試合開始のブザーが鳴り響く度に、和輝は肩を跳ねさせる。
 好い加減慣れただろうと箕輪が笑うが、和輝にとっては当たり前のように聞き入れている彼等が不思議で仕方が無い。何しろ、和輝にはこのブザーがまるで誰かの断末魔のように聞こえるのだ。試合の開始と共に終了を告げるその音が断末魔というのはあながち間違ってはいないのだろうが、それにしても不気味な音だ。


「――行くぞっ」
「「おおっ!」」


 高槻の声を合図に、晴海ナインがグラウンドを駆ける。その最後尾で和輝は整列する大西高校の面々を見ていた。一際大きい少年が目立つ。廣瀬だ。
 列の後尾に並ぶ廣瀬とは、狙わなくとも自然と向い合せになる。正面の廣瀬の視線が鋭いのは、身長差故に見下ろされていることだけでは、無いだろう。


「これより、晴海高校と大西高校の試合を始める。両校、礼!」
「「お願いします!」」


 試合開始のブザーが鳴り響く。先攻の晴海高校はベンチに戻って行くが、トップバッターの和輝は手早く仕度をしてバッターボックスに向かった。
 マウンドに廣瀬耕也。その顔を見ることの無かった一年の間に、随分と成長したものだ。小高いマウンドという丘の上に立つ廣瀬の背後に太陽が隠れ、彼の顔には暗い影が落ちて表情を伺わせない。
 観客席からの黄色い声援。蜂谷祐輝の弟というネームバリューによるミーハーな応援だ。三鷹戦での野次、罵倒は無くなったけれど、それが何時再開されるのかなんて解らない。
 でも、解らなくていい。どうだっていい。
 廣瀬が此方を睨んでいても、観客が勝手な罵詈雑言を浴びせたとしても、構わない。


――お前もプレイヤーなら、主義主張は全て己のプレーで示せ


 高槻が言った言葉は真理だ。どんなに美しい言葉を並べたって、中身が無ければそれはただのきれいごと。


「お願いします!」

 挨拶と共にバッターボックスに入る。夏の生温い風が頬を撫でた。
 金属バットを掲げ、和輝は笑った。呼吸は勿論、言葉すら聞き取れない騒音の中、バッターボックスだけが別空間のように静かだ。ゆっくりと構える和輝に、廣瀬がワインドアップする。――来る。
 頭上に掲げられたボールはグラウンドから2m以上離れている。投石器のように翳された白球を見失うことなく、和輝はヘルメットのツバの下で双眸を光らせる。放たれた。
 白球が空気を巻き込んで唸る轟音が聞こえて来るようだ。自然体のフォームを崩すことなく、和輝はその初球を横目に見る。叩き落された白球はキャッチャーミットに届く前に、グラウンドに衝突した。
 跳ねたボールはキャッチャーミットに飛び込んだ。


(……フォークか)


 咳払いを一つ。バットのグリップを確かめ、握り直す。
 キャッチャーからの返球。大西高校の応援団、太鼓が喧しく鳴り響く。
 この高さからのフォークを打つのは、なるほど確かに骨が折れそうだ。全国を探しても此処まで長身のピッチャーはそういないだろうし、球威も中々のものだ。
 力で押え付けようという魂胆が、丸見えだ。
 廣瀬が自分を嫌っているのは十分に解った。思い起こせば、彼が三年の頃から和輝は四番サードの花形だった。それもまた、気に食わなかったのだろう。遣り返される心配をしなくていいから、自分を集中的に狙っていたのだ。
 けれど、和輝もまたその小悪党のような性格が好きではない。好きでもない人間に好かれたいとは思わないし、理解して欲しくも無い。
 だが、あの頃とは違う。解らないなら、解らせてやる。見せてやる。
 構え直した和輝の変化に、どれ程の人間が気付いただろう。その双眸に灯った鬼火にも似た光に、どれ程の人間が気付いただろう。


(見てろ)


 グラウンドを見ていた高槻は、ぴたりと動きを止めた。真夏だというのに、鳥肌が立っている。視線の先にいるの小さな少年だ。周囲の期待や羨望に押し潰されそうになっていた少年。
 真夏の灼熱も、生温い風も、観客席の声援も、張り詰めた緊張感も、向けられる敵意も全てが渦のように巻き込まれていく。小さな少年が口元に浮かべた微かな笑みに、全ての音が掻き消される。
 努力とか、才能とか、実力とか。そんな陳腐な言葉では言い表せない。体中の毛穴が開くような力強さ。晴海高校の誰もが、声援を送ることどころか呼吸すら忘れたように目を奪われている。
 ピッチャーが振り被った。放たれた白球の勢いなどまるで気にもならないかのように、和輝はバットを引いた。そして、次の瞬間。
 誰かの悲鳴のような高音がグラウンドに響き渡った。白い閃光が二遊間を抜ける。ショートは反応することすら出来ない。
 一瞬遅れての大歓声。割れんばかりの歓声が球場を包み込む。
 小さな少年の影は既に一塁を蹴っていた。レフトがもたついている。影は二塁を駆け抜けた。
 外野からの唸るような送球。和輝はグラウンドを蹴った。
 乾いた砂が舞う。静まり返ったグラウンドで、審判がゆっくりと両手を開く。


「セーフ!」


 わっと応援が沸き立つ。ノーアウト、ランナー三塁。
 砂に塗れた和輝が、腹部を叩きながら立ち上がった。ベンチに向けてにっこりと微笑む。嬉しそうな心の声が聞こえて来るようで、高槻は苦笑した。


「流石、和輝だぜ!」


 自分のことのように嬉しそうな箕輪の横で、高槻は未だ鳥肌の立つ腕を見た。
 周りの全てを巻き込む竜巻のようなあの張り詰めた空気を、知っている。三塁で得意げな顔をする少年が、世間を騒がすあの天才ピッチャーを重なった。彼は決して喜ばないのだろうけれど、血は争えないなと思う。
 頭角を現して来たのだ。あの少年は、まだ発展途上。
 和輝がチーム内で疎まれる理由が解らない訳ではない。実力至上主義だった橘シニアの後輩に、あんな選手がいれば誰だって嫌だろう。実力も才能もあるのに、驕ることなく努力を惜しまない。陰口を叩く理由すら与えないその存在を好きだと言えるのは、無関係の傍観者だけだ。同じ立場だったなら、きっと自分の限界を目の当たりにして絶望しただろう。
 高槻はマウンドを見た。酷く悔しそうな廣瀬の気持ちが手に取るように解る。
 晴海ナインが誰一人、廣瀬のように敵意を抱かないのは、和輝の弱さを知っているからだ。不完全さを、脆さを、未熟さを誰よりも知っているからだ。和輝がこれまで隠し続けた本音が解るからだ。だから、誰も彼を見捨てないし、裏切らない。


(なあ、気付いてるか? それって、すごいことなんだぜ)


 どんなお前でもいいって、言ってくれる仲間がいる。それがどんなにすごいことか気付かないのかな。
 敵意を持つ人間もいるだろう。否定する人間もいるだろう。それでも、どんな時でも絶対に見捨てない仲間が傍にいる。それって、すごいんだぜ?


「まるで、あいつは磁石だな」


 隣りで、萩原が言った。高槻が目を向けても、萩原は魅入られたようにグラウンドの小さな少年を見詰めている。


「多くの砂の中から、光る砂だけが集まって来る。人を惹き付けて離さない。あいつは本物のヒーローだよ」


 萩原らしくない言葉だが、その通りだと高槻は何も言わなかった。


金色の砂・2

天才の所以 ヒーローの証明


 終わったことは仕方が無い。
 和輝は常々そう思っていた。否、思おうとしていた。過去は変えられないのだから、気持ちを切り替えて前に進むしかない。そんなことは言われなくたって解っている。
 向けられた敵意を何時までも覚えている。自分が可哀そうと思うのは良くない傾向だ。解っていても、胸の中に残る傷跡は簡単に癒えたりしない。だから、廣瀬が向けた敵意も罵詈雑言も一つ残らず和輝は覚えている。
 あの時は弱い自分に代わって赤嶺が言い返してくれた。匠が守ってくれた。青樹が手を差し伸べてくれた。だから、自分は誰も傷付けない善人の皮を被っていられた。
 でも、もうそれでは駄目だ。
 傷付けたくないから、誰も傷付けない?
 戦いたくないから、誰とも戦わない?
 向き合いたくないから、誰とも向き合わない?
 そんなの、もう駄目だ。大切なものを守る為には戦わなきゃいけない時もある。傷付けなきゃいけない時もある。そして、向き合わなければならない日が必ず来る。守られてばかりではいけないのだ。人の優しさに甘えて弱いままでいていい筈が無い。
 バッターボックスに桜橋がいる。廣瀬の白球が放たれる。バントのサイン。
 桜橋は絶対にしくじらない。和輝は飛び出した。叩き付けるような白球が、金属バットを掠めて一塁線に転がる。
 廣瀬が走る。和輝が走る。長い腕が打球を掴み、矢のような送球で本塁へ向かう。和輝は突っ込んだ。


「セーフッ!」


 先取点――。
 沸き立つ応援は一体、何を喜んでいるのだろう。砂を払って立ち上がりながら、和輝は不意にそんなことを思った。
 バッターボックスに入る藤と擦れ違い、和輝は大きく息を吐いた。


「よう、ナイラン」


 出迎えた我らがキャプテンは、腕を組んで仁王立ちしている。大して身長も変わらないのに、高槻は和輝の頭を撫でて言った。


「よくやった」


 珍しいな、と思いつつ和輝は擽ったそうに笑う。
 大したことはしていない。廣瀬の球は、毎日のように見ている兄の球に比べれば棒球も同然だったし、三塁までの疾走も守備のもたつきに寄るものだ。選手がグラウンドで全力を尽くすのは当たり前のことで、己の主義主張はプレーでしろと言ったのも高槻。褒められるようなことは、していないけれど。
 胸の中に沸々と沸き上がる温かさと、安心感。


「当然です」


 手袋を外しながら、和輝は言った。水分補給をしようとベンチの奥へ向かう背中を一瞥し、高槻は笑う。自分は一体、何を褒めたのだろう。高槻にも、それは解らなかった。
 観客席で、既に夏を終えた少年達が見下ろしている。制服に身を包み、二度と袖を通すことの無いユニホームに寂寞の思いを抱きながら、空しさと僅かばかりの希望を持って一人の少年を見ていた。
 速水は、くつりと喉を鳴らして笑う。


「すげぇな、あいつ」


 それが誰を指すのか、解っただろう。隣に座っていた春樹は頷かぬ代わりに口角を釣り上げてそれを肯定した。
 ベンチの奥に消えた少年の存在感は未だグラウンドに残っている。騒ぎ立てる観衆の声を掻き消したあの冷涼な凛とした空気は、常人のものとは明らかに異なる。そして、彼等はその空気を知っている。


「まるで、――蜂谷祐輝みたいだった」


 清涼飲料水のペットボトルを握りながら、夏樹が言った。
 昨年の夏、三鷹学園は蜂谷祐輝のいる翔央大附と甲子園で対戦した。途中登板した蜂谷祐輝は、大観衆をその冷涼な空気の中に呑み込み、鋭い眼差しで黙らせた。
 言葉を発することなく、プレーを見せることなく、その存在感だけで相手を圧倒する。天才という言葉だけでは追い付かない何かが彼にはある。
 その同じものを、あの小さな少年にも感じたのだ。夏樹は笑う。手の中のペットボトルが軋んだ。


――お前なんか、怖くない。


 子どもの負け惜しみのような声が、今も頭に残っている。
 敵どころか仇であるのに、あの少年には応援してやりたくなる何かがある。単純に恨みのある蜂谷祐輝とは別人だということが理由なのかも知れないけれど、どうしてかあの少年のプレーは見ていたくなる。目が離せない。


「また試合したいなぁ」


 独り言のように呟いた夏樹の声に、速水は片眉を跳ねさせる。


「誰と?」
「決まってんじゃん」


 横から春樹が口を挟む。解り切ったことを聞くなとでも言いたげな春樹の声に、速水は苦笑した。夏樹の目は一点を見詰めている。
 グラウンド、最小の選手。蜂谷和輝を。

2011.9.4