人好きのする笑顔を浮かべる優男の名は、箕輪翔太という。晴海高校の二年生だ。
 既に日が落ちた周囲に灯りは一つも無い。油断すれば転んでしまいそうな急斜面の獣道を、重い荷物を載せた自転車を押して下って行くというのは一種の行を越えて罰ゲームに近いと思う。同量の荷物を載せている筈の蓮見は中々器用に、木の根を避けながら進んで行く。一歩間違えば大怪我というのに、先輩は当然のように自転車を支えることもしてはくれない。
 箕輪は醍醐の押す自転車のヘッドライトに照らされながら、練習の疲れを微塵も感じさせない踊るような軽やかな足取りで歩いて行く。中学時代も中々ハードな練習を熟して来た醍醐だったが、晴海高校の練習はそれ以上だった。少人数で監督も不在なのに、如何してあんなメニューが組めるのかと不思議でならない。
 匠にベンチへと押し込められた和輝は、日が沈む前にグラウンドを後にした。と言っても、醍醐が気付いた時にはもう何処にもいなかったのだ。何時帰ってしまったのかも解らない。


「何であの人、いないんですか」


 不満げに言った醍醐に、箕輪はからりと笑った。


「和輝? あいつは忙しいからね」


 当たり前のように言った箕輪の言葉が理解出来ずにいると、少し前から此方を睨む鋭い視線を感じた。
 匠だ。余計なことを言うなという牽制なのだろうけれど、箕輪は困ったように笑っただけだった。追求しようと醍醐が口を開くが、箕輪は荷物を抱えながらひょいひょいと慣れた足取りで坂道を下って行く。
 漸く山道から解放され、目の前にコンクリートで舗装された道が現れると涙が出そうだった。自然と足腰が鍛えられそうだと思いながら、醍醐は如何にか蓮見の隣に並んだ。
 何時もは必要以上にお喋りな蓮見も、流石に疲れたのか黙って自転車を押し続けている。無駄口を利く余裕すら無いのだろう。けれど、先を行く星原は平然と微笑すら浮かべ、親しげに匠と何か話していた。
 どいつもこいつも只者ではない。肌で感じる並々ならぬ気配に醍醐は溜息を漏らす。ぽつぽつと道を照らす橙の外灯に、晴海高校の校門が浮かんで見えた。他の部活ももう終了時刻だろう。下校時刻を一分でも過ぎれば部活停止処分だ。自然と早足になる先輩達の後を追うのに必死で、校門に寄り掛かる小さな少年に気付かなかった。


「――匠、」


 まるで、置いて行かれた子犬のように。
 声を掛けた和輝は何処か弱々しかった。匠は和輝に気付くと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。けれど、大荷物を抱えている癖に和輝の持つ鞄を引っ手繰ると、そのまま歩き出してしまう。和輝は黙ってその後を追った。
 少し後ろを歩く和輝に、醍醐は何でも無いように声を掛けた。


「あんた、何してたんすか?」


 だが、すぐに返って来たのは匠の怒鳴り声だった。


「さっさと運べよ、一年!」


 お前、俺と同じ新入生だろ。
 醍醐は心の中で悪態吐きながら、黙って歩き出した。
 総勢九名の部員には広過ぎる部室で、慌ただしく着替えている間も、和輝は外で待っているようだった。昨日の野球勝負で見た二人の関係性とはまるで違う。居心地の悪さに醍醐が不機嫌な顔をしていると、悟ったように箕輪が傍で囁いた。


「……悪ィな、あいつにとって、和輝は鬼門なんだ」
「はあ? 何なんすか、それ」
「幼馴染なんだよ」


 それでも、何処か歪な関係性だ。どちらがどちらに依存しているのか。過干渉と思うけれど、それすら口にするのを躊躇わせる何かが彼等にはあった。
 箕輪は苦笑した。


「まあ、首突っ込まない方が身の為だよ」


 彼等のプライベートになど、欠片も興味は無い。そう言い捨てようとしたところで、藤が仕度を急かした。




4.鬼門




 息子に、銀行から生活費を卸させるというのは如何なものだろう。
 無事に何事も無く過ぎ去った一週間を振り返り、醍醐は溜息を零す。漸く迎えた週末も、学校の授業は無くとも部活の練習はある。蜂谷和輝に会いたければ週末に来いと言った匠の言葉を思い出し、更に溜息が深くなる。初めて晴海高校野球部の正式な練習場に足を踏み入れたあの日以来、蜂谷和輝は部活に現れていない。
 午後からの練習の為にぎりぎりまで眠ろうと思っていたのが、母親から理不尽に押し付けられた用事の為に叩き起こされてしまった。それが自分の生活と密接に関わるものと知れば断る訳にもいかず、土曜の午前中から主婦に紛れて銀行に並ぶ醍醐環、高校一年生だ。
 穏やかな時間の流れに、瞼が下がって来る。もう一眠りしたかった。この状態で、午後の部活は持つのだろうか。
 手の中の番号札を見遣り、自分の番はまだかと大きく背伸びをする。そして、その視線の先に、見間違う筈の無い小さな少年が映った。


「ーー蜂谷、和輝?」


 フルネームで呼べば、くるりと振り返る。一般人とは掛け離れた顔立ちはテレビの中に収まっているのが似合いだとも思う。
 和輝は醍醐の姿を認めると、挨拶代わりに、嫌み無く爽やかに微笑んだ。


「お前とは妙なところで会うなぁ」
「そっちこそ」


 同じ部活の先輩の癖に、学校で会わずに土曜の銀行で会うというのはどういうことなのだ。
 和輝の手の中にある札の番号は若く、間もなく窓口に呼ばれるだろうことが解った。その視線に気付いたように、和輝は指先で番号札を摘み上げ悪戯っぽく笑った。


「土曜の午前中にやってる銀行なんて、此処くらいだもんな。早めに来たのに、随分待たされちまったよ。お陰で大目玉食らいそうだ」


 何でも無いように世間話をしようとする和輝は、極自然体だ。これだけ常人離れした容姿をしながら、どんなところにも溶け込むこの存在感は一体何なのだろう。和輝の指すあいつが誰なのかは何となく察することが出来た。
 一週間近く部活に顔も出さず、何をやっていたのかと言おうとして醍醐が口を開く。ーーその、時。


「大人しくしろォ!」


 男の怒鳴り付ける太い声が、穏やかな銀行の空気を打ち破った。途端に上がった女性の甲高い悲鳴と、人々のどよめき。
 パンーーッ!
 乾いた破裂音が響き渡ると同時に、それが銃声だと理解する。男の手に握られた黒い鉄の塊に目を奪われたまま動けない醍醐の手を、傍にいた女性が強く引いた。待合室の長椅子の陰に転がり込んだ醍醐は、赤ん坊を抱えて蹲る女性の隣で強かに打ち付けた腰を摩る。
 現実味を帯びない緊迫した状況に、切羽詰まった男と銀行員の意味不明のやりとりがただ通り過ぎて行く。


(強盗ーー)


 覆面を被った大柄の男が、二人。一人は銃を持ち、一人は苛立ったように現金を要求する。
 一斉に窓の外、シャッターが下ろされる。一分一秒がスローモーションのように酷く長く感じられた。それでも外から響くサイレンは警察車両であると判断し、醍醐は為す術無く蹲る。
 押し問答を繰り広げる銀行員は冷や汗を流しながら、強盗を宥めようと必死だった。けれど、目の前に突き付けられた拳銃に冷静になれる筈も無く、互いに言い合うことは支離滅裂だった。
 その、視界の端で。
 取り憑かれたように立ち尽くす陰が一つ。場違いな程の冷静さで、彼等のやりとりとただ見詰めている。周囲の大人が和輝の手を引いて隠れるように促すが、その細い身体は凍り付いたように動かない。


(あいつ、何やってーー!)


 怒鳴り付けたい気持ちで顔を上げ、漸く醍醐は気付いた。
 和輝が見ているのは強盗でも、銀行員でも無い。自分の隣と同様に、我が子を守るように必死で体を丸める女性。腰が抜けてしまったのか強盗の傍から逃げ出すことも出来ないでいる。
 男達の声が雑音になる中、女性が何かを必死に呟いている。


「ーーけて」


 騒然となった室内は、耳が痛い程の静寂が包みつつある。だんだんと明瞭になっていく女性の声が、醍醐にも解った。
 助けて。
 それだけを必死に繰り返す女性の懸命な祈りは、顔を覆い隠す男の声に掻き消されそうになる。苛立ったように男は、傍にいた女性の腕を掴み上げて銃口を突き付けた。だが、その瞬間、静寂を切り裂く聞き覚えのあるボーイソプラノが当然のように響いた。


「止めろ!」


 声を上げたのは和輝だった。
 現実が見えていないのか。状況が理解出来ていないのか。耳を疑うその発言に男達が一斉に振り向いた。向けられる銃口に臆すことなく、真っ直ぐに強盗の元へ向かう和輝は女性を背中に庇うように立った。


「何だ、てめぇ! 死にてぇのか!」


 助けて、助けて、助けて、助けて。
 女性の悲痛な祈りが耳に届いている。和輝は真っ直ぐに男を見据え動かない。
 そして、銃口の隣で、一方の男がナイフを取り出した。鈍く光る銀色が和輝の頬を撫でようと翳される。脅しではないそれに、和輝の顔色が一瞬にして蒼白となった。

 恐怖、ではない。

 世界がフラッシュした。振り上げられた稲妻のような右足は、男の手をナイフごと蹴り飛ばしていた。
 金属音が見当違いの場所で響く。赤黒く変色した手を摩る男の隣で、銃を持つ男が何か叫んだ。けれど、それを遮る声はまるで拡声器でも使っているのかと疑いたくなるような大きさで響き渡った。


「大の大人が、軽々しくこんなものを振り翳すんじゃない!」


 室内の全てを圧倒する迫力で、和輝が叫んだ。
 説教でもしようというのか。銃を持つ男の指が、反射的に引き金を引こうと動いた。だが、同時に室内に白い煙が満ちた。
 催涙弾ーー。目まぐるしく変化していく状況で、醍醐は口元を押さえて噎せることしか出来ない。動揺した男の一瞬の隙を突いて、和輝の右手はしかと銃を掴んでいた。
 そして、醍醐が涙に滲む目を開いた時、突入した警官隊によって事態は収拾していた。
 未だ白煙が漂う室内で、塔のように立ち尽くす和輝の頬に透明な滴が張り付いている。催涙弾の為だろう。
 安堵の息と歓声の中、和輝に無数の拍手が送られる。蹲っていた女性が漸く立ち上がり、涙を流しながら何度も何度も感謝の言葉を綴る。けれど、和輝は鼻を啜り、その場を離れようと歩き出していた。


「おいーー!」


 堪らず醍醐が呼び止めようと声を掛けるが、和輝は振り返らず早足に階段を下っていく。路上には幾つもの警察車両が並んでいた。
 野次馬とマスコミを押し退けてすいすいと人混みに消えていく小さな背中を見失うまいと、醍醐は必死だった。だが、その足は突然、動きを止めた。和輝の視線の先に、匠がいた。


「匠……」


 乱暴に袖口で顔を拭い、和輝はその名を呼んだ。
 匠は猫のような丸い目をすっと細める。


「無事で、良かったよ」


 不機嫌に細められたのではない。浮かべられた微笑みは、安堵に満ちている。
 和輝は匠の肩に額を押し付けた。


「……だ」


 掠れるような微かな声が、醍醐の耳にも届いた。


「あんなものは、嫌いだ」


 それが強盗を指しているのか、それとも理不尽に向けられた銃口を指しているのか醍醐には解らない。
 それでも絞り出すような声は何処か泣いているかのような悲痛さを滲ませている。


「嫌いだ……!」
「俺だって嫌いだよ」


 宥めるように言った匠は、醍醐に気付いても黙ったままだった。


「ーー」


 背を向けた和輝が、誰かを呼んだ。醍醐にはそれが誰のことなのか解らなかった。
 脳裏を過ぎったのは、学校中で噂になる去年の夏に起きたという傷害事件。和輝が人を殴ったとされる事件を、醍醐は何も知らない。興味も無い。けれど、それを知らぬまま素通りすることは出来なかった。

 昨年の夏、晴海高校の野球部で、世間を揺るがす程の事件が起きた。
 関係者は堅く口を閉ざし、事件の詳細は誰も知らず、根も葉もない噂ばかりが一人歩きしている。
 蜂谷和輝は、その事件の重要人物だった。
 傷害事件。
 醍醐の知らぬ何かが、野球部の奥底に横たわっている。

 立ち止まり動けない二人を置いて、醍醐は歩き出した。野球部の練習が待っている。だが、其処にあの少年の姿は無いだろうーー。



 醍醐が予想した通り、グラウンドに和輝の姿は無かった。理由を訊いても、誰も答えなかった。

2012.3.9