三人目が厄介だ。上背は然程無いが、手足が長く、多様な変化球に切れがある。そして、一年ながらレギュラーを勝ち取ったその実力は殆ど知られていない上にデータも無い。この三人目から得点するのは困難だろうというのが、高槻の見解だった。
 今日も闇に沈んだ自宅の扉を開ける。無人の室内には嫌な湿気が満ちていた。
 冷房も付けたいが、まずは換気だ。リビングを一直線に抜けて縁側のある大きな引き窓を開けると、夜の涼やかな空気が流れ込んだ。
 レースのカーテンを引き、部屋に明かりを灯す。追い遣られた闇は部屋の隅で物陰に隠れ燻っていた。
 体が重い。ソファに体を預け、和輝は深く沈み込む。対戦相手のデータを思い返しながら、頭の隅に引っ掛かるのは体育祭関連の記憶だ。日々野球の練習ばかりで、400Mを疾走することなどまず無い。それに、バトンの練習もしなければならないだろう。敵は練習を重ね、チーム内の息を合わせて来る。過去の因縁に囚われて余計な軋轢を生んでいる場合では無いのだ。
 それにしても、と和輝は思った。自分の属する赤組のリレーチームに、以前倉庫に閉じ込めた人間がいなかったのは不幸中の幸いだ。未だに正体不明の悪意の塊を肩を並べて一つの目標に向かうことなんて、出来ない。
 あれは何者だったのだろうか。木島のことを先輩と呼んでいたことを考えると一年か、二年の男子生徒。知る必要も無いか、と風呂に向かおうと歩き出した頃、玄関から鍵の解かれる音がした。


「帰ってるのか?」
「親父、おかえりー」


 ひょっこりと顔を現した父の姿に、何故だか安心する。父、裕は同世代の人間に比べて格段に若く見える。五十にも手が届きそうな筈なのに、二十代と言っても通用するだろう姿は、高校生の兄と兄弟に見られることも屡だ。それでも、細くて薄い背中には頼り甲斐を感じる。それが父親の器なのだろう。
 裕は片手にぶら下げたビニール袋を掲げ、子どもっぽく笑った。


「アイス買って来た。祐輝はまだ帰ってないか?」
「まだだよ」
「じゃあ、早いもん勝ちだな。好きなの選びな」


 袋を投げて寄越し、裕は楽しげに笑う。袋の中には三種類の異なるアイスが入っていた。蜂谷家では基本的にじゃんけんで決めるのが規則だ。喧嘩は両成敗。怒ることが少ない裕だが、勝負事は好きなので、じゃんけんでは何時も大真面目な顔をする。そういう子どもっぽいところも、和輝にとっては親しみ易い自慢の父親だ。
 風呂に向かおうとしていた足を反転させ、リビングに戻る。裕は靴を脱ぎ捨てて廊下を歩き出す。乱雑に置かれた革靴は、兄が帰れば小言の対象になるだろう。


「靴揃えないと、兄ちゃんに言われるよ」
「いいんだよ、面倒臭い。どうせ、祐輝が直すだろ」


 歌うように裕が言った。何か良いことでもあったのか、何時にも増して機嫌が良い。だが、自分から言わないところを見ると、話す気は無いのだろう。
 土産のアイスを物色していると、裕は食事の支度を始めると共に洗濯物を集め出す。鞄の中に押し込んだ洗濯物を入れた袋を投げて渡すと、裕は背中を向けたままキャッチした。
 そのままポトリと、丸めた紙屑が落ちた。
 和輝は気付かなかった。裕は紙を広げて嬉しそうに声を上げる。


「――もうすぐ、体育祭なのか」


 はっとして和輝は顔を上げた。裕の手にはぐしゃぐしゃに丸められていた筈のプリントがある。


「あ、うん、そうそう……」
「今ならまだ予定も合わせられるから、検討してみるよ。それにしても、いいなぁ、体育祭」


 青春だな、と裕が笑う。対照的に和輝は複雑だった。
 プリントは、誰にも見せずに捨てようと思ったのだ。自分の為にただでさえ忙しい父が予定を詰め込むことになるのは、申し訳無いからだ。別に来て欲しいとも思っていないのだが、嬉しそうな裕に向かって言うのは躊躇われた。


「無理しなくて、いいからね」
「息子の晴れ舞台だろ。見に行くさ」


 そんな立派なものじゃない、と皮肉っぽく思った。尤も、野球の公式試合を見られるよりはマシだなと考える。


「何に出るんだ?」
「色別対抗リレー……」
「おお、花形じゃねぇか。頑張れよ」


 余談だが、裕は足が速い。高校三年の時に膝を故障するまでは、当時の高校球児で最も俊足だったという。父の嘗てのチームメイトは、最強の切り込み隊長だと口を揃えて言った。
 それ故か、蜂谷家は皆、足が速い。和輝然り、祐輝然り。小学校の色別対抗リレーでは蜂谷家オールスターなんてこともあったくらいだった。そして、和輝は上背もあり、力もあり、俊足を持つ兄達を羨んだものだった。
 父も高校生の頃は160cm無かったと言っているが、大学生の頃には170cmを越えたという。だから、お前も必ず大きくなれると繰り返し微笑むけれど、そんな保証は何処にもない。
 チビってだけで、嘗められるんだぜ。相手が油断してくれるって考えれば、悪いことばかりじゃないかも知れないけど、悔しいんだよ。なあ、親父は?


「親父は?」
「俺?」


 裕は唸りながら首を傾げる。


「俺は、体育祭は殆ど何もしなかったなァ」


 裕がそう答えたことで、和輝は質問の内容が食い違ったことに気付いた。当然だ。胸の内で呟いた声が届く筈も無いし、届いて欲しくも無い。
 和輝の心境など知らぬ裕は、苦笑いを浮かべて言った。


「ずっと野球漬けだったからな。三年の時には膝壊して、体育も真面に出来なかったし……」


 父は伝説の選手なのだと、聞いたことがある。
 当時の高校球界で最も小さく、尤も背の低いキャプテンだった。最後の年には膝に爆弾を抱えながら最後の最後までプレーし、見事チームを全国制覇まで導いたという。冗談好きの父の友人の話を、何処まで信じていいのかは解らないけれど、確かに記録は残っている。その後はドクターストップが掛かって日常生活にすら支障を来したらしいが、今の健在ぶりを見ればちょっと眉唾物だ。


「だから、お前が少し、羨ましくもあるよ」


 困ったように笑うのは、父の癖だ。
 何処か寂しげに微笑む父に、返す言葉を持たない和輝が黙り込むと、裕はその笑顔を崩さぬまま頭をくしゃりと撫でた。


「何事も経験だよ、和輝。良いことも悪いことも、全部自分自身の力にすることだ。よく言うだろ、神様は越えられない試練は与えないって」


 反論しようと、和輝は勢いよく顔を上げた。けれど、裕は優しい微笑みのまま和輝に言った。


「でも俺は、失敗や挫折にも意味があると思う。だから、お前は全部拾って行くといい」


 和輝は、ぽかんと口を開けたまま黙った。父は何時だって、和輝が本当に欲しい言葉を当たり前のようにくれる。どんな和輝でもいいよと、平然と受け入れてくれる。だから、和輝は歩いて行ける。どんなに暗く寒い夜道でも、帰る場所があるから前を見ていられる。
 絶対に揺らぐことの無い理解者がいてくれることは、和輝にとって最大の幸運だった。


「うん、そうする」


 体育祭の知らせを、誰の目にも留まらぬまま処分しようとしていたことなど、父はとっくに御見通しなのだろう。和輝が本心からそれを望まないのであれば、父は体育祭のことなど口や態度に出す事無く普段の体を装うのだろう。
 和輝の返事を聞き、裕が嬉しそうに笑う。父の力強くもあり、子供っぽさを滲ませる笑みだ。和輝は、その笑顔が大好きだった。
 丁度、玄関の開く音がした。兄が帰って来たのだ。


「靴は揃えろって、言ってんだろ!」


 ただいまの挨拶よりも先に、口から飛び出した小言に裕が舌を出して笑う。
 なんやかんやと尤もらしい言い訳を軽口のように言って、背中を向けた裕に、和輝は小さく呟いた。

 ありがとう、と。


光のフィルム・2

眩しさに背けた目が 捕まえた光


 準々決勝を翌日に控え、和輝は大きく背伸びをする。掛け声に合わせて入念にストレッチをするのは、迫る体育祭に備えてリレーの練習をした後だった為だ。抑々、小学生の頃よりリレーには毎年選出される和輝だから、根詰めて練習する必要も無いのだけど、木島率いる赤組の気合いを見ればそんなことは言える筈も無かった。
 すぐに野球部に顔を出したい和輝は挨拶も早々にグラウンドを後にした。
 今頃はシートノックだろうか。それとも、既に筋トレが始まっているだろうか。否、明日は試合だ。ノックだろう。
 薄っぺらの鞄を抱えて走り出す和輝の横で、一人の男子生徒が舌打ちをした。確かに聞こえた音に振り返るが、男子生徒は見向きもしない。陸上部だろうユニホームに汗が滲んでいる。
 何だ、勘違いか。そう思い込もうとするが、男子生徒は真っ直ぐ木島の元へ歩いて行った。横顔が遠目に見えるが、知らない顔だ。けれど、親しげに話をするその様は恐らく後輩なのだろうと理解すると同時に、聞き覚えのある声だと思った。


――お前が負かした木島先輩だって血反吐を吐くような努力をしてる。才能に恵まれたお前なんかとは天と地の差なんだよ


 嗚呼、あいつだ。
 以前、体育倉庫に閉じ込められて一晩明かしたことがあった。その時、扉の向こうで聞いた声の主。自分に敵意を向け、悪意を抱える人間。
 どんなお前でもいいよ、と言ってくれる人がいるように、どんなお前でも認めないと言う人間がいる。それは当然のことだ。少し寂しくはあるけれど。
 気にしても仕方が無いか、と和輝は走り出した。
 野球部の練習場所に到着すると、途端に萩原の怒鳴り声が響いた。


「遅ェよ、和輝ィ!」
「すみません!」


 鞄を投げ捨て、グラウンドに向かう。輪を作る仲間の中に、キャプテンである高槻の姿が無い。
 輪に加わり、きょろりと見渡すと察したように桜橋が言った。


「高槻は生徒会だよ。予算委員会が近いからな」
「そう、ですか」


 忘れがちだが、高槻は生徒会長だ。例え明日が公式試合であっても、生徒会長が会議を欠席する訳にはいかないのだろう。もしかしたら、今日の練習には間に合わないかもしれない。桜橋がそう言ったと同時に、何故だか和輝は落胆にも似た感情を抱いた。
 変だな、仕方が無いのに。
 高槻がいてもいなくても、やることは何も変わらない。だから、高槻は仲間に任せて会議に出ているのだ。
 俯いた和輝を見て、桜橋が笑った。


「……ンな顔しなくたって、高槻は後で来るよ」


 はっとして顔を上げれば、桜橋は頭を撫でて笑う。


「本当にお前は、高槻が大好きだよなぁ」


 冗談のようで、呆れのようで、桜橋は何処か嬉しそうに笑いながら言う。
 萩原によって練習の再開が促され、それぞれグラウンドに散って行く。ノックを始める萩原によって鬼のように扱かれながら、和輝は桜橋の言葉の意味を考えていた。
 日が暮れ、闇が落ち始めた。ナイター設備の無いグラウンドでこれ以上の練習は無理だと判断し、萩原は早々に荷物を纏めて学校で筋トレを含むストレッチを行う旨を伝えた。
 明かりの無い山道を大量の荷物を載せて下るのは恐ろしく危険だ。試合前には極力控えたいけれど、明日持っていかなければならない荷物だけは運ばなければならない。そして、それは一年の仕事だ。
 学校に着くと、運動部はまだまだ練習を続けていた。文化部だけは帰路を辿っているけれど、校舎内ではまだ多くの生徒が活動を続けていることだろう。高槻もいるだろうか。そう考えて、和輝は首を振った。
 丁度その時、昇降口から鞄を引っ提げて走って来る小さな姿が見えた。
 急いで着替えたのだろうユニホームは、彼にしては乱れている。だが、仲間の姿を確認すると彼――高槻は安堵するように肩を下ろした。


「何だよ、戻って来たのか」
「グラウンドはもう真っ暗だったからな。会議はもう大丈夫なのか?」
「議題は全て昇華した。書類に纏めるのは俺の仕事ではないから、任せて来た」


 キャプテンの登場に、重い足取りだった仲間達が集まって来る。仲間に迎え入れられながら、高槻は残り僅かの練習時間を確認し、すぐに練習へと促した。その横で、桜橋が軽口でも叩くように耳打ちした。


「お前の子分が、寂しがってたぜ?」
「ああ?」


 誰のことだと思いつつも、高槻の目はすぐに和輝を捉えた。その一連の行動を自嘲しながら、高槻は首を傾げる。


「俺がいてもいなくても、練習内容は変わらないだろ」
「そんなの俺は知らねぇよ。直接、訊けば?」
「何で俺が」
「キャプテンだろ」
「知るか。話があるなら、自分で来るだろ」


 そう突き放しつつも、練習に向かう小さな背中を目で追ってしまう。普段と何ら変わらぬ姿だが、と高槻は眉を寄せる。
 傍目に解る程に落ち込んでいれば、箕輪が余計なお節介を焼くだろう。誰にも言わないなら、黙って前を向いて行ける少年だ。此方が気を回す必要などないのだ。それこそ、此方が寂しくなる程に。
 桜橋に悟られる程に憔悴しているなら、そもそも箕輪が黙っている筈が無いのだ。藤だって何かしらお節介を焼く筈。なら、自分の出る幕は無い。
 そう決め込んで、高槻もまた練習に混ざって行った。
 帰り道が明るかったことなど、一度も無い。闇に沈んだ帰路を辿る仲間の顔は明るく、明日への期待に満ちているのだと解る。相手に萎縮することなく、前向きに勝利を確信するその姿は実に頼もしい。高槻は列の最後尾を萩原と桜橋と肩を並べて歩きながら、少し前の和輝を見て言った。


「あいつのこと、頼むぜ」
「は?」


 突然、何を言い出すのかと萩原が怪訝そうに眉を寄せる。酷い悪人面だ。


「和輝だよ」


 不満そうに、不愉快そうに高槻が言った。
 桜橋は喉を鳴らし、可笑しそうに笑う。


「何だよ、いいじゃねぇか。可愛い後輩だろ?」
「今は、な」


 それだけ言って、高槻は歩調を速めた。顔を見合わせて首を傾げる桜橋と萩原は訳が解らなかっただろう。高槻は和輝に追い付き、声を掛けた。


「和輝」


 振り返る少年は、何時もと変わらぬ穏やかな笑顔だった。


「明日のことで、話があるんだが」


 そう言えば、箕輪と夏川が顔を見合わせ先を歩き出した。
 なんだろうと首を傾げる和輝に高槻は言った。


「何かあったか?」


 唐突な質問に、和輝は驚いたように首を竦めた。


「別に……。何でですか?」
「俺を探してたって、聞いたから」
「ああ」


 和輝は合点したように手を打つ。


「キャプテンがいないから、何でかなと思って」
「それで?」
「そうしたら、生徒会だって聞いて」
「で?」
「……それだけ、ですけど?」


 狐に抓まれたような心地で、高槻は眉を寄せる。それは和輝とて同じことだと首を傾げていた。

2011.10.10