漆黒に覆われた世界の中で、自分の周囲だけが仄明るい。何時から此処にいるのだろうと思い起こそうとするが、和輝には如何しても思い出せなかった。
 此処は何処だろうと、現実味を帯びない錆び付いた思考回路で辺りを見回して見るけれど、人影どころか物音一つしない。これは夢なのだろうと、漠然と和輝は理解した。
 眠っているのだろうか。生暖かいまるで母の胎内を揺蕩うような奇妙な心地良さを感じながら、和輝は大きく深呼吸した。何故、自分が眠っているのか解らない。目覚めなければと思うけれど、余りに居心地が良くて行動に起こすことすら億劫になる。
 何だか、すごく疲れてしまった。


「――君」


 誰かに呼ばれた気がして顔を向けると、見覚えのある少女が此方をじっと見詰めていた。今にも折れてしまいそうに華奢な手足、日に焼けない色白の肌、微かな弧を描く唇。


「水崎……」


 野球部のマネージャーだった。如何して、こんなところにいるのだろう。
 亜矢は和輝の前に立つと、うっとりと微笑んだ。


「和輝君、如何してこんなところにいるの?」
「お前こそ……。此処は何処なんだ?」


 再度、ぐるりと周囲を見渡して和輝は肩を落とす。変わり映えのしない奇妙な空間。
 亜矢は微笑みを浮かべたまま、しれっと答えた。


「夢の中よ。気付いてたでしょ?」
「ああ……」


 やはり、そうなのか。
 落胆しつつ、和輝は頭を掻いた。


「なら、さっさと目を覚まさないとな」
「……何で?」


 亜矢の質問の意味が解らず、和輝は首を傾げた。それでも、亜矢は和輝の言葉を否定するような怪訝な眼差しを向けている。


「ずっと、此処にいようよ。此処は居心地がいいでしょ?」
「……駄目だよ」


 和輝は首を振った。


「待ってる人がいる。此処は俺の居場所じゃない」
「そう……」


 何処か残念そうに呟き、亜矢は微笑んだ。顔を上げた和輝は出口の見えない暗闇の中に視線を巡らせる。こんなところに居てはいけない。待ってる人がいる。交わした約束がある。
 どちらが前かも解らない闇の中で、亜矢が和輝の手を掴んだ。


「じゃあ、行こう?」


 少しだけ寂しそうに言う亜矢に違和感を覚えて、和輝はその取られた腕を見たと。有無を言わせず手を引いて行く亜矢に、渋々と和輝は付いて行く。
 水音がした。足元を小川が流れている。飛び越えた亜矢が手を引く。和輝もその後を追おうとして、反対側の手を引かれて停止した。小川を跨ごうとした足は自然と元の位置に着地する。振り返った先に――高槻がいた。


「行ったら駄目だぜ、和輝」


 亜矢と高槻に腕を取られ、和輝は困惑した。何が起こっているのだろう。
 どちらの手を振り払うことも出来ず、和輝は亜矢を見た。今にも泣き出しそうな目で縋り付く少女と、酷く真面目な面持ちで此方を見据える少年。どちらを選べば正解なのかなんて和輝には解らない。


「駄目だ」


 それでも、普段決して見せることのないような弱った目で、腕を掴む高槻の掌が微かに震えていたから、和輝は踏み止まった。
 亜矢に付いて行けば此処から出られるのだろう。何時までもこんなところにいる意味なんてない。待ってる人が、いる。


(あれ?)


 其処で、和輝は違和感に気付いた。
 一体、誰が待っているというのだろう。そう考え付いた時、底の見えない奈落の底に引き摺り込まれるような絶望に和輝はがくりと膝を着いた。誰も待っていない。
 俺なんて、いない方がいい。


「和輝君!」


 身を裂くような叫びが聞こえる。振り返った和輝の顔は泣き出しそうにくしゃりと歪んでいた。
 誰に必要とされなくても、誰に否定されても、誰に何を言われても、願うことは許されるだろうか。和輝の選択肢は既に決まっていた。迷う必要すら無かった。けれど、必死に叫ぶ亜矢の掌は離れない。その目が余りにも悲しくて、こんなところに置いて行けないと思った。
 行かないでと縋り付くこの少女を、独りになんて出来ない。けれど、自分はこの子を選んであげられない。
 だって、声がするんだ。

 一陣の風が吹き抜けた。
 闇に包まれていた空間は一瞬にして光に満ちた、この世のものとは思えない程に美しい草原へと変貌する。突き抜けるような青空と、柔らかな草原に咲き誇る花々。足元を流れる小川は澄み渡り、微かに小鳥の囀りが聞こえる。
 草原を踏み締める一つの影。


「和輝」


 優しく穏やかな声が、慈しむように名を呼ぶ。透き通るような白い肌と華奢な肢体。栗色の柔らかな髪が、染み一つ無い白亜のワンピースが風を孕んで揺れる。
 逢ったこともないその美しい女性が、誰なのか和輝は知っている。強い意志を秘めた真っ直ぐな眼差しを、知っている。


「お、かあ、さん」


 母は――微かに笑ったようだった。


「待ってるわ」


 ゆっくりと持ち上げられた腕が、和輝の遥か後方を指差す。忘れる筈の無い、見間違う訳の無い少年が此方を見ている。待っている。
 するりと、亜矢の手が離れた。亜矢は膝を折り、この世の終わりとばかりに両手で顔を覆って泣き出した。その姿を和輝は瞳に涙を溜めて見詰めている。


「置いて行かないで……! 独りにしないで……!」


 この願いを、知っている。この想いを、知っている。
 だけど、それでもこの子の手を取ってあげられない。
 高槻が手を引いた。振り返ることも出来ず、和輝は歩き出す。背中に突き刺さる少女の泣き声、母の視線。それでも、和輝は歩き続ける。


「ごめん……」


 絞り出すような謝罪の言葉。和輝は終に涙を零した。


「ごめん……!」


 高槻は振り返らない。
 この声が届かないとしても、この願いが叶わないとしても、この喉が潰れたとしても、それでも祈ることを止められない。
 どんどん小さくなる泣き声に、和輝は止め処無く零れ落ちる涙を拭い続けた。恐ろしくて、悲しくて、涙がぼろぼろ零れる。あの子の叫びが、和輝には痛い程に解った。
 置いて行かないで欲しかった。連れて行って欲しかった。独りにしないで欲しかった。その願いは幼少の頃のそれとよく似ていた。向けられた兄の背中を遠く見詰めることしか出来なかった自分と同じだと思った。
 けれど、あの頃のように仕方が無いことだと諦めることだけは如何しても出来なくて。もう届かない小さな少女に向けて何度も謝罪の言葉を紡いだ。


「ごめん……ッ!」


 声が掠れても、涙が涸れても、和輝はその言葉を繰り返した。それが届かないと解っていても、自己満足だとしても言わずにはいられなかった。いつか、届くんじゃないかと信じて。
 信じたかった。いつか、いつか願いが叶うと信じたかった。いつか、独りぼっちじゃなくて、一緒に。


 高槻が立ち止まった。顔を上げた先に、祐輝が立っていた。息を切らせて、肩を大きく上下させながら此方を見詰めている。
 渇き切らない涙を頬に貼り付けたまま、次々に溢れ出るそれを留める術を持たぬまま、和輝は声を上げた。


「お、にい、ちゃん……!」


 置いて行かないで。通り過ぎないで。俺、傍にいたいんだよ。
 兄ちゃんと野球したいんだよ。兄ちゃんと一緒にいたいんだよ。兄ちゃんと笑い合いたいんだよ。

 高槻は、掴んでいた腕を目の前の祐輝に差し出す。傷だらけの腕だ。祐輝は仏頂面のまま、差し出された和輝の腕を取った。


「行くぞ」


 そう言って、手を引いて。
 和輝は縋り付くように、歩き出す祐輝に付いて歩く。後ろで歩みを止めた高槻が、少しだけ笑ったようだった。


「ありがとな、和輝。お前に逢えて、良かったよ」

てのひら・5

ほら、届いたよ


 目を覚まさない弟を遠く見詰めながら、祐輝は口を結んでいた。その時、廊下の奥からカツンカツンと足音が響いた。朝日の差し込む廊下を進む足取りは酷く緩やかで、白い壁に溶ける朝の光の中で、その表情は死んだように何も存在してはいなかった。
 其処に立っていたのは浩太だった。浩太は両手をだらりとぶら下げたまま、此方をじっと見詰めて、言葉を切り出した。


「高槻君の手術が終わりました。一命は取り留めましたが、二度と目を覚ますことは無いだろうとのことです。意識を取り戻したとしても、脳に重い障害が残るとか」


 時間が、止まった。
 淡々と告げた浩太は、くるりと踵を返す。祐輝はそれを茫然と聞き入れ、裕はその高槻という少年すら解らない。
 祐輝は何の反応も出来なかった。否定することも、絶叫することも出来ない。だが、次の瞬間には、今までの高槻との記憶が一気に押し寄せた。
 中学時代に弟を亡くし、高校では仲間の為に自ら罪を被った。和輝のような歪んだ真っ直ぐさは無かったが、皮肉屋でありながらも内に何か強いものを秘めていた。笑った顔など見たこともない。いつもぶすっと詰まらなそうに、それでも、後輩達を何処か嬉しそうに遠く見守っていた。それだけだった。
 その高槻智也は、もういないのだ。


「嘘、だろ」


 数時間前には立って歩いて、話していた。それなのに、今はもう何も言わない。
 誰も否定などしてはくれない。裕は状況が理解出来ず、置いて行かれたまま困ったように頭を掻いた。


「高槻君……って言うのは?」
「和輝の部活の、キャプテンだ」


 裕は黙った。少しして、そうか、と呟いた後、浩太の消えた廊下の奥へと歩き出した。早朝の静かな廊下に響く絶叫は、彼の母だろうか。それとも、仲間達だろうか。
 祐輝は体中の力が抜けたように倒れ込んだ。体は鉛のように重く、指先一本すら動かすことは出来なかった。視界を遮っていく黒い影が瞼だと気付いたときには、祐輝の意識は離れようとしていた。けれど、そのとき。


――兄ちゃん


 聞き間違いかと思う程の微かな声が、確かに祐輝の耳に届いた。疲弊し切った祐輝の意識は急浮上し、硝子の向こうで無数の管に繋がれた弟を食い入るように見詰めている。
 僅かな電子音がその生を知らせている。胸の上下などこの距離では解らない。けれど、空耳ではないという確信に祐輝は和輝をじっと見詰めた。


「お前を呼んでるよ」


 何時の間に、と祐輝が思う間も無い程自然に、涼也は壁に寄り掛かって其処にいた。頭の後ろで組んだ手も、飄々とした口調も何時ものままだ。先程までの激昂など微塵も無い。
 祐輝は頷くと、医師を呼ぶべく走り出そうとした。だが、その背中に向けて涼也は言った。


「如何して和輝が――」


 聞き逃せない単語、弟の名前に祐輝は足を止める。涼也は言った。


「晴海高校を選んだのか、お前に解るか?」


 それは長い間、祐輝自身が疑問に思って来たことだ。そして、父によって解き明かされた謎でもある。


「……誰の力も借りず、強くなりたかったからだろ?」
「じゃあ、その理由は?」


 涼也の言わんとすることの意味が解らず、祐輝は俄かに苛立った。けれど、そんな態度を涼也は気にすることも無い。
 沈黙を否定と取った涼也が、皮肉げに口角を釣り上げて答えた。


「お前の為なんだよ、祐輝」


 耳を疑う祐輝の反応に、満足そうに涼也は笑う。


「お前の独り善がりな罪悪感も、贖罪行為も和輝は全部知ってた。何時までも過去に囚われるお前を自由にしてやりたいから、和輝はお前と対等になろうとしたんだよ。お前が心配する必要も無いくらい、強くなりたかったんだ」
「俺の為……か」


 くつりと、祐輝は笑った。酷く自嘲めいた笑みだった。
 けれど、涼也は更に続けた。和輝の本当の願いに、このままの祐輝ではきっと気付けない。


「和輝はただ、お前と一緒にいたかっただけなんだよ」


 如何して、解ってやれない。如何して、気付いてやれない。
 産まれたときから共に過ごした和輝は、血は繋がってなくとも涼也にとっても弟のようなものだ。それなのに、本当の兄である祐輝が如何して理解してやれないのだろう。
 狭い家の中が世界の全てだったあの頃から、和輝の願いは変わっていない。


「行けよ、祐輝。これ以上、あいつを待たせてやるな」


 少し微笑んで、祐輝は走り出した。
 医師の立会いの下、集中治療室に入った祐輝は、固く目を閉ざしたままの和輝の傍に歩み寄った。僅かな脈拍を刻む心電図の電子音が空しく響く。血の気の失せた真っ白な面、包帯で固定された右腕、傷だらけの左掌。
 閉ざされていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。長い睫が震えていた。
 栗色の大きな瞳が、覗き込む祐輝を捉えた。その口元は、笑みを浮かべている。溢れそうに溜まった涙が零れる前に、祐輝は和輝の手を包み込むように掴んだ。包帯に覆われた右手はしっかりと固定されている。


「おはよう、和輝」


 酷く冷たい掌だ。血が通っているのかも疑わしい小さな掌は、熱心な練習のせいか肉刺や胼胝だらけで節ばっている。
 届かないと解っていても、苦しいと知っていても、何度叩き潰されても伸ばされた掌だ。瞬きと共に溢れた涙の訳を、祐輝はもう、知っている。


「兄ちゃん……」


 掠れるような声で、弟が呼び掛ける。この声はきっと、自分が気付かずに通り過ぎていた時も向けられていたんだろう。たった一つの願いの為に。


「俺、兄ちゃんの弟でいても、いい……?」


 ぽつりと、祐輝の瞳から涙が零れ落ちる。


「俺、兄ちゃんと一緒にいたいんだよ……」


 それが、和輝の願いだった。世間が何を言っても、仲間に見捨てられても、誰一人解ってくれなくても、その願いの為だけに傷付いて来た。祐輝は和輝の怪我も忘れて、その掌を握った。


「俺の傍に、いてくれよ……!」


 絞り出すような叫びこそが、全ての答えだった。
 握られた掌は、決して離されることはない。他の誰がそれを踏み躙っても、自分だけは気付いてやりたい。全てを失って絶望しても、ただ一つ兄弟であるということを忘れないで欲しい。
 随分と長い間、擦れ違って来た。けれど、その声を二度と聞き逃すことはない。やっと、届いたのだ。
 廊下で、二人の声を聞きながら涼也は少しだけ笑った。面倒な兄弟だ。けれど、大切な幼馴染だ。彼等の未来は決して平坦ではないけれど、彼等が願うように傍にいてやろうと、人知れず誓った。

2012.1.31