舞台へと向かい歩き出す廊下。足音の反響する薄闇の中、壁に寄り掛かる見覚えのある人影に気付き、和輝はふと足を止めた。いけ好かない薄ら笑いは試合前と何ら変わらぬ、まるで全ては思い通りに事が運び、自分が神にでもなったかのような得意げな顔だ。不愉快さを隠そうともせず、和輝は大げさに足音を鳴らしながら見浪に詰め寄った。


「楽しいかよ……」
「あ?」
「楽しいかって、訊いてんだよ。相手を踏み躙って叩き潰すこの野球が、楽しいのかって訊いてんだよ!」


 見浪に関する『えげつない強打者』や『投手潰し』という噂も、全ては手段を選ばず相手の弱みを握って踏み潰す卑怯な遣り方を指す真実なのだろう。
 見浪はくつりと、喉を鳴らした。嘲笑うかのように、その目は和輝を見下ろしている。


「苦労したんだぜ。高槻先輩の弟に似た選手を探すのは」
「……腐ってるぜ、お前!」


 和輝が食って掛かるが、見浪は平然と笑うだけだ。


「叩き潰すって、言っただろ?」
「俺は叩き潰されたりしない」
「一筋縄でいかないのは、百も承知。将を射んとすれば先ず馬を射よ、って言うだろ?」
「……生憎、俺は将じゃないし、馬に乗った覚えだって一度も無い。俺は何時だって、自分の足で歩いて来た」


 すっと、見浪の目が不機嫌に細められた。


「勘違いだ。お前が、気付いていないだけさ」


 何を言っても通じない。そんな気がして和輝は黙った。
 見浪は薄ら笑いを浮かべている。


「大体、お前に俺を否定する権利があるか?」


 そう言った瞬間、見浪の顔からはそれまでの笑みが消え失せ、人形のような無表情が浮かび上がった。


「お前は才能に物を言わせて、相手を踏み躙って来た。勝負の上でそれを咎める気は無いが、結局、俺とお前は同じ穴の貉なんだよ」


 咄嗟に、否定の言葉は浮かばなかった。自分の夢を叶える為に、誰かの夢を打ち破る。それが勝負の世界だ。
 あるべき姿とは言え、敗者に対して同情が無い訳では無い。だからこそ、彼等の分まで頑張ろうと身を奮い立たせるし、その思いを背負ってやろうと思うのだ。見浪の言うことは正論だろう。


「聞いたぜ、お前の引退試合。全打席敬遠で負けたそうだな」
「それが何だ」
「傷付いたのは、お前だけだと思うか? 敗者ばかりが不幸だったと、そう思うのか?」


 見浪が何を言いたいのか解らない。彼の持つその情報は恐らくきっと、自分を貶める為に用意された無数の手段の内の一つなのだろう。
 北里工業戦では、その試合を再現されて自分は崩れた。それでも此処に立っているのは乗り越えて来たからだ。見浪がどんな脅しの言葉を投げても揺るがないつもりで構える和輝に、放たれたのは思いもよらない言葉だった。


「本当に辛かったのは、相手チームの投手だぜ」


 そんなこと、考えたことも無かった。相手チームの投手は、勝利投手だ。如何して彼が気に病む必要があるというのか。


「お前の実力では、蜂谷和輝を抑えられない。だから、全部敬遠しろ。そう判断された投手の辛さに、お前は今まで気付きもしなかっただろ」


 そんなものに、気付く必要も無い筈だ。和輝はそう思うが、仮に自分がその投手だったとしたらと考えると、決してそんな言葉は言えなかった。


「最終打席。敬遠されて届く筈も無いのにスイングしたお前に、投手はどんな気持ちでボールを握っていたと思う? 知ってるか、そいつ、野球辞めたんだぜ?」


 見浪の言おうとしていることを理解し、和輝は押し黙った。だが、見浪は感情を窺わせない無表情に僅かな侮蔑と怒りを滲ませて和輝を睨む。


「お前がいなければ、そんな思いをすることも無かった。お前さえいなければ」
「そんなこと、」
「なのに、如何してお前は平然とグラウンドに立てるんだ? 如何して夢だの仲間だのときれいごとを並べてバットを握れるんだ? 教えてくれよ、図太い神経の天才君?」


 誰かの夢の欠片が、足元に散らばっている。届かなかった夢は砕けた硝子片のように自らを傷付ける。だが、その全てを背負っていくと決めたのは自分だ。他の誰に奪われてなるものか。
 否定の言葉を放とうとした和輝に代わって、後方より声が響いた。


「勘違いするなよ」


 凛と背筋を伸ばして、何時もの仏頂面で、揺るぎない明確な口調で、小さいながらも頼れる姿で、高槻は其処に立っている。
 カツン、カツン。等間隔の足音を響かせて見浪の横に並ぶと、ちらりと和輝を一瞥した。


「どうやって償えばいいかなんて本気で考えてるのか? 如何してお前が償う必要があるんだ?」


 和輝は、目の前に強い光を感じた。揺るぎない強い光は、八方塞がりの闇を照らす灯台だ。
 誰かを崇拝し過ぎるということは、己の自由を殺すということだ。だけど、それでも、和輝にとって高槻は、光の元へ導いてくれる灯台、道標なのだ。
 高槻は言った。


「勝者が負い目を感じる必要は無ぇよ。胸を張って歩いて来たお前が正解だ」


 何の迷いも無くきっぱりと言い切った高槻に、見浪は瞠目する。だが、次の瞬間には額を押さえてくつくつと笑い声を漏らしていた。


「あんた、面白い人だなぁ」
「うるせぇよ、失せろ。お前はいけ好かない、目障りだ」
「酷い嫌われようだ。いいですよ、俺はもう戻ります」
「さっさと消えろ。……ああ、そうだ」


 わざとらしく掌を打ち、高槻が不敵に笑う。


「懐かしい気分にさせてくれて、ありがとよ」


 言葉の意味は、見浪にも解っただろう。薄く笑った見浪は振り返らない。
 行くぞ、と高槻は歩き出す。和輝は後を追った。


「試合は楽しいか?」


 唐突に振られた質問に、和輝は困惑しつつも確かに頷いた。高槻は一言、そうだよなと言った。


道標・4

それを本当に求めていたのは、


 後半戦が始まる。六回表、晴海高校の攻撃。
 打者は一番。両者無得点のこの試合状況ならば、殆どふりだしに戻ったも同然だった。バッターボックスに向かう和輝の目は、深く被られたヘルメットの影で獲物を狙う猛禽類のように輝いている。
 その目だ――。
 二塁上で、見浪は嬉しそうに嗤った。背筋を走る冷たいものに全身に鳥肌が立つ。歓喜に満ちた目をバッターボックスに幾ら向けても、和輝は表情一つ変えないどころか、視線すら寄越さない。その目はただ真っ直ぐに、マウンド上の投手を捉えている。
 光陵学園のエース、島崎。挨拶もそこそこにバットを構えた和輝の耳に、遅れた間抜けなアナウンスが届いている。


『六回裏、晴海高校の攻撃は――』


 その間にも、島崎は投球姿勢を取っていた。
 140km台のボールを安定して投げる島崎は、その中に同等のスピードを持つSSFを混ぜて来る。しかも、構えてからの投球が実にスムーズで、早い。変化自体が些細なものだとしても、構えてすぐにポンポン投げられたのでは対応は難しい。晴海高校を始めとする対戦校が島崎に抑え込まれる最大の理由はそれだ。
 でも、俺は対応出来る。
 初球。様子見すらしない彼の決め球、SSFが何の遠慮も無く放られた。つくづく可愛くない投手だ。それでも、和輝の目は白球の軌道を確かに捉えていた。
 金属音が響き渡った。それを呑み込もうとする歓声の中、和輝はホームを飛び出す。打球はピッチャー真正面。島崎が駆け付けるが、和輝の口元は弧を描いていた。
 打球は、島崎を嘲笑うようにその手を擦り抜けてマウンドを越えて転がった。
 エラー? イレギュラー?
 それを問う時間など無い。カバーに入った見浪が振り返れば、滑り込む必要も無いと和輝がヘルメットを脱いで塁上にいた。
 次の打者がバッターボックスに入る。見浪は返球と共に、二塁に入った。和輝の目も意識も見浪には向いていない。手は試合の勝利へと伸ばされている。どんな罵倒も侮辱も挑発も、この少年には意味が無い。――何故?


「お前に解るかよ」


 呟いたのが誰かなど、見浪には最早如何だって良かった。
 どうせ、視界の端に蠢く小さな少年は自分に興味など無いのだから!
 二番打者が勢いよく空振る。明らかなボール球でも大振りで、睨み付ける。それも相手の作戦だと見浪には解るけれど、マウンド上の島崎に解るかと言えば閉口せざるを得ない。
 プレッシャーを掛けて来る打者に、ピッチャーは知らず知らずの内に体力や気力を消耗する。そして、ボールが甘くなったところを――叩く!
 打球は一直線に三塁線へ。二塁を飛び出した和輝は滑り込むことなく蹴り飛ばし、真っ直ぐに本塁を狙っていた。ショートからの返球。和輝の進路を阻む捕手はまるで巨大な山のようだった。
 タッチの差だ。そう思った時、和輝は捕手の横を風のように通り抜けていた。だが、返球を受けた捕手は諦めなかった。伸ばされたミットは横殴りに振り切られ、走者を嵐のように薙ぎ倒した――。
 派手に転がった和輝に球場が沈黙する。一瞬遅れた「アウト」という宣告。無数の溜息の中から聞こえる確かな声援。砂埃の中で和輝は片膝を着いて立ち上がった。
 妨害行為と言われても可笑しくない。スポーツマンシップに則ったこの場所で起きた捕手の暴力とも取れる力任せのタッチを批判する者がいるのは当然だろう。けれど、和輝は捕手に少しだけ笑い掛けるとベンチの奥に消えて行った。
 ――何故?


「お前に解るかよ」


 この声は誰の声だと言うのだろう。見浪は二塁上に立つ桜橋を睨むけれど、視線すら合わなかった。
 ワンナウト、ランナー二塁。晴海高校の猛攻が始まった。
 後半戦に入り、島崎はペースを乱し打ちに打たれた。応援団の喉を切り裂くような声援など重荷だろうと、冷静に見浪は思う。
 六回表、晴海高校は三得点を記録。続く裏では三失点――。それまで、得点を許さなかった晴海高校のエース高槻らしくない。不調だろうかと思う間もなく、その彼が酷く嬉しげに笑っているのが見えた。
 何故?
 七回表。またも猛攻が続いたかと思えば、光陵学園が追い縋る。理解出来ない見浪だけが茫然と蚊帳の外で立ち尽くす。まるで、守備を忘れたかのような超攻撃的な試合展開。戦略も戦術もあったものではない。ただ我武者羅に勝利に向けて伸ばされた手が、声が、目が、見浪の中の何かを急かす。
 ベンチから身を乗り出して、汗塗れ泥塗れになって声援を送る小さな少年の笑顔は決して絶えない。その目に映る光は失われない。
 何故……?


「教えてやろうか、見浪翔平」


 見浪の心を読んだかのような声に振り返れば、荒い呼吸を繰り返しながら、二塁上の夏川が口角を釣り上げた。彫の深い相貌は整っているけれど、生憎それも今は泥塗れで見る影も無い。
 それでも、強い光の宿る目は決して揺るがない。
 眩しくて、眩しくて、吐気がする。あいつと同じ、いけ好かない眼だ。


「皆、野球が好きなんだよ」


 それは、呆気無い程にシンプルな答えだった。
 夏川の目は揺るがない。


「好きだから、勝ちたいと思う。この一瞬を全力で楽しみたいと思う。だから、どんな結果が出たとしても恨みもしなければ憎みもしない」


 嘘だ。否定の言葉は、陽炎に吸い込まれた。
 夏川はすっと目を細めてベンチに向ける。


「叩き潰したいだなんて、笑わせてくれるぜ。お前はただ、あいつが怖かっただけだろう」


 審判に声を掛けられる前に、夏川の意識は試合の中に戻って行った。
 その言葉の意味が解らず、何度も頭の中で反芻する。怖い? 俺が? 一体、誰を?
 そして、熱気に揺れる視線を泳がせた先で、天才と呼ばれる少年が此方を見て笑った。


(――そうか)


 此処にいるのは、本当に野球が好きで、負けず嫌いな愛すべき馬鹿達なのだ。他の誰でも無く自分自身が選んだ道を全力で走っているから、誰にも邪魔されないし揺るがない。



 試合終了のブザーが鳴り響いた。不吉に感じるその音が、今は何故か此処に立つ全ての者を祝福するかのようなファンファーレに聞こえたのだ。
 整列する二つのチームは刻銘に勝敗を判っている。勝者は疲労の倦怠感の中に微かな笑みを浮かべて、敗者は俯き頬に滴を滑らせた。

 地区予選、準決勝。
 勝者、県立晴海高校――。

 噎せ返る熱気の中で、溢れる歓声を受けながら両校は帽子を脱いで頭を下げた。それは全力を尽くした互いの健闘を讃え合う一種の儀式だった。
 型式ばった行為が滑稽だと、見浪は早足にグラウンドを離れようとする。声を張り上げて涙を零す先輩を、――笑う気にはなれなかった。泣きたい程の悔しさを知っているから。


「和輝」


 疲弊し切ったという態度を隠そうともせず、睡魔にでも襲われているのか瞼を重たそうにして和輝が振り返った。其処に見浪の姿を見付けたとしても、特別、感情を動かすことも無い。
 興味が無いのではない。それが、彼なりの礼儀なのだ。


「頑張れよ!」


 頑張れ、頑張れ、頑張れ。
 負けるなよ。どんな相手にも、自分にも。
 和輝はそれまでの怠そうな顔を消し去って、背筋をぴんと伸ばした。試合の疲れを微塵も感じさせない晴れ晴れとした笑顔で、声を張り上げる。


「お前もな!」


 向けられた拳をぶつけ合うことはしないけれど、確かに真っ直ぐに向き合っている。それが嬉しい。それが誇らしい。
 その後ろで夏川が意味深に笑っていたけれど、見浪は気付かない振りをした。策士策に溺れるってところか。否、策なんてあったもんじゃない。あったのは、勝利への渇望と意地だけだ。
 背中を向けた晴海ナインは振り返らない。先頭を歩く小さな少年の伸ばされた背筋が、和輝と重なる。自分が陥れようとした存在は、より強固なものとなったようだった。
 迷うことなく踏み出される足、揺らぐことの無い眼差し。彼等の道標は真っ直ぐに己の道を歩いていた。

2012.1.30