだ。 「お前なんかに、和輝の何が解る!」 赤嶺陸だった。足元に転がった白球に視線を遣る。泥と血液に塗れたそれは、磨いたとして果たして元の色を取り戻すことが出来るのだろうか。和輝を傷付ける為だけに放たれたその白球は、そんなことの為に存在する訳では無かったのに。 「何が兄貴の七光りだ、何が俺達を見下してるだ! あいつが一度でもそんな態度取ったことがあったかよ! お前が、そうであって欲しいだけだろ!」 才能にも仲間にも恵まれた少年が、少しも鼻に掛けない優等生であることが許せないだけだろう。弱音も泣き言も零さず、欠点一つ見せない少年を妬む自分を正当化したいだけだろう。 「あいつが一体何をした! お前みたいに暴力で傷付けたか! 仲間を汚い言葉で踏み躙ったか! チームにいらないのは――」 「陸!」 続けようとした赤嶺の言葉を、青樹が遮った。再び静寂が訪れる。 騒ぎを聞き付けた当時のキャプテンが小走りにやって来た。 「何事だ」 酷く興奮した様子の赤嶺と廣瀬。間に入る青樹。傍から見れば、二人の喧嘩の仲裁を青樹がしているといった様子だ。それでも何か様子が違うと首を傾げても、説明しようとする者は誰もいない。誰もが目を逸らし、無関係を装う。 何でも無い、と。 素っ気無く答えた廣瀬が背を向ける。キャプテンも追及はせず、そうか、とだけ答えてグラウンド整備に加わって行く。 和輝は何も言わなかった。流れ続ける水道水は漸く透明に戻った。それでも、匠の手を掴む手が小刻みに震えている。匠はその手を握り返した。 「――おい、和輝!」 グラウンドを踏み締め、まるで怪獣のような足音で、いきり立ってやって来るのは赤嶺だ。苦笑交じりに後を追うのは青樹で、和輝は振り返らない。 苛立ったように赤嶺が言った。 「何で黙ってる。何で何も言わない。これが初めてじゃ、無いんだろう」 和輝は何も言わなかった。隣の匠は無言で、それを肯定している。 陰口くらいで済むなら安いものだ。才能ある人に、嫉妬や羨望が付いて回るのは当然のこと。そんなものに気を取られて足元を掬われる訳にはいかない。真っ直ぐ前を見て歩き続けなければならない。……そう、解っているのに。 「馬鹿か、お前」 それまでの怒りも失せたように、赤嶺は呆れ切った口調で言った。 「泣くぐらいなら、何で言い返さない……」 蛇口を睨む和輝の頬が濡れている。水道水だけでないことは、誰の目にも明白だった。 鼻を啜りながら、和輝は乱暴に袖口で顔を拭った。 「いいんだ、俺は実力で見返すから。俺が強くなればいいんだ」 「和輝」 「嘗めんな、俺は負けねーよ」 振り返った和輝に、涙などありはしない。不敵な笑みすら浮かべる少年の呆れてしまうような強がりに、青樹は溜息にも似た苦笑を漏らす。 赤嶺は舌打ちをした。 「そういうところが、癇に障るんだろうぜ」 ぎくりと、和輝の動きが止まる。だが、すぐに何事も無かったかのように笑う。 ほら、そういうところだよ。無表情に赤嶺が言うが、和輝は何も言わなかった。黙って俯く和輝の口元に残した笑みが痛々しかった。「もういいだろ」匠が言った。 「顔上げろ」 赤嶺が言った。 「足元には何も無いぜ」 「顔上げたら、何がある」 和輝の声は微かに震えていた。ぶっきらぼうに赤嶺が答える。 「知らねぇよ。いいから、顔上げろっつてんだろ」 「お前に命令される筋合い無ぇ」 意地になって顔を上げない和輝に、苛立った赤嶺が掴み掛る。 「顔、上げろって、言ってんだ、ろ!」 「い、や、だ!」 「馬鹿か、お前は!」 怒鳴り付けた赤嶺が、和輝の胸倉を掴んでグラウンドに叩き付けた。強かに腰を打ち付けた和輝が低く唸るのを、ご愁傷様と言わんばかりに匠と青樹が顔を背ける。それでも顔を上げないで意地を張る和輝に、赤嶺は根負けしたように舌打ちをした。 「もう、いい!」 「――陸?」 見捨てるような言葉に、つい和輝が顔を上げる。だが、赤嶺はその視線を一切外すことなく真っ直ぐに和輝を見ていた。 「ずっと、そうやって強がってろ」 「陸……」 「ずっと、そうやって抱え込んでいればいい。――代わりに俺が、怒るから」 言葉の意味を掴み兼ねたように、和輝が瞠目する。赤嶺はにこりともしない何時もの無表情で、当たり前のように言った。 「見捨ててなんてやらねーよ。放っておいてなんてやらねーよ。文句があるか?」 「素直じゃないのは、お互い様だろうが」 ふう、と息を吐いて青樹が言った。赤嶺は鼻を鳴らして目を逸らす。 グラウンドで、キャプテンが呼んでいる。匠が、青樹が足を踏み出す。座り込んだままの和輝がグラウンドに手を突き、起き上ろうとした。その時。 「ほら、さっさとしろよな」 匠が、青樹が当然のように和輝を待っている。赤嶺の差し伸ばされた手を、和輝は取った。大きくてごつごつした掌だった。何千何万と白球を握り、放って来た強いピッチャーの掌だ。 「解ってるよ」 走り出す。匠が、青樹が、赤嶺が、和輝が。 ずっと、一緒にいられると思ってた。ずっと、仲間でいられると思ってた。 ――裏切り者 ずっと、友達でいられると思ってた。
2011.8.31