シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた

シャボン玉消えた 産まれてすぐに
屋根まで飛んで こわれて消えた

風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ 






 高槻は廊下を歩きながら、あの画像の人物を思い出す。あの奇抜なスニーカーは一年前、趣味が悪いと笑った事があった。萩原と同じくらいの身長はどうやらまだ、伸びていないらしい。あれは、間違い無く。


(袴田翔貴……!)


 一年前の秋、選手生命を絶たれて晴海高校を去った元野球部員。自分を恨み、暴力事件を引き起こした男。それが一体どうして、和輝を狙ったというのだ。
 早足に出口へ向かう途中、玄関の仄明るい自動販売機の前に二人の人影が見えた。咄嗟に壁際に隠れ、目を細めて見ると、それは先程別れたばかりの祐輝と浩太だった。
 隠れる必要なんて無かったのだが、今更出て行く気も起きずに高槻は壁に凭れ掛かった。すると、二人の話し声が聞こえた。


「……和輝が心配なのは解るが、焦り過ぎだ。お前に出来る事なんて何も無いだろう」
「そんな事は解ってる。それでも俺は、何も出来ない事が、嫌なんだ」


 真面目な彼らしいと、誰もが思っただろう。浩太は苦笑交じりに言った。


「お前もすっかり、兄貴らしくなったよな。……昔は、和輝の事、毛嫌いしてたくせに」


 普段の過保護具合を目の当たりにして来た高槻にとって、それは思い掛けない言葉だった。けれど、否定することなく祐輝は微かに笑った。


「昔は、な。俺はガキだったから」


 自動販売機から炭酸飲料を取り出し、祐輝は言った。


「ガキの頃はさ、あいつがお袋を奪ったと思ってたんだ。未熟児だったあいつの為に親父の仕事は増えて、負担は俺達兄弟に回って来た。だからさ、あいつが……憎かったんだ」


 プルタブを起こす音がした。祐輝は喉を鳴らして飲み下し、一息吐いた。


「兄貴も姉貴も、あいつが退院したら大喜びだった。それも気に食わなかった。一番年の近い俺の後をついて来るのも煩わしかった。……いつも親父と、何処かに出掛けて行くのも羨ましかったんだ。お袋も、親父も奪って行くなんて、許せなかった。あいつが何処に出掛けているのかも、知らないでさ」


 浩太は話を聞きながら、自動販売機に凭れ掛かった。祐輝はその場にしゃがみ込む。


「あの日、親父に連れられて、和輝と一緒に出掛けた。一緒に行けるのは嬉しかったけど、和輝がいるのが気に食わなくて、ずっと無視してた。……あの時、あいつ、何て言ってたかなぁ」


 窓の外を眺めて、時々、嬉しそうに呼んでいた気がする。兄ちゃん、見て。あの時、何を指差していただろう。何を話していただろう。無視されても、嫌われていると解っていても、何を話したかったんだろう。


「着いたのは、大学病院だった。親父は玄関でジュースを一本だけ買ってくれた。和輝はその缶を羨ましそうに見てたな。俺は、俺だけのだって、あいつの目から隠した。あいつは何も言わなかった」


 あの日の風景は全てセピアに染まっている。ただ、唯一和輝の姿だけが鮮明に色付き、未だに残っている。


「和輝はそのまま看護師に連れられて、何処かに消えた。親父は俺の手を取って、行き先も言わずに歩き出した。俺は買ってもらったジュースを大事に抱えて、一緒にエレベーターに乗った。親父は終始無言だった」


 祐輝はまた一口、飲み下す。


「俺達は、ある大きな部屋の前に来た。でっかい硝子の向こう側で、和輝がベッドに寝てた。腕には何本もの管が繋がってた。その先は、大量の点滴液だ。俺はあいつが何してるのかなんて解らなかった。ただ、時々変な呼吸を苦しそうに繰り返して、看護師に宥められて、また、別の管を繋ぐんだ。針を刺す時、ぎゅっと口を結んで、目を閉じるあいつの姿が今でも忘れられない。そうしたら、親父が言ったんだ」


――あいつは今、ああして生きてる。毎回腕に何本も針を刺して、皮膚が変色する程体に薬を入れて、そうとしか生きられない。好きで生まれた訳じゃないのに、俺達が望んで、エゴで生まれて、今もあんなに苦しんでる。生まれなければ、あんなに苦しむ事もなかった。……あいつの生きる世界は、こんなに冷たい。お前のように外で走り回る事も無く、日向に出て友達と遊べる訳でもない。今のあいつには、あの家の中が全てだ。


 そう言って、頭を撫でて。


――辛くても苦しくても、弱音一つ吐かないんだ。お前が幾ら冷たく接しても、悪口一つ言わない。解るか、祐輝。あいつはお前が好きなんだよ。無視されても、ずっと信じてるんだ。ああして苦しみながらも、必死に生きようとしてる。……お前と一緒に、いたいから。


 分厚い硝子の向こうの、荒い呼吸が聞こえるような気がした。顔色の悪い面は、決して此方を見ない。何も言わずにただ、表情を歪めて針を受け入れる。生白い腕は蒼い痣で一杯だった。


「……兄貴も姉貴も、知ってたんだろうな。全部知っていたから、俺の事も責めなかったんだろうな」


 黙って話を聞いていた浩太は、しゃがみ込む祐輝を見て言った。


「あの頃の和輝はさ、お前にして見ればうざったかったんだろうけど、俺には随分遠慮しているように見えたよ。家の中から、遊びに行く俺達の事ずっと見てた。お前に見付からないように」


 同い年だった浩太の弟である匠は、一緒に遊んでいるのに。祐輝は、自分の兄は、別の子となら一緒に遊ぶのに。
 そうして羨ましく思いながらも、見ていた事が見付かったらまた嫌われてしまうから、ずっと隠れていたのだろう。


「和輝を外に誘った事もあった。お前には内緒でな。勿論、外出は禁止されていたんだろうけどさ、お前に嫌われたくないからって一歩も出なかったよ」


 狭い家の中だけが世界の全てで、兄には嫌われて、病院で苦しんで。
 それでも、信じたかったのだろうか。いつか一緒に遊べる日を。『兄ちゃん』と呼んで、返事をしてもらえる日を、手を繋いで外へ連れ出してくれる日を、ずっと。
 祐輝は苦笑し、話を続けた。


「……点滴が終わった後、やって来た和輝は相変わらず真っ青だった。疲労の色が濃くて、目の下に隈があった。俺は黙って、持ってたジュースを渡した。もう生温くて美味しくないだろうけど、遠慮がちに受け取って、笑ったんだよ、あいつ。『ありがとう』なんて言ってさ」


 祐輝は自分の手の中にある缶を見る。


「嬉しいかよ、普通。どう見たって、もういらないから押し付けられたって思うだろ」
「思わないよ、あいつは」
「……だから、あいつは嬉しそうに笑ったんだろうな」


 初めて兄からもらったものだから、初めて兄の視界に映ったから、ただ、それだけで嬉しかったんだろう。
 すっかり生温くなった缶を大事に抱えて、車の中では疲れて眠ってた。夏だっていうのに長袖を着て、あの痣だらけの腕を隠していた。それだって、周りのエゴだろう。和輝には何も関係無いのに。


「だからさ、俺は悔しいんだよ。……やっと外に出て、元気に走り回れるようになったのに、あいつの全てを壊そうとしたやつが許せないんだ……!」


 あの右腕は、あの右肩は完治するのだろうか。何の後遺症も無く、またいつもの日常に戻れるのだろうか。
 顔を伏せた祐輝の下に、ぽたぽたと雫が零れ落ちた。缶を掴む手はかたかたと震えている。浩太は暫くの沈黙を挟み、一言「そうだな」と答えた。
 高槻は目を伏せ、その話を聞いた事を後悔した。自分の中にある蜂谷祐輝と和輝は、そんな過去を持っている存在ではないのだ。何でも出来て、何にでも恵まれて、何の苦労もした事がない存在でなければならなかった。祐輝が和輝に過保護な理由、大切だと守る意味。


――あんたには解るでしょ


 いつかの祐輝の言葉が聞こえた気がして、高槻は静かに歩き出した。
 夜の町は静かだった。歩いていれば補導される時間だが、擦れ違う若者は思いの外多く、皆一様に携帯電話を片手に持っている様子から、和輝に暴行した犯人を捜しているのだろうと思った。
 高槻は何も知らぬ風を装いながら、真っ直ぐある目的地へ向かう。行き先は既に決まっている。そこにいなければ、他に思い当たる場所も無かった。向かった先は晴海高校のグラウンドだった。
 真夜中のグラウンドは綺麗に均されている。だが、それを汚すように中心へ向かって行く足跡。高槻はその奥にいる人影に目を細めた。


「遅かったな」


 聞き覚えのある声、出来れば二度と聞きたくなかった声。
 闇に浮かび上がる金髪と、遠くの外灯の光を反射する銀色のピアス。


「袴田……」


 高槻は足跡と平行して袴田の正面、数メートル離れた場所に立ち、その顔を見た。
 一年前と比べて、やつれたようだ。その頬はこけ、目は空ろに濁っている。だが、黒い染みのような汚れが張り付いている事に高槻は眉を寄せた。


「如何して、あいつに手を出した」


 口調は淡々としているが、目には怒りがギラギラと燃えている。袴田はそれさえ愉快だと言うように、喉を鳴らした。


「あいつをやれば、お前が出て来るだろ」
「……それだけの為に、あいつに手を出したのか」
「ああ。結果として、お前は一人で来た」


 高槻の無表情が、怒りに歪んだ。


「あいつをあんな目に遭わさなくても、俺は来た……!」


 袴田は可笑しそうに高槻を見て、クツクツと喉を鳴らす。


「お前にも、大切なものを失う苦しみを解らせてやりたかったんだよ」


 その言葉に、高槻の中の冷静な部分が音を立てて崩れ落ちた。
 大切なものを失う気持ちなど、守ろうと抱え込んだものが掌から抜け落ちて行く喪失感も、態々言われなくとも高槻は既に知っている。


「馬鹿か、お前は。全部自業自得だろう」


 高槻は鋭く、袴田を睨んだ。


「勝手に暴れて、勝手に傷付いて、周りに好きなだけ迷惑掛けて、とんだクズだよ、お前は」
「高槻ィ……!」
「何が復讐だよ。何が同じ目に遭わすだよ。何時まで、何処までガキなんだよ、お前は! 周りの事も考えずに、仲間を思いやる事も出来ずに、挙句に責任逃れか!? いい加減に――」
「黙れ! 全部悪いのは、テメェだろ!」


 高槻の言葉を遮り、袴田が叫んだ。


「全部、全部お前が悪いんだ! 俺の未来を奪った、お前が悪いんだ! 俺の存在を嘘で塗り消したお前が――」
「袴田、お前」


 まるで信じられないとでも言うように、高槻は袴田を見た。
 嘘で塗り消した、と、袴田は言った。確かに高槻は事実を隠蔽した。けれど、それは決して袴田の存在を消し去る為ではなかった。選手生命を絶たれた袴田をそれ以上追い詰めるような事が出来なかった、高槻の甘さとも取れる優しさ故の行為だった。
 解ってくれると期待するのは自由だ。だが、その通りにならなかった時に相手を責めてはいけない。いつか和輝がそう言っていた。それでも、和輝は信じたかったのだろう。その諦めのような言葉の裏側に張り付いた叫びを高槻は知っていた。


「……そう思うなら、思っていればいい。だがな、俺は和輝に手ェ出したお前を許さない」


 そう言って睨んだ高槻を見て、動揺したように袴田は一歩後ずさった。


「何なんだよ、お前等……。俺を表舞台から引き摺り落としたのは、お前だろ! それなのに」


 袴田の脳裏に、和輝の声が過ぎる。高槻が吐いた嘘は、袴田の為だったと、殴られながら、蹴られながら何度も手を伸ばして訴えたのは。


「都合の良い言い訳並べやがって、一体何だって言うんだ! 最後まで見苦しく、手なんざ伸ばして助け求めて縋り付いたくせによ!」


 高槻は、それが和輝の事だと悟った。
 和輝は、袴田の誤解を解こうとしたのだろう。そして、何度も何度も手を伸ばして――何の為に?


「お前、解んねぇのかよ」
「何」
「和輝がどうして手を伸ばしてたのか、解んねぇのかよ」


 助けて欲しかったんじゃない。激しい暴力を受けながら、ただ只管に和輝が手を伸ばしたのはきっと。
 きっと、袴田の為に。


「和輝は、お前を助けたかったんだよ……!」


 血塗れの手を伸ばす和輝が頭に浮かび、胸が苦しくなった。瀕死の重傷のくせに、自分を傷付けた男を何故助けようとするのだ。
 俺のせいだろうか。嫌な予感が脳幹を揺らす。彼をヒーローのようだと言って、人を救う義務を押し付けた。だからか。


「黙れ……!」


 袴田はポケットから小さなナイフを取り出した。外灯を反射する鉄の色を、高槻はただ眺めている。袴田がそれを持って駆けて来ても、冷静なまま、それを何でもないかのように避けた。空を切ったナイフと共に袴田がグラウンドに転がった。


「袴田、」
「黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ――!」


 再び立ち上がった袴田が、ナイフを持って駆ける。校門では、その二人の姿を発見した涼也が門を攀じ登っていた。咄嗟に叫ぼうとした声は形にならない。
 高槻はそのナイフをまた、何でもないように避けようと身構えた。だが、次の瞬間。
 ブツッ。
 何かの切れる嫌な音がした。高槻は何が起きたのか解らず、反射的に感触のあった左の頚動脈を押さえた。だが、その指の隙間から鮮血がシャワーのように噴出していた。
 得体の知れない触感から、袴田はナイフを落とした。銀色は紅く染まっている。がくりと高槻が膝を突いた。紅い飛沫は今も尚、グラウンドを染めて行く。
 遠くから、叫びにならなかった声を発し、涼也は門を乗り越え、走った。高槻の着ていたTシャツは赤黒く染まっていく。涼也は駆け付けたが、何も出来なかった。出来た筈がない。高校レベルの応急処置が行える状況ではなかったのだ。
 その異常な光景に頭が真っ白になりながらも、震える手で携帯電話を取り出し、救急車を呼んだ。高槻は首を押さえたまま倒れ込んだ。袴田は呆然と、持っていたナイフを見て体を強張らせる。
 あの一瞬、高槻は見事に避けた筈だったのだ。袴田が自分の靴紐を踏み、姿勢を崩さなければ。


「嘘だろ……」


 袴田の零した一言を、涼也は聞き入れなかった。自ら首を押さえる高槻の手に重ねて、少しでも出血を押さえる事しか涼也には出来なかった。こんな時に、もっと応急処置の授業を真面目に受けていれば良かったと思った。


「死ぬなよ、高槻君……。死んじゃ駄目だぞ、絶対に。生きろよ、生きていてやってくれよ……」


 確実に失われて行く体温の中で、涼也は懸命に訴えた。


「あんたが死んだら、和輝はどうすんだ! 目を覚ましたあいつに、あんたの死を伝えるなんて御免だぞ!」


 それでも、高槻の目は薄く開かれたまま瞬き一つしない。やがて校門に救急車が到着した。涼也は運ばれて行く高槻の傍で、何度も何度もその名を呼んだ。呼んだけれど、反応は一つも無かった。
 救急車と共にパトカーも到着し、袴田は誰にも気付かれずに警官に連れられて行く。周囲には野次馬が集まり、その様を見て囁き合っていた。
 救急車は、和輝の入院する病院へ到着した。偶然にも、玄関に居合わせた祐輝と浩太はその光景に目を疑った。血塗れの高槻が担架で運ばれ、同じく紅く染まった涼也が何度もその名を呼んでいる。正直、訳の解らない光景だ。祐輝も浩太も訳が解らないまま、涼也を宥めるように押さえ付ける。高槻は病院の奥、手術室へと運ばれて行った。手術中の赤いランプが点灯する。
 何度も『死ぬな』と叫ぶ涼也を宥める浩太と、瞠目するばかりの祐輝。何が起こっているのかなど、解らない。どうにか落ち着いた涼也だったが、事の詳細を伝えられるような状況ではなかった。ベンチに座り、顔を両手で覆って大きく息を吐く。彼らしくもなく、苛立ったように体が小刻みに震えていた。
 その様子を見て、何があったのかなど聞く気にはなれなかった。
 手術室に動きは、無い。慌てて駆け付けた桜橋と、遅れてやって来た萩原。


「今の、高槻か……?」


 薄く開いた目は何処も見てはいなかった。萩原は怒る訳でもなく、泣く訳でも無く、呆然と立ち尽くしている。
 やがて、紺色に薄くストライプの入ったスーツを着た中年の男と、すっと背の高いグレーのスーツの若い男が現れた。中年の男は黒い警察手帳を見せ、顔を伏せたままの涼也の肩を掴んだ。


「警察だ。君に聞きたい事がある」


 涼也は顔を上げない。それに苛立ったように、中年の男は声を荒げて「顔を上げろ」と言った。
 その乱暴な物言いと、まるで涼也の気持ちを察しようとしない態度に祐輝は横から手を出し、中年の男の腕を掴んだ。


「止せよ、そんな状況じゃない事くらい、見て解るだろ」


 中年の男が舌打ちする。祐輝はその男の手が涼也から離れるまで、その腕を掴んだままだった。
 若い男が面倒臭そうに溜息を吐き、言った。


「君達の気持ちはよく解る。だが、記憶というのは簡単に色褪せ、書き換えられるものなんだ」
「……っ……」


 涼也が微かに口を開いた。


「切られたんだ、高槻君が。……あの、金髪の男に」


 警察の二人は顔を見合わせ、頷いた。中年の男は懐に手を入れ、一枚の写真を取り出すとそれを涼也の目の前に突き付けた。


「この少年かね?」


 涼也は指の隙間からその写真を見て、頷いた。顔を知らない祐輝と浩太は首を傾げ、桜橋と萩原は息を呑んだ。


「袴田翔貴、十八歳。傷害の疑いで、身柄を拘束している」
「まさか、袴田が」
「蜂谷和輝君への暴行も確認が取れた」


 祐輝の目に、嫌な鋭い光が映った。
 警察が去ってから、祐輝は平静では決して聞かせないような低い声で問い掛けた。


「……誰だ、袴田って」


 萩原も桜橋も答えない。それに苛立ち、祐輝は強く睨み付けた。


「誰なんだよ、袴田ってのは!」


 簡単に説明出来る程、浅い間柄ではないのだ。萩原は答えられず目を伏せた。その胸倉を祐輝が容赦なく掴む。


「答えろよ! 和輝に手ェ出したそいつは誰なんだ!」
「祐輝、黙ってろ!」


 顔を伏せたままだった涼也は祐輝を怒鳴り付けた。


「そんな状況じゃねぇって、そう言ったのはテメェだろ! なら、テメェも察しろ!」
「お前こそ黙ってろ!」


 祐輝と涼也が掴み合う。何時殴り合っても可笑しくない状況に、浩太が慌てて間に入った。いつもは涼也の役割だが、今は誰もまともではない。


「止せよ! いいからテメェ等、座ってやがれ!」


 涼也はそのまま元のようにベンチに座り、引き剥がされた祐輝は壁に寄り掛かったまま、ずるずると座り込んだ。
 まるで悪夢のような夜は、少しずつ明け始めていた。空の端がだんだんと白く染まり、毒々しく白い光を放っていた蛍光灯だけの暗い院内に、美しい朝日が差し込んでいる。希望の朝だと表現するには、余りにも夜が長過ぎた。
 一日が始まった事などまるで興味が無いとでも言うように、祐輝も、涼也も、浩太も、桜橋も、萩原も、それぞれがじっと誰もいない方向を見詰めていた。長い沈黙に眩暈を感じ、祐輝はふらりと立ち上がった。
 壁伝いに歩くその覚束無い足取りは、普段ならば誰かしら駆け寄って支えただろう。けれど、誰にもそんな余裕はなかった。祐輝は一人、ただ黙々と和輝の病室を目指した。
 和輝は集中治療室にいた。未だ昏々と眠り続ける小さな体。それを観察出来る硝子の前には予想通り、父の姿があった。裕は祐輝の姿を確認すると、困ったように笑った。


「……朝一番の便で、大輝が奥さんとこっちに来る。ひかりとひかるも来るってさ」


 大袈裟だよな、と裕は笑ったつもりなのだろうが、表情は強張ったままだった。
 祐輝はベッドに眠る和輝を見て、目を細める。細い腕に繋がれた大量の管と、流れる透明な液体。利き腕だった右は痛々しく包帯でぐるぐるに巻かれていて、動かす事の出来ぬように固定されていた。
 また痣だらけになっちゃうな、なんて皮肉に思いながら、祐輝は拳を握った。


「人を恨むなよ、祐輝」


 唐突に裕は言った。


「憎しみは何も生まない。心が痩せて、虚しいだけだ」
「それでも、俺は憎まずにはいられない……」
「お前が憎んでいるのは、お前自身だろう。それだって、虚しいんだ。和輝はそんな事望んじゃいない」


 目を覚まさない弟を遠く見詰めながら、祐輝は静かに口元を結んだ。
 きれいごとだ。けれど、真理だ。解っていても――否、解っているからこそ、受け入れられないのだ。
 明日は、弟の誕生日だった。今年で十六になる。


「おめでとうって、言いたかったんだよ……」


 ぽつりと、伏せた祐輝の瞳から一粒の滴が零れ落ちた。


「生まれて来てくれて、ありがとうって、言いたかったんだよ……!」


 今の自分は、あの頃のような子どもじゃない。物事の分別だってある程度出来るし、大人の事情というものも理解出来る。今の自分なら、あの頃の和輝に決して冷たく当たったりしない。
 屈託無く笑い、行き過ぎた自分の行為を過保護だと言う弟は、それが過去への贖罪行為だったことは疾うに気付いていただろう。それでも、何も無かったように差し伸べた手を迷いなく取ってくれる。
 償いなんて、絶対に求めていない。ただ、傍にいて欲しかったんだ。だって、あいつの世界はいつも冷たい。外界と隔てる硝子と、無数のチューブと、殺菌消毒された無機質な部屋。
 裕は、黙って息子を抱き寄せた。こんな歪なものを背負わせたのは自分のエゴだと知っている。誰も悪くない。罪があるならば、過ちを繰り返し続ける自分だ。
 静寂の廊下に、祐輝の嗚咽が響く。そして、その隙間を縫うようにリノリウムを叩く乾いた音が反響していた。


てのひら・4

この声が君に届くように。
君の生きる世界が、どうか優しい世界でありますように。


2012.1.31