死んだ太陽を弔うかのような空の下、重い体で重い荷物を載せ、明らかな重量オーバーで悲鳴を上げる自転車を押しながら、足場の悪い山の斜面を下っていく。転べばただでは済むまい。地区予選、準決勝を目の前に控えた選手の有様ではないなと溜息を零せば、耳聡く高槻が失笑する。


「溜息なんて吐きやがって、ジジイか、てめぇ」


 あんただって溜息の一つや二つ、吐くでしょう。
 そう言ってやりたかったが、和輝は再び零れそうな溜息と共に言葉を呑み込んだ。高槻の反論が目に見えていたからだ。口で高槻に敵う筈も無い。
 あと数時間もすれば試合開始のサイレンが鳴り響くのだろう。現実感を帯びない自分の状況、ふらつく足取りは普段と変わらぬハードワークのせいだけではない。
 相手は光陵学園だ。神奈川大会の優勝候補、本命とさえ囁かれる強豪校を相手にするのに、試合前だからといって練習を甘くするようでは勝負は見えている。光陵は準決勝までにコールドゲームが四つという未曽有の強さだ。油断や甘さなど一欠片も残さない。最後の最後まで足掻く晴海高校の雑草魂は、良くも悪くも熱血で、現実主義である。
 和輝にとっての光陵学園は、見浪翔平のいるチームということだ。同じ一年でありながら層の厚い選手の中からレギュラーに抜擢されるその実力を見縊ってはならない。中学時代から有名だったえげつない強打者という情報も眉唾物ではないだろう。
 どのみち、負ける訳にはいかないのだ。道を阻むのがどんな相手だったとしても、逃げるつもりもなければ譲る気も無い。真っ向から立ち向かってやる。


「今年が最後だな」


 と、高槻が言った。何の話だろうかと和輝は瞠目する。高槻はにこりともしない仏頂面で続けた。


「お前の夢……、いや、目標に届くのは」


 和輝は黙った。カマを掛けているのではない。高槻は、解っている。
 自分の夢を語ったことはない。否、自分の本心を外に出すこと自体、和輝は滅多に無い。それが処世術だからだ。それでも、高槻は気付いている。


「俺が気付かないとでも思ったか? お前の夢は、兄貴を超えることだろう」


 黙っていた和輝は淀みなく足を動かし、全身でバランスを取りながら口元に笑みを浮かべた。隠す意味も理由も無いのだ。


「そうですね。訂正するなら、対等に、兄ちゃんと戦うことが俺の夢です。だから、甲子園なんて如何だっていいんですよ、俺は」


 このタイミングで、チームのやる気を削ぎ不協和音にすらなり兼ねない発言だ。だが、切り出したのは高槻で、和輝はもう開き直っている。


「でも、それが何時の間にか変わってたんです」


 自転車のヘッドライトは薄暗い。灯り一つ無い山道を照らすには余りにも不十分で、余りにも悪路だ。それでも、高槻は支えようとすらしない。和輝は無理矢理浮かべた笑みを消し、自嘲するように言った。


「兄ちゃんと対等になりたかった。向き合いたかった。その一心だったのに、このチームで野球している内に、甲子園が俺の夢になっていたんです。……赤嶺が、言ったんです。甲子園で待つって」


 赤嶺陸は、和輝の嘗てのチームメイトだ。中学時代の擦れ違いの離別に決着をつけ、今は異なる場所で同じ夢を見ている。


「俺は約束したんです。必ず行く。走って行くって」


 そう言って振り返った和輝は笑っていた。自嘲でも作り笑いでもない、何かが吹っ切れたかのような晴れやかな笑顔だった。
 振り返った反動で自転車のハンドルが揺らぐ。転ぶ寸前、後方にいた筈の高槻が一瞬で間合いを詰め、小柄な体格に見合わぬ強い力で支えた。


「それで、此処のところ機嫌が良かったんだな」
「そうですか?」
「ああ。変な遠慮が無くなって、自分勝手我儘にプレーしてるよ」
「……伸び伸びプレーしてるってことですよね?」
「そう思いたければ、思えばいい」


 投槍で好い加減、ぶっきら棒で冷徹。普段の高槻なんてこんなもんだ。和輝は笑った。


「そういう高槻先輩も、何だか嬉しそうに見えますけど?」
「カマ掛けてるなら、このまま自転車を押し倒してやってもいいが……、まあいい。俺の母親がさ、再婚するんだよ」
「へぇ」


 それ以上、和輝は何も言えなかった。当然だろう。和輝は高槻のことを殆ど知らない。中学時代に目の前で弟を亡くしたと聞いたことはあるが、父親がいないことも知らなかった。


「俺の親父はとんだ駄目男で、お袋は逃げるように離婚したらしい。それからは女手一つで俺と弟を育ててくれたからな、幸せになれるなら、なって欲しいよ」
「なれますよ、きっと」
「適当なこと言ってんじゃねぇよ。部外者は首振り人形になり切ってろ」


 なんという傍若無人ぶりだろう。怒りや呆れを越えて拍手すら送りたい。
 和輝の考えなど既に看破しているだろう高槻は、じろりと一瞥しただけだった。和輝は当然の疑問をぶつけた。


「何で、そんな話を俺に?」


 すると、高槻はきょとんとして、首を捻った。


「……俺にも解んねぇよ。ただ、お前に話したかっただけだ」


 珍しいな、と思ったのだ。何時でも冷静な高槻が、感情だけで自分のことをこんなに饒舌に話すこと自体が。
 雪でも降るのだろうか、この真夏に。
 有り得ない妄想に空を見上げると、また自転車が揺らいで高槻が文句を言った。すみませんと、心にもない謝罪をして和輝はまた歩き出した。


道標・1

消えることも揺らぐこともない 確かな一歩を


 準決勝の朝は、雲一つない突き抜けるような晴天だった。目覚ましが起床時間を知らせる前に目を覚まし、兄が小言を放つ前に仕度をし、父より早く自宅を出た。目の前に迫る夢に心が躍らない訳でもなければ、緊張しない訳でもない。ただ、和輝にとっては来るべくして来た今日なのだ。負ける訳にはいかない。
 集合場所は球場の入り口だ。既に客は入っている。野次馬に囲まれる前に隙間を縫うように集合場所へ向かう和輝の視界の端に、見覚えのある少年が映った。見浪翔平は、和輝の姿を認めるとちょいちょいと手招きした。
 携帯で時間の有無を確認し、残念なことに随分と早く到着していたことを恨みながら和輝は見浪の元へ向かう。何が嬉しくて、これから戦う相手と逢引まがいの真似をしなければならないのだろう。


「よう、和輝」
「おう。こんなところで、何してんだ?」
「決まってんだろ。お前を待ってたんだよ」


 そりゃ、光栄なことで。
 憎まれ口を叩きながら、和輝は苦笑した。


「それで何の用?」
「確認だよ、確認」


 何のことだろう。要領を得ないな、と肩を落とそうとすれば、すぐに見浪は言った。


「お前を叩き潰すって、約束」
「約束って、そんなもん、お前が勝手に言ってるだけだろ。俺は叩き潰されたりしない」


 何が可笑しいのか、見浪はくつくつと喉を鳴らす。酷く不快になる嗤いだ。和輝が眉を寄せると、見浪は一層嬉しそうに嗤った。
 悪趣味な奴だな、と思う。


「ま、それだけ伝えりゃ、俺の用事はお終いだ。じゃあな、ベストを尽くそうぜ」


 そんなことを言われた後に、仲良く握手出来ると思うのだろうか。差し出された手を取れないまま和輝が黙っていると、見浪は苦笑して手を引っ込めた。
 笑顔で手を振って帰って行くその様は無邪気なのに、如何しても裏を探ってしまう。自分が疑り深いのか、見浪が食えない男なのか。
 見浪が去った後、何事も無かったかのように和輝は集合場所へ向かう。先程までは誰もいなかった筈の入り口に無数の人影が視認出来た。


「おはよ、和輝」


 遅刻魔の箕輪が、晴れやかな笑顔で立っている。
 緊張して眠れず徹夜したのではと疑いたくなるが、生憎、目の下に隈は無い。軽く手を上げて応え、和輝は先に集合していた先輩に目を向ける。


「おはようございます」
「よう」


 萩原が素っ気無く答えた。すぐ後ろで桜橋と高槻が何か真剣に話している。試合に関することなのか、それとも。
 人込みの中、頭一つ抜けて大きな少年が姿を現す。夏川だ。


「おはよーございます」


 気の無い挨拶を咎める者など、最早いない。
 夏川は和輝の横に立つと、退屈そうに言った。


「さっき、見浪翔平と擦れ違ったぜ」
「ああ、俺は話をしたよ」
「ふうん。宣戦布告でもされたか?」
「まあ、そんなところ」


 曖昧に笑うと、夏川は興味も無さそうに鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
 少しして雨宮が合流し、マネージャーと名ばかりの顧問教諭を入れて総勢十二名。高槻の声掛けによって球場への入り口を潜る。次にこの場所を潜る時は、勝敗が決したときだ。感慨深いものがあるな、と和輝はその一歩に力を込めた。
 タン。乾いた音がする。
 浮かれてんのかと、隣で箕輪が笑った。浮かれもするさ。和輝は答えずに笑みを返す。目の前に光の出口がある。大勢の観客が待ち侘びるのは無敵のヒーローか、世紀の大悪党か。ヒーローの失墜か、悪者の下剋上か。最早、どちらにももう興味が無い。
 視界一杯に広がるグラウンドと、落ちて来そうに広い青空が全てだ。ベストを尽くそうぜと言った見浪の声が脳裏を過る。そんなこと言われるまでもない。
 試合の仕度をしながら、和輝は左手首を握り締めた。長い袖に守られた其処に刻まれた傷の存在を知る者は少ない。リストカットとは異なるものだが、消えることの無い醜い傷だ。それは和輝にとっては困難を乗り越えて来た勲章であり、強さも弱さも含めた自分自身の象徴であるが、世間に知られれば恰好の餌食にされるだろう。どのみち、誰にも知られる気は無い。
 和輝は顔を上げた。視界一杯に広がる世界に溢れる光は目を焼くけれど、世界を照らしている。これを希望と呼ばず、何と呼ぶのか。
 アナウンスが、両校の練習時間を告げる。手早く準備を済ませ、和輝はグラブを嵌めた。部員ギリギリのチームで、ノックは何時だって高槻の役目だった。試合前はブルペンに入りたいだろうし、余計な体力は使いたくないだろう。けれど、それを押し退けても高槻はバッターボックスでバットを握り続ける。高熱があっても、骨が折れても高槻は其処に立つのだろう。高槻が高槻である為に。
 叩き潰す。見浪の声がする。練習の為にグラウンドに立つと、意味不明の歓声や好奇心に満ちた眼差しの中で射抜くような視線を感じた。光陵学園のベンチで、見浪がじっと此方を見ている。


(叩き潰される筈無いさ。だって、どんなことがあったって俺は道を見失ったりしない)


 短い練習が終わりを告げ、和輝はベンチに戻った。間も無く追い立てるように整列の為にベンチ前に並んだ。
 高槻が声を上げた。


「行くぞ!」
「おおお!」


 炎天下のグラウンドを駆け抜ける球児を、見詰める目は熱を帯びている。焦げてしまいそうだ。整列した先で、和輝は再び見浪と対峙した。
 糸のような細い目が微かに歪んでいる。何が可笑しいのか、笑っているらしい。


「これより、地区予選準決勝、光陵学園と晴海高校の試合を始める。両校、礼!」
「お願いします!」


 張り上げた声と、グラウンドを蹴る足。試合開始を告げるサイレンが悲鳴のように鳴り響く。
 試合、開始。

2011.10.26