試合後に残る達成感と倦怠感に浸かりながら、和輝は電車に揺られていた。地区予選五回戦が終了し、次第に増える応援と期待を背負いながらのプレーにも慣れ、勝利に酔い痴れる暇も無く、目の前に迫った全国高校野球選手権大会――所謂夏大会、甲子園への掻き毟りたくなるような焦燥感と喉がひり付くような羨望は日を追う毎に強くなる。夢は手を伸ばせば届く場所にまで近付いていた。
 対戦相手は日々強くなる。殺気にも似た鬼気迫る気迫は、グラウンドから立ち上る熱気と陽炎すら忘れさせてくれる。それでも、勝ち残るのはたったの一校だ。試合毎に淘汰される様は、宛ら自然界の弱肉強食。尤も、勝ち進む為に利己的に相手を貶める様は、人生の本質だと言っても過言ではないように思う。
 遠くに沈んで行く夕日はまるでこの世の終わりだ。試合開始のブザーが誰かの悲鳴や断末魔のように聞こえることや、人生を達観して見ることを含めて自分は何処かおかしいのかも知れない。そんなことを思いながら、和輝は次の対戦相手を思い浮かべた。
 晴海高校はベスト8に選出され、次戦はいよいよ準々決勝を迎える。入学式の頃を思えばあっという間だと感じる一方で、その道程は決して易しいものではなかった。だから、今のこの結果を誇れるのだ。
 つまり、何が言いたいのかというと。


「……有り得ないだろ……」


 呟きは車輪の悲鳴に掻き消された。
 和輝の手には一枚のプリント。夏休みを目前にした学校では、前期最後の行事が待ち構えている。それは運動の祭典、――体育祭である。
 如何して、こんな時期に行うのだろう。噂には聞いていたが、和輝には甚だ疑問だった。運動部の命運を懸けた数々の試合が執り行われる中で、微温湯のような何の緊張感も無い遊びにも似た行事に、強制参加させる学校の意図が和輝には解らない。寝る間を惜しんでボールを握りたい和輝のやる気を踏み躙るような、勝手に選抜された色別対抗のリレーの練習にもまた、溜息が出る。
 なあ、俺が走る意味、あるかな。
 こんなものは走りのプロフェッショナルである陸上部に任せて置けばいいのだ。何しろ、晴海高校の陸上部は名門。其処に自分のような野球部が参戦するのは、彼等の努力を愚弄するようだと和輝は思う。これ以上、人から恨みを買うのは御免だ。特に、陸上部には自分を毛嫌いする木島先輩や、倉庫に閉じ込めた何者かも在籍している。勝っても負けても、和輝にとっては失う一方で得るものは何も無い。
 体育祭の知らせは各家庭への配布物だ。保護者である父へ渡さなければならないものだが、深夜に帰宅することも少なく無い裕を思えば安易に手渡せるものではない。和輝が望めば、裕は無理をしてでも参加してくれる。だが、和輝は裕に無理をさせるくらいなら学校など仮病で休んで、こっそり野球をしたいくらいなのだ。プリントは渡すことなくぐしゃぐしゃに丸めて鞄に突っ込んだ。
 重い、鉛のような溜息を零す。その時、ポケットで携帯が震えた。
 メール受信、高槻智也。キャプテンからの連絡は基本的には業務連絡だ。メールを開いてみて、納得すると同時に再び深い溜息が零れ落ちた。

From:高槻智也
Sub:no title
>明日放課後、色別対抗リレーの練習。授業終了後速やかにグラウンドに集合せよ。遅刻厳禁


 そういえば、高槻も随分と足が速かったなと思い出す。選抜されたのだろう。高槻の仏頂面が頭に浮かんで和輝は苦笑した。


光のフィルム・1

刮目せよ、光は其処に在る


 リレーは所謂オオトリだ。運動の祭典の最後を締め括る陸上競技の花形。選抜選手に誇りはあれど、溜息ばかり零す者は和輝くらいのものだ。集まった名も知らぬチームメイトを見回し、和輝の目は虚ろだった。各部活のエースとも等しい選手が招集されているのだろう。逞しく鍛えられた男子生徒の群れの中で、低身長の上痩せっぽちの和輝は無言のプレッシャーを感じていた。多分、自意識過剰などではないだろう。
 何が不満かと言うと、チームメイトだ。何故、空気を読んでくれない。


「お前が一年の代表かよ」


 棘を含んだ言葉や口調が、お前なんか認めないと言っている。尤も、認めて欲しいとすら思える相手ではないのも事実だ。
 隣で意図しなくとも此方を見下ろす木島を一瞥し、和輝は溜息を吐いた。木島はいっそわざとらしい程の舌打ちをして、背中を向けた。
 木島は、和輝が野球部に入部した当初に100M走を仕掛けて来た相手だ。野球部を愚弄し努力を踏み躙ろうとした木島を、彼の得意とする土俵でイカサマすら叩き潰すように、和輝が勝利したのは、まだ記憶に新しい。思えば、その頃から和輝のリレー参加は当然の義務だったのかも知れない。
 当たり前のように自分を毛嫌いする木島に、俺だって代表になんてなりたくなかったと、言ってやりたかったが、参加出来なかった他の陸上部員や補欠選手等に恨まれるのも御免なので、和輝は黙っていた。そんな自分の性格は、箕輪に言わせれば捻くれ者なのだそうだ。
 体育祭は全校生徒を赤・青・白・黄に分けて行う。各学年の種目があるので、何の競技にも参加しないという生徒はいない。その中で、祭の最後を締め括る色別対抗リレーは各色グループ内の、各学年代表の男女を選手として行う。つまり、一年代表の男女、二年代表の男女、三年代表の男女……という訳で、走者は補欠を外して六人いることになる。その内の一人が和輝であり、高槻であり、木島でもある。
 木島率いる赤組の作戦会議の場で、和輝は真面目な顔のまま野球のことを考えていた。次の対戦相手は古豪だったなと思い出す。突出した選手はいないが、変化球に富んだ投手が数人おり、此方が一人の投手を攻略する頃には選手交代してしまう。投手陣を含め、鉄壁の守備には定評がある。確実に得点する為に、ビデオを見て投手を研究し、イメージトレーニングは不可欠だ。そうなれば、一分一秒でも時間が惜しい。


「――蜂谷は?」


 ぼうっとしていたところに振られた質問に、和輝ははっとした。二年のバスケ部員という男子生徒が、丸い目を向けている。
 何の質問だっただろうか。曖昧に濁していると、察したように隣で同学年の女子生徒が耳打ちした。


「100M走のタイムだよ」
「ああ」


 幾つだったかな。
 思い出そうと考えるが、すぐには思い付かない。最後にきちんと計ったのは中学三年のスポーツテスト。一年前の夏だ。


「ちょっと、思い出せないです。なので、先に走らせて下さい」


 走力は和輝にとって最大の武器であり、切り札だ。安易にタイムに直して、データを残すことは避けたい。情報は何処から漏れるかも解らないし、こんなことで敵に知られて警戒されるのも馬鹿馬鹿しい。
 晴海高校の色別対抗リレーは女子が200M、男子は400Mを走る。グラウンドに設定されたトラック一周が200Mなので、女子は一周、男子は二周することになる。走者の順は選手に任されているので、既に勝負は始まっているのだ。
 和輝としては、一年というひよっこである以上、先に走りたい。そして、後の勝負は年長者に預け、ゴールと共におさらばしたいくらいだ。けれど、その思惑は挫かれることになる。


「――そいつは、俺より速いぜ」


 ぽつりと零された呟きは、聞き流せるものではない。木島は目を細め、不満そうに口を尖らせ、木島が和輝を睨む。――余計なことを。
 二年男子が、そうか、と頷いた。


「じゃあ、蜂谷は最後を任せた方がいいか」
「最後は木島先輩が走って下さい。俺なんかより、ずっと適任だ」
「俺に勝った奴が、よく言うぜ」


 言葉の節々に棘が埋め込まれている。和輝は舌打ちしたい気分だった。


「でも、俺、野球部は今大会中で、」
「そんなの言い訳にならねぇよ。――勝負は、最善を尽くすもんだろ」


 そう言われてしまえば、ぐうの音も出ない。それでも、簡単には引き下がれない。体育祭の練習の為に、野球が出来ないなんて和輝にとっては拷問にも等しかった。磨いた走力は、競争する為じゃない。出塁し、敵の隙を突いて盗塁し、得点する為だ。そして、敵の鋭い打球に飛付いて得点を阻む為だ。


「勝負は足の速さだけじゃないでしょう。一瞬の駆け引きが、勝負を分ける。俺にはその技術がありません」
「――なら、俺が教えてやるよ。体育祭まで、毎日、な」


 こいつ!
 確信犯なのだと理解し、和輝は怒鳴り付けたかった。俺は走りたい訳じゃない、野球がしたいんだ。如何して、それを解ってくれない。
 頻りに頷く面々に幾ら訴え掛けても無駄だ。和輝は目を鋭くさせる。


「決まったな。蜂谷はアンカーだ」


 木島が口角を釣り上げて言った。文句を言う者など誰もいない。
 馬鹿馬鹿しい。全く以て不愉快だ。和輝は返事もせず、そっぽを向いていた。こんなことでもしも怪我でもして、大会に響いたらそれこそ本末転倒だ。和輝にとって野球がどんなに大切なのか、この大会がどれだけ価値があるのか、如何して誰も解ってくれないのだ。目前に甲子園が迫っているのに、誰も理解してくれない。
 打ち合わせが終われば早々に解散していく生徒の群れに混ざり、和輝も早足にその場を立ち去ろうとした。野球が待っている。試合はもうすぐだ。敵の情報を頭の中で反芻する。
 一人目の投手はサイドスローだ。決め球はシンカー。気を付けるべきは直球と変化球の球速差だ。癖の無い同じフォームで投げられれば空振ってしまう。


「――おい、蜂谷」


 呼び止められ、和輝は事務的に振り返る。木島が仏頂面で立っている。
 その時間すら惜しい。二人目はスリークウォーター。投げ方に妙な癖があり、タイミングが取り辛い。だが、やはり速度は無いので、事前にビデオを見て置けば攻略に時間は掛からないだろう。


「随分、不満そうだな」
「当然でしょ」


 それが如何して解らない。木島が自分を嫌うのは一向に構わない。むしろ、直接的な敵意は好感が持てるとすら和輝は感じている。気に食わないのは、野球部まで巻き込むそのやり方だ。
 木島は小馬鹿にするように笑った。


「そんなに野球部が大事かよ」
「大事です。――俺にとっては、何よりも」


 和輝が言えば、木島は少しだけ驚いたような顔をした。
 暗に、体育祭よりも大切なのだと訴えている。どんなに言ったところで、今更決定は覆らない。腹癒せに八つ当たりする見っとも無さは自分の価値を下げるだけだ。この場にいること自体が自分のマイナスになる。和輝は歩き出そうと背中を向けようとした。だが、木島が言った。


「俺もだよ」


 ぽつりと零されたその声は、普段の木島からは想像も出来ない程に弱く、掠れたものだった。


「俺にとっても体育祭は、大事な行事なんだよ」


 殆ど反射的に目を向けた先で、酷く真面目な顔をした木島が立っている。それが本当に木島敬一郎なのかと疑いたくなる程の真摯な眼差しに、和輝は黙った。


「高校最後の体育祭だからな。勝つ為に最善を尽くすのは当たり前だろ」


 和輝の動揺が、木島にも伝わっただろう。
 木島は和輝が嫌いで、恨んですらいる。嫌な目に遭わせてやろうという魂胆が無いとは言い切れない。けれど、木島の本心は――。
 勝ちたい。負けたくない。誰もが抱く当然のものではないのだろうか。
 走ることに対してストイックに、貪欲にトレーニングをして来ただろう木島だからこそ、誇りもあれば劣等感もある。だが、それすら殴り捨ててでも木島は勝つ為の選択をした。


「俺はお前が嫌いだからな、アンカーなんざやらせたくなかったが、勝つ為だ。仕方が無ぇ」


 不貞腐れた子どものように、木島が言う。和輝は肩を落とした。
 先入観に囚われて、大切なことを見落としてしまっていないだろうか。自分のがちがちに凝り固まった頭を解すように、和輝は大きく深呼吸をした。


「俺もね、木島先輩、好きではないです。体育祭なんてやる気も無かったから、リレーも憂鬱でした。でも、俄然やる気出て来ましたよ」


 和輝は笑った。作り笑いなどではない。


「俺はあんたの為に、走りますよ。あんたのことは好きじゃないけど、その勝利に貪欲なところは嫌いじゃないから」


 木島が舌打ちした。照れ隠しなのだろうと気付き、和輝は苦笑する。
 体育祭の前に、試合が待っている。何かを得る為に何かを失うのは仕方が無いことなのかも知れない。だからと言って、簡単に手放せるものならば比べるまでも無いのだ。
 何も捨てられない。全部が大切で守りたいから、荊の道であっても進んでやると決めた。


「勝ちましょうね」


 和輝は拳を握った。木島は鼻を鳴らし、背中を向けた。だが、握られた拳が全ての答えだと、和輝は思った。

2011.10.9