二回裏、光陵学園の攻撃。光陵学園最強打者、キャプテンを務める男がバッターボックスに立つ。同じ十八歳でも此処まで違うものだなと、何処か遠いところで高槻はそう思った。


『二回裏、光陵学園の攻撃は、バッター四番、鹿取君。背番号五番――』


 四番から始まるこの回は失点の可能性が高まる。否、どれだけ少ない失点で抑えられるかと考える方が現実的なのかも知れない。それでも、高槻は光陵学園には一点たりとも与える気は無かった。
 大柄のバッター。そのガタイに見合わず小技も上手く、状況に応じて送ることもある万能打者だ。厄介だなとは思うが、脅威だとは思わない。高槻は振り被った。
 羨ましくない訳じゃない。大きな体が、力強い腕が、逞しい足が羨ましくない訳じゃない。自然と集まる強い仲間が、優れた監督が、完備されたグラウンドが羨ましくない訳じゃない。それでも、高槻は今の自分に胸を張る。


「トライッ」


 白球は掠りもしない。バットの唸りが聞こえるような力強いスイングを嘲笑う白球は、萩原によって無表情に返球される。
 譲れないのはお互い様だろう。鋭い視線が交差する。それでも逸らす事無く、高槻は振り被る。


「トーライッ!」


 真っ向勝負。得意とする変化球を一切使わず、まるで意地を張るような直球勝負に球場が沸き立つ。鹿取の目が険しくなるが、それすらも高槻の手の内だ。何時でも冷静沈着な高槻は、どんな状況でも一線引いた場所で観察している。


「トーライッ! バッターアウッ!」


 三球三振――。
 四番のキャプテンを三球の直球で抑えた。試合の流れは既に掴んだのだと和輝が高槻に感心するより早く、アナウンスは次の打者を告げた。


『バッター五番、見浪君。背番号四番――』


 ああ、来てしまった。
 薄ら笑いを浮かべ、飄々とした態度を崩さないその男に、和輝は寒気を感じた。四番のキャプテンが三球三振した直後だというのに、まるで出来事そのものが記憶から抜け落ちてしまっているかのような軽やかな足取りが嫌になる。


「お願いします」


 いっそ胡散臭い程の笑顔で、主審と萩原を交互に見遣る。糸のような目を歪ませ、どうやらまだ笑っているらしい。
 ゆらりと、柳のように構える。無駄な力の入っていない自然体は和輝と似通うものがあるが、左打者の見浪の体は投手に対し閉じている。所謂、クローズドスタンスだ。強打を狙う打者に多い構えだが、見浪のこれまでのデータを思い直すと違和感が芽生える。
 晴海高校が収集した光陵学園のデータには、当然見浪のものもあるのだが、其処にこんな構えについての記載は無かった。抜け落ちたのだろうか。それとも。
 考えても仕方が無いか、と高槻は振り被る。この男を楽に抑えるつもりはない。油断も慢心も無い。初球はボールだった。


「ボーッ」


 視線すら向けず、微動だにしない。打つ気が無いのか、ボールだと解り切っているのか。どちらにせよ、生意気だ。高槻は返球を受けながら舌打ちする。だが、続く見浪の動作に戦慄した。
 バットヘッドで踵の土を落とす。大きく伸び上がって、バットを掲げ、構える。それまでの脱力感を打ち消す仕草に、打つ気になったかと和輝は思った。だが、高槻が感じたのはそんなものでは無かった。
 高槻が、萩原が、桜橋が、藤が、千葉が、雨宮が硬直する。
 こんなものは偶然だ。だけど、こんなに似ている筈が無い。胸の内に浮かぶ僅かな猜疑心と驚愕を噛み殺し、高槻は構え直す。
 二球目――。機械のように正確な高槻のコントロールが、僅かに乱れる。それは通常の打者なら気付きもしない些細な変化だ。だが、それを見逃す程にこの打者は甘くない。
 キィン。
 澄んだ音と共に打球は二遊間を抜けた。走り出した見浪の横顔にあのいけ好かない薄笑いが浮かんでいる。


「セーフッ!」


 二塁に滑り込んだ見浪はやはり、笑っていた。
 忌々しく思いながら、和輝はグラウンドの違和感を肌で感じている。二塁に付いた桜橋は蒼白だ。萩原の意味深に伏せられた顔も、僅かに乱れた高槻のコントロールも、何もかもが不自然だ。
 何かがおかしい。続く打者をレフトフライに抑え、ツーアウトランナー三塁。光陵学園の得点のチャンスだった。まだ試合は始まったばかりなのに、高槻の呼吸が荒い。こんなことは今まで一度だって無かった。


『バッター七番、柳君。背番号六番――』


 七番の柳は、見浪と同じ一年だ。実力があるからこそレギュラーに抜擢されたのだろうが、小さく痩せっぽちの柳には親近感を覚える。だが、はっきり言って柳はノーデータだ。警戒しなければならない。


「なあ、和輝」


 ランナーがいる為に、塁を離れられない和輝に見浪が囁く。試合中の私語は慎まなければならないのだが、見浪は審判に気付かれず、和輝が無視出来ないように声を潜める。


「正義は勝つって、よく言うだろ? あれって、ずるいと思わないか」


 何の話をしているのだ。それは今話さなければならないことなのだろうか。
 違和感に対する焦燥感。無視したいのに出来ない苛立ち。和輝は何も答えないが、その心境すら察しているだろう見浪が笑いながら言った。


「正義は勝つなんて、当然だろ。何時の時代も、どんな勝負も、勝った奴が正義だ」


 柳が構える。其処で、高槻の肩が遠目に解る程に震えた。
 見浪が喉を鳴らして笑った。放たれた高槻のボールは、これまで見たことも無い程に緩く甘い。見逃す筈も無い。
 鋭い金属音がして、打球は三遊間を抜けた。じゃあな。見浪がそう言って本塁へ駆けて行く。


「セーフッ!」


 先取点――。
 ツーアウト、ランナー一塁。不自然なこの状況を説明出来る者がいる筈も無い。荒い呼吸を繰り返す高槻は何も語りはしない。だからこそ。


「――ツーアウト!」


 黙り込む萩原に代わって、和輝が声を上げる。箕輪が拳を握る。夏川が前を向く。何も知らないし、何も解らないからこそ、行く先を見失わない。
 はっとしたように高槻が顔を上げた。光陵学園の攻撃はまだ終わってはいない。
 続く打者を三振に抑え、光陵学園の攻撃は終了した。続く晴海高校の攻撃は九番の箕輪からだ。一番である和輝はネクストに入らなければならない。確かに先取点は許したけれど、まだ落ち込むような場面状況では無い。それでもベンチが葬式のように静まり返り、向けられる声援がぎこちないのは如何してなのだろうか。和輝には解らない。
 訊きたいことがある。知りたいことがある。それでも、彼等が語らないのなら自分は何も出来ない。サードゴロに打ち取られた箕輪が戻って来る。今のベンチは、例えムードメーカーの箕輪が入っても盛り上がりはしないだろう。和輝はバッターボックスへ向かって歩き出した。


道標・3

勝者こそが正義 正義こそが勝者


 出塁自体は容易い。和輝にとって島崎の放つフォークは脅威ではなく、SSFも直球と大して変わらない面白味の無い変化球だったからだ。常に比較するのは良くないとは思うけれど、兄のあの重く速い直球に比べれば余りに緩く、高槻の変化球に比べれば余りに正直だ。
 一塁に立ちながら、仲間にスコアリングポジションまで送られながらも得点に至らないというのは余りに興ざめで空しい。呆気無いチェンジは、試合の膠着の合図だったのかも知れない。
 三回、四回、五回と両者無得点のまま試合は流れて行く。一点差を追い掛ける晴海高校には何処か覇気が無く、何かに怯えるように誰もが口を噤む。それでも、何時だって無表情に無口に自分達を引っ張って来た高槻が見浪と柳がバッターボックスに立つ度に調子を崩していく。
 人目を忍んでベンチを抜ける高槻の背中に気付いた者は、和輝を除いて他にいなかった。便所だろうと気にも留めなかったのかも知れない。人に声を掛ける余裕が無かったのかも知れない。そのどちらだとしても、和輝は高槻と話がしたかった。後を追おうとした和輝の肩を、そっと桜橋が叩いた。


「そっとしておいてやってくれ」
「桜橋先輩……」


 この状態の高槻を、放って置けというのだろうか。
 何も語らず、何も知らせず、ただただ抱え込んで黙る彼等に苛立つ。自分は何をすればいいのだ。八方塞がりの闇の中で、足掻くことを止めたら何処に勝機が残るのだ。和輝は叫びたい衝動を呑み込んだ。桜橋が言った。


「あの五番……、見浪翔平。打席に入る前に必ず同じ動作をするだろ?」


 バットヘッドで踵の土を落とす。大きく伸び上がって、バットを掲げ、構える。見浪の癖か、ジンクスみたいなものだろう。さして気にも留めていなかった一連の動作を思い出し、和輝は頷いた。桜橋に表情は無い。


「左打者も、クローズドスタンスも、あの動作も、人を食ったような薄笑いも、全部あいつの癖だった」
「あいつ?」
「――袴田」


 聞き覚えのある名前だ。疑問符を浮かべる箕輪、夏川と対照的にその名を聞いた二、三年が口を噤む。ベンチを重い静寂が包み込んだ。
 それが何だと問い掛ける前に、和輝は思い出していた。去年の初秋に起こったという暴力事件。高槻を狙った集団暴行未遂事件。全ての黒幕は袴田。当時の野球部のエースピッチャーで、将来有望と呼ばれたスター選手だった。
 野球部廃部の危機。萩原と高槻の対立。未来を絶たれたスター。混沌とした絶望にも似た過去の闇が、何の前触れも無くぽっかりと顔を出す。


「袴田先輩が、何だって言うんです。今更、そんなもの関係無いでしょ」


 そう言ってみても、和輝は所詮部外者なのだ。彼等の心にその『袴田』という男がどれ程根強く恐ろしく残っているのかなんて解らない。
 だからといって、何時までも過去に囚われているのは間違いだし、試合にまで引き摺る理由も無い。


「単なる偶然とは、思えないけどね」


 ベンチの暗がりで、雨宮がぽつりと零した。


「見浪って奴は、きっと全部知ってるんだ。だから、わざわざこんな真似して来るんだ。俺はお前等の秘密を知ってるって、脅してるのさ」


 自嘲するように呟く雨宮に、和輝は食って掛かる。


「脅される理由も無い! だって、先輩達は何も悪くない!」
「お前に何が解る!」


 叫んだのは萩原だった。


「お前には解らない。袴田は確かに大馬鹿野郎だけど、確かに、俺達の仲間だったんだ。……仲間の未来を、潰しちまった俺達の気持ちがお前に解る筈無い!」


 事故とはいえ、袴田の選手生命を絶ったのは萩原だ。そして、その切欠を作ったのは高槻だ。知りながら何も出来なかった桜橋達も同罪だ。並べられたきれいごとでは何も解決しない。
 和輝は黙った。言うべき言葉は存在しなかった。過去の一件に関しては、萩原の言うとおり和輝は部外者だ。干渉する権利も無い。ただし、それがこの試合に関係無ければ。
 じゃあ、如何する気なんですか。このまま罪悪感で意気消沈して、お終いですか。そう言ってやりたかった。和輝は言葉を呑み込んで、桜橋の手を振り払って走り出した。


「和輝!」


 後ろから自分を呼ぶ声がしたが、和輝は止まらなかった。向かう先は消えたキャプテンの元だった。
 薄暗い廊下、薄汚れたリノリウムの廊下。切れ掛かった蛍光灯に照らされながら、トイレへと続く道を駆け抜ける。
 キャプテン、キャプテン。あんたがそんなんじゃ、皆おかしくなっちまいますよ。あんたは俺達の道標なんだ。灯台なんだ。上っ面だけでもいいから、堂々としていて下さい。俯いて落ち込むあんたは似合わないよ、柄じゃないよ。
 トイレにいるものと思ったが、高槻はその手前の水道にいた。曇った鏡に酷くやつれた顔を映して、水滴を張り付かせたその様は顔でも笑ったのだろう。


「高槻先輩!」


 高槻の肩が震えた。鏡越しに和輝の姿を視認し、高槻は大きく溜息を吐いた。


「何だよ、便所くらいゆっくり行かせろよ」


 高槻は決して謝らない。自分の失態に対する怒りはあっても、それを詫びることはしない。それが高槻であり、エースであり、キャプテンだ。
 振り返らない高槻に、和輝は言った。


「袴田先輩が、何だって言うんですか」
「あ?」
「見浪が袴田先輩の真似してるからって、何だって言うんですか!」


 和輝の大声に、高槻は拍子抜けしたようにきょとんと鏡越しにその顔を見ていた。


「ああ。そんなもん、如何だっていいよ」
「――え?」
「野球人口がどれ程いると思ってる。一人や二人、同じような癖があって当然だろ。そりゃ、最初は驚いたけど、そんなもん一々気にしてられねぇよ」


 平然と言う高槻の言葉に嘘は無い。なら、一体何が高槻を追い詰めるのだろう。解らない和輝は追及の言葉を持たない。高槻は言った。


「あの、七番。柳って言ったか。――同じなんだよ」


 ぽたん。閉められている筈の蛇口から零れ落ちた水滴が壊れる。
 耳が痛くなるような静寂の空間で、絞り出すような高槻の声がしている。


「メットの被り方、構え方、走り方、笑い方、全部同じなんだよ……」


 誰と。そう問い掛ける前に、和輝は気付いてしまった。傍若無人な高槻を此処まで追い詰める存在、消えることのない存在、唯一無二の存在。
 高槻の弟だ。中学時代、目の前で亡くしたという。


「我ながら、笑っちまうよ。女々しくてよ。あいつは死んだ。もう戻って来ない。他人の空似、偶然。そう解ってるのに、柳が俺の視界に映る度に、終わった筈の過去が一々浮かび上がって来やがる」


 額を押え、乾いた笑いを漏らす高槻は余りにも彼らしくない。それだけ、自分は彼に理想を押し付けていたのだろうかと愕然とする。結局、自分だって同じなのだ。天才の弟と言うだけで勝手な理想を押し付ける人間と、同類だ。崩れるなと脅迫紛いの問いを投げて、全ての責任を押し付けて逃げようとした。なんて醜悪で脆弱なのだろう。
 嘘でもいい。それでも、目の前の幻を否定したくない。弟を失った高槻の痛みが、母を持たない和輝には痛い程に解った。だからこそ、和輝は手を差し伸べない。その痛みを代わりに背負うことなんて出来ないからだ。
 何時の間にか、自分が高槻を絶対視していたことに気付いた。偶像崇拝もいいところだ。高槻とて人間なのに、その弱さや脆さを押し殺そうとしていた。


「俺を見てろ」


 ぽつりと、和輝が言った。反射的に顔を上げた高槻の目に、鏡越しの和輝の真っ直ぐな目が映る。


「俺だけ、見てろ。……北里工業と練習試合した時、キャプテンが俺に言った言葉です。今度は俺の番だ」


 凛と背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を向いて、揺らぐことのない確かな一歩を。


「キャプテンが俺達の灯台だったように、俺がキャプテンの道標になります。こんな偽物だらけの馬鹿げた試合、俺がぶっ壊してやる」


 そう言い切った和輝の目に、太陽にも似た強い光が宿って見えた。鏡に映る和輝の姿が一瞬――死んだ弟に重なる。その一瞬の幻想が消え、振り返った高槻の前には一人の後輩が立っている。
 見間違う筈が無いのだ。此処にいるのは蜂谷和輝。
 浮かべた微笑みは力強い。生意気なことを言いやがってと、悪態吐きながら、高槻は笑った。体中を包んでいた倦怠感は何時の間にか消え失せていた。

2011.10.28