『一回の表、晴海高校の攻撃です――』


 試合を促すアナウンスが響いている。バットを下げて、和輝はバッターボックスへ足を進めた。止まない歓声と応援、微かな野次罵声はもう気にならない。


『バッター一番、蜂谷君。背番号、五番――』


 漣のような声の振動が心地良い。光陵学園の応援に圧されてはいるが、確かに味方の叫びが聞こえる。打てよ、勝てよ、甲子園行くぞ。そんなこと、言われるまでも無い。


「お願いします」


 頭を下げた和輝が、ゆっくりと面を上げる。ヘルメットのツバの下、影の中で大きな双眸が猫のように光っていた。マウンドに光陵学園のエース、島崎道哉が立っている。流石は全国区のエースピッチャー、ガタイだけでない確かな貫禄と威圧感がある。
 自分よりも長い人生を生きて、長く野球に携わっただろう人だ。油断も慢心も無く真っ直ぐ此方を射抜く目はエースと呼ぶに相応しい。和輝はバットを構えた。
 初球――。ワインドアップ。島崎が大きく振り被った。
 振り抜かれた左腕が鞭のように撓る。弾き飛ばされた白球は一筋の閃光となってキャッチャーミットに飛び込んだ。バシンと、重く乾いた音が響く。


「トーライッ!」


 審判の声を掻き消さんばかりの歓声が降り注ぐ。
 良い球だ。外角低めのストレート。中々手の出せない其処へ狙って投げたのなら恐ろしいものだ。球速は140km後半。
 身動き一つせず、ボールの行方を見守った和輝は口元を結んだ。無駄な力の籠らない自然体の構えで、次の一球を待つ。
 ランナーを背負わず、試合開始直後の十分余裕のある状態で、遠慮する必要などある筈が無い。島崎は大きく伸び上がる。
 白球の唸りが聞こえるようだ。和輝はバットを振り抜いた。


「トラーイッ!」


 ツーストライク、追い込まれた。
 和輝はキャッチャーミットを確認する。何の変哲も無い直球だ。だが、狙っているのか偶然か、恐ろしい程良い場所に決まる。リーチの短い和輝ではまず手が出ない。
 絶望や諦めなんてとっくの昔に捨ててしまったのだ。和輝の口元は弧を描いている。
 キャッチャーからの返球を受け取る島崎は無表情だ。固く結ばれた口元に緊張が感じられる。先頭を切りたいのは当然だろう。背負うのはエースの重圧か、仲間の夢か。生憎、此方も譲る気は微塵も無い。
 均されたバッターボックス。島崎の三球目が振り抜かれる。和輝は踏み込んだ。


(カーブ!)


 外角低めの直球の後の変化球。バッターが打ち難い球はピッチャーも投げ難いと言うが、良いコースだ。
 鈍い音が響いた。打球は一塁方面、ファールゾーンで爆竹のように爆ぜた。


「ファール!」


 さあ、来い。
 和輝は荒れたバッターボックスを均し、構える。
 キャッチャーからの返球を受け、一呼吸も無く島崎は振り被った。そうだ、それでいい。小細工なんて必要無い。
 カァン。銀色のバットに弾き返された白球が小動物のようにファースト横を抜けた。沸き立つ応援の中、和輝はバットを置いて駆け抜ける。一塁に興味は無い。
 捕球したセンターからの送球は矢のように鋭い。和輝は一塁を蹴った。
 真っ直ぐ二塁に向かった送球。滑り込んだ和輝に表情は無い。タッチの差だ。


「セーフ!」


 ノーアウト、ランナー二塁。最速の選手を塁上に置いても尚、光陵の冷静さは失われる筈も無い。
 二番、桜橋。バントだ。危なげなく安定した手付きに、光陵とて無理にバントを防ぐ必要は無い。ワンナウト、ランナー三塁。
 晴海高校の、最初の得点のチャンスがやって来た。状況としてはかなり恵まれている。打者は三番、藤。安定したスイングと優れた選球眼がその理由だ。
 転がりさえすれば、本塁に戻れる自信がある。和輝はリードを取りながら藤を見詰める。先取点のチャンス。スクイズ警戒に前進守備。司令塔が高槻でなければ、それは当然だろう。
 藤の構えは通常の通りだ。島崎が頷く。
 コンパクトに、島崎のクイックピッチング。それでも威力の衰えないストレートは流石だ。


「ボーッ!」


 藤は動かない。
 二球目。和輝は身を低くする。島崎の指先から、白球が離れる。微かな弧を描いている。


(フォーク?)


 三塁線、和輝は目を凝らす。確かにフォークは島崎の持ち球だが、それにしては随分と速く、小さな変化だ。


「トーライッ!」


 審判が宣告する。舌打ちでもしたいだろう、藤が微かに顔を歪ませる。


「SSFだな」


 ベンチで高槻が独り言のように呟く。
 SSF――スプリットフィンガード・ファストボール。高速フォークとも呼ばれる変化球だ。
 打ってみたい。うずうずする気持ちを抑え、和輝は三塁に戻る。
 球速は140kmはありそうだ。これだけ早い変化球を、直球と変わらぬフォームで放たれてしまえば考える間も無く追い込まれてしまう。
 ストライク。振り抜かれた藤のバットは掠りもしない。ツーストライクからのバントはファールでもアウトだ。藤は構え直す。
 硬いな。和輝は思った。SSFに呑まれたのだろう。


「トーライッ! バッターアウッ!」


 ツーアウト、ランナー三塁。頭を下げてベンチに戻る藤の口元は固く結ばれている。和輝はヘルメットのツバを下げ、焼けるような灼熱の日光を遮りながらその様を見ていた。
 どのみち、次は四番だ。晴海高校最強打者、萩原英秋。
 スコアリングポジションにランナーがいて、バッターボックスに萩原がいるのなら得点は殆ど確実だ。恐らく、この試合最初の山場であるタイミングに誰もが固唾を呑んで見守る。喉を潰す勢いで叫び続ける応援の中、颯爽と登場する萩原はヒーローのようだ。


『バッター四番、萩原君。背番号、二番――』


 バッターボックス前で、一礼。子どもが泣くような強面はヘルメットの影に沈んでいる。
 頼みます。和輝は萩原をじっと見詰める。一瞬、視線が合ったような気がしたが、萩原の無表情は崩れない。笑っている筈も無いけれど。
 初球、内角高めのボール球。顔を狙うような高い球を僅かに上体を逸らして避ける萩原は、やはり無表情だった。


「ボーッ」


 警戒も当然だろう。先取点というのは、試合の命運を握っていると言っても過言ではない筈。格下を相手にしているからこそ、光陵学園はなんとしても此処を抑えなければならないのだ。
 島崎はちらりと和輝を一瞥した。牽制が来るかとも思うが、動きは無い。むっつりと押し黙ったまま、島崎は白球を投げた。
 件のSSFだ。萩原のバットは振り切られたが、嘲笑うように白球は逃げて行く。


「トーライ!」


 変化が小さい分、直球との見分けが難しいのだろう。踏み込んだ足場を均すことなく、萩原は黙って構え直す。
 そして、第三球目。上げられた腕から放たれた一球は島崎の決め球だった。


(フォークッ!)


 和輝は食い入るように見詰めていた。
 同じフォームから放たれる深く落ちる球。人間の目は縦の変化に弱く出来ている。SSFと、鋭いフォーク。
 萩原のバットは白球を僅かに下で捉え、打球はキャッチャーの上空へ浮き上がった。そして、地球上に存在する万物と同じく重力によって、キャッチャーミットに落下した。


「アウト!」


 チェンジだ。萩原が捉え切れない程の球なのだろう。和輝は逃がそうとした呼吸を呑み込んでベンチに向かった。
 途中、擦れ違った見浪が此方を見て薄く笑った。このスリーアウトに対する笑みでないことは、明白だった。


道標・2

どんな豪華客船も、灯台無しに夜の海は渡れない


 一回表、晴海高校は無得点に攻撃を終えた。だが、誰もそれを引き摺ることなくグラウンドへと駆けて行く。それも当然だろう。超攻撃型と呼ばれる光陵の攻撃に備えなければならないのに、弱気でいれば食われるだけだ。
 三塁。和輝は見浪の浮かべた薄ら笑いを思い出している。
 マウンドに高槻。何時もの仏頂面が崩れないのは晴海ナインにとっては最も大きな安心材料だ。だから、それだけに和輝は見浪のある噂が恐ろしかった。
 中学時代より、見浪翔平は強打者として有名だったという。夏川や箕輪に聞く限りで見浪は『えげつない強打者』とのことで、和輝にとっては筋金入りのサディストという印象だった。だが、その一方で見浪は『投手潰し』とも呼ばれていた。それが彼の天性の才能による実力の為なのか、飄々として他人に惑わされない性質の為なのかは解らない。それでも、たかが噂と素通り出来る程に楽観的にはなれないのだ。
 高槻が潰される筈が無い。和輝はそう思って来たし、信じている。


『一回裏、光陵学園の攻撃は――。バッター一番、市ヶ谷君。背番号八番』


 アナウンスの元、バッターが現れる。ひょろりと背の高い三年生。データによればかなりの俊足だが、恐れることはない。
 どんな打者が来たって、高槻は顔色一つ変えず、眉一つ動かさない。そういう男だ。高槻が小さな体で大きく振り被る。初球。
 その指先から放たれた直球に驚かない人間は殆どいないだろう。チビだから非力という概念を無視した鋭い一球。


「トラーイクッ!」


 高槻は変化球を主とした投手だが、それは直球が遅いからではない。恐らく、多様な変化球を使っての組み立てが晴海高校のバッテリーの性に合うのだろう。ズバズバ三振を取るのではなく、打たせて取るその様は細々してみみっちいようだけど、一試合平気で投げ切る体力があってこそのものだ。
 金属音が鳴った。打球はふらふらと和輝の上空に浮かび上がる。
 危なげない捕球、審判が叫ぶ。


「アウトッ!」


 呆気無い程、簡単に先頭が切られた。
 二番打者がバッターボックスへ。和輝は電光掲示板を見遣り、唇を噛み締める。件の見浪翔平は五番。此処をこのまま抑えられれば見浪までは回らない。楽観視することは出来ないが、警戒し過ぎて雁字搦めになるのも御免だ。そう思うから、和輝は見浪の噂など高槻に告げることはしなかった。
 打球が、ぼてぼてのゴロとなって三塁線に転がる。サードはホットゾーンだ。和輝は思考を停止し、目の前の試合に集中を戻した。
 一回裏、光陵学園の攻撃は三者凡退により無得点だった。図らずとも和輝の思った通りの未来になったのだが、安心など有り得ない。
 二回表、晴海高校の攻撃。打者は五番の夏川から始まる。


「……この大会の大本命を相手に、試合が上の空とは、大物なのか馬鹿なのか紙一重だな」


 感情を読ませぬ淡々とした口調で、高槻が言った。数分前までマウンドにいたとは思えぬ落ち着きぶり。呼吸一つ乱れていない。ベンチから身を乗り出して叫んでいた和輝は振り返り、その名を呼んだ。


「キャプテン」
「試合に集中しろよ。僅かな油断が命取りだ」
「解ってます。……キャプテン」


 和輝は高槻をじっと見詰める。


「キャプテンは、崩れたりしませんよね?」


 問いの意味が解らず、高槻は眉間に皺を寄せた。試合中のベンチという状況で、否定の言葉が吐けると思うのだろうか。一種の脅迫に似た問いに、和輝らしくもないと高槻は首を捻る。
 この少年はとても強い。不特定多数の人間が向ける期待や羨望や嫉妬や憧憬を全て背負って歩き出せる。けれど、その一方で触れるだけで壊れてしまいそうに脆い硝子細工のような繊細な心を持ち合わせている。天真爛漫だが、現実を知っている。
 この問いは何を求めているのだろう。高槻が考え答えるよりも早く、和輝は笑って首を振った。


「すみません、何でもないです」


 そうして背を向ける和輝は、グラウンドに向けて声援を送り続ける。
 夏川の鋭いスイングを嘲笑うようにボールがミットに収まっていく。両校共に試合の流れを捉えられないまま、審判の声が響いて行く。
 四番から始まる二回裏の守備を思い、高槻は自分の指先を見詰めていた。

2011.10.27