――皿の割れるような悲鳴が、家を揺らした。


「救急車だ!」


 突然の声に、匠は状況も解らぬまま弾かれたように駆け出した。
 季節は冬だった。日本列島を襲った大寒波は各地に大自然の猛威を振るい、路上には冷え固まったスケートリンクのようなアイスバーンが張り付いている。木々は新芽を付ける気配も無く、ただただ吹き荒れる寒風に身を震わすばかりだった。
 匠の手の中の携帯は既に救急車を呼んでいる。場違いな程に落ち着いたオペレーターが此方の気も知らずに状況と現在地の詳細を求めていた。転がる勢いで階段を駆け下り、匠は声の上がった蜂谷家のリビングに滑り込んだ。目に映ったのは、息を呑む程の凄惨な状況だった。
 幼馴染が血溜まりの中に倒れている。出血箇所らしい手首を押さえるのは、彼の兄である祐輝だった。同様に駆け付けた幼馴染の奈々が悲鳴を上げる。間も無く到着するだろう救急隊員との連絡を絶ち、匠は固く目を閉ざした和輝の傍に膝を着いた。


「おい、和輝!」


 足元に、血に染まったカッターナイフが落ちている。何か工作でもしていたのだろう。同じ幅に切られた帯のような白い厚紙が散らばっている。投げ渡されたタオルで傷口を押さえる祐輝が、視線すら寄越す事無く苦々しげに言った。


「工作してんなーと思ってたら、急にカッターじっと見詰めて、そのまま手首切りやがった」


 それは衝動的な行為なのだろう。
 和輝が自らの手首を切り裂き、命を絶とうとする理由は、悲しい程、無数に存在した。それでも普段の態を装って笑っていたのは生きる為じゃない。ただ、切欠を探していたのだ。
 和輝が死にたかったのは、知っている。――でも。


「この、馬鹿!」


 それでも、今も如何にか命を繋ごうとする和輝をこの世に引き留めるのは、未だ眠り続ける彼の存在なのだ。希望と義務を併せ持つ諸刃の剣を、今も心に抱え込んでいる。


「高槻さんのこと、待ってんだろ!」


 ぴくりと、投げ出されていた和輝の指先が微かに震えた。
 全てを投げ出そうと自ら刃を突き立て、失った意識を取り戻す程、彼の存在は和輝の心の奥深くに楔のように強く残っている。傷口とは反対の掌で額を覆った。そして、微かに噛み殺された嗚咽が匠の耳に届いた。


「う、うぇ……」


 掌に隠された双眸から、大粒の涙が零れ落ちた。
 無数の筋を作って流れ落ちる様はまるで枝分かれする運河のようだが、行き着く先は鮮やかな赤に染まったフローリングの床だった。何かを堪えるように和輝は出血を続ける掌を軋む程に拳を握っている。


「うえ、ぇえ……」


 小さな子どものように、祐輝に縋って泣く様は世間の囃し立てるヒーローとは程遠い。けれど、それが在るべき本来の姿の筈だった。
 絞り出すような掠れた声は、表に到着した救急車のサイレンに掻き消されそうだった。


「キャプテン……!」


 吐き出されたその言葉が、今の和輝の救いで、支えなのだ。


「キャプテン!」


 目を覚ます筈の無い少年を待ち続ける和輝を、哀れだと、いっそ滑稽だとも思った。
 悲痛な叫びが、血の臭いに満ちた空間に狂ったように木霊している。届く筈の無い声を、掴める筈の無い掌を、和輝は今も向け続けている。何時か願いが叶うと信じて。
 押し寄せる救急隊員の中に呑み込まれていく小さな背中に、匠は何も出来なかった。今にも倒れそうな程に真っ青な祐輝が付き添うのは、その腕を通常なら想像も出来ない程に強く和輝が握り締めているからだ。その握り締める力は、和輝が縋るものへの想いに比例する。


 なあ、俺、お前に何をしてやれるかな?
 如何したらお前、心から笑えるの。
 如何したらいいの。
 教えてくれよ、和輝。




「――匠!」


 散り行く桜花を背景に、振り返った和輝が笑っていた。遠い日への懐古の念に囚われていたことに気付き、匠は思い出したように微笑んだ。目の前にいる幼馴染は、自分の知る馬鹿で御人好しな幼馴染のままだった。
 それでも、起こったことは誰にも変えられない。彼はあの日、自ら命を絶とうとした。その事実が今も匠の中に暗い影を落としている。
 ただ、それでも笑おうとするから。


「何、ぼーっとしてんだよ。学校、遅れちまうぞ」


 そういえば、登校中だったなと思い出す。昨日の訳の解らない野球勝負に巻き込まれてから、登校するのは少し億劫だった。
 踊るような軽やかな足取りの和輝には昨日の疲労など欠片も感じない。それでも、彼の背負う荊の重みを知っているからこそ、匠はその笑顔が痛々しいと思う。
 浮かべられるこれが作り笑顔でも、吐き出される言葉が嘘ばかりでも、彼がこうして此処に立っているということが、匠にとっては奇跡に違いなかった。


「なあ、和輝」


 半身でステップを踏むように、和輝が振り返る。穏やかな春の日差しに溶け込むような笑顔に、恐らくきっと他意は無い。
 入学式を終えたばかりの学校で、今日は授業も無い筈だ。部活に熱が入るな、と他人事のように思いながら匠は少しだけ笑った。


「今日、野球部出るか」


 和輝が、嬉しそうに笑った。
 歌うように、和輝が返事をする。


「うん、行こう」


 ただ、其処にいるということが。
 再び歩き出した小さな背中を追いながら、匠は拳を握った。頭の中に響く、あの悲鳴にも似た叫びがこびり付いて離れない。




3.違和感




「何であいつ、いねぇんだよ」


 不機嫌な醍醐の呟きは、サッカー部へ送られる黄色い声援に掻き消された。
 奇妙な野球試合から一日。縁が在ったらまたな、なんて言い捨てて去って行った件の少年の姿はグラウンドの何処にも、無い。
 金網の向こう、鈴生りに並ぶ女子生徒の絵に描いたような落胆の顔に、醍醐は気持ちが更に急降下して行くのが解った。


「和輝なら、今日は来ねーよ」


 醍醐の独り言にも似た呟きを拾い上げて、当然のように昨日会ったばかりの匠が言った。
 仮入部期間ですらない時期に訪れた醍醐と蓮見を野球部の練習に招き入れてくれたことには感謝したいが、その態度は癇に障る。


「サボりかよ」
「……お前、先輩相手にその口の利き方は無いだろ」


 呆れたように言う匠が否定も肯定もしないので、自分の考えはあながち的外れでも無いのかも知れないと思った。
 サッカー部と陸上部に占領されたグラウンドの隅で、小柄な少年が集合を掛ける。キャプテンである藤徹だと知ったのはつい先程のことだ。念入りに柔軟していた醍醐は重くなる腰を上げ、キャプテンの元へと走って行こうとした。その背中に、ぽつりと匠が言った。


「あいつに会いたきゃ、週末に来いよ」
「……何で、平日はいねぇんだよ」


 ち、と隠すこともしない舌打ちに、匠は何も言わなかった。
 隣で蓮見が急かすので、醍醐は振り返らず走り出す。その横を悠々と匠が通り過ぎて行った。
 晴海高校野球部は総勢八名、内一人はマネージャーだ。現段階では公式試合は愚か、練習試合すら組めはしない。それでも、昨年の夏大会ではぎりぎり九人の選手で県内ベスト4まで勝ち進んだダークホースだった。その立役者と名高いのが件の少年、蜂谷和輝でもある。
 昨年の成績からグラウンドの優先使用権を持つ野球部だが、この少人数では広大な面積の必要性も無いのだ。ホームポジションに集合する面々は、皆健康的に浅黒く焼けている。丸刈りの少年が一人もいないのは生徒の自主性を重んじるというある種、奔放過ぎる校風故なのかも知れない。
 キャプテンである藤は、醍醐と蓮見を一瞥すると小さく咳き込んだ。


「今日から新しい部員が入ってるから、名前くらいは覚えろよ」


 まばらな返事に、本当に野球部かと疑いたくなる。藤は醍醐と蓮見を顎でしゃくり、自己紹介を促した。
 胡乱な眼差しが向けられ、醍醐は息が詰まる。何だ、この無気力は。


「……醍醐、環です。白井中出身、投手です」
「白中に野球部は無いだろ」


 野次のように上げられた声に、醍醐は視線を向けた。見れば、人の良さそうな笑顔を浮かべる優男が片足に体重を掛けたまま言った。
 すかさず、隣の蓮見が答える。


「中学に野球部は無かったので、地元の野球チームで練習してました。あ、俺は蓮見創。同じく白井中です。ポジションは捕手」
「ふうん」


 言わせた癖に、優男は興味も無さそうに相槌を打つ。拍手すら無い静寂に醍醐は苛立った。
 これが野球部だと言うなら、的外れもいいところだ。そう思った時、蓮見の隣の少年が手を上げた。
 整った顔立ちをしている、所謂、男前だった。ジャージにロンTというラフな服装は、ユニホームに身を包む部員とは明らかに異なる。それが同じく一年という証拠と気付いたのは、彼が自己紹介を終えてからだった。


「俺も自己紹介しますね。星原千明。浦和中ですが、シニア出身です。ポジションはサード」


 にこりと、爽やかな微笑みに女子生徒が何か囁き合う。
 食えない奴だと、醍醐は思った。見知らぬ同級生だ。
 新入部員である三人が自己紹介を終えると、それまで黙っていた藤が眠たそうな目をする部員に視線を送った。


「俺は野球部キャプテン、三年、藤徹だ」


 それだけを言い捨てて、藤は隣の少年を見遣る。
 ぱっとしないな、と醍醐は思った。キャプテンというのは何時の時代も皆を纏めるリーダーの筈だ。こんな少年に誰が付いて行くのか、と醍醐が思っている間に部員達は次々に事務的な自己紹介をして行く。
 最後に、匠が顔を上げた。


「二年の白崎匠だ。栃木の私立からの転入生だから、お前等と同じ新入生だな。宜しく」


 人好きのする笑顔で、匠ははきはきと答えた。自己紹介を終えた面々を見渡し、藤が思い出したように付け加えた。


「もう一人いるんだが……、まあ、その内に紹介するよ」


 それからすぐに練習へと促され、一年はすぐに球拾いへと送られた。こんなものか、と醍醐が不満げに口を尖らせていると、先程の同級生、星原千明が隣に並んだ。


「なあ、醍醐君」
「あ? ――っと、」


 柄悪く答えたことに後悔し、醍醐は星原を見た。
 星原は気を悪くした風でも無く、浮かべた爽やかな笑みを崩すことなく言った。


「星原千明だよ。宜しくね」
「ああ、宜しく……」


 明るい口調に醍醐は言葉に詰まった。あのやる気の欠片も無い野球部の面々を見てこの態度でいられる星原のスタンスが不思議でならない。けれど、星原は平然と言った。


「中々、曲者揃いって感じだね」
「そうか? 俺には、やる気が無くだらだらしてるようにしか見えなかったけど」
「はは、あんたは、知らないからね」


 それだけ言って離れて行った星原の真意は知れない。追求する間も無く上空には白球が浮かんでいた。
 グラウンドの隅を使用してゴロ打ちの練習をしている癖に、時折フェンスを越えて他部活の領域まで白球が飛ぶ。へたくそと罵りたかったが、バッターが白崎匠であることに気付き、態とだと知った。
 先輩が順に練習を終えた頃には、醍醐の息はすっかり上がっていた。
 再び集合を掛けた藤は、説明も無く片付けを始めていた。まだ日は高く、他部活は練習の序盤だ。何の冗談だろうと思う間も無く、説明すらも無く藤を先頭に野球部はグラウンドを後にした。
 何処に行くのかと問い掛ける相手を持たぬ醍醐が、先を歩く顔見知りである匠に声を掛けようと思うが、それも敵わない。巨大な荷物を抱えて、山道を登る彼等は無言だ。それがまるでトレーニングの一環であるように寡黙に獣道を辿って行く面々の後を追いながら、醍醐は隣の蓮見にも声を掛けられなかった。
 春の新緑に包まれた視界は、突然拓けた。現れたのは古いながらもきちんと整備されたグラウンドだった。
 其処に、等間隔の乾いた音が小気味良く響いている。
 グラウンドの外周を、一定のリズムを崩す事無く駆け抜ける一つの影。此方の到着に気付くことなく、一心不乱に己の前だけを見据える鋭い瞳。見る者全てを魅了する整った顔立ち。小柄な体に圧倒的な存在感。


「蜂谷、和輝――」


 如何して、あんたが此処にいる。
 学校から離れた裏山の寂れたグラウンドで、誰にも見付からないようにひっそりと走る姿は明らかに奇妙だ。


「おい、和輝!」


 扉を潜った藤が呼び掛けると、和輝は此方を見てゆっくりと足を止めた。僅かに頬が上気し、呼吸が荒い。
 到着を知った和輝がゆっくりと歩み寄り、先輩の持つ荷物に手を伸ばすが、それはするりと躱された。
 ベンチ付近にどかどかと積まれる荷物を背中に、振り返った藤はそれまでの胡乱な眼差しを消し去り、ピリピリと肌を刺すような威圧感を放っていた。


「――さて、紹介しようか」


 漸く浮かべられた不敵な笑みに、醍醐は息を呑む。野球部の面々がそれまで漂わせていた無気力感はすっかり消え失せ、それは強豪チーム宛らの緊張感に満ちている。


「此処が晴海高校野球部の本来の練習場で、こいつが晴海高校野球部最後の一人だ」
「宜しく――って、何だ、顔見知りばっかりだ」


 困ったように笑うその仕草さえ、人を惹き付ける。和輝は醍醐、蓮見を見た後、星原を見て大きな目を瞬かせた。


「千明、久しぶり」
「和輝先輩!」


 嬉しそうに駆け寄る星原の後ろの、子犬のような尻尾が見えるような気がした。
 親しげな二人を見て、藤が言った。


「知り合いか?」
「はい。中学の頃の後輩なんです」


 和輝が嬉しそうに言った。


「まあ、感動の再会はそれくらいにして、さっさと練習を始めようか」


 そう言った藤の声は、先程とは比べものにならない程に溌剌とよく通る。あれは何だったのだと言いたい。
 早々にグラウンドに散って行く部員達に呆気に取られている醍醐の後ろで、匠の唸るような低い声が聞こえた。


「……てめー、何やってんだよ」


 怒りに染まった声に振り向けば、匠が和輝の胸倉を掴んでいた。
 何も言わない和輝を押し遣って、匠は不機嫌そうに言い捨てた。


「もう、引っ込んでろ」
「……匠、」
「二度は言わねぇぞ」


 凍り付くような冷たい目で、匠が言った。睨み付ける視線は、心臓が止まりそうな程に鋭い。
 和輝は苦笑し、何も言い返すことなくベンチの奥に消えて行った。和輝の消えたグラウンドで、先程の気の抜けた練習が嘘のような活気溢れる声が響いている。ベンチの奥に消えた少年には誰も気付かないのだろうか。


(何なんだ?)


 蜂谷和輝――。
 弱小チームをベスト4まで勝ち進めた立役者。プロ野球選手を兄に持ちながら、比べても引けを取らない程の才能に満ち溢れ、小柄ながら誰もを惹き付ける顔立ちで、それを欠片も鼻に掛けることもしない。
 全てを持つ万能人間。けれど、この扱いは一体何だ?
 学校での練習の不参加が当たり前に認められる癖に、まるで必要無いと押し退けられる。誰もに必要とされながら、誰にも必要とされていない。
 グラウンドを去った蜂谷和輝は、重い足取りでベンチに戻って来た。俯いた表情は窺えない。
 怒気を背中に滲ませる匠もまた、何も言わない。二人の間には奇妙な空気が満ちていた。

2012.3.4