パチン、パチン。
 白く統一された病室に響く小気味良い音に耳を澄ませながら、匠は扉の外で目を閉ざした。既に日は落ちて面会時間も終わろうとしているのに、その病室だけが時の流れから切り離されたように同じ音を響かせ続けている。入室する術を持たぬ匠には、扉に背を預けて中から一秒でも早く幼馴染みの少年が現れるのを待つことしか出来ない。


ーー和輝先輩はヒーローじゃないといけなかった!


 数刻前の星原の叫びが、今も頭から離れない。
 押し付けられる勝手な理想や期待に、当たり前のように応え続けた和輝だ。そんな独り善がりの言葉が今更響かないと解っている。
 昨年の夏から時間を止めた高槻の病室で、彼の爪を切り続ける和輝は何を思うのだろう。口を閉ざしたまま、心の中で何を語るのだろう。そしてそれは、決して自分に向けられることの無い彼の弱さで、本音に違いなかった。
 中学の後輩という肩書きで、星原を当然に信用した自分に、和輝は一切の弱音や泣き言を呑み込んだ。その結果が今回の事件で、入室すら出来ない理由だった。
 ふと、音が止んだ。俯いた匠の横で扉が開き、現れた和輝はいつものように微笑を浮かべていた。


「何だお前、まだいたのか」


 気配で知っていただろう。そう言ってやりたかったが、匠は黙っていた。
 和輝は困ったように笑って「帰ろうぜ」と言った。
 帰り道は闇に包まれていた。昨年の事件が発端となって外灯の数は増えたが、安全と呼ぶには闇が深過ぎた。川のせせらぎと電車の通過音をBGMに、調子外れの鼻歌で和輝は少し先を歩いて行く。あの夏、和輝は多くのものを失った。それでも、平然と事件の起きた道を歩くことが出来るのは彼の神経が図太いのか、それとも。


「なあ、和輝」
「んー?」


 和輝は振り向かない。闇に満ちた一本の道を、何の迷いも無く真っ直ぐに進んでいく。
 匠は言った。


「俺はお前を、殴ってやりたかったんだぜ」


 やはり、和輝は振り向かなかった。正面向き合って話していたのなら、どんな顔をしていたのだろう。和輝は匠の言葉に何の興味も無いようにきりのいいところまで唄うと、漸く答えた。


「じゃあ、何でそうしなかったんだ?」


 匠の発言も行動も、予想していたのだろう。感情を読ませぬ抑揚の無い声で言った和輝に、匠は苦々しく思った。


「あの時、お前を殴っても何も変わらないって解ったからだよ」


 何で言ってくれなかった。今更、遠慮するような間柄では無いだろう。
 そうして苛立ちのまま、幼馴染みのその整った横顔を腫れ上がらせたとして、何が変わっただろう。その場凌ぎのストレス解消は、問題を更にややこしくしてしまうように思った。
 誰にも何も相談しなかった和輝は、結果として星原を救った。それが正解でないと、低い偏差値の割に聡い頭では解っている筈だ。自分に相談してくれなかったのは和輝のせいではない。自分が思う以上に彼は強くて、人を信頼していなかった。否、信頼されるだけの強さを自分が持っていなかっただけだ。
 和輝は何かを考え込むように暫く黙り込んだ。その間、調子外れの鼻歌すらも止んでいた。


「なあ」


 唐突に、和輝は言った。


「俺は、お前に感謝してるんだよ」


 漸く振り返った和輝は、笑っていた。幼さを滲ませる微笑みは見慣れて来た心からの笑いとすぐに解った。


「お前がいて良かったって、会う度に思うんだ」


 それが本心からの言葉だと、考える必要すら無かった。
 何をしてくれとも、して欲しいとも言わず。頼ることも期待することもせず。ただ其処にいるというだけで、何も出来なくても感謝する。それが果たして自分達の正しい関係なのだろうか。匠は疑問に思う。
 泣けよ。怒れよ。みっともなく叫んで地団駄踏んで、八つ当たって縋り付いてみろよ。お前がそうしてくれたら、俺だってそうしてやれる。それでいいんだよって、何度だって言ってやれるのに。


「俺はね、もう何も失いたくないんだよ」


 微笑みと共に吐き出された言葉の重みを、匠だけが知っている。多くを失って傷付いて来た彼の血を吐くような祈りを、他の誰に言うことが出来ただろう。




8.美しい名前<前編>




 最低の気分だった。
 突然、部活中に自転車通学を理由に走らされて、偶然出会った先輩へのお節介が為に愛車は大破して。挙げ句に同級生の自殺未遂現場に鉢合わせて、仕方なしに徒歩で学校に到着すれば聞きたくも無かった下らない噂話。醍醐は盛大な溜息を吐き出した。これで逃げ出した幸せはどれ程のものだったのか、最早考えることすら億劫だった。
 通学した学校一の有名人である先輩に群れる女子生徒。日常化しつつあるそれを横目に通り過ぎようとすれば、声が掛けられた。


「よお、醍醐!」


 決して大声ではないのに、大勢の生徒の膨大な囁き合いを上回るというのは何故なのだろう。声の質なのか、自分の意識なのか。
 出来れば部活の時間まで会いたくなかった先輩こと、蜂谷和輝が此方を見て満面の笑みを浮かべていた。あんた、何時の間に俺に其処まで心を開いたんだ。そう問い掛けそうになるのを呑み込んで、醍醐はなるべく人の注目を集めぬように小さく会釈した。


「蜂谷和輝じゃん」
「朝から会えるなんてラッキー」
「相変わらず格好良い」
「何でこんな時間に」
「あいつ何者? 一年?」


 その他大勢の生徒達の好奇の目を煩わしげに周囲を訝しげに睨めば、横からひょっこりと蓮見が顔を出した。


「おはようございます、和輝先輩」
「おお、蓮見。おはよう」


 笑顔で返す和輝に邪気は無い。初対面での印象の悪さは微塵も無く、彼が万人に好かれる理由が解る明るい笑顔だ。どうしてそれを最初に見せてくれなかったのだ。原因は恐らく彼にあるのではなく、自分の意識なのだとは解っているけれど。
 和輝の隣には相変わらず白崎匠が並んでいた。盛大な欠伸を噛み殺し、猫のような大きな目に涙を浮かべている様はあからさまな程、自分達に興味が無いのだろうと思う。対照的に此方へ手を振る和輝の後ろには犬の尻尾が振られているように見えた。


「昨日は面倒を掛けたな。自転車も」
「そう思うなら、弁償して下さいよ」


 醍醐の言葉に、和輝は笑って首を竦めた。


「何言ってんだ。壊したのは俺じゃないだろ。そもそも、頼んでもないのに首突っ込んだのはお前じゃねえか」


 強かに言い返した和輝に邪気は無いけれど、醍醐は舌打ちを零した。尤もだ。
 あの状況で素通り出来る程、神経は図太くないつもりだ。何もかも彼の思い通りーーという訳ではないのだろうが、言われっぱなしではしゃくだと醍醐は思い出したように言った。それが彼の地雷だとは、解らなかった訳でも無いのに。


「それより、あの人は何者だったんですか? 病室にいた、高槻って人」


 その名を出した瞬間、気温が急激に下がった。和輝は笑顔のまま凍り付き、匠は目を剥く。
 当然の疑問だった筈だ。そう自分に言い聞かせるが、和輝はぎこちない笑みを口元に残して言った。


「俺の、知り合い」


 端的に答えた和輝の真意など知らない。地雷を踏んだことに気付いたと同時に、容赦なく蓮見が向こう臑を蹴った。
 取り巻きの囁き合いは途切れない。傍目にも解る和輝の動揺に、親衛隊と言わんばかりの女子生徒達がどよめいていた。
 仮面のような笑みを貼り付けて、和輝は醍醐の隣を風のように擦り抜けて言った。声を掛けることすら躊躇する完全な拒絶を感じ、息を呑んだ醍醐に、擦れ違いざま、匠が言った。


「二度とその名を、軽々しく言うな」


 そういうあんたは一体何なんだ。
 声にする度胸は無いけれど、醍醐は心の中で悪態吐いた。




 件の人物が、昨年の事件に深く関わっていることは明白だった。
 知りたいと思う。当然だろう。それが人の性だ。あの仮面のような笑顔が脳に焼き付いて、一日授業どころではなかった。これで成績が落ちたら責任を取ってくれるのだろうか。部活へと急ぐ足で醍醐は舌打ちをする。
 高槻、智也。
 恐らくきっと、それはあの蜂谷和輝が救いたくて救えなかった人なのだろうと思った。
 部活が始まるにはまだ早いけれど、一年にはグラウンド整備という雑用がある。部室の扉を開けば、携帯を片手にベンチの上で寝転がる二年生、箕輪がいた。


「よお、一年。遅ぇぞ」


 のんびりとした口調で、飄々と言った箕輪は笑っていた。
 他の人はいなかった。便所に行くと言った蓮見も、別クラスの星原も来てはいない。昨日の今日で星原が来るとも思えなかったが、醍醐は軽く会釈して着替え始めた。
 箕輪はごろごろと携帯を弄っている。忙しなく鳴り続けるバイブレーション。如何にも今時の若者という体で箕輪は醍醐に欠片の興味すら持っていないようだった。
 ふと思い出したように醍醐は手を止めた。


「あの、箕輪先輩」
「ああ?」


 視線も向けずに、箕輪が返事をする。律儀なのか適当なのか紙一重だ。
 醍醐は覚悟を決めるように一度奥歯を噛み締め、一息に言った。


「高槻さんって何者ですか?」
「OBだよ」


 醍醐の覚悟を裏切るように、箕輪は簡単に答えた。


「去年の、野球部の部長。図書室で記録でも見れば解ると思うぜ」
「……今、何をされてるんですか」


 漸く、箕輪は携帯を閉じた。人好きのする笑みが、寒気すら感じさせる薄ら笑いになっている。


「そう訊くってことは、知ってるってことだろ。何が知りたいんだ」


 箕輪翔太は、醍醐にとっては癖のある野球部員の中で最も親しみを持てる先輩だった。今、この瞬間までは。
 高槻智也という人物が、野球部全体の鬼門となっている。それでも切り出した質問を取り下げることは出来ず、醍醐は核心に迫った。


「去年、この野球部で何があったんですか?」


 その瞬間、ゆっくりと扉が開いた。


「ーーあれ、箕輪だけ?」


 醍醐には一瞥もくれず、和輝が言った。今朝の動揺など嘘のような穏やかな口調だった。
 箕輪も醍醐の質問を無視して手を挙げて応える。和輝は左肩に背負った鞄を下ろして自分のロッカー前に向かった。箕輪は携帯をポケットに仕舞い、姿の見えない匠を視線で探す。気付いたように和輝は言った。


「匠の奴、夏川のCD忘れたって取りに戻って担任に捕まっちまってさ、教材運ぶの手伝わされてんだよ」
「あいつって本当にタイミング悪いよな」


 違いない。和輝が笑った。
 そして、ふと隣に泳がせた視線が醍醐とかち合った。


「あれ、醍醐。いたなら挨拶くらいしろよ」
「……ちわす」


 無視していたのではなく、本当に気付いていなかったらしい。
 醍醐は目を細めると、和輝は肩を竦めた。


「あんた、大丈夫なんすか?」
「何が?」
「何がって……」


 昨日の今日で、疲労困憊なのは自分だけではない筈だ。醍醐が右肩に視線を泳がせれば、和輝は悟ったように声を上げた。


「お前と一緒にするなよ。俺はお前の先輩様だぜ?」


 故障中の癖に。そう言ってやりたかったが、醍醐は無視した。和輝はロッカーの中から綺麗に畳まれた練習着を取り出す。(余談だが、彼が几帳面なのではない。彼の幼馴染みが世話好きで几帳面なのだ)
 その時、電子音が鳴り響いた。

 ピリリリリ ピリリリリ

 何の面白げもない電子音に、醍醐は怠そうにポケットへ手を伸ばす。初期設定から変えていないメール着信音だ。世の中には着うたというものが普及しているが、どうも好きになれない。そんな電子音になけなしの金を支払う気持ちも理解出来ない。
 開いた携帯のディスプレイに、蓮見の名前が表示されていた。数分もしない内にどうせ此処に来るだろう。そう思いながらメールを開くと、絵文字一つ無い文章が並んでいた。
 醍醐が呆れて溜息を吐くのと、殆ど同時だった。けたたましい音を立てて、落下した鞄から中身が零れ出した。醍醐の足に衝突したのは円筒形の日本茶だった。どうしてそんなものが鞄に入っているのだと問い掛けようと顔を上げた先で、醍醐は息を呑んだ。


「……和輝、先輩?」


 今にも倒れてしまいそうな蒼白の顔で、血の気の失せた唇を震わせながら和輝が此方を凝視している。否、見ているのは醍醐ではない。その手にある極普通の携帯電話だ。
 何が起こったのか解らなかった。けれど、次の瞬間、和輝は口元を押さえて駆け出した。


「ーー和輝!」


 部室を飛び出した和輝を、箕輪が追い掛ける。
 一人取り残された醍醐は、足下に転がった日本茶の缶を拾い上げる。


「……何だってんだよ」


 訳が解らない。訳が解らないことが多過ぎる。
 リノリウムに散乱した塵にも等しい小物を拾い集め、醍醐の手は停止する。
 小指の第一関節程の、小さなボール。擦り切れた牛革と、解れた赤い糸。酷く古く汚れた野球ボールのストラップだった。白い牛革に泥のような茶褐色が染み込んでいる。
 何かの思い出の品なのだろう。そうでなければ、こんなぼろぼろのストラップを携帯する訳が無い。
 訝しげにそれを眺めていると、再び扉が開いた。立っていたのは匠だった。


「あれ、和輝は?」


 当然、此処にいるものだと予想していたのだろう。匠は少数の部員には広過ぎる部室を見回し、漸く醍醐に目を向けた。
 挨拶などする訳も無く、匠は醍醐の手の中にあるストラップに目を向けると表情を固くした。


「お前、何してんの?」
「いや、あの人が鞄引っ繰り返しちまったから、拾ってんですよ」
「……和輝は?」
「さあ。急に真っ青になって、走って出て行っちまいましたけど」


 聞くと同時に匠も部室を飛び出そうとした。扉を開いた瞬間、匠は漸く到着した蓮見に衝突した。


「お前、前見ろよ!」
「はあ、すんません」


 見当違いな文句に、蓮見は無表情に答えた。
 匠が蓮見の横を擦り抜けようとする寸前で、醍醐はその腕を捕まえた。


「匠先輩!」


 振り返った匠は噛み付きそうな獰猛な目で醍醐を睨んだ。だが、醍醐はその腕を放す気は無かった。


「一体、何なんですか!?」


 もう、訳が解らない。頭がこんがらがってパンクしそうだ。
 言いたくないことなのだろう。それは解る。けれど、隠し続けるにはそれは大き過ぎて、深刻過ぎた。匠は醍醐の目を見て、面倒臭そうに舌打ちを一つ漏らした。


「お前も解ってるだろ。ーー和輝には、目に見えない傷が幾つもある」
「それは何ですか? 何の傷ですか?」
「去年の事件で負った傷だ」


 もういいだろ、放せ。匠が乱暴に言い放つが、醍醐は放さなかった。


「去年、一体何があったんですか!?」


 匠は苦い顔をした。


「……俺だって当事者じゃねぇ。知ってるのは、概要だけだ」


 同じ言葉を、部長である藤からも聞いた。
 ならば、誰が当事者なのだ。誰も知らぬその事件で、野球部全体に影響を与える理由は一体何なのだ。
 和輝が起こしたという傷害事件と、右の肩から腕に掛けての重傷。病室で横たわる高槻智也。一体、この野球部で何が起きた。
 匠は、拳を握った。


「知りたいなら、後で幾らでも教えてやる。だけど今は、和輝を追うのが先だ」


 そう言って、匠は腕を振り払った。
 部室を出て行った匠と入れ違い現れた蓮見が、潜めるような小さな声で言った。


「噂。去年の夏、この野球部で女子マネージャーが自殺した」
「自、殺?」
「うん。真偽の程は不明だけど、噂では、蜂谷和輝が原因らしいよ」


 表情を崩さない蓮見が、恐ろしく感じたのは生まれて初めてだった。
 情報通の彼が、今まで欠片も捕まえられなかった去年の事件の、不本意ながら噂を語り始めた。

2012.3.25