二人目がマウンドに上がった時、晴海高校の打点は三を記録していた。
 突き抜けるような蒼天の下、行われた地区予選六回戦は準々決勝だ。流石に観客席は応援と野次馬に埋まり、選手の掛け声すら掻き消す声援が鉄板のようなグラウンドに向かっている。
 対戦校である御笠高校は、三人の投手を一試合で回す守備型のチームだ。堅実な攻撃は勿論だが、鉄壁の守備は定評がある。それでも、そんな相手から六回裏で三得点した晴海高校の攻撃力は中々のものだ。
 ネクストバッターズサークルにて、和輝は片膝を着いてマウンドを見詰める。晴海高校の作戦は、未知数の三人目の投手がマウンドに上がる前に出来るだけ得点しようというものだ。次の回には件の投手が登板する。点差は幾つあっても足らないけれど、どんな相手が来たとしても勝つ自信があった。
 九番打者、箕輪の打球がピッチャー前に転がった。荒く呼吸するピッチャーはぼてぼてのゴロを捕球すると、撓る腕でファーストに投げる。アウト。ワンナウトだ。
 和輝は立ち上がった。


『バッター一番、蜂谷君。背番号、五番』


 津波のような歓声の中、バットを担いだ少年がバッターボックスに立つ。鳴り響くトランペットが蒼穹に向かって奏でられる。まるでパレードだな、と現実感を帯びない脳で和輝は思った。
 さあ、勝負だ。
 挨拶もそこそこにバッターボックスに立ち、和輝は構えた。無邪気な子どものような瞳が目の前のピッチャーを捉えて離さない。その視線が外れる時は、グラウンドに打球が飛んだ時だ。
 一球目、外角に外れる変化球。ボールだ。緊張しているのか気負っているのかピッチャーの動きは固く、投手交代も目の前だろうと感じる。キャッチャーは返球と共に「ナイスボール」と声援を送るけれど、そんなものは口先だけだ。ピッチャーも解っているだろう。三回の登板に対して四球は五つだ。
 二球目が放たれると同時に、和輝の目はその白球を捉え、笑っていた。
 ドラムの音を掻き消すような金属音がグラウンドに響いた。白球はバットから跳ね返されると乾いた土の上を跳ね、三遊間を抜けた。
 ホームを飛び出した和輝を、数え切れない程の視線が追い掛ける。低姿勢に駆ける姿を捉え切れる人間が果たしてその中にどれ程いただろう。和輝の視界に映るのは目標物であるベースのみだ。遠くに聞こえる御笠の声の掛け合いと自分の足、試合状況を比べて瞬時に判断し、和輝は一塁ベースを蹴った。


「セカンッ」


 送球が和輝を仕留めようと追い掛ける。それでも、和輝の足は止まらない。
 耳鳴りがしていた。応援団の声援も、合奏も歓声も全てが消えて一つの高音になる。色付く世界はモノクロに染まり、頬を風が撫でる。
 ああ、この感じだ。
 和輝は高揚する気持ちを抑えられなかった。送球なんて間に合わない、敵の視線すら追い付かない。滑り込むような低姿勢で、和輝は二塁すらも蹴った。一瞬遅れて届いた送球。セカンドとサードに挟まれる。
 袋の鼠だ。誰かがそう嘲笑うけれど、和輝もまた笑った。


「終わりだ!」


 サードが叫ぶ。けれど、和輝と同じようにベンチでも、高槻は不敵な笑みを浮かべていた。


(そんなタマじゃねーよな)


 お前の武器だろう。終わる時が来るなら、お前自身が諦める時だ。
 セカンドの腕が振られ、送球は和輝に迫る。白球がサードグラブに収まるその刹那、和輝はサードの足元を潜りベースを叩いていた。


「セーフ!」


 審判の宣告と共に歓声が和輝を包み込む。敵方からも送られる賞賛の拍手の元に、和輝は堪え切れずガッツポーズをした。
 走ることが好きだ。チビで非力と、周囲からの罵倒と闘う為の唯一の武器だ。夢を叶える為の翼だ。他の誰にも負ける訳にはいかない。その為に磨き続けた唯一の剣だ。
 二番打者、桜橋がバッターボックスに立つ。バントを警戒しての前進守備の中であっても、桜橋は寸分違わず狙った場所に転がしてくれる。後は滑り込むだけだ。


(なあ、赤嶺)


 和輝の脳裏に浮かぶ赤嶺の仏頂面が、感情を含まない淡々とした声が、迷いそうになる背中を押してくれる。


――甲子園で待つ


 口元に浮かべた笑みが深くなる。


(待たせねーよ。俺は走って、其処に行く)


光のフィルム・3

それは待ち続けた光


 目の前で繰り広げられる熱戦を傍観しながら、和輝は来たるべき出番の為に準備運動をしている。地区予選六回戦の疲労も抜けぬままの体が重い。
 晴海高校第三十六回体育祭は、広いグラウンドの観覧席を埋める程の賑わいを見せている。各色の得点板からは三桁の数字は抜き取られ、終盤を迎える勝負展開を読ませないようになっていた。いよいよ最終種目、体育祭の花形、色別対抗リレーが始まる。入退場門に終結した屈強な選手達の中、一際小さな和輝は人の群れに呑まれそうになりながら呑気に屈伸を始めた。
 全種目である綱引きが終了し、退場曲が流れ出す。アナウンスの中去って行く大勢の参加生徒。いよいよだな。和輝は顔を上げた。
 色別対抗リレーは大量得点のチャンスだ。最後に見た得点は青、白、赤、黄の順だった筈。綱引きでは赤組が一位だった。リレーで一位ならば優勝の可能性も零ではない。
 ふと隣に目を遣り、和輝は動きを止めた。


「……」


 じろりと此方を一瞥し、興味も無さげに逸らされた視線。確かに聞こえた舌打ちが敵意を現している。青い鉢巻。以前、自分を倉庫に閉じ込めた少年だ。
 斜め前には白の鉢巻をした高槻がいる。酷く居心地が悪い。穴があったら入りたいくらいだ。防空壕だけど。


「――柊」


 名を呼ばれた少年が顔を上げる。視線の先には赤い鉢巻の木島がいた。


「青がリードしてるみてえだけど、負けねえからな」
「俺だって負けませんよ!」


 息巻く二人を冷ややかに見ている和輝に、高槻は嗤いながら言った。


「温度差があるよな」


 くつり、と意地悪く笑う高槻とて三年生。最後の体育祭だというのに、此処まで冷ややかなのは如何なものだろうか。目を細める和輝に高槻は鼻を鳴らしただけだった。
 退場曲が終わればアナウンスが鳴り響く。


『いよいよ最終種目、色別対抗リレーです。選手が入場します』


 入退場の練習などしたことが無いけれど、前の選手に付いて行けば正解だろう。周囲の人間を真似て足踏みしつつ、派手に飾られた入退場門を潜れば大勢の手拍子の中、まるでヒーローの登場のように迎えられる。
 試合も体育祭も同じだな、と和輝は思った。結局、皆が求めるのはヒーローなのだから。
 賑やかな声援に囲まれ、四人の選手がスタートラインに立つ。第一コースで欠伸をするのは高槻だ。三年男子代表が野球部の主将で、やる気が無くトップランナーというのも如何なのだろう。向けられる嫉妬や羨望、馬事雑言など高槻は興味も無いのだろうなと和輝は笑った。
 そういう揺るがないところが、キャプテンの器だと思うのだ。
 スタートの合図であるピストルを、がたいの良い体育教師が空へと向ける。そして、乾いた音が一発。
 構えすら取らないでいた筈の高槻が、一番に飛び出した。
 男子はトラックを二周だ。それぞれのチームが差を付けようと男子を先頭にしている。だが、その中でも断トツに高槻が速い。何時もの仏頂面で、まるで何でもないことのように一周を抜け、二周目。白組の高槻を先頭に、青、黄、赤と後を追う。
 最下位かよ、頑張れってくれよ、バスケ部。
 二年男子が先頭を務めたは良いが、殿を走っているようでは無意味ではないか。高槻が慣れた手付きでバトンを渡す。予算委員会が間近だと体育祭の練習など殆ど出ていないだろうに、随分とスムーズだ。
 次の走者は女子だ。半周遅れで青、続いて黄。一周遅れで赤がバトンを渡す。
 走り終えた高槻は僅かに息を弾ませながら座った。


「……高槻先輩、足早いですね」


 ぽつりと零した和輝の言葉に、高槻は無表情に言った。


「お前が来るまで、一番打者は俺だったからな」


 高槻の目は遠い。当時のエースは袴田という男だったが、暴力事件を起こし、再起不能になってこの場所を去ってしまった。
 あの頃とは何もかも違うと、高槻は苦笑した。三人目にバトンが渡る。順位は変わらない。白、青、黄、赤。だが、高槻は開いた距離は着実に縮まっているようだった。残る走者を一瞥し、高槻は溜息を零した。逆転されるのは時間の問題だな。
 青が、白を追い抜かした。嫌でも盛り上がる応援の中、順位が変わって行く。四人目にバトンが回る時には青、白、赤、黄と変動している。
 白はきっと追い抜かせる。和輝も声を張り上げた。
 五人目。競技は終盤だ。青のバトンが渡る。白と僅差で赤、黄と続く。赤組の走者は、三年男子、木島敬一郎。


「逆転しろー!」


 顔が広いだろう木島に向かう声援。
 一周目が終わろうという瞬間、木島が白を越えた。


「二位!」


 赤組は二位だ。先頭はもう捉えている。
 やはり、木島は足が速い。和輝はスタートラインに立った。隣に並ぶのは奇しくも件の柊だ。
 木島がバトンを渡そうと動き出している。青との差は僅かだ。


「蜂谷――!」


 伸ばされた手が、バトンが、届く。だが、そのとき。
 声にならない声が、木島の口から漏れた。崩れ落ちるように倒れ込んだ。


「木島先輩!」


 悲鳴のように、和輝もまた声を上げた。倒れ込んだ木島が瞬時に起き上るけれど、その左足に酷い出血があった。滴り落ちる血液に生徒達が動揺し声を上げる。立ち上がる教師、駆け付けようとする養護教諭、追い抜かして行く走者達。
 終わりか――。
 諦めるように和輝が駆け寄ろうとすると、木島が声を張り上げた。


「其処で待ってろ!」


 声の大きさに驚いて、和輝は肩を跳ねさせた。木島が、足を引き摺りながら一歩一歩と動き出す。
 グラウンドに落ちる血が、額に滲む汗が、掠れる声が、和輝の足を踏み止まらせる。たかが、体育祭だろう。木島にだって、大会があるだろう。それでも、譲れないものが此処にあるんだ。
 弾む呼吸で、上下する肩で、木島は進み続ける。青組、柊は既に半周先を走っていた。これ以上差が開いてしまうと、流石に厳しい。
 木島の手が伸びる。バトンが、和輝の手に渡った――。
 ひやりとした鉄の感触が、熱さに茹だる脳を冷ましてくれる。


「任せろ」


 和輝は笑い、飛び出した。
 第一コーナー。和輝の視線の先に、黄色の鉢巻があった。
 体が、軽い。試合の疲れが残っていた筈なのに、これは所謂ランナーズハイなのかも知れない。まるで翼でも生えているような心地だった。周囲の応援や歓声は遠退き、視界は目の前の選手とコースだけを捉えている。
 黄色組の選手の横、一陣の風が通り抜けた。それが人間だとは思わなかったのだ。軽やかにグラウンドを蹴って行く足は止まらない。半周を終える頃には白組も最早目と鼻の先だった。
 タン、タン、タンと、心地よいリズムが聞こえる。それが自分の足音だと気付いた時、和輝は既に白組を追い越していた。
 残り一周――。半周先に、柊が走っている。
 絶望的だ。誰もが二位着を予想し、その予想を裏切ることを期待していた。
 和輝はバトンを強く握り締める。木島が必死に繋いだバトンだ。落とす訳には行かないし、このまま二位で引き下がれない。


「蜂谷ァ!」


 振り絞るような声援がした。それは木島の声だ。
 木島が和輝を嫌うように、和輝も木島を好いてはいない。だけどそれでも、共通の目的があるならそれは仲間だ。今、仲間の為に走っている。
 残り半周。柊は後僅かでゴールだと言うのに、和輝は身を低くし加速した。
 耳元で風を切る音がする。ゴールテープが迫っている。


「行け!」


 聞き覚えのある、聞き間違う筈の無い声がして、和輝は口元に笑みを浮かべた。ゴールテープが落ち、ピストルが鳴った。


「ゴール!」


 歓声が溢れる。息を弾ませ、膝に手を突きながら和輝の目は観客席を泳ぐ。
 生徒とその保護者の中に埋もれるようにして、父――裕の笑顔があった。


『一位、赤組――』


 来なくていいと言ったのに。和輝は笑った。
 仕事を抜け出して来たのだろうか。場に不釣り合いなスーツ姿で、埃塗れになって職場に戻る気かと呆れてしまう。それでも、和輝はピースサインを向けた。
 観客に向けられたと思われたのだろう、黄色い声が沸く。和輝は笑った。
 駆け寄る仲間の激しい抱擁の中で、和輝は赤いバトンを空に掲げた。乗せられる声援と歓声に酔い痴れる数秒間、少し離れたところで、居た堪れなさそうに立ち尽くす木島の姿が目の端に入った。


「――木島先輩!」


 集まる仲間の視線が木島に向く。動揺を隠せない木島に、和輝は大きく手招きして笑う。


「そんなところで何してんですか。こっち、こっち!」


 不満げに唇を尖らせて、応急処置をされた左足を引き摺るように木島が歩いて来る。和輝は掲げていた赤いバトンを前に突き出した。
 はい。そう言って向けられたバトンの意味が解らず、瞠目する木島に和輝は言った。


「あんたが繋いだバトンですよ。あんたが授かるべき栄冠だ」


 木島は、黙った。
 その栄冠はお前のものだろうと、木島は言ってやりたかった。自分がいてもいなくても、和輝がいれば赤組はきっと優勝しただろう。和輝がいなければ最下位は確実だったというのに、平然と敵対していた自分にまでその笑みを向ける意味は一体何だろう。


「ナイスラン」


 たった十六歳――。自分とは何がこうも違うのだろう。
 木島の目に映る少年は、その他大勢の中には決して埋もれる事無く、モノクロの中で彩られる一筋の光。


(ああ、そうか)


 木島は漠然と理解した。
 世間が囃し立てる意味、人々が惹き付けられる理由。
 柊が駆け寄って来ても、木島は気付かなかった。目の前の少年から目が離せない。


(こいつは、ヒーローなんだ)


 子どもの頃、思い描いたヒーローなんて存在しない。不死身の勇者なんて嘘っぱちだ。何時の間にかそう悟るようになり、非現実的な夢は見なくなった。
 けれど、此処にいるのは間違い無く。


「……敵わねぇ訳さ」


 傍に来た柊が、耳を疑った。だが、木島の浮かべた笑みが揺るがない。輪の中心へと戻されていく和輝を見ながら木島は言った。
 体育祭が締め括られていく。高らかに順位発表が行われる。優勝を飾る夕日の如く赤い鉢巻を巻いた仲間が騒ぎ立てる。けれど、その賑わいの中心から姿を晦ませた少年は誰も探そうともしない。
 グラウンドの隅で、高槻と密談する和輝の姿があった。


「よう、ヒーロー君」


 茶かすように高槻が言えば、和輝は笑う。


「相変わらず、お前はすごいな」
「俺はただ、走っただけです。バトンを繋いだのは、木島先輩だ」
「そんな模範解答はいらねーよ。……前に、話があるかと訊いたとき、何も無いと言ったけど」


 六回戦前に、和輝はいない高槻をグラウンドに探していたと聞いていた。その時には何にも無いと恍けられたが、それが本当だとは思わない。


「俺に、何の話がしたかったんだ?」


 和輝は、苦笑した。本当に、高槻には全て御見通しだ。


「あいつ……柊って言うんですがね、前、俺を体育倉庫に閉じ込めた奴なんですよ」
「ああ」


 思い出したように高槻が言った。大して興味が無いように相槌を打つ高槻に、和輝もまた昔話をするように笑いながら話す。


「木島先輩は木島先輩で、試合前だって言ってんのに扱き倒すって言うし、柊は柊で未だに俺に敵意全開。全く、嫌になっちまうなぁって」
「……ハ、愚痴かよ。下らねぇ」
「全くです」


 そうして、和輝も笑う。
 終わったことはどうでもいいと、当たり前のように笑い飛ばす。それだけの強さを、和輝はもう持っている。


「――和輝、強くなれよ」
「はい」
「お前の人生に、何時でも俺がいてやれる訳じゃねぇ」


 高槻の言葉の意味を掴み兼ねて、和輝は困惑した。
 すぐに「何でもない」と背中を向けた高槻が零した言葉の意味を、見失ってはいけないのだと漠然と理解し、和輝は拳を握った。

2011.10.16