風、風 吹くな
シャボン玉 飛ばそ


 その日、和輝は帰って来なかった。
 祐輝は苛立ちを隠そうともせず、リビングを行ったり来たりしてはソファに座り、くるくると指を回したり、突然立ち上がった壁を蹴りつけたりした。そして、そのたびに響く大きな音に、幼馴染の浩太は何度も溜息を零す。
 掛ける言葉が見付からなかった。祐輝の過保護は十分に知っている。午後十一時を過ぎても連絡が取れないことなど、今まで一度だって無かったのだ。以前閉じ込められたという学校の体育用具倉庫を含めて、既に思い当たる場所は探し尽くした。知り合いには片っ端から連絡した。けれど、和輝は未だに行方不明のままだ。
 祐輝の握り締められた両手は震えている。時間の経過がやけに遅く感じられ、テレビの音声がただ通り抜けて行った。
 その時だった。蜂谷家の家電の主とも呼べる固定電話が、聞き慣れた電子音を響かせた。祐輝は一目散に駆け寄って、まるで奪い取るように受話器を取った。


「もしもし!」
『――祐輝か?』


 声の主は、もう一人の幼馴染である涼也だった。いつもの明るいお調子者の様子は微塵も無く、普段なら決して聞かないだろう沈み込んだ低い声だった。


『和輝を見付けた。――今、お前の親父さんと、阪野総合病院にいる』
「病院……?」
『……来たけりゃ、お前は仕度をして、携帯でタクシー呼んで来い。電話は浩太に代われ』


 祐輝は半ば呆然としながら、動揺を隠せずに覚束無い足取りで、言われた通りに仕度を始めた。その目は一体何処を見ているのか、焦点が定まっていない。
 そんな祐輝を横目に、浩太は押し付けるようにして渡された受話器を耳に押し当てる。


「もしもし、俺だ」
『ああ。……今、和輝は手術室にいる』
「何だ、と」
『祐輝にはまだ言うな。どうやら、事故ではないみたいだぜ。港の倉庫に、血塗れで倒れているところを俺の仲間が見付けたんだ』


 浩太には信じられなかった。
 まさか、和輝がそんなことになるなんて微塵も考えなかった。恨みを買うような人柄ではないし、危険に巻き込まれるような人間関係も無い筈だ。



『とにかく、状況は俺達が思っていた以上に悪かったって事だ。警察にはまだ届けていないが、完全な傷害事件だ』


 ごくり、と浩太は唾を呑んだ。遠くで祐輝がタクシーを呼んでいる。


『奈々には言わないでくれよ。……詳しくは、病院に来てから。今、祐輝に言ったらどうなるか解ったもんじゃねぇからな』


 電話越しに少し笑う声がした。いや、笑おうとして失敗した、空気の漏れるような音がした。
 浩太には昔から、涼也が何を考えているのか解らない。何も考えていないのかも知れないし、本当は誰よりも深く考え込んでいるのかも知れない。
 今は、腸が煮え繰り返っているのか、驚愕と絶望から呆然としているのか。
 通話が切れると、浩太は自分を落ち着けるように大きく息を吐いた。祐輝が心配そうに、何処か探るような目で此方を伺っていた。

「和輝は……」
「詳しい事は、病院に行かなきゃ解らない」

 それだけ言うと、丁度、タクシーが家の呼び鈴を鳴らした。
 タクシーの中は静寂が支配していた。日付が変わろうとする町中は、日中の騒がしさも嘘のように静まり返り、時折通り過ぎる車のエンジンが遠くに聞こえる。
 後部座席に二人で座っていたが、祐輝は窓の外をただ見詰めている。その拳は強く、指先が白くなるほどに強く握り締められていた。浩太はそんな祐輝を横目に見ながら、携帯電話を開いた。
 弟の匠に連絡するべきか、悩んだのだ。忌々しき事態だ。これを話さずにいれば、匠は烈火の如く怒り狂うだろう。けれど、当事者には悪いが弟に心配を掛けさせたくない。また、和輝自身、知ってなど欲しくない筈だ。
 暫くそうして思考の渦に囚われていると、中年の運転手が「着きましたよ」と言った。祐輝も驚いたように顔を上げ、慌てて纏めた荷物を引っ掴む。料金の支払いは浩太がした。祐輝は、やはり気が動転していたらしく財布を忘れていた。普段の祐輝ならば有り得ない事だ。
 あくまで冷静を装って、病院内を足音を立てぬように歩いて行く。そんな祐輝の顔は真っ青だった。
 涼也は手術室の前に座って、二人の到着を待っていた。飄々とした態度で、軽口を叩いて来る筈の彼の顔色は悪く、笑おうとした顔は引き攣っていた。


「なあ、和輝は……」
「まだ、だ」


 苦々しそうに涼也が言った。


「まだ、手術中だ」
「手術だと!?」


 祐輝は涼也に掴み掛かった。


「どういう事だ! 一体、何があったんだよ!」
「祐輝、落ち着け!」


 浩太が祐輝を押さえ付ける。涼也は黙ったまま目を背け、祐輝はいつもの彼らしくも無く、声を荒げて問い続ける。そんな中で、裕は現れた。


「よう、よく来たな」


 裕は片手をポケットに突っ込んだまま、苦笑した。祐輝はそのまま涼也を殴り捨てるように離すと、今度は父の元へ詰め寄った。


「なあ、親父! 何があったんだ!」
「そんなの、俺にだって解んねぇよ。……港の倉庫で、血塗れで倒れているところを保護されたんだ」


 掴み掛かる祐輝と、顔色悪く目を伏せている裕。
 嫌な沈黙が流れた。その時、手術中のランプがふっと消えた。はっとして四人は手術室へ目を向けた。
 扉がゆっくりと開き。中からベッドに乗せられた和輝と、取り囲むようにいる看護師と医師。裕は祐輝から離れ、駆け寄った。


「先生、和輝は……!」


 医師は眼鏡を直し、汗だくの顔で答えた。


「一命は取り留めましたが……、まだ危険な状況です。今夜が、峠でしょう」


 祐輝は愕然とした。今朝早く、笑って「行って来ます」と言った和輝の顔がもう解らない。当たり前の朝は、当たり前の夜と一緒になって終わる筈だったのに。
 一体、何が、何で。
 呆然として立ち尽くしているのかと思えば、祐輝は裕を押し退けて医師に掴み掛かった。


「お願いします! 和輝を、和輝を助けて下さい!」


 固く目を閉ざした弟の顔は傷だらけだった。微かに見える腕は傷も、痣も夥しい。弟の身に何が起こったのか、祐輝には何も解らない。解らないけれど、今朝出て行った弟はまだ、ただいまを言っていない。


「助けて、助けて下さい……!」


 まるで縋り付くように、祐輝が叫ぶ。裕はその手を掴み、離させた。


「……ありがとうございました……」


 医師に頭を下げ、大人らしく振舞うその顔は蒼白だった。祐輝は父に手を掴まれたまま、呆然と廊下の角へ消える和輝を目で追った。
 その後に訪れた静寂は耳が痛くなるようだった。祐輝の顔からは血の気が失せ、今にも倒れてしまうのではないかとさえ思わせる。裕は祐輝の掴んでいた手を離すと、そのまま静かな廊下に足音を反響させて歩き出し、先程の医師達と同じように角に消えて行った。
 残された浩太はどうする事も出来ず、疲労感から設置されたベンチに倒れるように座り込んだ。体中がだるく、頭は愚鈍となり、視界がぼんやりと歪む。涼也は何も無い白い壁を見詰め続ける祐輝の肩を叩いた。


「こうしていても仕方ない。……家、帰ろうぜ」


 祐輝は首を振った。


「家に帰って、どうすればいいんだ。帰って来ない和輝を、ずっと待ち続けるのか……?」
「祐輝、変な言い方するなよ。和輝は死んじゃいないんだ」
「今夜が、峠って」


 一瞬、涼也は言葉に詰まった。そんな涼也を初めて見たと思いながら、浩太は低い声を響かせた。


「一体、何があったんだ」
「……さあな。聞いた話、港の倉庫で、一人血塗れで倒れてたそうだ。傍には真っ赤になった金属バット、床には血が彼方此方に飛び散っていたらしい」


 浩太は口を押さえた。

「腹を何度も蹴られたらしい。内臓が何個かイってる。あと、右腕と右肩の複雑骨折」


 涼也は目を伏せ、静かに言った。


「命があっただけ、マシさ」


 まるで、自分に言い聞かせるような口調だった。誰も涼也を責めていない。けれど、彼は一人、もっと早く見付けられればと責め続けるのだろう。
 浩太にそれを慰められる余裕など無かった。当然、祐輝もだ。ただ与えられた情報を受け取り、呆然としながら事実を否定し、問い続けるのがせいぜいだった。


「何で、和輝が」


 搾り出すような苦しげな声だった。祐輝は拳を握り締め、答えの無い問いを投げる。


「和輝が、何をしたって言うんだ。あんなにボロボロになるまで、何で」


 祐輝の目から、涙が一粒零れ落ちた。
 悲しいのではない、悔しいのだ。毎日一緒にいるのに、どうしてこんな状況になっているのに助けられなかった。何故、弟の危険を感知出来なかった。何故、助けられなかった。
 自分が暢気にテレビを見ている間、弟は瀕死に至るまで金属バットで殴られ続けていたのだ。
 祐輝はベンチに座り込み、俯いた顔を掌で覆う。だが、その重苦しい沈黙は陳腐な電子音に破られた。涼也はポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出した。写真付きのメールだった。


「……目撃情報だ」


 涼也は静かに言った。


「港の倉庫付近から、血塗れの運動靴と汚れた黒いスウェットで歩く男がいたらしい。身長は百七十前後、年は十代後半。金髪に複数のピアス……」


 聞けば聞くほど、和輝とは縁の無い人間だな、と涼也は思った。
 基本的に、涼也は面倒事に首を突っ込むのは好きじゃない。人に干渉されるのも好きではないから、なるべく自分も干渉しない。どうでもいい、と切り捨てて楽な道を選ぶのが涼也の生き方だ。ある種、和輝はその対極にいるから、涼也はその様子を見ていて面白いのだ。なんて不器用なんだろう、なんて馬鹿なんだろう。そう見下し、からかうのが常だった。
 だが、今回は訳が違う。確かに涼也は和輝を見下しているけれど、嫌いという訳じゃない。もっと楽な道はあるのに、敢えて困難を選ぶその歪んだ真っ直ぐさが好きなのだ。
 和輝は逃げられなかったのではなく、逃げなかったのだろうと思った。その理由はきっと下らないものだ。相変わらず無駄な真っ直ぐさだろう。けれど、それは本来失くしてはならない大切なものなのだ。だから、それを嘲笑って壊そうとした人間が許せない。


「許せねぇよな」


 例え和輝が許しても、絶対に許さない。
 涼也はそう言って、送られて来たメールを仲間へと一斉送信した。メールは電波となり縦横無尽に駆け巡る。きっちりと敷かれた連絡網を伝い、十数人から数十人、果ては百人近くの仲間まで伝わって行く。この町の仲間だけではなく、その周囲にも連絡は向かった。
 そのメールが届いたのは、涼也の仲間だけではない。仲間の友人、または別のグループ。町中に住まう若者達へと連絡は行き、その写真の男を追い詰める。
 その中で和輝の怪我は事件となり、警察が訪れた。裕が対応している頃、連絡は学校へも行き、野球部のキャプテンである高槻にも伝わった。真夜中だというのにも関わらず、寝ていただろう高槻はジャージにTシャツというラフな服装で慌てて病院へ駆け付けた。静寂に包まれた暗い廊下に足音を響かせるのは高槻と、桜橋。
 祐輝達の元に到着した高槻は、その奇妙な静かさに嫌な予感を覚えた。


「――和輝、は」


 息を整えながら、高槻はなるべく平静を保って聞いた。顎から滴り落ちる汗を拭い、大きく息を吐く。祐輝は高槻の顔を見ようともしない。浩太はその様子を横目に見ながら、答えた。


「生きてはいる。……今のところ」
「今のところって……」


 高槻は奥歯を噛み締めた。深夜に電話が来て、何かと思えば和輝が重傷で病院に運ばれたと言うのだ。今まさに生死の境を彷徨っているなんて、どうして理解出来るだろうか。


「一体、何があったんですか……?」


 少し遅れて到着した桜橋は、困惑に顔色を悪くしながら問い掛けた。その瞬間、祐輝は激昂して叫んだ。


「知らねぇよ、そんなの!!」


 廊下に響いた声がビリビリと鼓膜を揺らす。驚いた桜橋は首を竦めた。


「俺達だって、訳解んねぇんだ! 何で、和輝がこんな目に遭うんだよ!」


 元来のお人好しと、多少のお節介は確かにあった。けれど、それは誰かに恨まれたり憎まれたりするものではなかった筈だ。特に、高校に入学してからはそれも落ち着き、何処か諦めたような冷静さを垣間見せた。だから、祐輝には心当たりなど何も無い。何か危険な事に頭を突っ込んでいるという情報も無かったのだ。
 やはり、和輝を晴海高校へやったのは間違いだった。自分の目の届くところに置いておくべきだった。祐輝はそうして自分を責め続ける。それを何となく察した涼也がそっと言った。


「……晴海を選んだのは、和輝だ。例えお前があいつの意思を無視して翔央へ連れて行ったとして、あいつが納得出来た訳が無い。お前に罪はねぇから、今は黙って連絡待ってろ」


 その素っ気無い物言いに、祐輝は力無く笑って立ち上がった。


「飲み物、買って来る」


 今にも倒れてしまいそうな覚束無い足取りで廊下の奥に広がる闇へと歩き出す。このまま病院を出て犯人探しを始めるんじゃないかと懸念し、浩太は少し遅れて後を追った。
 残された涼也は携帯電話を開き、仲間からの連絡を待つ。高槻はぐっと息を呑み、問い掛けた。


「状況を、説明してくれ」


 涼也はまるで興味が無いとでも言うように高槻を一瞥すると、淡々と言葉を並べた。


「港の倉庫で、何者かの暴行を受けた。内臓が何個かやられているのと、右腕と右肩の複雑骨折。現場には血塗れのバットが落ちていた。犯人の詳細は……」


 携帯電話のディスプレイ一杯に写した男の後姿。黒いスウェットは闇に溶け、奇抜な色のスニーカーは酷く汚れている。金色の髪はまるで浮かび上がるかのように、耳にぶら下がった大量のピアスが光を反射していた。
 その画像を食い入るように高槻と桜橋は見詰める。桜橋は眉を寄せ、困ったように首を傾げた。


「後姿か……」
「年は恐らく十代後半。身長は百七十前後だ」


 考え込む桜橋の横で、高槻は未だにその画像を見詰めている。視線の先は目を引く髪型やピアスではない。汚れたスニーカーだ。大量生産されたものだろうスニーカーだが、高槻はその後姿に見覚えがあった。
 十代後半という事は、恐らくは同じ年頃だろう。身長は萩原と同じくらい。この後姿は、恐らくきっと――。


「桜橋」


 高槻は静かに時計を確認し、言った。


「ちょっと、行って来る」
「は?」
「萩原にも、連絡して来るよ」


 それだけ言い、高槻もまた、廊下の闇へ歩き出した。


てのひら・3

ねぇ、気付いて。
此処にいるんだよ?


 一向に繋がらない携帯をポケットに押し込んで、亜矢は溜息を零した。草木も眠る丑三つ時に、わざわざ大して親しくも無い女子の電話に出る程、彼は暇でも無ければ餓えてもいない。
 吹き付ける強風に乱れる髪を押さえながら、足元に蠢く無数の光に目を細めた。この光の数だけ人の生活がある。自動車のテールランプがまるで微生物の行進のように思えて亜矢は苦笑した。
 乱れた髪を整えようと頭の形に合わせて掌で押し付ければ、ずきりと頬が痛んだ。小さく咽ると血液が吹き出す。白い両足は虚空へと投げ出され、其処に浮かぶ無数の痣を惜しげも無く晒している。


「和輝君」


 繋がらなかった携帯に向けて、届く筈の無い声を発する。亜矢の声は何処か跳ねるようにリズムを刻んでいた。


「逃げてもいいよって、言ったよね」


 やがて、携帯は電源が落ちた。
 あ、と発する間も無く漆黒に塗り潰されたディスプレイに、何故だか滑稽染みたものが腹の底から込み上げて来て、亜矢は声を上げて笑った。


「でも、いなくなることは許さないって」


 狂気に染まった声を張り上げて笑う亜矢は、起動することのない機械の箱を遥か上空から人々の蠢く下界へと叩き落した。
 風に揺らぎ消えて行く。酷く、空しい。


「君がいなくなったら、あたしは何処に逃げればいいの?」


 紅く腫れた頬と、痣だらけの肢体。乱れた髪と衣服。堪え切れない不快感。
 逃げ出したいと思ったのは初めてではない。けれど、彼に出逢ってしまったから。真っ直ぐ前を見据えるあの目が、自分を捉えて離さないから。
 逃げ場を、居場所を、温もりを与えてくれるから。
 高層ビルの屋上は、真夏だというのに寒い程の風が吹き付けている。眠らない町で今も活動を続ける人々の目に自分は映っていない。――否、それなら、一体誰に映っているのだろうか。


「和輝君なら、捕まえてくれると思ったのに」


 残念そうに呟く亜矢の声は誰にも届きはしない。もう、そんなことは随分前に諦めてしまった。
 彼の目に映らないのなら、こんな命に何の意味があるだろう。彼は皆のもので、誰かに独占出来るものじゃない。だからこそ、捕まえて欲しかった。
 こんな酷い勝手な言い草も、彼はきっと受け入れてくれるだろう。その優しさが大好きで、愛しくて、抱き締めたくて――、壊したかった。手に入らないのなら、消えてしまえばいい。
 彼の心に癒えない傷を刻み付けてあげよう。
 決して自分を忘れることの無いように。

 声を張り上げて笑う亜矢が走り出す。そして、その痩躯は宙を舞った。
 笑い声と共に落下する亜矢は木の葉のようだった。

 地面衝突まで、あと――。

2012.1.31