マイクロバスの作りは安っぽく、固い椅子は酷く座り心地が悪かった。
突き抜けるような晴天の下、晴海高校野球部は静岡北部の山中にて合宿を行うこととなった。五月の大型連休真っ直中、高速道路は目眩がする程に乗用車が連なっている。
渋滞に巻き込まれることは予想の上だったが、固い椅子に数時間座り続けるのは一種の行のように思えるのだ。イヤホンから絶えず流れ続ける流行のJ-Popは、一向に醍醐の元に睡魔を連れて来てはくれない。こんな椅子で眠っていては何処か筋を痛める気がする。先程、当たり前のように通過したサービスエリアが恋しかった。尿意を催していたなら今頃バスの中で一暴れしているくらいの暴挙だ。
前方の年長者達は沈黙を守っているーー訳ではない。殆どの部員は固い椅子など問題ではないと健やかに眠っているようで、微かに寝息が聞こえている。バスのエンジン音に消えないよく通る声が、感心してしまう程に喋り続けていた。
「ーーいや、あの子は絶対性格悪いだろ」
年頃の男子生徒相応に、話題は学年で可愛いと評判の女子生徒だった。時折挟まれる男子生徒特有の微妙に笑えない下ネタを、柳に風と受け流す返答は精錬されている。
よくも話題があるものだ。午前五時に晴海高校を出発してから四時間。二年、箕輪翔太は喋り続けている。
通路を挟んだ隣に座るのは和輝だ。表情筋が肉離れするのではないだろうかと心配になる程、笑い続けていた。
「可愛くて性格の良い女なんていねーよ」
「いいんだよ。どうせ、関わることも無いんだから。目の保養だから」
「保養にもなんねぇよ」
辛辣に返したのは、意外なことに和輝だった。箕輪が大笑いする。
「お前は顔なんて二の次だもんな」
「まあね」
「ーー顔は如何でもいいんですか?」
勇敢にも、話に入って行ったのは蓮見だった。
中腰で背凭れを越えて掛けられた声に、箕輪と和輝が振り返る。
「如何でも良い訳じゃねーんだけど」
割り込んで来た蓮見の存在を認めると、和輝は困ったように眉をハの字にした。その様子を見ていた箕輪が悪戯っぽく笑って言った。
「こいつ、脚フェチなんだよ」
「へええ」
J-Popの合間、笑い合う彼等の姿を遠くに眺めながら醍醐は一人決意した。
二泊三日のこの合宿中に、野球部の根底に横たわるものを知る。そして、蜂谷和輝が抱える何かの正体を掴んでやるーー。
5.闇の中
五月とは思えぬ強い日差しは初夏を彷彿とさせた。漸くバスから解放された醍醐は大きく背伸びをする。関節がポキポキと小気味良い音を放った。たっぷり眠った面々は、それでも眠たいのか大きな欠伸をしている。長閑な山並みと古びた木造一戸建ての合宿施設。名前ばかりの顧問教師はそうそうに仕事を抱えて自室へ籠もり、残された部員も荷物を置いて練習着に着替えた。
一年三人組は揃ってジャージだ。濃紺のジャージを羽織りながら、醍醐は和輝の姿を探した。
二年生四人は横並びで何か談笑していた。一際小さな少年が中心となり、笑顔を振り撒いているようだった。
バスを降りてまずすることは、昼食だった。それぞれが持参した弁当を広げ、自然と輪になった。和輝は胡座を掻いた上に漆黒のプラスチックの箱を置き、玩具のように白く小さい箸を握っていた。隣同士、目が合ったもの同士が言葉を交わし合う。穏やかな昼下がりだった。
昼食後の休憩を挟み、練習は開始された。広々としたグラウンドを均し、白球を追い掛ける。其処にあの少年はもういなかった。
「あの人、もういないぜ」
「和輝先輩のことか?」
バス内で打ち解けたらしい蓮見は、何時の間にか親しみを持って和輝先輩と呼んでいた。
グラウンドから響く声は活気に満ちているけれど、それまで中心となって和やかな時間を提供していただろう和輝の存在を誰もが当たり前のように消し去っているのは何故なのだろう。
醍醐は、和輝が皆と一緒に練習している姿を見たことが一度も無い。それは入部して一ヶ月が経とうとしているのに異常なことだった。
練習は日暮れまで続いた。
ナイター設備の無い山中のグラウンドは、日が落ちると漆黒に包まれた。明かりの漏れる合宿所へ、まるで足枷でも着けているかのような重い足取りで向かう途中、何時の間にか和輝は輪の中に戻っていた。
泥塗れの皆とは違い、練習着は真っ白なままだった。
古いが綺麗に掃除された大浴場で、中学生のように無邪気にはしゃぐ箕輪が、三年の千葉に叩かれていた。熱い湯船に浸かる匠の隣に和輝はいない。
マネージャーが用意したカロリー計算された夕食を空になった胃に詰め込みながら、何食わぬ顔で戻り談笑する和輝を盗み見る。昔話のような茶碗山盛りの白米を、笑顔を崩すことなく平らげる食欲は賞賛を送りたい。たっぷり扱かれた自分ですら遠慮したくなるような食事の量だ。あの小さな体の何処に詰め込んだのだろう。
夕食を平らげ、時刻は午後十時。広間で雑魚寝する為に布団を敷いたのは、当然一年三人組だ。十一時消灯を告げた藤は明かりの点いている中、早々に就寝していた。修学旅行気分で騒ぐ箕輪が羨ましいと、醍醐は思う。自分だって、あの少年がいなければ同じように何も考えずこの状況を楽しんだだろう。先輩と親睦を深め、夜ならではの卑猥な会話をする。馬鹿な男子高校生でいただろう。
和輝の布団は無人だった。
「ーーちょっと、トイレ」
誰にともなく言って醍醐は広間を出た。
夜風は冷たかった。昼間の暑さが嘘のように冷え切った外気に身震いしながら、醍醐は廊下を軋ませる。
小さな中庭を見渡す渡り廊下、醍醐は闇の中に蹲る小さな背中を見た。
「ーーあの」
当然のように声を掛けると、背中は遠目にも解る程、大きく揺れた。
振り返った面が白熱灯に照らされる。蜂谷和輝だった。
「何? 便所?」
「ええ、まあ。それより、あんたは」
「気分転換に散歩してたんだよ。明日も練習だからね」
暫しの静寂が流れた。作り出したのは醍醐だった。
訊きたいことがあった。知りたいことがあった。
「なあ、先輩。教えてくれよ」
和輝は笑顔を崩さなかった。
「去年の夏、この野球部に何があったんだ?」
空気が凍り付いたようだった。和輝は苦笑し、後頭部を掻いた。
「何れ知る時が来るよ」
「それは何時」
「さあね。ーー俺には、関係の無いことだ」
嘘だ。醍醐はそう言いたかった。だって、あんたは今もその事件に縛られているだろう。
和輝は立ち上がった。
「なあ、これ、見てみろよ」
和輝が指し示したのは、紫陽花の大きな葉の上に乗った青虫だった。
捕食者から身を守る為の保護色で、相手を威嚇する為の毒々しい模様で、死んだように動かない。和輝が蹲っていた本当の理由を理解し、意外と子どもっぽいんだな、なんて思った。
「何の幼虫ですか?」
「さあ」
こんな時間に青虫を見つけるとは思わなかった。揚羽蝶だろうか。随分大きく丸々と太った幼虫だ。
和輝が、言った。
「こいつ、蝶にはなれないんだぜ」
それは、背筋が凍り付く程に冷たい声だった。
大きな瞳はがらんどうで、昏い色をしている。和輝が何を言おうとしているのか解らず、醍醐は立ち尽くしていた。夜風によって冷えた足下の廊下が、悲鳴を上げるように軋む。
和輝は無表情だった。
「腹の中に、寄生蜂の子ども抱えてんだ。内側から幼虫を食い尽くして、最後に腹を食い破って出て来る」
現実感を帯びない冷たい声で、余りにもリアルな想像に吐き気がした。脳内で青虫の腹を食い破る蜂の姿が浮かび上がる。
丸々と太っていると感じたその表皮は、白熱灯の明暗にでこぼこと歪んでいた。
「蛹にすらなれない。仲間は羽化して、自由に空を羽ばたいているのに、こいつは青虫のまま食い破られるのを待つしかない。ーーなあ」
間もなく、青虫の腹は食い破られるのだろう。動かない置物のような青虫に語り掛ける和輝の凍えるような声と言葉を、醍醐は生涯忘れられないだろうと悟った。
「殺してやろうか」
この少年は、何を言っているのだ。
醍醐は理解不能の未知の生物に出会ってしまったように言葉を失ったままだった。数瞬遅れて、醍醐は言いようのない恐怖に襲われた。目の前の少年の底知れない闇に触れたような気がした。
和輝の手は、拳程の石を握っている。それが青虫の上、ゆっくりと振り上げられた。
その、時。
「ーー和輝」
呼ばれた名前に、和輝は動きを止めた。醍醐の後ろに、匠が立っていた。
それまでの無表情が嘘のような人懐こい笑みで、和輝は匠に言った。
「何だよ、匠。便所か?」
「……お前を、探しに来たんだ」
くすりと、和輝が笑った。
「過保護な奴」
そう言って、和輝は二人の間を擦り抜けるようにして広間に戻って行った。
醍醐の足下には、和輝の振り上げた石が転がっている。曲がり角に消えた和輝を追い掛けることもせず、匠は無表情に紫陽花を見ていた。
「あいつ、」
如何しちまったんだーー。
どもる口に醍醐は言葉を続けられなかった。匠は大きく溜息を吐いた。
「お前には、関係の無いことだ」
「関係無い筈無いだろ! 同じ野球部でーー!」
匠は冷めた目で醍醐を見た。
「お前はーー」
匠の声は乾いていた。
「お前は、あいつが完璧なヒーローだと思うのか?」
醍醐は黙った。少なくとも、世間はそう思っているだろう。
運動神経抜群で、天才で、顔も良い。誰にでも好かれる性格で、其処にいるだけで空気が明るくなる。丸腰で、たった一人で凶器を持つ銀行強盗を倒す程に強い。何の欠点も無いーー。
匠は、醍醐の返答を聞くこと無く、話題を絶つように続けた。
「……もうすぐ、消灯だ。明日は練習試合するって、キャプテンが言ってたぜ」
消灯の時間になったのだろう。明かりが一つ、また一つと消えていく。匠は和輝を追うように、闇に染まった廊下を歩き出す。
二人の姿が消え、醍醐はどっと冷や汗を掻いた。極度の緊張をしていたようで、その場にへたり込んでしまった。
和輝の、声が頭から離れない。
「ーーくそっ」
悪態吐くだけの余裕があることが、せめてもの救いだった。醍醐は床に手を突いて起き上がると、既に就寝しているだろう仲間の元へと歩き出した。
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