どちらが前かも解らぬ闇の奥底で、吹き付ける寒風に身を震わせていた。
 此処が何処なのか、和輝には解らなかった。船の上のような足下の揺れと浮遊感に込み上げる不快感は、全身を撫でる冷たい風による身震いで誤魔化した。無音の空間に和輝は周囲をぐるりと見渡す。此処が何処かなんて、馬鹿げた問いだった。
 酷い既視感に目眩がした。遠くから聞こえる少女の啜り泣きが心臓を軋ませる。
 暗闇の中で、まるでスポットライトのような白い光が少女の細い背中を照らしている。微かに震える肩と、鼓膜を揺らす嗚咽。足下に零れ落ちた無数の丸い水滴に和輝は両手を強く握り締めた。体中を駆け巡る悪寒の正体を、和輝はもう知っている。

 助けたかった。
 救いたかった。
 守りたかった。
 伸ばされたその手を、掴んであげたかった。
 零れたその涙を、拭ってあげたかった。
 独り震えるその肩を、抱き締めてあげたかった。


「ごめん……」


 振り向かない少女に近付くことも出来ないまま、和輝は絞り出すように呟いた。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。何も出来なくて、ごめんなさい。
 少女の名を呼ぼうと口を開いた和輝は、動きを止めた。ゆるりと振り向いた少女が薄く笑っている。額から顔面を赤く染めて流れ落ちる血液が、涙に代わって足下を濡らしていた。弧を描いた口元が何か言葉を吐き出している。がらんどうの瞳が、真っ直ぐ和輝を射貫いていた。身動き一つ出来ずに立ち尽くす和輝の元に、一歩一歩少女は距離を詰めていく。


「    」




 階段を踏み外したような転落感に、和輝は大きく目を見開いた。


「夢……」


 薄いカーテンの向こうから、朝日が零れ落ちていた。微かに聞こえる小鳥の囀りも、遠くに響く電車の音も平和そのものだ。和輝は額に浮かぶ汗の滴を袖口で乱暴に拭い去った。入水したかのように全身が汗で湿っている。穏やかな五月の朝だった。
 頭の中から響く鈍痛に、和輝は額を押さえた。あの子の声が鼓膜に焼き付いて離れない。
 枕元に置いていた目覚まし時計が騒ぎ出す前に止める。カーテンを開ければいつもの平和な世界が広がっていた。
 また、夏が来るーー。

 あの夢を見るのは、自分が日常に戻って来た証でもあった。
 無人になった家の施錠を確認し、朝焼けの空を眺める。新入生同様に真新しい制服は糊が効いていて動き難かった。足に馴染まないローファーで乾いたアスファルトを叩く小気味良い音が後ろから近付き、止まった。
 向こう隣の白崎家の門戸が開く音はしなかった。振り向いた和輝の瞳に映ったのは、満面の笑みを浮かべた後輩の姿だった。


「……千明」


 星原千明は、ポケットに両手を突っ込んだまま鞄を背負っていた。着崩された制服がやけに様になっていて、長い前髪をヘアピンで押さえ付ける様は如何にも今時の男子高生といったところだ。
 何の言葉も発すこと無く浮かべた笑みを崩さない一年越しの後輩に、どんな言葉を掛けたらいいのだろうか。二の句を失った和輝を見て、笑みに歪めた目を薄く開いて千明が言った。


「和輝先輩。一緒に学校行きましょう?」


 何で。
 言おうとした言葉を呑み込み、和輝は漠然と気付く。自分とこの後輩は、何の打算も無く思うままに語り合える間柄ではないのだと。
 結論に行き着くと同時に、提案を打ち砕く理想的な言い訳は無いものかと、向こう隣の白崎家に視線を泳がせる。だが、それを見透かしていた星原は和輝が言葉を放つ前に口を開いた。


「匠先輩なら、もう先に行きましたよ」


 ち、と舌打ちをする。気付いているだろう星原は飄々と「今、鳥が鳴きましたか」なんて返すものだから和輝は反論する気も失せた。
 如何してこんな日に限って先に行くのだ。幼馴染みへの不満を呑み込み、和輝は鞄を肩に掛け直して歩き出した。
 早朝の町は静かだった。ジョギングに精を出す中年男性と擦れ違い、右足に負担の掛かったフォームを冷静に分析する。メタボリック症候群が改善するのが先か、膝を壊すのが先か良い勝負だ。隣に並んだ後輩から意識を反らしているというのに、当の本人は気にする素振りも無く食えない笑みを浮かべていた。


「ねえ、和輝先輩」
「何だよ」
「その腕、如何したんですか?」


 人に訊かれたくないことを、よくも平然と口に出来るものだ。神経が太いのか、存在しないのか。
 和輝は朝焼けに目を向けて答えた。


「怪我したんだよ。知ってるだろ」


 合宿時の練習試合中に、自分のいない場所でその話題がキャプテンである藤直々に話したということを聞いたのはその帰りのバスでのことだった。何時までも隠しておける訳ではないし、隠す理由も無い。けれど、自分のいない場所で自分の話題が出るというのはむず痒いものがある。
 和輝の答えに満足した筈の無い星原は、その笑みを崩さぬまま問い掛けた。


「如何して怪我したんですか?」
「それをお前に言う必要があるか?」


 吐き捨てた和輝は、そっぽを向く振りをして星原の横顔を盗み見た。崩れない笑みと、微かに開かれた目に映る冷たい光。


「隠す理由は?」
「……お前、何なの?」


 余計な詮索をするなと、暗に言えば星原はそれまでと明らかに異なる軽薄な笑みを浮かべた。
 中学時代のシニアリーグからの後輩だったが、どうもこの少年は苦手だ。子犬のように尻尾を振って後を追って来るようで、此方の隙を伺う暗殺者のようで、暖かな春の日差しのようで、触れるものを皆傷付ける刃の切っ先のようで。
 干渉されたくない。詮索しないで欲しい。俺のことは放って置いてくれ。中学以来の再会に喜んだのも束の間、鬱陶しげに目を反らせば星原が言った。


「あなたは俺のヒーローなんだ」


 その単語に、和輝は心臓が軋むような痛みを覚えた。
 星原はその心境の機微すら見落とさず、笑いながら続けた。


「完璧で完全で、万能で優秀で、どんな人も救える正義の味方なんだ。和輝先輩に不可能なんて無いでしょ?」


 殆ど否定を許さぬような強い口調で、星原は言った。その一種の崇拝にも似た絶対視を恐ろしいと思うのは、自分が小さい人間であるということだけではないだろう。
 何故、そう思うのだ。まるで小さな子どもがテレビの中の特撮ヒーローに憧れるような強い希望を、如何して自分に当たり前のように向けるのだろう。和輝には解らなかった。自分の弱さも小ささも、不完全さも未熟さも痛い程に知っている。だから、強くなりたいと思う。救えなかったものがあるから、救いたいと思う。違うだろうか?


「お前は勘違いしてるよ」


 妄信的に自分に憧れる後輩を前に、和輝ははっきりと言った。


「俺は完璧な人間じゃない。出来ることもあれば、出来ないこともある。救える人もいれば、救えなかった人だって、いたさ」


 過去形に締められた言葉の意味など、星原程の読解力があれば考えるまでも無いだろう。
 そう言って歩き出した和輝の背中に、星原の視線が突き刺さる。心臓が軋む。
 町の微かな喧噪が遠ざかる。川沿いの大通りは職場へ向かう乗用車が絶えること無く流れ続けていた。信号に点る血の色に足を止め、和輝は溜息を一つ零した。最低の気分だった。
 後ろから追い付く気配がある。星原の言葉を予測する余力など和輝には無かった。下らない詮索なら無視しよう。和輝がそう決めた時、追い付いた星原は、横を擦り抜けていたーー。


「千明ッ!」


 乗用車の流れに突っ込む背中に迷いは無い。心臓が凍り付く。
 和輝の右手は反射的に星原の腕を掴んでいた。急ブレーキの甲高い悲鳴が木霊する。横断歩道上に停止した乗用車の運転席では、ハンドルを握ったまま凍り付くスーツ姿の男性が目をまん丸に見開いていた。
 急停止した乗用車が次々に停止する。辺りは一次騒然となった。
 一斉に溢れる野次雑言に和輝は必死で頭を下げながら、感情のままに星原の胸倉を掴んでいた。


「お前、死にたいのか!」


 息荒く叫んだ和輝に、星原は薄く笑っただけだった。


「ほら、和輝先輩はヒーローだったでしょう?」


 得意げな星原に、和輝は言葉を失っていた。




7.英雄崇拝<前編>




 まだ心臓が痛い。
 今朝の自殺未遂を止めて以来、和輝の心臓は不整脈を疑う程に激しく脈打っていた。中学時代の星原はあんな無茶をするような少年ではなかった、と思う。殆ど希望的観測だ。過去の星原を思い出そうとして、和輝は痛みに呻いた。心臓ではない。右肩から腕に掛けて、燃えるように熱い。
 一日の授業を終え、蚯蚓ののたくったような文字の躍るノートを鞄に押し込む。和輝は痛みを押さえ込むように右手を握った。


「痛むのか?」


 後ろの席から、匠の声が掛かった。和輝は苦笑いを返す。匠を相手にするのでは、どんな嘘も誤魔化しも無意味だ。それだけ長い付き合いだと思う。


「少し。アイシングしてから、部活行くよ」
「解った」


 ひらひらと背中で手を振り、和輝は教室を出た。
 放課後の廊下は部活へ向かう生徒でごった返している。晴海高校は部活への所属が原則だ。運動部に入る生徒は各地で抜群の運動神経で腕を鳴らした猛者ばかりで、そうではないものは文化部で幽霊部員と化している。和輝は左肩に乗せた鞄を背負い直し、氷を分けてもらうべく保健室へと歩き出した。
 あの夏以来、保健室の常連だ。女子生徒が多く訪れる保健室に入るのはいつも気が滅入る。なるべく授業終了間も無い騒がしい時間に訪れて用事を済ますようにしている。
 二年生の教室のある三階から階段を下り、職員室に並ぶ一階の保健室を目指す。駆け足に行く和輝の隣を、真新しい制服に身を包んだ少女が駆け抜けた。ーーと、その時。
 少女の足がぐらりと揺れた。


「あーー」


 少女の口が開かれる。抱えられた無数のプリントが宙に舞う。スローモーションのように流れる景色の中で、和輝の右手だけが異常な程に迅速だった。
 反射的に少女の腕を掴んだ瞬間、和輝の体もまたぐらりと揺れる。足の踏ん張りが利かない。
 左手で手摺りを掴み、少女を支えた和輝の体は奇妙な体制で止まった。
 びしりと、骨が軋む。和輝は口元を歪めた。
 A4サイズのプリントが落下していく。和輝は少女を引き寄せた。


「……大丈夫?」


 脂汗を滲ませる自分に心配などされたくないだろう。そう思いながら、社交辞令のように和輝は言った。
 少女の顔が蒼白から赤く変化する。


「あ、ありがとうございます!」


 駆け下りてプリントを集め出す少女の背中を見ながら和輝は息を逃がす。右肩が、燃えている。
 踏ん張った足下を見遣れば、其処は不自然な程に滑っていた。転倒を防止する筈の鉄製の滑り止めに触れると、酷い滑りと共に覚えのある臭いがした。


(油……?)


 それが如何してこんなところに?
 和輝が疑問を覚えると同時に、前方から見覚えのある、出来れば当分の間見たくなかった少年が偶然のようにやって来た。油の染みたプリントを親切を装って拾うその横顔に、腹立たしい程に軽薄な笑みが浮かんでいる。


(あ、あいつ……!)


 疑う余地も無かった。
 少女にプリントを手渡し、早足に去っていく後ろ姿に暢気に手を振る星原を睨む。星原は嬉しそうに言った。


「ほら、和輝先輩はヒーローだったでしょ?」


 最早、それが何だというのだ。和輝は憤りを越えて心底呆れた。
 下手をすれば死んでいた。生命の危機というリスクを背負ってまで証明する価値のある内容だとは到底思えない。


「お前、いい加減にしろよ」


 鞄を投げ捨て、和輝は星原の胸倉を掴んだ。身長差故に自然と見上げる形になり、迫力は微塵も無い。それでも和輝は言わずにはいられなかった。


「やって良いことと、悪いことがあるだろ! お前の勝手な事情に、人を巻き込むんじゃねぇ!」


 其処で、星原から笑みが消えた。


「人を巻き込まなかったら、いいんですか?」


 浮かべられた笑みは酷く冷たかった。その冷たさに和輝が言葉を失うと、背後から一つの気配が迫った。


「お前、まだこんなとこいたの?」


 此方の状況など知る由も無い匠が、のんびりと言った。
 和輝の前に星原がいることに気付くと、匠は人懐こく笑った。


「よお、千明。お前までこんなとこで何してんの?」
「偶々通り掛かっただけですよ」


 自分をそっちのけで親しげに話す二人に、和輝は混乱する頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。
 偶々、だって? 何処が。もしも自分が此処を通らなかったら、あの子は転落していた。通り掛かっても届かなかったら、死んでいたかも知れない。この後輩は、それが解っているのか。
 星原は匠と二言三言交わすと去って言った。部活開始まで時間が無い。
 大きな溜息を零した和輝に、匠は笑いながら言った。


「お前等、今朝は久々に話せたか?」
「何のことだ?」
「千明が、久々にお前と話したいって言うから、俺は先に学校来たんだぜ?」


 今度こそ、和輝は舌打ちをした。初めから全て星原の掌の上だったという訳か。
 それは酷く、不愉快だ。
 今朝のことから、今さっきのことまでの不満が胸の中で渦巻く。愚痴を零そうと口を開いた和輝に、匠は少し困ったような笑みを浮かべて言った。


「俺はちょっと、安心したんだぜ?」


 何が。
 そう言おうとする和輝の声はチャイムに掻き消された。鳴り響く物寂しげなメロディの中、はっきりと匠が言う。


「昔のお前を知っている奴が、昔のように慕ってくれてるんだ。星原は良い奴だし、それでお前が楽になれるなら一番だ」


 心底嬉しそうに、安堵の息を零す匠。和輝は愕然と思った。
 言えないーー。
 隠し事が出来ない相手だと解っていても、和輝は言えなかった。匠には今まで随分と心配を掛けた。星原への信頼を叩き壊す権利など、自分には無い。


「……そう、だな」


 歯切れ悪く言った和輝の頭を撫で、匠は笑った。
 和輝は油で滑る上履きで廊下を踏み締めた。周囲の温度が急激に下がったような気がする。
 ただ、右腕だけが燃えるように熱かった。

2012.3.20