シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた



 七月某日は、蜂谷和輝の誕生日だった。和輝の在籍する野球部が全国高等学校野球選手権の地区予選真っただ中で、しかもその決勝戦を目前に控えているということもあり、父親に言われるまで本人は全く気付かなかった。
 純粋な気持ちで彼の誕生日がやって来ることを述べた父に他意は、無い。それでも和輝の胸にちくりと刺さるのは逃れようのない罪悪感だった。自分の誕生日など如何だって良かった。だが、忘れてはいけないのはその翌日、母の命日だった。
 蜂谷家の末っ子である和輝を身籠った母は、同時に癌を患っていた。和輝の出産によって疲弊した彼女は、周囲の励ましも医師の健闘も虚しく、その数時間後に逝去した。自分の代わりに生きるであろう泣きじゃくる息子の頭を撫で、せめて祝うべき誕生日を命日にしてはならぬと数時間を必死に生き抜き、事切れた。
 和輝がそれを知ったのは中学生の頃、近所の噂好きな主婦達の他愛の無い立ち話だった。感受性豊かな年頃の和輝は嘆き絶望し、諦観して自らの命すら投げ出そうとした。けれど、そんな和輝に手を差し伸べてくれたのは兄の祐輝で、受け入れてくれたのは掛け替えの無い家族だった。
 望まれて生まれて来たのだ。此処にいるだけで祝福され、愛される存在なのだ。二度と和輝が間違うことの無いように、父は屈託無く笑いながらもはっきりと告げた。
 だから、和輝は家族が大切だった。独り立ちして行った兄と姉達は末の弟を溺愛し、事あるごとに帰宅しては和輝を構い倒していく。未だ実家に暮らす兄――祐輝は、過保護とも取れる程に世話を焼きたがる。年頃の少年からすれば、それは鬱陶しくもあり、面倒臭いものである筈なのに、拒絶することも迷惑がることも和輝はして来なかった。
 その理由を、和輝は解っていた。解っていて、知らない振りをしていた。それが彼等の選べる最良の選択だったからだ。


 試合後、当然のように行われた練習によって体中が重くて怠かった。僅かな外灯が照らす帰路を歩きながら、和輝は誰かに呼ばれたような気がして振り返った。傍を流れる律見川のせせらぎは身を潜ませて、電車が鉄橋を通過するけたたましい音が辺りに響き渡る。
 気のせいだったらしい。無駄足を踏んだ。溜息交じりに視線を前に向ければ、最も疲弊している筈の我らがキャプテンこと、高槻智也が背筋を真っ直ぐに伸ばして歩いていた。
 体格は殆ど変らない。自分と一体何が違うのだろうと、少し悔しく思う和輝だ。既に解散した仲間の姿は無く、道を行くのは何の因果か和輝と高槻だけだった。当然のように前を見据えて横に並ぶことも振り返ることもしない高槻は、微かな和輝の足音を聞き分けて歩調を緩めてくれる。その不器用な優しさを、仲間は愛した。
 目前に迫る甲子園への重圧など微塵も感じさせない平静と変わらぬ態度で、高槻は声を発した。


「もうすぐ、夢が叶うな」


 この場に和輝以外の人間が存在しなければ、それは独り言として消え失せただろう。
 和輝は口元に少しだけ笑みを浮かべた。それは誰の夢を指しているのだろう。自分か、高槻か、それとも互いのことか。
 それきり黙った高槻に、今度は和輝が言った。聞き流されることのないように、なるべく大きな声で。


「もうすぐ、俺の誕生日なんです」


 だから何だ、と高槻は冷ややかな目を向ける。その心には以前、和輝が嘗ての先輩である廣瀬に言い放った年功序列を馬鹿にする発言が残っているのだろう。
 素直に祝いの言葉をくれてやる程、高槻は優しくもなければ温かくもない。けれど、何も無かったかのように通り過ぎる程に冷たくもない。


「強請るなら、金の有る奴にしろ。……桜橋とか」


 例えに出した桜橋とて、金持ちという訳ではないのだろう。高槻が珍しく解り易い程に「しまった」という顔をする。
 それが何だか可笑しくて、和輝は声を立てて笑った。
 そうですね。また、電車が通り過ぎて行く。


「俺のお母さんが死ぬ、前日なんです」


 実際には、前日と呼べる程に間があるとは思えなかった。恐らく、数時間程度。自分が外界へと誕生した数時間後、母は命を引き取った。
 高槻は和輝の心中を悟り、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「なら、お前の誕生日に差し出す言葉は“おめでとう”ではなく、“ありがとう”だな」


 高槻がそう言うと、和輝は酷く驚いたような顔をした。
 何を驚いているのだろうと振り返った高槻は足を止め、精巧な人形のように整ったその面を見詰めた。


「……そんな風に思ったの、俺、初めてです」


 心底驚いたという調子の和輝に、高槻は溜息を零す。
 お前が思わなくとも、お前の家族はそう思っているだろうさ。その言葉を呑み込んで胡乱な眼差しを向ければ、和輝は屈託無く笑った。


「なら、俺はキャプテンの誕生日には、大声でおめでとうって叫びますよ」
「止めろ、見っとも無い」


 素っ気無く吐き捨てて、高槻は背を向けた。再び歩き出した背中を追い掛けながら、和輝は言った。


「何度だって言います。おめでとう、おめでとう、おめでとう! この世に高槻先輩がいることは、この上なく御目出度いことだから!」
「てめぇ、馬鹿にしてんのか」


 振り返ることなく言った高槻に、和輝は満足そうに笑う。
 馬鹿にしていないことくらい、高槻にはきっと解っている。本心でそれを訴えるから、恥ずかしくてどんな顔をしたらいいのか解らないのだ。


「ハーッピィ、バースデェ」


 決して上手いとは言い辛い唄を口遊む少年に、高槻は呆れたように肩を落とす。振り返って怒鳴り付けない程度には、高槻もまた、この少年との居心地の良さを感じていた。
 高槻もまた中学時代、事故で弟を亡くしている。生きていれば和輝と同い年だった筈の弟を、重ね見ているのだとは思いたくなかった。その程度には、高槻も和輝を認めていた。


「生まれて来て良かぁったねー」


 相変わらずリズム感に欠ける唄に聞き覚えが無い高槻は、それを止めることもせずにただ聞いていた。


「ハーッピィ、バースデェ……君に逢えて良かったよ」


 思わず振り返った高槻の視界には、酷く真面目な横顔の和輝がいた。視線は闇に沈む川へと投げられ、がらんどうのように昏い色をしている。
 時々、和輝はこんな目をする。それは彼の生まれ育った環境に起因するものだと何となく察しが付いている高槻は、干渉する術を持たない。尤も、干渉しようとは思わないけれど。


「なあ、和輝」


 昏い色を浮かべる和輝の目を見ながら、高槻は言った。


「俺は時々、お前が本当のヒーローなんじゃないかって思うんだぜ」


 高槻らしくない言葉だな、と思いながら和輝は耳を傾けた。


「だからさ、お前はお前に伸ばされる手を一つだって見逃しちゃいけないぜ」


 和輝は乾いた笑いを漏らす。それは酷く自嘲めいていた。


「俺にそんなこと、出来る訳ないじゃないですか。……上げられた悲鳴にも、気付いてやれなかったのに」


 今度は、高槻が笑った。


「俺達が自分の弱さを受け入れるように、お前はお前の強さを受け入れるべきだ」
「俺は強くなんてない」
「如何かな、お前は嘘吐きだから」


 酷い言われようだと思いつつも、和輝は反論の言葉を持てずに失笑する。


「そういう高槻先輩だって、正直者とは思えませんけど」
「お前に比べりゃ皆、正直者だと思うけどな。だがまァ、否定はしねぇよ」


 軽やかな足取りはステップを踏んでいるようだった。珍しいことに、随分と機嫌が良い。和輝は未だに高槻のスイッチが何処にあるのか解らない。


「確かに俺も嘘吐きだよ。ただ、必要な時にしか吐かないだけだ」
「それじゃあ、俺が嘘を吐くのが日常みたいじゃないですか」
「否定は出来ないだろ?」


 言われて、口籠る。その反応がお気に召したらしく、高槻は再び背中を向けて歩き出した。川のせせらぎに掻き消されそうな微かな歌声が、聞こえて来る。


 ――ああ、何の唄だっただろう。


てのひら・1

間違ってはいけない。迷ってはいけない。騙されてはいけない。
命が、惜しければ。


 高槻と別れた後、家を目前にして和輝は携帯を開いた。先程から着信を知らせる振動が気になっていたのだ。ディスプレイに表示される名前は、普段なら絶対に見る筈の無いものだった。
 掛け直そうとしたところで、タイミングを見計らったように着信。近くで見ているのではないかと、ホラー染みたことを考えながら応答すると数時間前に別れた少女の声がした。


「――よォ、水崎」


 野球部のマネージャー。
 入部当時に、呼び込みで部員を捕まえて来なかったら私刑だと脅された和輝と箕輪が勧誘した少女の内の一人だ。
 ひょんなことから彼女が家庭内での身体的虐待から慢性的にリストカットをしていたことを知ってしまってから、水崎亜矢にとって和輝は唯一の心の拠所でもあった。とはいえ、和輝は以前その事実を知ってからというものの特にこれと言って何か対処した訳でも相談に乗った訳でも無い。
 ただ、逃げてもいいよと言っただけだ。その代わりに、いなくなることは許さないと告げた。
 もしも彼女が辛くて苦しくて如何しようも無くて何もかも嫌になって、やっとの思いで逃げ込んだ先が自分のところなら、それは誇るべきことだと和輝は思う。彼女がまた歩き出せるその時まで、逃げ込んで隠れていればいい。
 これが彼女でも違う人間でも、男でも女でも構わない。そうしてやっと、先刻高槻の言った言葉の意味が解った気がした。


『今日は、お疲れ様……』
「ああ、お前もな」


 なるべく、自分から質問は投げない。彼女の様子がおかしいことは、第一声で気付いた。微かに震えるその声に滲むのは疲労か、恐怖か。
 何を求めているのだろう。和輝は亜矢の言葉を辛抱強く待った。


『もうすぐ、和輝君の誕生日だね……」


 まさか、先程の高槻との会話を知っているのだろうか。
 密かな驚きと共に和輝は笑った。


「ああ。よく知ってるな」
『前に、部員のプロフィールで……」


 部員全員のプロフィールを覚えているのだろうか、と疑問に思ったが、和輝は曖昧に相槌を打った。


『誕生日に、予定ってある……?』
「ああ……」


 きっと、お節介な家族と幼馴染が盛大に祝ってくれるだろう。去年のことを思い浮かべて自然と口元を綻ばせる。匠とは仲違いをしていたけれど、完全に和解した今ならば栃木からでも押し掛けるだろう。公式試合の真っ最中だとしてもそうだと確信を持てるくらいには、長い付き合いだ。何せ、生まれた時から共に過ごした掛け替えの無い大切な幼馴染なのだから。
 けれど、何か様子のおかしい亜矢に正直に告げることも出来ずに和輝は答えた。


「そうだな。母さんの命日が近いから、家族で過ごすと思うよ」


 ああ、これが俺が嘘吐きと呼ばれる所以か。
 高槻との会話を思い出し、和輝ははっとなる。高槻のように元来が正直者で、必要な時にだけ嘘を吐くのではない。嘘が和輝の日常なのだ。
 亜矢は少しだけ残念そうに言った。


『そっか……』
「何かあったのか?」
『ううん』


 亜矢もまた、平静の穏やかさを取り戻して返す。この少女も大概、嘘吐きだ。
 その見え透いた嘘が、自分に通じると思っているのだろうか。否、通じなくても、決して踏み込んで来ないと解っているからこその嘘だろうか。


『ただ、少し、疲れちゃって』


 その言葉には本当に、疲労感が滲んでいる。
 どうせ、明日も会うことになるのだ。こんな無機質な機械の箱越しでは、彼女の小さな感情の起伏を拾い切れない。


「じゃあ、ぱーっと遊ぼうか。夏が終わったらさ、野球部皆で」


 彼女の連れた昏い陰に呑み込まれないような明るい口調で、和輝は言った。
 すると、電話越しに彼女は小さな笑い声を漏らした。あ、笑った。そんなことを思う間もなく和輝の耳には歌うような穏やかな亜矢の声が届く。


『和輝君は優しいね。それに、少し意地悪だね』
「そう?」
『うん。じゃあ、楽しみにしてる……』


 通話は切られた。最後の亜矢の声が耳の奥に残る。
 泣いていたのだろうか。掠れるように震えた声を反芻して、和輝は通話を終えた携帯を見詰める。何を伝えたかったのだろう。伸ばされた手を、自分は取ることが出来たのだろうか。
 自分の放った言葉を思い返しながら携帯を閉じると、目の前に一つの大きな影が立ち塞がっていることに気付いた。
 派手なスニーカーと、寝間着のようなスウェット。極力関わりたくない人種だなと思いながら避けて行こうとすると、微かに声が聞こえた。


「――蜂谷和輝だな」


 何故、名前を。
 顔を上げた和輝の目に、月光によって陰になった男の顔が映る。その鋭い双眸だけがやけに鮮明で、まるで、ナイフの切っ先にも似た光。

 俺は、この目を知っている。
 嘗て自分を睨み続けたこの目が意味するものを、俺は知っている。

 後頭部に受けた衝撃と鈍い音。
 意識を手放す刹那、和輝は思い出した。


 この目は、嘗て兄が自分に向けていたものだ――。

2012.1.31