シャボン玉消えた 屋根まで飛んで
産まれてすぐに こわれて消えた



 微かな水滴の落下音に、和輝の意識は急浮上した。ぐるりと周囲を見渡して、見覚えの無い廃工場のような場所にいると気付いた時、後頭部がずきりと鈍く痛んだ。
 立ち上がり、生暖かい感触に手を伸ばしてみれば、僅かに血液が滲んでいた。何が起こっているのだろうと考える間も無く、足音が聞こえた。白々しい程の蛍光灯の白い灯りが不気味に点滅している。視界を遮る影は確かに覚えのあるものだった。
 けれど、目の前にいる男とは、初対面の筈だった。
 短い金髪は毒々しいまでに眩しい電灯に透け、耳にぶら下がった夥しい数のピアスは男が歩く度に揺れる。上下の黒いスウェット、汚れた奇抜な色のスニーカー、片手には金属バットが力無く下げられている。
 恐らく、真っ当な人生を送っていれば一生関わることも無い人間だ。けれど、目の前で不気味な薄笑いを浮かべるこの男と出会ってしまった。足元から上って来る正体不明の悪寒を、和輝は知っていると思った。

 怖い。素直に、そう思った。


「君が蜂谷和輝君だね」


 表情と口調だけは穏やかだった。まるで、底の見えない煮え滾るマグマのようだと思った。
 和輝は頷くことも、否定することも出来なかった。ただ、何も出来ず其処に棒立ちになっていた。膝や指先は震えている。歯の根が合わずにカチカチと不快な音を鳴らす。両目はぎょろりと見開かれて、目の前の男を穴が空く程に見詰めている。


「俺の名前を知っているか?」


 投げ掛けられた質問に、和輝は辛うじて首を振った。男は苦笑し、ゆっくりと間合いを詰めて行く。反対に、和輝は摺り足で一歩ずつ後ずさった。


「俺は、袴田翔貴」
「袴田……」


 聞き覚えのある名前だと思ったが、和輝はすぐに思い出せなかった。
 袴田とは、誰だっただろうか。自分の知り合いに、こんな男がいただろうか。和輝は少し俯いてその名前を思い出そうとした。けれど、その時、視界に銀色が映り込んだ。
 ビュウッ、と風を切る音がした。反射的に和輝がしゃがみ込んだその瞬間、黒い物体が和輝を横から打ち付けた。


「うっ!」


 受け身姿勢のまま、勢いよく和輝は地面を滑った。薄く積もった埃が闇に舞う。
 衝撃を受けた左腕が鈍く痛んだ。和輝は起き上がることが出来なかった。
 その様子を見ていた袴田から、気味の悪い乾いた笑いが漏れた。笑い声は廃墟に反響し、何とも不気味な雰囲気を漂わせる・


「俺を知らねぇのか、蜂谷和輝君」


 袴田の苛立ちを感じ取り、和輝は痛みの残る腕を摩って素早く立ち上がった。
 少なくとも、会っていきなり殴られるような知り合いを持った覚えは無かった。けれど、和輝はその名を知っていた。


「元野球部の、袴田さん……?」


 袴田がにやりと笑った。
 将来有望と言われていた野球部のエース。高槻と対立していた先輩。そして、萩原との乱闘の結果、野球を失った男。袴田翔貴。
 これがあの、袴田だと言うのか。
 和輝は信じられないと言うように目を真ん丸にして、薄笑いを浮かべる袴田を見ている。袴田はうっとりと喉を鳴らしながら、また、和輝との距離をゆっくりと埋めて行く。


「解ったみたいだね、蜂谷和輝君」
「な、何で……?」


 答えは返って来なかった。代わりに、袴田の上段からの蹴りが視界の端に映った。
 和輝は一歩引いてその攻撃を躱した――が、その死角から銀色のバットが振り抜かれた。風を切る聞き慣れた音が耳に届き、和輝はくぐもった呻き声と共に再び、汚れた地面を滑った。
 受け止めた筈のバットは横っ腹を殴っていた。肋骨が軋んだ音を立てた。袴田は起き上がらない和輝の横に立ち、鳩尾を爪先で鋭く蹴り上げた。
 その瞬間、腹の底から不快な熱が込み上げて来た。


「うっ……ぐ」


 必死に口元を覆おうとするけれど、間に合わなかった。


「ぐ、ぇ」


 途端に口元から、殆ど原型を失った食物が流れ出た。恐らく昼食の弁当だろう。
 痛みなのか、生理現象なのか、和輝は込み上げる吐気を必死に抑えようとしたが、結局は胃液まで吐き出した。
 独特のツンとした臭いが鼻を突く。けれど、そんなことは如何でもいいことだった。
 生理的に涙が滲む。地面に爪を立てたが、指先は見っとも無く震えていた。両手を突いたまま、和輝は背後の袴田を見遣る。


(怖い)


 袴田は笑っていた。


(怖い、怖い、怖い!)


 逃げなくては。此処から、一刻も早く逃げなくてはならない。此処にいたらきっと、殺される。
 また、一歩一歩と距離を縮めて来る袴田から逃げるように和輝は慌てて立ち上がった。けれど、走って逃げる程の余力は残されていなかった。
 腹を抱えながら、腕を押さえながら必死に離れようとした。けれど、袴田はすぐに追い付いて、嘲笑うように足払いを掛けた。
 そして、再び地面に倒れ込んだ和輝の腹を蹴り上げた。
 呻き声すら出なかった。袴田は、笑っている。


「なあ、蜂谷和輝君」


 袴田は力無く投げ出された和輝の右手を踏み付け、問い掛けた。


「如何して、俺がこんなことをするか解るか?」


 解る訳が無い。袴田も解っている。案の定、和輝が答えられないと罰だとでも言うかのように、右手を踏み付けていた足で腹を蹴った。


「ぅぐッ」


 蹴られた腹を守るように和輝が丸まると、今度は横から蹴り飛ばした。
 和輝はそのままごろりと横に倒れ、噎せ返るような咳と共に血を吐き出した。


「解んねェのかな!」
「――やめ」


 制止の声は届かない。後ろに引かれた足を見て、和輝は怯えたように身構えた。けれど、袴田は何もかも無視してまた、和輝を蹴った。
 蹴られる度に、地面に血が落ちた。逃げようと立ち上がり、上手く動かない体で出口を目指すが、袴田は嘲笑うように足払いを掛けて転ばせると、何度も何度も腹を蹴った。
 袴田のスニーカーは赤く染まっている。その足でまた、傍に歩み寄ると、今度はしゃがんで和輝の顔を覗き込んだ。整った顔は、不釣り合いにも吐き出した血液と埃塗れになっている。袴田は無表情に和輝の神を掴み上げた。


「ごめんな、痛かったか?」


 それまでの荒々しさがまるで嘘のように、酷く穏やかな口調で袴田は言った。けれど、和輝の朦朧とした意識では、彼が何を言っているのかさえ解らない。


「でも、仕方ないだろ? これがお前達の罪なんだから」
「――罪?」


 その単語を拾い上げ、和輝は袴田を見た。しかし、視界は既にぼやけていた。


「罪って」
「お前達、野球部の罪さ。罪には罰だろ?」


 和輝には袴田が何を言っているのか解らない。正常な状態で聞いたって、何のことか解らなかっただろう。
 袴田は無表情だった。


「俺という人間を殺した罪だ」


 この男は何を言っているのだろうか。和輝は以前、萩原から聞いた話を思い出す。
 袴田は、対立していた高槻がキャプテンに選ばれたことを不服として、彼を集団でリンチにしようとしたのだ。それを知った萩原によって、袴田は選手生命を失う怪我を負い、学校を去った。
 全て、自業自得じゃないか。


「罰を受けるべきは、高槻なのかも知れねぇけどさ。でも、やっぱり将来の在るお前を罰することにするよ」


 袴田の拳が振り上げられた。和輝にそれを止める力は無かった。
 ぎゅっと目を閉じ、その痛みが通り過ぎるのを待った。だが、痛みは訪れない。恐る恐る和輝が目を開くと、にこにこと微笑む袴田の顔が見えた。その瞬間、腹部に拳が叩き込まれた。


「思い知れよ、俺の苦痛を!」


 起き上らない和輝を、尚も袴田は蹴り続ける。


「俺の悲しみを、俺の苦しみを、俺の怒りを思い知れよ!」


 腹部だけを執拗に蹴り続ける袴田には、何か焦りにも似た苛立ちの表情が在った。


「俺に感謝しろ、俺に謝罪しろ、俺を尊敬しろ、俺を認めろ、俺を――!」


 ぴくりと、和輝の指先が震えた。その手はゆっくりと伸ばされる。
 それまでされるがままだった和輝の突然の動作に、袴田は一瞬、躊躇した。
 伸ばされた手は袴田のスニーカーを掴んだ。血塗れのスニーカーは滑っていた。


「はか、まだ、さん」


 声は掠れ、濁っている。下がった前髪から血液が滴り落ちる。指先は震える程強く、握り締められている。


「どうして」


 和輝は顔を上げた。血や埃で汚れた頬には、涙の伝った跡がある。けれど、その大きな目は真っ直ぐに、袴田を見詰めていた。
 袴田はギクリとした。目が、離せない。透き通るような瞳は、蛍光灯の光を受けて輝いているように見えた。


「どうして、そんなに、泣きそうな顔をしているんですか……」
「何だと――」


 袴田には解らない。如何して、和輝がそんなことを言うのか。それを問う必要など、何処にも無いだろう。それが更なる暴行の原因となる可能性だってあるのに、如何してそんなことを訊くのだ。


「あなた、は」
「俺が、泣きそうだと?」


 その言葉を否定するように、和輝の手を振り払って、その足でまた腹を蹴った。和輝は声にならない声を発しながら地面を転がって行く。
 けれど、また起き上って袴田を見た。


「あなた、は、どうして」
「決まってるだろ! 復讐だよ!」


 自棄になったように、袴田は叫んだ。


「高槻に復讐する為だよ! 俺をこんな目に遭わせたあいつ等に復讐する為に、お前をぶっ壊してやろうと思ったんだよ!」
「高槻……先輩」
「あいつが嫌いだった! あいつが憎かった! ずっと、殺してやりたかった! 消えて無くなればいいと、ずっと思ってた!」


 既に痛覚を麻痺させてしまった和輝は穏やかに、袴田を見詰めている。駆け寄って、また蹴ろうと引いた足を見ている。
 何処かで電子音が鳴っている。誰かの悲鳴のような、嗚咽のような微かな音がする。――泣かないで、此処にいるよ。
 その足が振り切られて、骨が鈍い音を立てても和輝は声を発さなかった。


「無表情でクール気取って、チビで大した実力も無い癖にピッチャーだなんて抜かして、挙句にキャプテンだと!?」


 言葉と比例して暴行は苛烈を極めている。血反吐が辺りに広がっている。和輝の腕は痣だらけになっていた。


「認められる訳、ねェだろ! いつもいつも高いところから見下しやがって! 俺は、あいつが――!」


 和輝はまた、手を伸ばした。汚れた顔の中で、穏やかな光を宿した瞳が袴田を見る。


「あなたは、高槻先輩と――」


 瞳から、大粒の涙がポツリと零れ落ちた。


「友達に、なりたかったんですね……」


 油切れの機械のように、袴田の動きが止まった。伸ばした掌を握り締め、和輝は俯いた。零れ落ちる滴が無数の丸い跡を作っていた。

 やっと、一年前の事件の真相を全て知った。
 袴田はずっと、高槻に憧れていたんだろう。誰にも媚びる事無く己の道を進み続けるその後姿に、小さいというハンディを背負いながらも努力を続けて掴んだその実力に、周りから何時の間にか信頼され慕われていたその人間性に。
 天才だと持て囃される袴田など眼中に無いとでも言うように、前を歩き続けたその背中に追い付きたかったのだろう。対等になりたかったのだろう。他の誰でもない高槻にこそ、認めて欲しかったのだろう。
 高槻がキャプテンに選ばれた時、更に距離が開いたと感じたのだろう。野球部のキャプテンという立場になった彼には、袴田はただの部員の一人に過ぎなくなると思ったのだろう。
 だからあの日、袴田は高月を呼び出した。集団暴行など、本当はするつもりなんて無かったのかも知れない。本当はただ、対等に話がしたかったのではないだろうか。
 仲間を引き連れて、まるで脅すような形でしか彼は相手にしてくれないと思ったのだ。これが自分の人望だと見せ付けるように仲間を引き連れて、俺とお前は対等だと、認めて欲しかったんじゃないのか?

 ――だが、その場に高槻は来なかった。
 代わりに萩原が駆け付け、事件は起こってしまった。袴田は選手生命を絶たれた。
 高槻は全ての闇に隠し、自ら偽りの罪を被った。自分と萩原が対立し、皆、部を辞めて行ったのだと事実を隠蔽した。これが高槻の吐いた必要の在る嘘。

 袴田はきっと、最後まで高槻は自分を相手にしなかったのだと思っただろう。

 すっかり動きを止めてしまった袴田を見て、和輝は涙を零す。これが、野球部に起きた事件の真相。誰が悪い訳でも無い。ただ擦れ違い、歪んでしまった。


「高槻先輩は」


 和輝は知っていた。高槻は、袴田という存在を消し去って事実を隠蔽した訳ではないのだ、と。
 高槻は道を歩くとき、先頭で風を受けても真っ直ぐに進み続ける。確かに振り返ることはしない。大丈夫かと声を掛けることもしない。だが、常に後ろを気に掛けて歩調を緩め、追い付くまで待っていてくれる。


「高槻先輩は、あなたを守る為に、嘘を吐いたんだ……。高槻先輩は」
「黙れ!」


 袴田はバットを振り切った。それは和輝の右腕に衝突し、そのまま小さな体を地面に倒させた。


「知ったような口を利くんじゃねぇ!」


 右腕は動かなかった。単なる疲労か、それとも機能上の問題かは解らなかったが、それでも、和輝は袴田を見た。


「終わりだ、蜂谷和輝。お前を解放してやるよ」



 これから袴田が何をしようとしているのか、和輝には解っていた。
 怖いと思った。助けを求めた。逃げたいと願った。けれど――、今にも泣き出しそうな顔で、ボロボロの心を引き摺って、歪んで行く彼を助けなければならないと思った。
 野球が出来なくなる。甲子園は目の前だ。皆の夢の舞台に手が届こうとしているのに、ここで立ち止まってはいけない。でも。
 和輝は、左手を伸ばした。指先は震えている。血塗れだった。袴田はその手をただ見ている。

「袴田、さん」

 伸ばされたその手の意味を、袴田は知らない。
 振り下ろされたバット。嫌な音が空間に響き渡った。



てのひら・2

願ったものは何だったんだろう?
祈ったものは何だったんだろう?

本当に欲しかったものは、何だったんだろう?


2012.1.31