和輝が倒れたと聞いて、全身の血が冷えていくのが解った。
 部活に顔を出していきなり、何でも無い顔でそう言った箕輪の横を擦り抜けて向かった保健室の前、匠はよく知った顔の少年が扉に寄り掛かって俯いているのを見た。電灯の落とされた室内で何が起こっているのか匠には解らない。頭の中にフラッシュバックする、血溜まりに沈む幼馴染みの姿が匠の心臓を軋ませた。
 星原は匠の姿を見ると、けろりと笑ってみせた。


「和輝先輩、寝不足みたいですよ」
「寝、不足……」


 匠は、大きく息を吐き出すと共にその場にへたり込んだ。
 自分の悪い予感が当たったのではないと解ると同時に、倒れる程の寝不足に気付けなかった自分の無力さを悔しく思った。弱音も泣き言も絶対に吐こうとしない幼馴染みの弱さに気付かなければいけなかった。それが匠にとっての存在意義だった。
 扉を開けようとする匠に、慌てたように星原が声を掛ける。


「匠先輩、和輝先輩は今はまだ寝てますよ」
「……そうか」


 寝不足で倒れた人間をわざわざ起こす必要も無い。
 保健室なら養護教諭もいるだろう。匠は伸ばした手を引っ込めた。


「もう部活が始まりますし、行きましょう?」


 そうだな、と返事をして匠は歩き出した。部活が終わったら迎えに行こう。そして、寝不足の理由を問い詰めよう。どんな嘘も看破して、本音を暴き出してやろう。その場凌ぎの言い訳など通用する相手とは和輝も思っていない筈だ。それでも、隠し続けた訳を訊かなくてはならない。
 歩き出した匠の横に、星原は何時まで経っても追い着いて来ない。先に行ったのだろうか、それとも何か用事があるのだろうか。
 部室前に着いても現れない星原に不審を感じつつ、匠は扉を押し開けた。既に着替えた面々がグラウンドへ向かうべく忙しなく仕度をしている。匠の存在を認めると、箕輪が声を掛けた。


「和輝、大丈夫だった?」
「ああ。寝不足らしいぜ」


 そう言って着替え始めた匠の隣、夏川は普段の仏頂面を崩さずに言った。


「あいつも来てないぜ」


 それが誰を指しているのか悟り、匠は苦笑した。


「保健室前で会ったんだけどな、はぐれちまった。その内来るさ」
「ふうん。サボりじゃないだろうな」
「そういう奴じゃねえよ」


 はっきりと言ったその言葉には、匠の星原に対する信頼が滲んでいた。夏川は目を細める。


「随分、あいつのこと信頼してるよな」
「まあ、長い付き合いだからな。それにあいつは、和輝のことが大好きだから」


 苦笑混じりの匠に、夏川は問い掛ける。


「何で?」
「あいつ、和輝に心底憧れてんだよ」


 早々に着替えた匠は、体育会系の縦社会に従って先に部室を出て行った一年に続き、扉に手を掛けた。
 星原が和輝に憧れる理由。それは大半の人間と同じだと思った。チビで頭は悪いが、完璧なルックスと抜群の運動神経。誰にでも分け隔て無く公平に接し、自らの才能に溺れることなく当たり前のように努力を続ける。人間が嫉妬という感情を持たなければ、和輝はきっと世界中全ての人間に好かれるだろう存在だと思っていた。
 けれど。
 匠はふと足を止め、思い出す。星原が和輝に憧れる理由は、それだけではなかった。




 無人の保健室は明かりが消され、独特の薬臭さが充満している。制服のまま眠るものではない。寝心地の悪さに和輝は漸く目を覚ました。最後に見た黄色い太陽は既に血溜まりのように染まり、瀕死の状態だ。
 寝ぼけ眼を擦りながら、自分の記憶を探った。自分が何故、保健室のベッドにいるのだろう。確か夏川と歩いていて。


(ああ、そうか)


 倒れたんだ。
 思い出して和輝は溜息を零す。ここ数日、星原の訳の解らない行動によって疲れてはいた。予想すら出来ない星原の引き起こすトラブルによって心身共に限界だったのだ。右腕の故障が悪化する程度には、体を酷使していた。
 僅かに熱を帯びた腕はタオルにくるまれた氷嚢によって冷やされている。壁に掛かった時計は部活の開始を知らせていた。否、既に中盤だろう。眠ってしまっていたことへの後悔と罪悪感、無力さを痛感した。
 その時、ポケットの中で何かが震えた。随分と久しい感覚に和輝は眉を寄せる。
 伸ばした手が掴んだのは掌サイズの黒い携帯電話だった。見覚えの無いその機械が誰の物かなど解らない。少なくとも、自分のものでないことだけは確かだった。
 携帯電話は着信を告げている。相手の名前に、嫌な予感がした。


「ーー何の真似だよ、千明」


 ディスプレイに表示された名を呼べば、電話の向こうで笑う声がした。また、あの薄ら寒い笑みを浮かべているのだろうか。


『随分、疲れていたみたいですね。寝過ぎは寿命が縮みますよ』
「誰のせいだ」


 また、笑う声がする。愛想笑いが出来る程、今の自分に余裕は無かった。和輝はベッドから降り立ち、崩れた制服を整えた。


「大体、今は練習中だろ。電話なんかしてんじゃねぇよ」
『いいえ、練習は休みました。大事な用があったから』
「訊いてみたいもんだよ、その大事な用とやらを」


 どうせ、碌な用事ではないだろう。自分への度を超えた悪戯の準備か。そう思うと幾らか回復した筈の体が重く感じた。
 けれど、星原の言葉は凝り固まった思考を停止させるものだった。


『阪野大学中央病院にいます。ちなみに、602号室の中です』


 呼吸が止まるかと、思った。
 何故、星原が其処にいる。何故、その場所を知っている。嫌な予感が的中することを悟り、和輝は養護教諭の制止も無視して走り出した。
 グラウンドではやはり、それぞれの部活が活気に満ちた声を上げ練習に勤しんでいる。野球部は今頃、裏山のグラウンドだろうか。星原が其処にいればと願わずにはいられない。どうか、星原の言葉が嘘であって欲しい。
 だが、星原が否定の言葉を紡がないことなど解り切っていた。


『高槻智也さん。和輝先輩にとって、何か重要な意味のある人みたいですね』
「知らないね、そんな人。いいから、さっさと練習に来い」
『そんな嘘は通用しませんよ。この人は、去年の事件の関係者。野球部のOB、元キャプテンだ』


 そのくらい、少し調べれば解ることだ。それでも箝口令の敷かれている彼の居場所を、どうして星原が知っているのか解らない。調べた方法よりも、理由が重要だった。


『前に、和輝先輩、言いましたね。自分にも救えないものがあるって』


 星原の声は凍り付くように冷たい。冷や汗が頬を伝った。


『そんなの許されないんですよ。和輝先輩は本物のヒーローなんだから。こんな汚点は、俺が消し去ってあげますよ』
「やめろ!」


 周囲の目も憚らず、和輝は叫んだ。通行人が怪訝な目を向ける。けれど、携帯電話が軋む程に強く握り締め、和輝は叫んだ。


「その人に手を出すな! お前でも、許さねぇ!」


 昨年の事件で、植物状態となった高槻は今、機械の力によって呼吸をしている。今の高槻には自力で呼吸することすら不可能なのだ。
 電話の向こうで、星原が嗤った。酷く軽薄な笑い声だった。


『じゃあ、今から二十分以内に此処に来て下さい。一秒でも遅れたら、この呼吸器を止めます』
「ふざけんな!」


 学校から病院まで走っても二十分以上かかる。和輝は一秒でも長く時間を稼ぐ為に言葉を探した。


「俺に恨みでもあるのか? なら、直接俺にやれよ!」
『恨みなんてありません。感謝はあっても、和輝先輩を憎むことはあり得ませんよ』


 腕時計を確認する。現在、午後五時二分。二十分後、高槻が死ぬーー。
 心臓が凍り付く。緊張に手足が痺れる。脳が錆び付き、碌な言葉が浮かばない。


『俺はただ、あなたにヒーローでいて欲しいだけだ』


 それは酷く純粋で、歪んだ言葉だった。和輝はその重みを噛み締める。
 言いたいことだけを吐き出して通話を終えた星原に、電話を掛け直す時間など無かった。和輝は携帯をポケットに押し込んで走り出した。




7.英雄崇拝<後編>




 心臓が痛かった。慣れないローファーで擦れた傷が痛かった。幾度と無く振った腕が痛かった。だけど、本当に痛かったのはそんなものではないと解っていた。
 五時十五分。通い慣れた病院前の急激な坂道を、棒のようになった足を引き摺って行く。あと五分で高槻の病室まで辿り着けって? そんなの無理だ。解っていた。でも、諦めることだけはどうしても出来なかった。
 高槻の声が頭の中に焼き付いている。星原の笑顔が網膜に焼き付いている。忘れることなんて出来ない。


「高槻先輩……!」


 足に滲んだ血液が零れ落ちた。夕日は沈もうとしている。
 間に合わない。ーー高槻が、死ぬ。


「高槻先輩……!」


 頬を伝った滴は汗か涙か、最早和輝にも解らない。
 足が重い。でも、止まる訳にはいかない。あの人は、自分にとってただ一つの光だから。ただ一つの希望だから。ただ一つの灯台だから。
 どうしてこの足はもっと速く走れない。どうしてこの手は大切なものを掴めない。どうしてこの声は、届かないのだ。
 五時十六分。


「ーーふっ」


 漏れた嗚咽を噛み殺そうと、奥歯を噛み締めた。
 ずっと、ヒーローになりたかった。大切なものを守りたかった。強くなりたかった。もう二度と誰も傷付けたくなかった。


「ーーあんた、何やってんですか」


 突然、頭上から降って来た声に和輝は顔を上げた。
 夕日を背中にした少年が、呆れ顔で此方を見ている。どうしてこんなところにいるんだとか、そんなことを訊く余裕は和輝無かった。
 醍醐は、既に満身創痍の和輝を見て眉を寄せる。


「倒れたって訊きましたけど、もう大丈夫なんですか?」


 醍醐の問いには答えない。和輝の目は、醍醐の押す自転車に向いていた。
 この坂を越えれば、病院までは急激な坂を駆け下りるだけだ。


「醍醐、その自転車貸してくれ!」


 引ったくるようにしてハンドルを握るが、右手は既に感覚が無かった。痛みに顔を顰めた和輝を見て、醍醐はハンドルを奪い返す。


「乗れよ。俺が漕いでやる」


 和輝は目を丸くした。


「何があったか知ねえけど、病院に行きたいんだろ?」


 サドルに跨った醍醐は平然として言った。和輝はそれまでの疲労を一瞬忘れ、笑みを零した。


「ーー恩に着る!」


 和輝が乗った瞬間、自転車は弾丸のように飛び出した。ブレーキを掴むことすら躊躇するような坂道の加速に、舌を噛まぬように口を閉ざすのが精一杯だった。僅かな操作の乱れが大事故になる。
 自転車は風のように病院に突っ込んだ。通行人が恐怖と驚愕に道を空け、目の前には無人の帯が出来ていた。
 茂みに突っ込んだ自転車から一瞬早く飛び降りた和輝はエレベータへ向かった。だが、どのエレベータも来ない。舌打ち混じりに階段を駆け上る後ろを醍醐が追い掛けた。
 五時十九分。
 六階の廊下は死んだようにひっそりと静まり返っている。602号室、高槻智也。和輝は扉を蹴り開けた。


「高槻先輩!」


 和輝の声は、病室に虚しく響いた。
 開け放された窓に、白いカーテンが風を孕んで揺れる。規則正しく響く電子音は、ベッドで横たわる少年が生きている証だった。固く閉ざされた瞼は開くことは無いけれど、和輝はその相貌を見て崩れるように座り込んだ。
 生きているーー。
 時刻は午後五時二十分、丁度。醍醐がしゃがみ込んで様子を伺うのも構わず、和輝は零れ落ちた滴を拭い去ることに必死だった。


「この人、誰なんですか?」


 和輝は答えなかった。まるで此方を見ていたかのように、ポケットの中の携帯が震えた。
 着信、星原千明。和輝は携帯を耳に押し当てた。


『間に合いましたね』
「……お前、今何処にいる」
『あの坂をブレーキ無しで駆け下りるなんて自殺行為ですよ。無茶するなァ』
「ーーいいから答えろ!」


 電話ということも忘れて和輝は叫んだ。病室が声に振動していた。電話越しの星原は気にすることも無く、飄々と答えた。


『少し考えれば解るでしょ。あんた等がみっともなく此処に滑り込むことが見えて、間に合わなかった時に高槻さんを殺しに行ける場所』


 和輝は顔を上げた。弾かれたように病室を飛び出した和輝を、殆ど反射的に醍醐は追い掛けた。
 小さな背中はそれまでの疲労など無かったかのように屋上への階段を駆け上っていく。その小さな体の何処にこれ程の力があるのか醍醐には解らなかった。重い鉄の扉を開くと、冷たい夜風が突風のように押し寄せた。
 銀色の欄干に凭れ掛かる少年が一人。沈もうとする夕日の断末魔が聞こえるような空を背中に、星原は嗤っている。


「汚い格好ですね」


 状況の読めない醍醐は瞠目するばかりだ。二人の顔を見比べ、困惑する。和輝は何も答えないけれど、その無表情には隠し切れない怒りが陽炎のように滲み出ていた。
 星原は手にしていた携帯を閉じた。


「あんたにはほとほとがっかりさせられましたよ」


 和輝は何も言わない。


「あんたはヒーローなんかじゃない」


 そう言った瞬間、星原の軽薄な笑みが消えた。その双眸に映るのは殺意にも似た怒気だった。掴み所のない星原がこんなに感情を露わにするのを初めて見たと、醍醐は思う。それでも和輝は何も言わなかった。


「こんな世界に、もう価値なんてない」


 星原の手から、携帯が零れ落ちた。醍醐が声を発する間も無くシルバーボディは夕日を反射しながら視界より消え失せた。
 欄干の向こうに落ちた携帯に意識を奪われたその刹那、星原の体がぐらりと揺れた。


「ほ、」


 風に吹かれたかのように欄干の向こう側に浮かぶ星原は、笑っている。それが携帯を追い掛けるように、視界から消え失せる。
 その名を呼ぶ声など届かない。駆け寄ろうと足を踏み出した醍醐の頬を、一陣の風が撫でた。


「ーー!」


 声にならない悲鳴が、風の中で確かに聞こえた。一瞬で欄干を乗り越えた小さな背中は、視界から消え失せた星原の腕を確かに捕まえていた。
 容赦なく風が吹き付ける。既に感覚の無い右腕で、汗の滲む掌で、和輝の手は確実に星原の腕を掴んでいる。


「馬鹿、野郎!」


 左手は二人分の体重を支えて軋んでいた。宙ぶらりんのまま、和輝は奥歯を噛み締めて両手に力を込める。
 星原の頬に、透明な滴が零れ落ちた。


「俺が、ヒーローじゃない、だって?」


 絞り出すような掠れ声で、和輝は言った。


「そんなこと、お前に言われるまでも無いんだよ」


 だから、願うのだ。祈るのだ。叫ぶのだ。強くなりたいと思うのだ。
 今にも離れそうな左腕を、醍醐が掴んだ。渾身の力を込めて引き上げられる中、星原は奇妙なものを見る目で二人を見ていた。和輝の手は離されることも揺らぐことも無い。
 屋上へと戻った和輝は、何度も何度も酸素を取り込みながら、星原を睨んだ。


「神様じゃあるまいし、全てを救うことなんて出来る訳無いだろ。でも、俺は、俺に向かって伸ばされる手を拒んだりしない」


 子どもの頃、思い描いたヒーローは存在しなかった。この世には不死身の勇者も、危機に現れる正義の味方も存在しない。
 だから、誓ったのだ。


「もうどうしようもないと、必死の思いで伸ばされた手を絶対に離さない。必ず救ってみせる」


 救世主のいないこの冷たい世界で、それでも伸ばされる手を、放たれた声を掬い上げる為に。


「それが俺にとってのヒーローだ」


 絞り出すように告げられた声は、泣いているかのように震えている。星原は目を伏せた。
 風の中で小さな嗚咽が聞こえている。醍醐はただ、立ち尽くしていた。和輝は俯き涙を落とし続ける星原の頭を乱暴に掻き混ぜる。


「もう二度と、俺のせいで誰にも傷なんて付けさせない」


 醍醐の脳裏に過ぎったのは、一年前の事件だった。何があったかは知らない。けれど、和輝の心の中には今もその事件が鮮明に残っているのだろう。俯く星原の心中を察することも出来ず、醍醐は取り残されたまま立ち尽くすだけだった。
 背後で扉の開く音がした。夕暮れの中、血相を変えた匠が立っていた。


「ーー和輝!」


 和輝が顔を上げたと同時に、匠はその左肩を掴んで崩れ落ちるように座り込んだ。
 心臓が止まるかと思った。そう零す匠は、欄干にぶら下がる二人の姿を下から見たようだった。それは、心臓が止まるような光景だろう。匠は和輝の無事に心の底から安堵しながら、星原に目を向けた。


「聞いたぜ、お前のしたこと」


 匠は此処に来る直前、和輝が保健室から血相を変えて飛び出したと養護教諭に聞いた。彼が持っている筈の無い携帯を手にしていたことを聞き、更に嫌な予感がしたのだという。部活に現れない星原に、消えた和輝。考え込んでいる匠に夏川が言ったのだ。
 ここ数日、星原が和輝に度を超えた悪戯をしてるぜ。
 それが悪戯などと呼べる程に可愛らしいものではないと、話を聞けば血の気が引いた。一歩間違えば死んでしまう。連日そんな目に遭わされれば碌に睡眠など出来る筈が無かった。
 行為の理由など、匠には解らない。自分の持つヒーロー像を押し付ける為に殺人紛いの真似をする意味が解らない。星原はいつもの食えない笑みを浮かべていた。


「匠先輩は知ってるでしょ。俺、中学の時、親を殺されてるんですよ」


 匠と和輝は揃って苦い顔をした。解らない醍醐だけが驚いたように声を上げる。星原は醍醐に微笑みを向けて言った。


「練習から帰った家の中で、強盗が俺の親を包丁で刺し殺す現場に居合わせたんだよ。強盗が俺に気付いて包丁を振り上げた時、偶然、和輝先輩が助けてくれたんだ。俺は怖くて小便ちびりそうになっちまったよ」


 和輝は目を伏せた。その光景を鮮明に覚えているのは星原だけではない。
 偶々用があって訪れた星原の家。血の海となった家の中で、男が後輩に凶器を振り上げている。和輝に迷う程の余裕は無かった。星原の手を勢いよく引いて玄関に揃って転がった。狙いを外した包丁は傍にあった革靴を貫いて、すぐさま振り上げられた。
 和輝の右手は、強盗の腕を掴んでいた。小さな背中に守られる星原の恐怖が、和輝には痛い程に解った。目の前で両親を殺されて、その犯人に自分もまた命を狙われているのだ。
 その後は、一緒に星原の家まで来た祐輝が遅れて到着し、強盗を取り押さえた。大きな傷跡を残して事件は終わった。


「和輝先輩は俺達のヒーローだったんだ。だって、そうでしょう?」


 星原の瞳が揺れていた。


「実力もあって、才能もあって、人望もある。外見も良くて、性格も良くて、スポーツ万能で。みんなの憧れだった!」


 目の前で両親を殺害された星原の傷跡を埋めたのは、和輝だった。けれどそれは、星原が頭の中で作り上げた理想像だった。
 理想を押し付けて縋らなければ、生きていけなかった。世間から向けられる好奇の目、同情、孤独。何かに縋らなければ自分を保っていることなど出来なかった。


「和輝先輩はヒーローじゃないといけなかった!」


 星原の目から、大粒の涙が流れた。それはまだ十五歳の少年がこれまで堪え続けた叫びだった。
 和輝は動かない右腕を握った。俺だって、ヒーローになりたかった。全てを救える人間になりたかった。そう言えば、誰か解ってくれるだろうか。この少年を救えるだろうか。答えは、否、だ。


「言っただろ」


 和輝は、星原の手を掴んだ。


「俺は伸ばされた手を、一つだって見捨てたりしない。……お前が望むようにはなってやれないけど、お前の手を取ってやることは出来る」


 傍にいてやることしか出来ないけれど、それでは駄目だろうか。


「置いて行かないよ。お前が振り払うその時まで、俺はその手を引いてやる。だから、もう泣くな」


 泣きじゃくる星原の頭を撫でて、和輝は微笑んだ。
 この願いが届けばいい。祈りが叶えばいい。そう思うのは許されないことだろうか。
 二人の姿を見下ろしながら、醍醐はただ立ち尽くすだけだった。自分は和輝のことも、星原のことも知らない。此処に和輝がいなければ、星原を救うことなど出来なかっただろう。
 星原を救ったのは和輝だ。これからその手を引いてやるのも和輝だ。なら、誰が和輝を導いてくれるのだろう。
 どちらが前かも解らない闇の中で、弱音も泣き言も零さずに前だけを見て走り続ける彼を、一体誰が救ってやれるのだろうか。醍醐は隣に立つ匠に目をやった。だが、匠はその視線に気付くことなく黙って二人の姿を見ている。
 ただ、その拳だけが強く、強く握られていた。

2012.3.17