試合は終盤を迎えている。
晴海高校は現在三点差で勝ち越している。八回表の晴海高校の攻撃は下位打線から始まる。それでも、格下相手と高を括っていた大西高校に余裕などある筈も無かった。マウンドの廣瀬は滴り落ちる汗を袖で拭い、小さく咳払いをした。
気温は既に32度を超えている。グラウンドにいる選手は天日干しどころか、鉄板の上でジュウジュウと焼かれている気分だった。立ち上る陽炎に視界が揺らぐ。
観客は団扇のように手で仰いだり、太陽光を遮る帽子に縋ってみたりと如何にか暑さを凌ごうとしている。それでも、彼等の目は一点に注がれ離されることはない。それはマウンドの廣瀬でもなく、バッターボックスの雨宮でもなく、グラウンドにいるどんな選手でもない。彼等が今望んでいるのはただ一人だ。
ベンチの暗闇に消えた少年が顔を出す。その目はバッターボックスに向き、幼少より鍛えて来たよく通るボーイソプラノで声援を送ろうとした。だが、大きく息を吸い込んだその瞬間、観客席から津波のようなどよめきが押し寄せた。
出鼻を挫かれた気分で和輝は口籠る。ある筈の無いスポットライトが当たっているような気がするのは、和輝の自意識過剰ではないだろう。グラウンドの面々はそんなこと気にすることもなく目の前の相手に向き合っている。それがあるべき姿だ。
気持ちを切り替えるように咳払いをし、和輝は顔を上げた。
雨宮がバットを振り切る。打球はショート真正面。乾いた音と共に打球はグラブに吸い込まれた。
「アウト!」
ワンナウト。観客席からの溜息と歓喜の声。
入れ違いにバッターボックスには箕輪が入り、和輝はネクストバッターズサークルに向かう。そして、待ってましたとばかりにその背中には大勢の声援と野次が圧し掛かる。
そういうものだ。解ってはいるけど……。
(辛いなァ)
苦笑いを浮かべ、和輝は片膝を着いた。素振り用に錘の付いたバットを杖のようにし、バッターボックスを見詰める。
観客が見ているのは天才、蜂谷祐輝の弟。これはまるで偶像崇拝じゃないか。呆れたように溜息を吐きかける背中に、聞き覚えのある声援が掛かった。
「――頑張れよ、和輝!」
バッターでもなく、ピッチャーでもなく。
ネクストバッターズサークルにいる選手一人に声援を掛けるのは、余程その選手と親しい人間くらいだろう。振り返った和輝の目に、見覚えのある――出来れば会いたくなかった顔があった。
「見浪、翔平……」
光陵学園一年、見浪翔平。中学時代を知っている箕輪からは、えげつない強打者だと評価されていた。そんな男にまで声援を送られるとは、一体自分は何者なのだろう。そして、それでも喜んでいる自分は一体何なのだろう。
敵に塩を送るとはこのことだな、と和輝は自嘲した。箕輪の打球が空高く浮かび上がる。
「アウッ!」
キャッチャーフライだ。ツーアウト。
カツン。バットに装着した錘を落とし、和輝は立ち上がった。ヘルメットを被り直し、和輝はバッターボックスへ向かう。
『バッター一番、蜂谷君。背番号五番』
アナウンスと共に現れた和輝に球場が沸き立つ。
アイドルでも現れたかのようだ。自嘲しつつも、現状と以前見た兄の試合と見比べる。祐輝が登板するときは何時もこうだった。
「天才ってのは、そういうもんだぜ」
皮肉っぽく呟いた見浪の声は届かない。
「まだだぜ、和輝。こんなところで潰されんじゃねぇぞ。――お前を叩き潰すのは、俺なんだから」
金色の砂・3
何時だって、気付いた時には遅過ぎる
試合終了を告げるサイレンが鳴り響く。勝利の喜びと安堵を浮かべる面々の中、ただ一人和輝は眉を寄せる。このサイレンはどうしても好きになれない。
整列、挨拶。試合終了の儀式を一通り行って、和輝はベンチに引き返す。
五対零で晴海高校の勝利。無失点に抑えた勝利投手である高槻は眉一つ動かさず、嬉しそうな顔など決して浮かべない。勝って当然という意識があるのだろうか。それとも、感情表現が煩わしいのだろうか。和輝には解らない。
第二試合が控える球場は観客が入れ替わる。勝利の余韻に浸る間もなく素早く仕度をして退場する。
試合終了と共に、膝を着いた大西ナイン。零れ落ちた大粒の涙がグラウンドに染み込んでいた。彼等の夏が、終わったのだ。
薄暗い廊下の奥、出口には光が溢れていた。
「学校に着いたら、ミーティングだ」
早口に高槻が言った。
勝利に喜んでいる場合ではないのだ。試合はこの先も続いて行く。
気を引き締めて球場を出た晴海ナインを出迎えたのは、忘れたくとも忘れられない敵の姿だった。
「廣瀬先輩……」
外灯に寄り掛かる廣瀬耕也が、泣き腫らしただろう赤い目でじっと此方を睨んでいる。和輝は高槻に視線を向ける。高槻は事情を察したように顎でしゃくった。
鞄を背負い直し、和輝は早足に廣瀬の元へ歩み寄った。高槻に促されて晴海ナインは先に駅へ向かって歩き出す。
直射日光が厳しく、余り長い時間当てられては倒れてしまいそうだった。廣瀬は照り付ける日光など気にならないように、無表情に和輝を睨んでいる。
「……ありがとうございました」
掛ける言葉が見付からず、その場凌ぎに口にしてみるが、廣瀬の目付きは益々鋭くなる。なら、何を言えば正解なのだろう。嫌味でもなく、同情でもない言葉は何だと言うのだ。自分の語彙の少なさに落胆する。
「あの、廣瀬先輩」
「――ねぇよ」
ぽつりと零した廣瀬の声は聞き取れなかった。困ったように眉をハの字にした和輝に向ける、廣瀬の目は相変わらず鋭い。
「俺はお前なんて、認めねぇ……!」
これは憎悪だ。和輝は黙った。
「天才だからってちやほやされて、好い気になりやがって……」
「……俺が、」
つい口に出た言葉を、和輝は後悔した。こんなことを言っても仕方が無い。通じない。今までそうして諦めて来た。解ってくれない相手にまで、解ってくれとは言いたくない。
でも。
「俺が、天才と呼ばれて、ただ喜んでいたと、本気で思うんですか?」
「何だと」
「あんたにゃ、解んねぇよ。――解って欲しいとも、もう思わないけど」
背中を向け、和輝は言った。お前に興味など無いとでも言いたげなぞんざいな言い方に廣瀬の顔が引き攣る。それでも和輝は振り返らず、先に行った仲間を追うべく歩き出していた。
廣瀬が、拳を握る。駅前の人込みに消えて行く小さな背中は振り返らない。
胸の内に沸々と浮かび上がる黒く淀んだ凶暴な感情。それを抑える必要など無いのだと廣瀬は悟り、大きく一歩を踏み出した。だが、その時。
「――そいつは悪手だぜ。今すぐ引込めな」
廣瀬が振り返る先に、ガードレールに腰を下ろす少年がいる。帽子を深く被る少年の顔は見えないが、ポケットに手を突っ込むその出で立ちは街並みに溶け込みながらも何処か常人とは一線を引く。
僅かに帽子のツバが上がり、鋭い目が闇の中に光った。
「まさか」
廣瀬の声が震えた。
いる筈がない。けれど、間違える筈もない。此処にいる少年は間違いなく。
「祐輝、君?」
其処にいるのは、蜂谷祐輝。世間を賑わす天才投手。
帽子を深く被ったまま祐輝はガードレールから離れ、驚きを隠せず言葉を失ったままの廣瀬に歩み寄る。通行人はまさか、こんなところに蜂谷祐輝がいるとは思わないだろう。
振り下ろされることの無かった拳を解き、廣瀬は祐輝を見ている。
「何で此処に、」
「和輝が、お前のいるチームと試合するって聞いてたからな」
祐輝の目は酷く冷たい。テレビで見る彼は何時だって輝いていたのに、目の前にいる祐輝は微笑みすら浮かべることなく、背筋が凍るような目だ。
「お前は和輝を目の敵にしてたから」
廣瀬は何も言わなかった。――否、言えなかった。祐輝がそれを知っていた筈が無い。
だが、祐輝の言葉は確信を持っている。
「俺が知らないとでも思ったか? 三年前、和輝を用具倉庫に閉じ込めたこと。練習中に和輝の顔面に硬球をぶつけたこと。――お前なんか必要ないと、和輝を罵ったこと」
祐輝の目に宿るのは、ナイフのように鋭い光だ。その怜悧な瞳は相手を呪うような憎悪に染まっている。
「だから、俺はお前が嫌いなんだよ」
「……ンだよ、祐輝君はいつも和輝のことばっかり気にして、あいつが何だってんだ!」
「気にして当然だろ。俺はあいつの、兄貴だぜ?」
其処で漸く、祐輝が笑う。それはつい先程の試合、嫌という程見た和輝の、此方を挑発するような不敵な笑みと同じだ。
廣瀬の中で燻っていた凶暴な感情が音を立てて燃え始める。
天才というだけで、祐輝の弟というだけで、人は和輝を認め敬い受け入れる。ただ、それだけで。
廣瀬が否定の言葉を吐こうと口を開くと同時に、祐輝が掌を翳した。彼の整った外見とは見合わない程、ごつごつとした歪な掌だ。これまで何千何万とボールを握り投げて来た掌だ。廣瀬の言葉を遮った掌を握り、祐輝は再び笑みを消し去った。
「……悪かったな」
ぽつりと零れ落ちた謝罪に、廣瀬は耳を疑う。
彼が謝ることなど、何もない。廣瀬はそう思った。それでも祐輝は伏せた目を上げ、揺らぐことの無い真っ直ぐな目で前を見据えている。
「俺はお前にとって、良い先輩では無かったな」
「――! そんなこと、」
「お前の努力を、一つも見付けてやれなかった」
努力は認めてもらうものではない。そんなこと、廣瀬とて百も承知の筈だ。橘シニアは結果こそ全て。どんなに努力していたとしても、実力者が勝つ。それは世界の条理でもある。
それでも、祐輝は気付かなければいけなかったのだ。届かなかった努力も、無駄でしかなかった苦労も、解ってやらなければいけなかった。
「恨むなら、俺を恨めよ。和輝は関係無ぇんだ」
「違う! 祐輝君は悪くない! 悪いのは、」
「なあ、何で、和輝が一度もお前に言い返さなかったのか解るか?」
廣瀬は黙った。
中学時代、和輝は幾ら罵倒されても、決して一言たりとも言い返さなかった。まるで、言い返す価値も無いと見下しているように、時間の無駄だと背を向けられているように。それが廣瀬の癇に障った。
だが、祐輝は言った。
「和輝は、お前の努力を知ってたんだよ」
「何――?」
「練習が終わった後、一人残って素振りしていたお前も、汗だくで町内を走り回るお前も、レギュラーを勝ち取る為に泥塗れで滑り込んだお前も、全部全部知ってたんだよ」
廣瀬に言葉は無かった。祐輝の言葉の意味が解らず沈黙している。
「解ってくれなんて、言えなかっただろうさ。血反吐が出る程に努力するお前に、自分は努力して此処にいるんだなんて、言えた筈無いだろう」
己の限界まで頑張っている人間に、頑張れなんて容易く言えた筈が無い。俺は努力したんだ、お前は努力が足りないんだなんて、言える訳が無い。
例え和輝が、廣瀬以上の努力をしていたとしても。
「じゃあ、俺は」
廣瀬は、両手を握った。
じゃあ、俺は。努力を認めて欲しいと願いながら、唯一の理解者だった和輝の努力を天才という言葉で踏み躙ったのか。
お前なんて認めないと、いらない存在なのだと、叩き落したのか。
廣瀬は、握っていた拳を開いた。さらさらと砂の音がする。掌から零れ落ちていく砂を抱え込もうとするけれど、それはするりと指の間から抜け落ちて消えて行く。もう、戻らない。
――廣瀬先輩
嘗ての後輩が、呼ぶ声がした。
廣瀬にとって祐輝は先輩で、和輝は――後輩だ。自分が育ててやらなければならなかった。自分は、彼に何をしてやれただろう。
辛く当たった。いないもののように扱った。それでも、彼は何一つ言い返さなかった。
(何時だって、気付いた時には遅過ぎる)
祐輝もまた、俯き帽子を深く被った。
自分達が引退した後のチームの内情を、廣瀬が和輝を恨む理由を、和輝が何一つ遣り返さなかった意味を知ったのは昨夜のことだ。和輝の試合相手を知った涼也が、何時もの飄々とした態度でそれら全てを何でもないことのように教えてくれた。
知っていながら黙っていた涼也にも、彼等の苦しみに気付きもしなかった自分にも、相手のことを解ろうともせず自分の都合ばかりを押し付ける廣瀬にも、――大人ぶって自己犠牲で満足しようとする弟にも腹が立った。
「解ってくれとは、言わない。だから、見ていてやれよ。あいつが何処まで遣れるのか、何処まで行けるのか。お前は和輝の、先輩なんだから」
ゆっくりと背を向けた祐輝は振り返らない。伏せられた目は帽子のツバに隠れて見えない。廣瀬は返事をすることすら出来ず、ただ其処に立ち尽くすだけだった。
遠くで、廣瀬を呼ぶ声がした。大西高校の仲間だった。最後の夏を終えた先輩は皆泣き腫らした目で、それでも笑おうと此方を見ている。
廣瀬は走り出した。先輩がいる、後輩がいる、仲間がいる。
きっと、俺達は間違えたのだ。自分や相手を守る方法を、信念や意志を貫く遣り方を間違えたのだ。負わなくていい傷を負い、知らなくていい痛みを知り、失わなくていい仲間を失った。――それでも、もう過去は変えられない。ならば、前を見るしかないのだ。もう間違えてはいけない。
顔を上げた廣瀬の上に、真夏の太陽が輝いている。直視するには眩し過ぎる太陽も、時間が経てば肉眼でも見られるだろう。
2011.9.13
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