| ーー俺は時々、お前が本当のヒーローなんじゃないかって思うんだぜ
 
 懐かしい声がした。忘れたくても忘れられない、忘れてはいけない大切な思い出だった。
 どちらが前かも解らない闇の中で、当たり前のように自分を明日へと導いてくれる灯台だった。
 
 
 ーーだからさ、お前はお前に伸ばされる手を一つだって見逃しちゃいけないぜ
 
 
 解ってます。俺は、ヒーローになります。
 俺はもうこれ以上、何も失いたくないんですよ。
 
 
 
 
 7.英雄崇拝<中編>
 
 
 
 
  体中が重かった。それは単純にリハビリやトレーニングによる肉体的疲労ではなかった。あの日以来、毎朝自分を出迎える後輩は、時々悪魔なのではないかと思うのだ。もしくは疫病神だ。トラブルメーカーなんて可愛らしい言葉では片付けられない程の悪知恵と思い切りの良さで、和輝は毎日予想不能の生命の危機を感じさせるトラブルに巻き込まれ続けている。
 偶然か故意か紙一重で、ヤクザ集団に大きめの石を蹴ったこともあった。階段の上から机が降って来たこともあった。他人を巻き込まぬぎりぎりのトラブルはどう考えても故意に起こしているとしか思えなかったけれど、和輝はそれを止める術を持たなかった。ただその場凌ぎに誤魔化して逃げ出し回避して来ただけだ。最早何時出来たのか解らない程、皮膚は青痣だらけだった。木登りが趣味だった小学生の頃だって、こんなに汚らしい痣ばかり作ることは無かった。
 右の肩から腕に掛けて、燃えるように熱い。アイシングが最早意味を成していないように思う。
 
 
 「お前、痩せた?」
 
 
 教室で顔を合わせた匠が、暢気に言った。和輝は苦笑いするだけだ。
 
 
 「そうか? お前が太ったから、そう見えるんじゃない?」
 「太ってねーよ!」
 
 
 他愛のないやりとりの有り難みが身に染みる。表面を取り繕うことも必要なく、ただ自然体でいることを望まれている。
 匠がいて良かったと思う反面で、星原のあの度を超えた悪戯が周囲に火の粉をまき散らすのは何時かと冷や冷やする毎日だった。
 このくらい、可愛いものだ。後輩の可愛い悪戯だ。ただ、古傷が燃え上がるように熱いだけだ。
 
 
 「おーい、和輝」
 
 
 教室の入り口で、夏川が呼んだ。
 野球部の二年生、隣のクラスの夏川啓。無表情で冷静そうだが、相当気が短い。和輝は軽く手を挙げて応えた。
 
 
 「よう、夏川」
 
 
 和輝の姿を確認すると、夏川は大股で教室を突っ切って来た。180cmの長身は流石に圧巻というか、恐竜のようだと和輝は思った。
 
 
 「借りてたCD、返すぜ」
 「ああ。別に部活の時でいいのに」
 「部活だって、お前に何時会えるか解んねぇだろ」
 
 
 嫌味で言ったのではない。否、嫌味だったのだろうか。紙一重だ。
 和輝は受け取ったCDを鞄に押し込んだ。同時に捲れたシャツの袖の下、夏川は眉間に皺を寄せる。
 
 
 「お前、何その怪我」
 「あー、最近、ついてなくてさ」
 
 
 星原の起こすトラブルが原因だとは、匠の前では口が裂けても言えなかった。
 これまで苦労を掛けっぱなしの幼馴染みが漸く安心して日々を送っているのだ。それを壊すことなど出来る筈も無い。
 
 
 「今日は部活来るのか?」
 「いや、今日は病院に行くよ」
 「お前のことで? それとも、『高槻先輩』のことで?」
 
 
 和輝は苦笑した。夏川は頭が良く鋭いけれど、比べて自分は歪み切っている。正面切って投げられた問いを、正直に答える訳が無い。
 曖昧に笑う和輝に、夏川は溜息を零す。
 
 
 「今度、俺も行くよ。俺もあの人に会いたいしな」
 
 
 そう言って夏川は背中を向けた。真っ直ぐ教室を出て行こうとする背中が、ぴたりと動きを止める。
 視線の先に、星原がいた。
 
 
 「和輝先輩!」
 
 
 和輝は溜息を零す。出来ることなら、極力会いたくない人物だ。
 
 
 「今度は何だってんだよ……」
 
 
 重い腰を上げて星原の元へ向かう和輝を見遣り、夏川は匠の元へ戻った。
 携帯を眺めていた匠は顔を上げる。
 
 
 「何か用か?」
 「いや、大した用じゃねぇけど、あいつ」
 
 
 夏川の視線の先に気付き、匠は笑った。
 
 
 「ああ、千明か? 中学からの後輩なんだよ。随分と和輝に懐いてるよな」
 「懐いてる? あれが?」
 
 
 夏川に表情は無かった。
 
 
 「何だか、胡散臭い野郎だな」
 「千明は良い奴だよ」
 
 
 すぐにそう切り返した匠に迷いは無い。夏川はやれやれと溜息を吐いた。
 
 
 「懐き過ぎだろ。四六時中一緒じゃねぇか」
 「今に始まったことじゃねぇよ。昔から、あいつは和輝の後を追い掛けてた」
 
 
 そう言ってから、匠はふと思った。
 星原が、和輝に執着するようになったのは何時からだっただろう?
 匠は考え込もうとしたその瞬間、女子生徒の悲鳴が響き渡った。反射的に目を向けた先で、割れた扉の硝子が奇妙な山脈を描いている。砕けた破片が教室に散らばり、クラスメイトは一次騒然となった。その騒ぎの中心で、幼馴染みの小さな背中が蹲っている。
 
 
 「和輝!」
 
 
 机を飛び越えて駆け付けた先で、和輝は腕を押さえてしゃがみ込んでいた。
 ぽたり、ぽたり。赤い血液が廊下に丸い染みを作る。何時かの惨劇が匠の脳内に浮かび上がり、悲鳴が喉の奥に張り付いた。
 
 
 「痛〜」
 
 
 傷口を押さえながら、和輝が呟く。出血の割に傷は深く無いようだった。
 ほっと胸を撫で下ろしながら、既に慣れた止血を手際よく施していく。和輝は苦笑混じりに立ち上がった。
 
 
 「ちょっと保健室行って来る。悪ィんだけど、此処、片付けておいてくれないか?」
 「ああ……、それは構わないけど」
 
 
 俺も行く、と付き添おうとした匠を制したのは星原だった。
 
 
 「俺が行きますよ」
 「千明……」
 
 
 星原が言うなら、と食い下がろうとする匠の横に立ち、夏川が唸るように言った。
 
 
 「俺が行くよ。一年は教室に帰れ」
 「酷いなぁ、夏川先輩」
 
 
 星原を無視して夏川は歩き出す。和輝は振り返らなかった。
 教室では匠が中心となって硝子の片付けを始めていた。賑わう廊下の人混みを擦り抜けて、和輝は一つ溜息を吐いた。
 
 
 「悪いな、夏川」
 「謝ってんじゃねぇよ。お前に何か非があったのか?」
 「いや、思い当たることは無いけど」
 
 
 じゃあ、謝るな。
 夏川はそう言って先を歩く。和輝は笑った。
 
 
 「夏川って実は優しいよな」
 「余計なお世話だよ。それより、あいつ何なんだ?
 
 
 それが誰を指しているのかすぐに解り、和輝は苦笑いを浮かべる。
 
 
 「俺の中学の後輩。まあ、何でかすげー懐いてくれてる」
 「それだけじゃねーだろ。あいつ、何処で聞いたのか『高槻先輩』のこと嗅ぎ回ってるみたいだぜ」
 
 
 その単語に、和輝は表情を固くした。だが、すぐにいつもの人懐っこい笑みに戻った。
 
 
 「大丈夫だよ、夏川。俺はもう、二度と間違えたりしない」
 「……お前、馬鹿じゃねーの」
 
 
 夏川は呆れたように言った。
 
 
 「少なくとも一年前のあの事件で、俺達はお前が間違ったことをしただなんて一度たりとも思ったことはねーよ」
 「夏川、」
 「過去に戻れる訳でも無ェ。あの時、ああすればこうすればなんて言っても仕方が無いだろう。起こっちまったもんはもう消せねェ」
 「そんなこと、解ってる!」
 「解ってねぇから、言ってるんだろ!」
 
 
 久しぶりに聞く夏川の怒声に和輝は肩を跳ねさせた。
 思わず黙った和輝を睨みながら、夏川は唸るような低い声を出す。
 
 
 「間違えたくないだなんて、神様にでもなるつもりかよ」
 
 
 嘲笑うように口角を釣り上げ、夏川が嗤う。
 
 
 「迷うことや間違うことが許されない訳じゃねーよ。解ってんだろ、幾らお前が骨砕こうが救えるもんもあれば、救えないものもある」
 
 
 解ってるさ、痛い程に、泣き出したい程に。
 俯いたまま、和輝は拳を握った。右肩の痛みが現実味を帯びず陽炎のように揺れている。
 心臓を軋ませるものが何なのか、解っていた。後悔、罪悪感、絶望、虚無。自分の無力さは知っている。でも、其処で諦めることが出来たならこんなに苦しんだりしなかった。
 
 
 「それでも、俺は約束したから」
 
 
 二度と目を覚まさない彼に、誓ったから。最初で最後の約束を交わしたから。
 それだけが自分の誇りだから。
 
 
 「何を言ってるんですか」
 
 
 突然掛けられた声に振り返ると、薄ら寒い笑みを浮かべた星原が立っていた。
 和輝がその名を呼び掛けるよりも早く、星原は言った。
 
 
 「この人は本物のヒーローなんです」
 「千明……」
 「和輝先輩はいつも正しい。間違わない。そうでしょう?」
 
 
 この少年は何を言っているのだろう。よもや、それを本気で信じているのだろうか。
 和輝は怪訝に眉を顰めながら星原は見る。その目は疑いようも無い程に真剣で、純粋だった。
 
 
 「間違わない人間なんているかよ」
 
 
 夏川の言葉に、星原はすっと目を細めた。
 
 
 「います。俺が、証明しますよ」
 
 
 にこりと微笑んだその少年に、和輝は寒気を覚えた。
 中学からの後輩で、優しくて純粋で、要領が良くて格好良くて、盲目的に自分を信じ崇拝している。
 踵を返して歩き出した星原の背中を見詰めながら、和輝は中学時代に遭遇した血の惨劇を思い出した。あれが純粋な星原を変え、自分達の関係を歪めたのだ。
 声を掛けることも出来ないまま、和輝は小さくなっていく星原の背中を見詰めている。
 視界が赤く滲んでいることに、和輝は気付かなかった。
 
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