だらしなく肩に担ぐ様に、素人も同然だと醍醐は思った。
 それでも手を抜く気は微塵も無い。互いに得点は無いが、此処を抑えれば次は自分達が打席に立てる。そうすれば必ず得点出来る。こんな少し野球を齧っただけの連中に負けて堪るか――!
 無意識に力んでいる醍醐の正面で、蓮見は和輝の言葉の意味を考えていた。
 連中は素人ではない。彼は、この連中を知っているのだろうか。思考に耽ることも出来ず、後ろで匠が「早くしろ」と急かす。蓮見はサインを出した。金髪の男の肩からバットヘッドが起き上る。だらりと伸ばされた腕の先でバットが構えられている。


(素人、じゃない――)


 この構えは、自然体だ。それも酷く、安定している。
 蓮見がしまったと思う間も無く、醍醐はサインに頷いて振り被っていた。そして次の瞬間、金属バットが一閃した。
 グラウンドを突き抜けたライナーに反応出来る守備はいない。あっという間に外野を越えたボールに、金髪の男は全力疾走など煩わしいとのろのろとダイヤモンドを小走りしている。
 全力疾走したなら、本塁に帰って来ていただろう。三塁で見せ付けるようにガッツポーズをする金髪の男を睨みながら、醍醐は忌々しげに奥歯を噛み締めつつ守備に声を掛ける。蓮見は自分の読みの甘さを悔いた。


「馬鹿だな」


 ベンチで、和輝が呟いた。誰へと向けたものかも解らぬ独白に、隆だけが目を向ける。
 酷く澄んだその目はグラウンドではない、何処か遠くを一心に見詰めているようだった。掛ける言葉を持たぬ隆はグラウンドへと声援を送っている。続く打者は五番。アッシュに染められた長い前髪の隙間から覗く目は鋭い。
 濁った金属音に打球が三塁線に転がる。――が、ショートはぼてぼてのゴロを取り零した。蒼白の顔に手は明らかに震えている。
 カバーにショートが入るけれど、三塁走者は悠々ホームイン。野次にも似た声で喜ぶ高校生集団に蓮見は舌打ちした。それを冷ややかな目で匠が見下ろしている。


「ホームイン。おい、さっさと次のバッター来いよ」


 乱暴に試合を促す匠の目には何も映っていないようだった。
 けれど、その後も猛攻は終わらない。何でも無いゴロが、守備のもたつきでヒットになる。仲間を責めることなく励ます醍醐がいっそ滑稽な程に、グラウンドには嫌な空気が満ちていた。
 二回表、四失点――。漸くチェンジとなり、四番の蓮見はバットを担いでグラウンドへ向かう。
 葬式会場のように静まり返ったベンチで、和輝だけが鞄からフルーツジュースを取り出し、平然とキャップを捻る。少々値の張るフルーツジュースを一口飲み下し、表情の死んだ面で黙っている。何か言って来るだろうと思っていただけに、拍子抜けした。
 蓮見は真っ直ぐにピッチャーを睨んでいる。初回からマウンドに上がっている金髪の男は決して素人ではない。力の抜けただらしないフォームながら、その球は中々速い。それは彼の長い手足がなせる業だ。
 初球。ボールは蓮見の顔の横を通り抜けた。


「ボール」


 匠の呟きにも似た声が落ちる。初回に自分がしたことを、遣り返されたのだ。蓮見の中にふつりと苛立ちが浮かぶ。
 呑まれるものか。大きく深呼吸をした蓮見の目に力が籠る。自分が出塁しないと、得点は望めない。打たなければいけないのだ。


「固過ぎる」


 和輝が吐き捨てた。そんなことは、言われなくても解っている。醍醐は声を上げる。しかし、蓮見の耳には届かない。
 蓮見はパワーヒッターではない。それでも、彼が力む理由が醍醐には痛い程に解っていた。
 振り抜かれたバットは掠りもしない。力んで打てる相手じゃないだろう。溜息交じりに和輝は思った。


「アウトー」


 気の抜けた匠の宣告に、脱力した蓮見が悪態吐く。入れ違いにバッターボックスへ歩いて行く醍醐が肩を叩いた。
 和輝の存在も無視してベンチにどさりと座り込んだ蓮見に、先程までの余裕は微塵も無い。対照的に余裕綽々とジュースを飲む和輝をじろりと見るが、返って来たのは悪童のような笑みだった。蓮見は忌々しげに問い掛けた。


「あんた、連中のこと知ってんですか」
「俺が? 知る訳無いだろ」
「だって、あいつ等は素人じゃないって言ってましたよね」
「そんなの、見りゃ解るだろ」


 当たり前のことを訊くなと、和輝が吐き捨てる。
 その時、醍醐のバットが一閃した。打球は三遊間を駆け抜ける。グラウンドを疾走する醍醐は二塁に滑り込んだ。ジーンズが土塗れになることも厭わない泥臭いプレーにベンチが湧き立つ。
 それで持ち直せる空気ならいいけれど、と和輝は皮肉っぽく思う。案の定、続く打者は皆見逃し三振だった。
 回は進むけれど、一向に得点は無い。あるのは相手の馬事雑言に、此方の失点ばかりだった。気付けば無得点のまま、コールドゲーム間際な程に得点差が開いていた。終に最終回、九回表。最後の守備に、マウンドに立つ醍醐は肩で荒い呼吸を繰り返している。味方のミスを責めることなく、仲間の応援も皆無の中で打者と向かい合っている。
 バッターボックスに、あの金髪の男が立っている。誰もが皆、満身創痍だった。主審の匠は興味も無さげに試合を促す。
 初球、醍醐の左腕が唸る。右腕の投手に比べ、左腕の投手の球は3km程早く見えると言う。だが、そんなものも意味を成さぬ程に彼等は疲弊していた。バットが振り抜かれる刹那、男が確かに口角を釣り上げたのが和輝に見えた。
 打球は真っ直ぐに、マウンドへと突き進んだ。帽子すら被らぬ醍醐の蟀谷を白球が掠める。和輝が反射的に腰を浮かした。
 低い呻き声。金髪の男はへらりと笑いながらダイヤモンドを駆けて行く。膝を着いた醍醐は立ち上がらない。センターからの返球によって金髪の男は一塁ストップだった。
 蟀谷を押さえる醍醐の指の間から、真っ赤な血液が零れ落ちた。蓮見が弾かれるように匠にタイムを求めた。匠は追い払うように手を振って、欠片も醍醐の心配などしていないようだった。
 蓮見がマウンドに駆け寄るが、醍醐は蟀谷から零れ続ける血液を押さえ続けることしか出来ない。その時、一塁に立つ男が笑いながら言った。


「悪ィな。偶々、当たっちまったよ」


 悪いなどと、微塵も思っていないだろう。どのみち、謝罪など何の意味も持たない。胸糞が悪くなるだけだ。
 駆け寄る仲間を励まそうとするけれど、出血によって醍醐は立ち上がることすら出来ないでいる。絶望的な点差、投手の負傷。この状況を誰が救えるというのか。誰もが目を背けたくなる状況で、凛とした声が醍醐の耳に確かに届いた。


「だから、言っただろ」


 無表情で、何時の間にマウンドまで来たのか、蜂谷和輝が真っ直ぐに醍醐を見ていた。
 小柄な体格を感じさせない威圧感も、童顔に映る鋭く澄んだ視線も、揺るがぬはっきりとした声も、何もかもが常人とは異なる。和輝は言った。


「噛み付く相手は、ちゃんと択べって」


 それは入学式の後、絡んで来た醍醐に和輝自身が言った言葉だった。
 火傷で済めばいい。けれど、それでは済まない相手がいる。蟀谷から零れ落ちる血液に右手を濡らしながら醍醐は唇を噛み締めた。悔しいと思う。けれど、何も言い返すことが出来ない。和輝の言葉は正論だ。ポケットに手を突っ込んだまま、和輝は醍醐を見下ろしている。
 このまま負けてしまえば、弟は此処で練習することが出来なくなってしまう。負ける訳には行かない。でも、如何したら勝てると言うのだろうか。この八方塞の絶望を打開出来る人間なんて此処には――。
 ふと、醍醐の目に和輝の苛立ったような顔が映る。無表情ながら、その目には確かに燃えるような怒りが浮かんでいた。
 何に怒っているのだろう。自分に? この状況に? 相手に?
 解らない。解らないけれど、この状況を変えることが出来る人間がいるとするなら、それはきっとたった一人だけだった。


「頼む……! 手を貸してくれ……!」


 虫の良い話だとは思う。けれど、それしか手段は無かった。醍醐は俯き、軋む程に拳を握り締めている。
 和輝は無表情だった。


「――如何したい?」


 ふと目を向けた先で、和輝は真っ直ぐにゲラゲラと笑い合う男達を見ている。酷く澄んだ目だ。吸い込まれそうな程に。
 醍醐は噛み締めるように、振り絞るように言った。


「負けたくないんだ……!」


 そう言った瞬間、和輝は怪訝に眉を寄せた。


「お前、何言ってんの?」


 馬鹿じゃねーの、と和輝が吐き捨てる。蹲った醍醐の手から落とされたグラブを拾い上げ、和輝はブレザーを脱ぎ捨て醍醐に押し付けた。
 その目は真っ直ぐにバッターボックスへと向けられている。


「俺がいるのに、負ける筈ねーだろ。俺が訊いてんのは、何点差で勝ちたいかってことだ」


 最終回、コールド間際の十点差。味方は満身創痍。碌な防具も無い状況で、マウンドに立った小さな少年。その目には揺らぐことの無い鋭い光が宿っている。


「匠!」


 マウンドでのやり取りすら見ていなかったらしい匠は、グラブを着けた和輝に動揺する。慌ててマウンドに駆け付ける匠に、和輝は表情を変える事無く言った。


「あいつ等、気に食わねぇ。やるぞ」
「お、前!」


 止めようとしただろう言葉の先は無かった。その目に浮かぶ覚悟は決して揺るがないと匠は知っている。
 盛大な溜息を零し、匠は「しょうがねぇな」と頭を掻いた。


「……つう訳だ。選手、主審交代するぜ」


 今更文句も無いだろう。醍醐をホームポジションへ押し退け、匠は少年から引っ手繰るようにしてグラブを受け取るとショートポジションに立った。そして、マウンドに蜂谷和輝。急展開する試合状況を必死に呑み込みながら、蓮見はホームポジションに座る。
 当たり前のように練習すらせずに構える和輝に、蓮見は動揺する。彼がどんな球を投げるかなど知らない。そもそも、彼は投手じゃない。そんな話は聞いたこともない。だが、静かに構えるその様は明らかに投手のそれだった。
 強引に主審へ移動させられた醍醐は、手当をする間も無く試合再開を告げる。そして、正面に構えた少年の澄んだ瞳の中に、確かに炎を見た。それは寒気を感じさせる青白い、鬼火にも似た炎だった。
 振り上げられた右手から、白球が放たれる。当然、蓮見はサインなど出していない。
 兎に角、捕らなくては。蓮見が白球を追う前に、バットが振られている。その体格故に力強い投球など期待出来なかったけれど、その球は遅い。バッターが口角を釣り上げる。――けれど。
 ボールはバットの手前で、僅かに変化した。
 驚いた打者のバットに衝突し、打球はぼてぼてのゴロとなってグラウンドに転がる。弾かれたように走り出すランナー。転がり落ちた白球を和輝が拾い上げた。
 振り返ることなく、背中を向けたまま和輝は白球をトスした。背後にいた匠が受けると同時に二塁を踏み、すぐさま一塁へ送球。流れるような送球は、一塁手の構えたミットのど真ん中に突き刺さった。


「ア、アウト……!」


 一瞬のツーアウト。
 たった二人で、あれだけ手古摺った相手を切り落とした。呆然とする一塁手に、和輝がグラブを向けて笑い掛ける。


「ナイス、ファースト」


 輝くような笑顔に、思わず一塁手の少年が赤面する。返球を受け取った和輝は、二塁から定位置に戻る匠に悪戯っぽく笑い掛けた。
 続く打者も、相手が只者ではないと気付いただろう。それまでのお遊びのような空気は消え、グラウンドには緊張感が満ちている。マウンドに立つその目は酷く真剣なのに、仲間に向けられる笑みは蕩けるように柔らかい。
 度肝を抜くような球威も球速も無い。目を見張るような変化球も無い。けれど、その一球は確実に打者を殺す為に投げられている。
 初球のストレートに迷わず手を出した打者の手元で、ボールは外角へと逃げて行く。濁った金属音と共に転がり落ちた打球は蓮見の目の前だった。防具を着けていない蓮見の動きは俊敏だ。けれど、一塁へ向けて疾走する男に間に合うかは微妙だった。
 それでも、二つの声が揃って叫ぶ。


「一つ!」


 和輝と匠が揃って送球を促した。反射的に蓮見は投げている。
 一塁へ向けて走る男は叫んだ。


「退けェエ!」


 体当たりでもしようかという勢いに、一塁手が一瞬怯んだ。蓮見の送球はファーストミットに衝突し、転がり落ちた。
 だが。
 何処から現れたのかと思うその場所で、投手だった筈の少年がグラウンドを蹴っていた。転がり落ちた白球はグラウンドに着地する寸前に和輝の手の中に掬い上げられる。アウトだ。それでも男の突進は止まらない。
 衝突する――。醍醐が眉を顰めた先で、男は一塁を踏むことなく勢いよく前方に転げた。和輝の片足が上がっている。


「――悪ィな。偶々、当たっちまったよ」


 口角を釣り上げて笑う様は正に悪童のようだ。その足は走者に引っ掛けたのだろう。転げたまま立ち上がれない男は泥塗れで、和輝は金髪の男を見てくつくつと喉を鳴らして笑う。
 何が起こったのか理解し切れぬまま、主審となった醍醐は叫んだ。


「チェンジ!」




2.ヒーロー<後編>




 バッターボックスに蜂谷和輝。ベージュのカーディガンも、ピカピカのローファーもスポーツをやるには適していない。それでもバットを構えるその様はこれまで見て来たどんな打者よりも恰好良い。伸ばされた背筋も、無駄な力の入らない自然体のフォームも、真っ直ぐに投手を見据える透き通るような視線も、何もかもが人を惹き付ける。


「お願いします」


 これまで、誰も口にしなかった挨拶をして、和輝は笑う。
 彼は解っているのだろうか。十点差だ。仮に彼がホームランを打てたとして、後に続くのは疲れ切った中学生達だ。それでもその目に映る光は揺らぐことも無い。
 金髪の男は和輝を睨みながら、白球を放った。重く速い球だ。けれど、それをまるで棒球か何かのように和輝は黙ってバットを振り切った。鋭い金属音にライナーが弾け飛ぶ。投手の耳元を駆け抜けた一撃に誰も反応出来ない。
 打球は二遊間を越え、センター手前に落下。悪態吐くセンターが振り被る視界に、和輝はいなかった。


「三塁だ!」


 金髪の男が叫んだ。バッターボックスを飛び出した瞬間すら知らぬセンターには、まるで彼が瞬間移動したかのように見えた。
 センターからの送球。だが、三塁に和輝はもういない。其処がただの通過点だと言うように、和輝は滑り込むことも無く、本塁を蹴った。


「ホームイン……!」


 たった一打で、誰の手を借りることもなく本塁に帰還した少年に、誰も声を掛けることが出来ない。ただ匠だけが、擦れ違いざまに片手でハイタッチをした。その乾いた音が合図だったように動き出した蓮見は、ベンチに座る和輝に目を向ける。
 小さな少年だ。常人以上に筋力が発達しているとも思えない。それが如何して、あんなに鋭い打球で、あんなに速く疾走するのだ。


「あんた、何者?」


 蓮見の問いに、和輝は答えなかった。グラウンドからそれまで聞くことの無かった断末魔にも似た高音が響き渡った。
 打球は蒼穹へと吸い込まれ、そのまま川原の藪の中へ落ちた。


「やべ」


 匠の間の抜けた声に、和輝が可笑しそうに笑う。
 ホームラン。ベンチが一斉に沸き立った。のろのろとダイヤモンドを廻る匠の顔は浮かない。本塁に帰還すると、和輝は声を張り上げた。


「後で、一緒に探してやるよ!」


 ボールの心配をしていたらしい。当たり前だろ。匠が笑う。
 二人の打席は終わった。追撃の二点は強烈だったが、最終回の今、後ろが続かなければ何の意味も無い。重圧を感じる少年達に、和輝は不敵な笑みを向ける。


「さあ、反撃開始だぜ!」


 安っぽい言葉だとは思う。けれど、あの神業のようなプレーの後に当たり前に向けられる満面の笑顔。お前達ならやれると、無償の信頼を向ける真っ直ぐな目。それで奮い立たぬような弱虫は此処にはいない。
 大きな返事と共に、次の打者がバッターボックスへ入って行く。ベンチに座った和輝は、グラウンドを見詰めたままぐっと右腕を握り締めている。がらりと変わった雰囲気に、蓮見は言った。


「あんた、凄い人ですね」
「そうか?」
「まるで、ヒーローみたいだ」


 その言葉に、和輝がぎこちなく笑った。
 けれど、蓮見の言葉は本心だった。その様子を横から見ていた匠だけが口を尖らせている。
 それまで葬式会場だった仲間達が活気付く。追い上げムードに包まれたベンチで、蓮見は手に汗を握る。こういう時には何が起こるか解らない。否、こういう時にこそ、奇跡とは起こるものだ。
 全くヒットの無かった面々が次々に出塁する。高校生を相手に萎縮していた筈が、自分達の後ろにいる少年を頼りに真っ向から戦おうとしている。あっという間の満塁で、打者は蓮見に回った。


「ぶちかませ!」


 拳を向ける少年の、悪戯っぽい笑みに蓮見は笑う。無死満塁で追い上げムードのこの状況で、もしも打てないとしたら此処にいる意味すら無い。――けれど、例え自分が打てなくても、彼等は必ず勝利へ導いてくれる。
 疲れ切ったピッチャーの甘いボールが来る。蓮見のバットに迷いは無かった。打球は三遊間を駆け抜けた。走者スタート。次々にランナーが帰って来る。蓮見がホームへ戻った時、十点あった点差は三点差へと迫っていた。
 やがて、バッターボックスにまた和輝が立つ。沸き立つベンチからの割れんばかりの声援に応えるように、和輝は笑っていた。金髪の男が苦々しげに吐き捨てる。


「お前、何をしやがった……!」
「見てただろ。俺は、仲間を信じた。ただ、それだけだ」


 静かにバットを構えた和輝に、それまで無力だった少年達が拳を握る。もう点差など無いに等しかった。
 それからの怒涛の反撃は、公式試合として記録されないのが惜しい程だった。十点差はあっという間に引っ繰り返され、最終回にして今度は十点差で勝ち越す勢いだった。ベンチに戻った和輝を睨むように見詰めていた金髪の男が、手にしていたグラブをマウンドに叩き付けた。どよめく中学生達の中心で、和輝は静かにその様を見詰めている。


「ふざけんじゃねぇ……! てめぇ、何なんだよ!」


 和輝は何も言わない。
 ベンチへと詰め寄る男に、逃げ惑う中学生達の中で和輝だけが真っ向から向かい合う。


「横からしゃしゃり出て来やがって! こんなもん、無効試合だ!」
「随分、勝手な言い分だな。男なら、自分の言葉に責任持てよ」
「うるせぇ!」


 怒鳴り付けた男が、和輝の胸倉を掴んだ。塁上にいた匠がその様を見て駆けて来る。
 男は、口角を釣り上げて和輝を睨んで言った。


「お前、あの蜂谷和輝なんだろ? 傷害事件起こしたっていう」


 後ろに隠れていた中学生達がざわめく。和輝はすっと目を細め、否定も肯定もせずにいる。それを良いことに男が更に続けた。


「人のこと傷付けた癖に、のうのうと野球してるような無神経野郎は、此処に立つ権利も無ぇんだよ!」


 そう吐き捨てた瞬間、匠が怒鳴り付けるように口を開いた。けれど、それは言葉となるまえに霧散した。勢いよくグラウンドを蹴った醍醐が、蟀谷から滴る血液もそのままに拳を振り上げたのだ。
 間一髪のところでその腕を掴んだ匠に押さえられながら、醍醐は声を荒げた。


「そんなこと、お前に言われる筋合い無ェんだよ!」


 今も腕を押さえる匠がいなければ、醍醐は真っ直ぐに目の前の男を殴り飛ばしていたことだろう。
 蜂谷和輝と呼ばれる少年の過去に何があったかは知らない。自分も彼のことを気に食わないと思っていたくらいだ。興味も無い。――けれど、根も葉もない出鱈目な噂でこの少年を貶める権利など誰にも無い。こんなに真っ直ぐな目をした男を、自分は見たことが無い。敵意すら向けられていた相手を、怪我をしたからといって当たり前のように助けに来る。
 何処の誰が、一体何の権限で彼を罵ることが出来るのだ。教えて欲しい。醍醐の目に凶暴な光が浮かんでいる。金髪の男が喉のひり付くような声を上げた。逃げ腰になった男達に、匠は醍醐を押さえながら言った。


「俺の手も何時まで押さえていられるか解らねぇ……。失せろ、クズ野郎が!」


 向けられた剥き身の怒気に、萎縮した男達が慌てて河川敷から逃げて行く。猫のような大きな目を鋭くさせる匠は、男達が視界から消え失せると漸く投げ捨てるように醍醐の腕を離した。


「お前、とんでもない野郎だな」
「うるせぇや」


 呆れたような匠の言葉に、醍醐は口を尖らせる。


「むかつくんだよ、あいつ等。勝手なことばっかり言いやがって」


 鼻を鳴らしてグラウンドに胡坐を掻く醍醐は、不貞腐れた子どものようだった。そんな醍醐に笑い掛け、和輝はしゃがみ込む。視線を合わせた和輝の口元は穏やかに弧を描いていた。


「ありがとな」
「……あんたの為じゃねぇよ」
「うん。でも、俺は嬉しかった」


 ばつが悪そうに醍醐は目を背ける。入学式の後に見た蜂谷和輝は気取っていると思った。けれど、違うのかも知れない。澄んだ湖のように透き通る瞳が、穏やかに微笑むその様が、本来の彼の姿なのかも知れない。
 和輝は醍醐の肩に掛かっていたブレザーを掴み、言った。


「改めて、俺は蜂谷和輝。こっちは白崎匠。晴海高校二年、野球部だ。縁が在ったら、またな」


 颯爽とブレザーを肩に担いで歩いて行く姿は正に、ヒーローのようだった。その背中を追うように歩き出し、醍醐の耳元で匠が言った。


「藪ん中に落ちたボール、宜しくな?」


 ふざけんな、と言い返す間も無く二人は遠く歩き出していた。取り残された醍醐は、疲れ切った体でこれからボールを探すのかと思いつつも、その頭の中には彼等の姿が浮かんでいた。


「蜂谷、和輝か……」


 すごい男だな、と思ったことは醍醐だけの秘密だ。

2012.2.12