「よう」


 重苦しい鉄の箱の中、透明な板を挟んだ先で笑う少年を、袴田は知らなかった。
 猫のような丸い目も、色素の薄い栗色の髪も、健康的に焼けた浅黒い肌も見覚えが無かった。世間から切り離された少年院で、態々自分に会おうと言う物好きな人間はいない。久方ぶりの面会も袴田にとっては大して興味を引くものではなかった。それが例え、見知らぬ少年だったとしても。
 季節は気付かぬ内に廻り、鉄格子の窓の外には若葉が芽吹こうとしている。身も凍るような冬を越えた桜には、今にも弾けそうな蕾が無数に連なっていた。
 もうすぐ、春が来る。新しい一年が始まるのだ。柄にも無く、袴田が感傷に浸っていると猫目の少年は皮肉そうに鼻で笑った。


「思ったよりも、元気そうだな」


 馴れ馴れしく話す少年に、俄かに苛立つ。名も知らぬその少年と、袴田は初対面の筈だった。


「お前、誰だよ」


 苛立ちを隠すことなく地を這うような低い声を放つと、背後の看守がぴくりと反応する。少年は意に介さず、からりと笑った。
 目の前の逆境も、敵も味方も関係無く、そうするのが当たり前のように笑うその姿が、忘れることの出来ないあの少年と重なる。伸ばされた小さな掌が、振り絞るような掠れた声が袴田の中にフラッシュバックする。その度に鈍器で殴られるような頭痛に袴田は米神を押さえた。


「自己紹介が遅れたな。俺は白崎匠。蜂谷和輝の幼馴染だ」
「蜂谷、和輝」


 咄嗟に口を出たその名に、袴田は続ける言葉を失くした。
 忘れたかった名前が、忘れられなかった顔が蘇る。まるで、性質の悪い麻薬のように袴田の中に棲み付いている。忘れようと躍起になる程に蘇り、嘲笑うように彼方此方に反響する。忘れるのが早いか、気が狂うのが早いか。
 白崎匠は袴田の反応をじっと窺っていた。動揺を隠し切れないその様に、匠は笑顔を消し去り、血の通わぬ能面のような無表情を浮かべた。


「あいつは元気だよ。あんたが思うよりもずっとずっとね」


 興味も無いだろう、と匠は呟く。
 袴田が何も言わないことを気にもせず、匠は口角を釣り上げて皮肉気に嗤った。


「和輝は、負けねぇ。誰が否定しても、馬鹿にしても、笑っても。あいつは本物のヒーローだから」
「――ハッ、馬鹿馬鹿しい」


 からからに渇いた喉で、そう嘲笑するのが袴田の精一杯だった。
 匠はポケットに両手を突っ込んだまま、激昂することなど無くそれまでの態を崩さぬまま立ち上がった。安っぽいパイプ椅子が反動で後ろに滑り、微かな悲鳴を漏らす。


「じゃあな。あんたとは、もう二度と会わないだろうけど」


 吐き捨てるように言った匠には死んだような無表情が張り付いている。其処に隠された感情の正体に袴田が気付いた時、匠は既に背を向けて面会室を出て行くところだった。
 隠すことの出来ない怒りが、憎しみが、恨みが陽炎のように全身から滲み出ている。匠の言葉の通り、件の少年が本当に元気ならばそんな感情を表す筈も無い。解ったと同時に袴田は嗤おうとした。酷く滑稽だ。馬鹿馬鹿しい。見るに堪えない。――けれど。
 何度叩き潰されても、何度蔑まれても、臆することなく伸ばし続けた掌と、掛け続けられたあの声が袴田の中に鮮明に蘇る。美しい相貌の中に隠された獣の咆哮にも似た激情を袴田は知っている。世間がヒーローと、天才と呼び続ける傍らで人にも自分にも恥じることなく堂々と生きている少年が、今も頭の中で鼓動している。如何しても忘れることの出来ないあの少年が。
 匠の去った面会室からまた看守によって誘導される間際、脳にこびり付いたあの少年の声を聞いたような気がした。
 ふと振り向いた先に、突き抜けるような蒼穹が映っていた。嵌め殺しの、鉄格子の向こうから聞こえるキラキラと輝くような笑い声の正体を、知っている。長い冬の終わりを待ち望んだ花々が開花する春。始まりの季節が、また訪れる――。




1.合縁奇縁




 新たな年と解っていても、過ぎ去った一年を忘れることなど出来はしないのだ。
 世間を賑わせた晴海高校野球部の傷害事件と少女の投身自殺は、関わりの無かった大勢の生徒の胸に未だ焼き付いている。マスコミを通じて世間から散々叩かれた野球部も、実際はただの被害者でしか無かった。だからと言って、マスコミが弁明する訳でも無いし、在らぬ疑いを掛けた職員が謝罪する訳でも無い。如何にか廃部を免れた当事者である彼等にとっては、一秒でも早く胸を抉るような連発した悲劇の記憶が風化することが救いだった。
 一年の始まりを告げる満開の桜花が風に乗って舞い落ちる。真新しい制服に身を包む新入生一同は、気怠い入学式を無事終え、一足早い帰路を辿っていた。
 昨年の傷害事件には一切触れぬ儀式的なそれを誰が望むというのか。――醍醐環は、糊の利いた固い鞄を肩に担ぎ直して溜息を零した。


「ったく、初日から面倒臭ェっつの」


 愚痴垂れる醍醐の隣で、すらりとした細身の少年、蓮見創が皮肉っぽく笑った。
 醍醐と蓮見は幼馴染と呼ぶよりも、腐れ縁と称するのが最も近い間柄だった。互いに望んだ訳では無いけれど、気付くと何時も傍にいて、何と無く気が合うから一緒にいることが多い。何の因果か高校まで同じ彼等は、幼少時より野球を通して共に過ごして来た。
 蓮見は猫のように目を細めて言った。


「俺には、去年の事件を隠そうと取り繕うのがありありと解ったけどね」


 幼少の頃からの付き合いだが、蓮見は自他共に認める筋金入りの皮肉屋だ。目聡く物事を冷静に分析する様を目の当たりにして来た醍醐にとって、蓮見は最も敵に回したくない人間だった。
 風に舞い散る桜花を眩しげに目を細める姿は一見すると知的な少年なのだが、内面に隠した腹黒さを知っている醍醐は冷めた目を向ける。自分には理解不能な程の知識を無駄に持ち合わせているけれど、どうせ碌なことは考えていない。人を貶め嘲笑うのが生き甲斐のような男なのだ。
 想像の及ばない世界に思考を巡らせる腐れ縁の少年の横、醍醐は溜息を零す。
 ふと歩き出す視線の先に、目を疑うような人だかりが出来ていた。彼方此方から飛び交う黄色い悲鳴とミーハーな囁き合い。何事だろうかと興味本意で背伸びをするが、隣の蓮見と顔を見合わせてその正体が窺えないことに首を振り合った。
 人だかりの中心部にはとても近付けない。取り囲む少女が岩のように固める先に何があるのかと目を細めても踵を上げても正体は解らない。早々に諦めた蓮見が、行こうぜと促すけれど、醍醐は立ち止まったままだった。
 このまま引き下がる訳にはいかない。元来の負けず嫌いで貧乏籤ばかり引いて来たけれど、その性分はもう治らないと諦めている。
 我武者羅に女子を押し退けて割り込めば、周りから非難の声が降り注ぐ。額に手を当てて呆れたように息を吐く蓮見の視線の先で、醍醐は終に人だかりの原因に到着した。

 ――そして、時間が止まったような気がした。

 舞い落ちる桜花の下で、今にも消えそうに儚い微笑みを讃えた少年が立っている。
 くっきりした大きな二重瞼の下で、色素の薄い瞳には穏やかな光が満ちている。短く切り揃えた黒髪はワックスなど使っておらず、吹き抜ける微風に従って揺れた。通った鼻筋も、微かに弧を描いた口元も、真っ直ぐに伸ばされた凛とした背筋も、僅かに崩れた制服姿も、同世代の少年に比べると明らかに足りない身長を補っても余りある衝撃が醍醐の脳に焼き付いた。人間を見て、純粋に美しいと感じたのは生まれて初めてだった。
 こんな人間が存在するのかと、まるで全世界に賞賛される芸術品を前にしたような緊張感に醍醐は呼吸すらも忘れた。
 ふと向けられた視線。醍醐に緊張が走る。――否、その目は醍醐など見てもいない。


「……一つ年が違うだけで、随分と若く感じるな」


 隣を歩く少年に言い放っただろう囁きは、確かに醍醐の耳に届いた。話し掛けられた猫目の少年――白崎匠は可笑しそうにくすりと息を漏らす。
 美少年とは、こういう人間を指すのだろう。柄にも無く思う醍醐など視界に入っていない。匠が言った。


「ジジィか、テメーは」


 口悪く罵る匠に、少年が小さく笑う。それすら絵になる少年が何者なのか醍醐は知らない。ただ、同じ制服ということだけがこの学校の生徒と証明していた。
 少女の囁き合いを割り込んで、蓮見が横から顔を出す。


「蜂谷和輝じゃん」


 何でも無いように言った蓮見に、ちらりと和輝が顔を向けた。名前に反応したのだろう。図太い神経の筈の蓮見さえも、向けられた視線にぎくりと動きを止める。だが、視線は興味を失ったように外された。
 気取っている。ふつりと醍醐の胸に苛立ちが浮かんだ。


「お前、何だよ」


 気付いた時には口に出ていた。驚いたように目を丸くする少年の視線と、周囲を固める少女の鋭い睨みが醍醐に突き刺さる。咄嗟にその口を押えた蓮見だが、流石に言ったことまでは取り消せない。棘のある口調に隣の少年、白崎匠が怪訝に目を細めた。


「俺達に言ってんのか、一年坊主」
「おい、止せよ。――匠」


 今にも詰め寄りそうな匠を押さえ、和輝が言った。喧嘩にも似た物々しい雰囲気に少女の独り善がりな悲鳴が上がる。
 けれど、それさえ何でもないように和輝は不敵な笑みを浮かべている。余裕綽々の態度が、益々醍醐に勘に障る。まるで、此方を見下すような、憐れむような視線が苛立つ。つい発した言葉を撤回しようとする気持ちは消え失せ、目の前の一般人と明らかに一線を置く少年に向けて醍醐は吐き捨てていた。


「お前、気に食わねぇ」


 蓮見が慌てて口を覆うけれど、最早撤回する気など微塵も無い。鼻を鳴らす醍醐に、匠が低く唸った。
 けれど、和輝は、笑った。
 舞い落ちる桜花を踏み躙ることも無く、物々しい空気を一瞬にして消し去った微笑みは酷く美しい。醍醐の前に歩み寄り、自分よりも大きな相手を見上げて和輝は言った。


「元気が良いな、一年」


 醍醐の言葉など何でも無いように受け流すその様は正に柳に風と言った調子だった。それもまた気に食わないと、反論しようとした醍醐に和輝は不敵に笑う。


「でもな、噛み付く相手は択ばないといけないぜ?」


 目を細めて人懐こく無邪気に笑うその姿が、人を惹き付ける。其処が光源というように人が集まって行く。これをカリスマ性と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
 押し黙った醍醐に視線流し、和輝は歩き出した。口元には未だ微かに笑みが残っている。


「火傷で済む内はいいけどな」


 すっと背を向ける刹那、醍醐に向けて流された視線はまるで触れるものを皆傷付けるナイフの切っ先のように鋭かった。醍醐の背筋を駆け下りた強烈な寒気と冷や汗。憤怒も憎悪も侮蔑も存在しないがらんどうの瞳に映る自分が酷く情けない顔をしている。何事も無かったかのように歩き出す小さな背中に、また何も知らぬ少女の歓声が上がる。
 追跡しようとした群れは自然と霧散していた。残された醍醐だけが、二人の去った先を呆然と見詰めている。その後頭部を、蓮見が叩いた。


「……お前、何やってんだよ」


 酷く呆れた口調に、うるせぇと一言返した。
 溜息交じりに帰路を辿り出した蓮見の後を渋々追い掛ける。頭の中にこびり付いた背筋が凍るような冷たい眼差しが、虚無を映したがらんどうの瞳が醍醐の歩調を鈍らせる。胸の内に沸々と浮かび上がるものが恐怖だなんて思いたくなく、醍醐は勢いよく首を振った。
 学校から離れた交差点に着いたところで、漸く蓮見が振り返った。


「あの人、誰か知らねぇの?」
「知らねぇよ。誰?」


 見せ付けるようにわざとらしく、蓮見がまた息を吐き出す。蓮見は答えた。


「――二年の蜂谷和輝。知らないのはお前くらいのもんだよ」


 聞き覚えのある名前だと思うと同時に、この学校で最も有名な少年であると思考が行き着くと醍醐は言葉を失った。
 確かに美少年とは聞いていた。けれど、それがあんな人間だとは、思いもしなかった。否、あんな人間が存在するとは思わなかったのだ。
 蓮見は呆れた口調を隠しもせずに続ける。


「隣にいたのが、今年、栃木から転入して来た白崎匠」
「ふうん」


 興味も無さそうに鼻を鳴らす醍醐の脳裏に過るのは、一般人と懸け離れた少年の美しい双眸と微笑みだ。
 理不尽な暴言も態度もさらりと受け流す業は精練されている。それだけ、多くの人間をあしらって来た筈だ。今更、醍醐など相手にしないのは当然なのだろう。けれど、それ以上に。最後に向けられた鋭い視線が忘れられない。強烈な威圧感は、その美しい相貌からは想像も出来ない。


「気に食わねぇんだよ、あいつ」


 自分の心を誤魔化すように吐き捨てた言葉は、蓮見にも届かなかった。

2012.2.12