夢を見た。
 裏切り者と罵った赤嶺と匠が揃って背を向ける。当事者であった筈の俺は、何故か彼等の斜め上から傍観者のように何の感傷もなく眺めていた。
 中学時代を思い起こさせる何かに触れる度に、繰り返し見て来た悪夢。彼等のその声と共に飛び起きると、雨の中歩いて来たように体中が寝汗でびっしょりになっている。
 だが、今朝は違ったのだ。
 背を向けた赤嶺と匠の顔が、まるですぐ傍で見ているかのように解った。
 俯く自分以上に、泣き出しそうに表情を歪めた二人の横顔。夕日に照らされる頬を伝う滴は汗だったのだろうか。――本当に?


「起きろ、和輝!」


 扉を破る勢いで叩かれた、ノックと呼ぶには聊か乱暴なその音に意識は急浮上した。飛び起きた和輝は寝惚け眼で、騒音と呼ぶに相応しい音量で騒ぎ立てる目覚まし時計を押え付ける。騒音が止んだことに満足したらしく祐輝が階段を下りて行った。
 大きな欠伸を一つ。和輝はベッドから抜け出した。何時ものように制服に着替えようと寝間着のシャツを脱ぎ、気付く。真夏の冷房の無い室内だというのに、寝汗一つ掻いていない。
 赤嶺と久しぶりに話をした程度で、この為体。新陳代謝が悪いのかも知れないなんて考えてみるが、鮮明に思い出される夢を思えば原因ははっきりしている。


(この正直者……)


 馬鹿らしい。自分自身に呆れながらYシャツの袖に手を通す。
 勢いよく開けたカーテンの奥に、灼熱の太陽が眩しく輝いていた。


「さっさと仕度しろよ!」


 下階から怒鳴り付ける普段の兄らしかぬ態度に、何事だろうと呑気に考えながら返事も無く仕度を済ませる。平日のど真ん中だが、今日は晴海高校の四回戦の試合が行われる。天候にも恵まれ、まさに野球日和。勝敗以上に熱中症に気を付けなければならないようだ。当然、負ける気など微塵も無いけれど。
 階段を下りると、食事当番の祐輝が苛立ちを隠そうともせず、がちゃがちゃと音を立てて味噌汁と掻き混ぜている。ダイニングテーブルで食事を待っている父、裕は欠伸をしながら新聞を広げ、大きな欠伸をする。その呑気な仕草に苛立った祐輝の鋭い視線が突き刺さるが、裕は気にする素振りも見せない。
 和輝は裕の隣りに座り、声を潜めた。


「……兄ちゃん。何、怒ってんの」
「ん? ああ」


 思い出したように裕は新聞を閉じ、悪童のような笑みを浮かべた。


「涼也君にな、たっぷりからかわれたみたいだぜ」
「涼也兄ちゃんに……」


 なるほど、と和輝は苦笑した。その名が聞こえたらしい祐輝が睨んで来たが気にしないことにする。
 祐輝にとって、幼馴染の涼也は天敵だ。飄々とした態度を崩さない涼也は何時でも生き甲斐とでも言うように祐輝をからかっては嬉しそうに笑っている。何も考えていないのかと思えばそうではなく、物事の核心を突くような鋭さも見せる。
 頭の固い祐輝が、涼也を苦手と思うのも無理はない。それでも切り捨てられないのが幼馴染という腐れ縁の辛いところだろう。
 新聞を閉じた裕が嬉しそうに笑う。


「あいつにも、涼也君みたいな存在が必要なのさ」
「涼也兄ちゃんみたいな?」
「ああ。天才でもなく、完璧でもなく、ヒーローでもない蜂谷祐輝として接してくれる人や居場所がな」


 胸の中に風が吹き抜けたような気がして、和輝は口を噤んだ。
 祐輝にも、必要だったのだろうか。一人で何でも出来て、何時だってヒーローのような彼にも、そんな人や居場所が必要なのだろうか。
 考え込む和輝に視線を向け、裕は言った。


「どんな人間にも休息は必要だ。そんなもの必要無いと思っている奴は、気付いていないだけだよ。自分を支えてくれる存在にな」


 和輝は、頷いた。父の言葉が痛い程、身に染みた。
 丁度、用意が出来たらしい祐輝が大きな音を立ててテーブルに皿を並べた。白い平皿の上で焼き鮭が跳ねる。味噌汁を装う為、再び背を向けた祐輝に聞こえないように裕が声を潜めた。


「おっかねー。鮭には何の罪も無ェのになぁ」


 焼き鮭に向かって話し掛ける裕の姿が子供っぽく、和輝は可笑しそうに笑った。


金色の砂・1

俺はもう 迷わない


「廣瀬耕也? ああ、あいつな」


 玄関を出た祐輝が、愛用の自転車を押しながら面倒臭そうに言った。昨夜の苛立ちを今朝まで引き摺っていたが、漸く怒りは鎮まったらしい。今日の試合の相手を告げれば祐輝は大して興味も無さそうに頷く。珍しいな、と和輝は思った。
 仮にも橘シニアのチームメイト。祐輝にしてみれば後輩だ。引退してからは何の接点も無かっただろうが、余りにも態度がぞんざいではないだろうか。


「あいつが大西高校か。ふうん」
「身長190cmあるらしいよ」
「関係無ぇよ、身長なんて」
「まあね。兄ちゃん、廣瀬先輩のこと嫌いだっけ?」
「ああ。好きか嫌いかって言ったら……大嫌いかな」


 祐輝が此処まで、他人を嫌うのは実に珍しいことだ。
 それきり黙った祐輝はこれ以上何かを言うつもりは無いのだと悟り、和輝は苦笑して追求するのを止めた。


「――じゃあな、和輝。エラーすんなよ」
「兄ちゃんこそ。ヘマしたら、また涼也兄ちゃんに笑われるよ」
「殴られてぇのか!」


 拳を振り上げた祐輝から逃げるように、和輝は走り出した。
 本日は平日の為、平常授業が行われている。野球部は公式試合ということで公休が許されるが、応援団はそうもいかない。久しぶりに寂しくなる応援席を考えつつ、和輝は集合場所の球場入口へ向かった。
 応援団はいない――。だが、それは晴海高校だけの話のようだ。
 大西高校側の応援席に向かう観客を遠目に眺め、和輝は歩調を緩めた。集合時間に随分と早かったからだ。所謂アウェーなのだが、逆境には既に慣れてしまった。
 携帯で時刻を確認しつつ、少し早いが集合場所で待っていようかと考えていたとき、覚えのある声がした。


「和輝?」


 呼び掛けに応えるように目を向ければ、太陽を遮る壁のような大男が立っていた。ざわめく観客の様子からして、恐らくは大西高校の出場選手だろう。
 軽く挨拶をして通り過ぎようとするが、覚えのある声と親しげに自分を呼ぶその様子から素通りなど出来ない。
 顔は見えない。だが、和輝は足を止め、不敵に笑った。


「――お久しぶりです、廣瀬先輩」


 影が晴れていく。光に照らされた相貌は健康的に黒く焼け、鋭い目がぎらぎらと輝いている。遥か上空の顔を見て笑う和輝に、相手は面白く無さそうに鼻を鳴らした。


「お前が相手とは、面白いことになったな」
「相手は俺じゃありません。晴海高校です」
「弱小チームだろ。勝負になるのかよ」
「弱小が此処まで勝ち残る訳無いでしょう」


 和輝の返答に気を悪くしたように、廣瀬が顔を顰めた。


「相変わらずだな。派手にやらかしてるみたいじゃねぇか。有名人は大変だな。祐輝さんは元気か?」
「ええ、お蔭様で。兄からは、何のご挨拶も承っていませんが、何か託があれば是非」


 廣瀬が、忌々しげに舌打ちした。和輝は不敵な笑みを一切崩さない。


「ガキが生意気な口利いてんじゃねぇぞ」
「年が何の基準になる。無駄に年だけとった馬鹿を、俺は山程知ってるぜ」
「てめぇ……!」


 敬語すら忘れたように話す和輝の表情は変わらない。
 40cm近い身長差に臆することなく啖呵を切る和輝は、嘗て廣瀬が見たものとは異なる。どんな不条理も仕方が無いと諦め受け入れて来た脆弱な少年は、自分の知らない一年の間に変わったようだった。


「天才の弟だとか、ちやほやされてるみてぇだが……。その化けの皮剥いでやるよ」
「剥がされるのは、どっちかな」


 和輝がそう言ったと同時に、後頭部を叩かれる。前のめりに倒れそうになるのを、寸でのところで堪えた和輝が振り返ると、我らがキャプテンの無表情がそこにあった。


「キャプテン!」
「てめぇ、アウェーで何やってやがる。前に言っただろ。お前もプレイヤーなら、主義主張は全て己のプレーで示せと」


 その通りだ。高槻の言葉には何故か、反論する気も無くなるような説得力がある。それがキャプテンの器なのだろうか。和輝には解らない。
 高槻は嫌味な程、大きく溜息を吐いて廣瀬を一瞥する。


「試合前から悪かったな」
「全くだ! そのガキに、目上の人間に対する口の利き方、よく言っておけ!」
「ああ、そうするよ。……だが、その言葉そっくり返すぜ。年上の人間は敬わなきゃいけねぇよな」


 鼻を鳴らし、高槻は背中を向ける。小さな後姿だが、其処には揺るぎないエースの背番号があった。
 驚いたように目を見開く廣瀬の後ろで、二人の存在を認めた観客や選手がざわめく。


「俺は三年。晴海高校のキャプテンだぜ?」


 そう言い捨てた高槻の横顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。その体躯に見合わぬ力で和輝を引き摺って行く後姿を、廣瀬は茫然と見つめていた。


「キャプテン、すみませんでした……」


 無言で自分を引き摺る高槻に、自分で歩きますと申し出ることすら言い出せず和輝は口籠りながら言った。怒っているだろう。当然だ。星川戦で言われたことを懲りもせず、平然と繰り返したことにどんな罵声を向けられても仕方が無い――というか、当然だ。
 黙りこくった和輝に、高槻は振り向きもせず言った。


「何を謝ることがある」
「――えっ?」
「いいよ、あのくらい。ああいう奴は、黙ってりゃ図に乗る。俺ならもっと罵ってやったさ」
「……キャプテン、何処から聞いてたんですか?」
「お前が、年が何の基準になる――って、言ったところからかな」


 しまった、と口を押えるが、過去を変えることは出来ない。平然と集合場所に向かう高槻は、ふと足を止めた。


「無駄に年だけ取った馬鹿って、俺達のことじゃねぇだろうな」
「当たり前なこと、訊かないで下さい」


 ならいい。
 そう言って高槻はまた歩き出す。引き摺られながら、ズボンが擦り切れそうだなと和輝は思った。

2011.9.4