一年前、野球部に二人の女子マネージャーが入部した。一人は現在唯一のマネージャーである霧生青葉。そして、もう一人の名前は、水崎亜矢という。共に和輝の声掛けで入部した素人だった。それでも彼女達は、選手の影となり、日向となり、縁の下の力持ちとして野球部を支えて来た。
可愛らしい少女だったという。
少年の夢を描いたような、大人しくて可愛らしくて、華奢で芯の強い少女だったという。
その彼女は昨年の夏、高層ビルから飛び降りた。即死だった。
遺書は無かった。現場の状況を考えれば他殺の線は無く、警察も自殺と断定した。ただ一つ、疑問が残った。原型を失った彼女の携帯には、死の直前まである人物へ電話を掛けていたという消せない記録が数え切れない程無数に残っていた。
死ぬ間際に掛け続けたその電話が一体何だったのかは、最早誰にも解らない。そして、もう一つの事実。
その電話は、一度として繋がることは無かったということだ。
8.美しい名前<後編>
和輝は何処にもいなかった。
普段の飄々とした調子を消し去った蒼白の面で、箕輪が部室に現れたのは既に部活開始から三十分も過ぎた頃だった。
ことを重大に受け止めた藤は学校側には何も言わず、ロードワークと称して学校内外を手分けして捜索することにした。醍醐もまた、姿を消し去った小さな少年を捜し回った。携帯を持つ匠は藤からの連絡を受け、思い当たる場所を幾つも挙げた。一方で、携帯を持たぬ和輝は依然として行方不明のままだった。
箕輪と組んで校外へ飛び出した醍醐は、頬を滑り落ちた汗を拭いながら言った。
「去年の事件、教えて下さい」
「……知りたきゃ、教えてやるさ。和輝が見付かれば」
まるで体力が無尽蔵だというように動き続ける箕輪を追うのがやっとだった。
醍醐は鉄の味を噛み締めながら、食い下がる。
「でも、それが原因で行方不明なんだろ!」
箕輪は漸く足を止め、悪態吐いた。
「元はと言えば、お前のせいなんだぜ」
「ーー俺?」
「携帯の電子音。あれは、和輝の地雷だ」
思い返せば、確かに和輝はあの電子音を聞いた瞬間に部室を飛び出した。
箕輪は苦々しげに言う。
「噂くらい聞いたことあるだろ。去年の夏、マネージャーが自殺したって」
「はい」
ついさっきのことだけど。醍醐は頷いた。
「和輝先輩にふられて、自殺したって、」
「ーーはっ、下らねぇ噂だな!」
箕輪は馬鹿にするように笑った。醍醐を、ではない。下らない噂そのものをだ。
「あいつが簡単に人を傷付けるかよ。あいつが簡単に、人を死なせるかよ」
思い出されるのは、昨日のことだ。病院の屋上で身を投げようとした星原を、自分の命を省みず助ける為に欄干を飛び出した小さな背中。見ていることしか出来なかった醍醐には、その覚悟が痛い程に解る。
人の為に命を懸けられるだろうか。醍醐には解らない。
箕輪は言った。
「あの子が自殺するなんて知ってたら、あいつは何に替えてもそれを止めただろうさ。知ってさえ、いれば!」
皮肉っぽく言う箕輪の口調に滲むのは怒りだ。誰に向けられた怒りなのか、醍醐には解らなかった。
和輝に? 死んだ少女に? 下らない噂を信じる他人に? それとも、自分自身に?
「あの日、和輝は電話に出られなかった。あいつ自身、それどころじゃなかったからさ。和輝の知らないところで、あの子は知らない間に死んじまったんだよ。なあ、お前に解るか?」
絞り出すような箕輪の声は震えていた。
「きっと電話に出られれば、あの子は今も生きて笑っていたんだろう。伸ばされた手を掴んでいたのに、救えなかったあいつの気持ちが!」
醍醐は、その日、彼等に何があったのかを知らない。けれど、その空しさや悔しさを共感することが出来た。
無数に掛けられた電話の内、たった一つでも取ることが出来れば少女は死ななかった。たった一つ、ただそれだけで。
「どうして、電話に出なかったんですか」
箕輪はぐ、と息を呑んだ。
「意識不明だったんだ」
「え?」
「ある事件に巻き込まれて、生死の境を彷徨ってた。あの右肩と腕はその時の傷だよ」
日常生活すら困難な重傷を負った事件が、少女の自殺と同時に起こった。
箕輪は泣き出しそうな声で続けた。
「お前に解るかよ! それを知った時のあいつの気持ちが!」
あの日でなければ、きっと彼女は死ななかった。自分では考え付くことも出来ない見事な方法で、星原を助けたあの時のように彼女を救ったのだろう。そう確信出来るだけの強い人だ。ただ、その日でなければ!
携帯の電子音から逃げ出したその理由が、痛い程に、泣き出したい程に解った。
「自殺の本当の理由は、何だったんですか……?」
箕輪はゆっくりと歩き出した。醍醐は問い掛けながらその後を追った。
「和輝に口止めされてる。俺からは何も言えない」
自分が謂われのない噂で貶められても尚、隠し続けるその理由は何だろう。醍醐はやり切れない思いだった。
和輝は携帯電話を持っていないと言った。それは事実だろう。少女を救えず、みすみす自殺させてしまった。繋がることの無かった携帯電話を何時までも持っていられる程、太い神経ではない筈だ。
箕輪は念を押すように言った。
「言っておくけど、あいつは電話が怖い訳じゃねーぞ。ただ、体が過剰反応しちまうらしい。聞いた瞬間に吐いたこともあるし、悲鳴を上げたこともある。何でも無いように振る舞っているつもりで、あいつの顔は真っ白だ」
箕輪は足を止め、目を伏せた。
「和輝にとってあの音は、今でもあの子の助けを求める声なんだよ」
悲鳴のような電子音に、跳ね上がる和輝を思い出して箕輪は奥歯を噛み締める。誰が彼を責められるだろう。彼女の傷に気付きもしなかった自分達が、大人達が、その他大勢の誰が責められるというのか。
それでも彼が尾ひれを付けて泳ぎ回る身勝手な噂に、一言だって反論したことは無かった。今でも彼は自分を責めている。
醍醐は泣き出したかった。屈託無く笑うその裏で、何を思っていたのだろう。勝手な噂に踊らされる友人を見て、何を感じただろう。伸ばされた手を掴んでいたのに!
ふと、醍醐は思った。和輝はあの時、電子音に少女の声を聞いたのだ。だから、部室を飛び出した。
「箕輪先輩。その人、何処で死んだんですか?」
「あ? 何で」
「だって、あの人は電子音をその人の声だと思って飛び出したんでしょ!」
電子音を恐れて逃げたのではない。其処に少女の声を聞いて、居ても立ってもいられなくて飛び出したのだ。今度こそ、その手を放すまいとして。
勘付いたように箕輪は走り出した。
駅から程近い繁華街の一角。二十階建ての高層マンション。此処から飛び降りればどんな強靱な人間でも一溜まりもないと思った。醍醐は頂上の見えぬ建物を下から見上げながら、箕輪の後を追って走り出した。
入り口の管理人室は無人だった。休憩時間なのか、ずさんな管理体制なのかは解らない。箕輪の後についてエレベータに乗り込む。
エレベータの中は、息が詰まりそうな程の静寂が支配していた。そして、高低差に耳鳴りが酷かった。エレベータは屋上まで直結してはいない。仕方なく最上階で降り、屋上に続く非常階段に向かって走った。
けれど、その扉は閉ざされていたようだ。確認しなかったのは、必要が無かったからだ。
母親に置いて行かれた幼子のように、膝を抱えて丸くなる姿を見付けた時は心の底から安堵した。着替え途中の練習着で、小刻みに肩を震わせる和輝は到着した箕輪と醍醐に気付いていなかった。
「ーー和輝」
名を呼んだ瞬間、肩が大きく跳ねた。
ゆるゆると挙げられた面は、死人のように真っ白だ。
「み、箕輪……?」
「おう。探したぜ」
それまでの剣幕が嘘のような穏やかな笑みを浮かべ、箕輪は手を伸ばした。だが、和輝はその手を取らなかった。
「ごめん、俺、」
「謝る相手は俺じゃねーだろ。さっさと、学校に戻るぞ」
「ごめん」
壊れたテープレコーダーのように、謝罪を繰り返す和輝に、本当に箕輪の姿は見えているのだろうか。
醍醐は普段の凛然とした態度を消し去った子どものような弱さに、驚きを隠せなかった。
何時だって凛と背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を見据えて、迷うことも無ければ間違うこともない。感情的になることもなくて、穏やかな笑みを浮かべて、いざというときには誰かの為に命を張る強さと優しさを持っていて。ーーそうだ。彼は、完璧だった。
同時に思い出されたのは、星原の言葉だった。
ーー和輝先輩はヒーローじゃないといけなかった!
それが押し付けられる勝手な理想像だと、醍醐は笑えなかった。そう期待してしまうだけの強さを、彼は持っていたからだ。
膝を抱えて、もういない誰かへの謝罪を繰り返す姿は、ヒーローとは余りに掛け離れている。言葉を失った醍醐の代わりに、誰かが言った。
「うるせーんだよ、バ和輝」
匠だった。汗だくで、肩で息をしながら、和輝の傍に膝を着く。
和輝は顔を上げた。
「匠……」
「サボってんじゃねーよ。ほら、早く帰るぞ」
そう言って差し出された匠の手を、和輝は取らなかった。
取れた筈が無い。この場所で、どの面下げてそんな真似が出来るだろう?
動かない和輝に呆れたような溜息を零し、匠は静かに言った。
「去年の夏、野球部のマネージャーが自殺した。水崎亜矢って子だ」
「匠!」
言葉を遮ろうと声を上げた和輝を、睨め付けるように匠は冷ややかな視線を流した。
「その子は小さい頃から父親に酷い虐待を受けていた。初めて本人から直接、その話をされたのが和輝だった」
「匠……!」
堪らないと、和輝が縋るように匠の腕を取った。傍目に見ても解る程に震えた掌も、匠は意に介さず淡々と言葉を紡いでいく。
「その夜、水崎亜矢は父親に性的な虐待を受けた。七月二十二日、彼女の命日だった」
「もう止めろ!!」
和輝は耳を塞ぎ、蹲った。けれど、匠はその手を押さえた。
「耳を塞ぐな! 好い加減、逃げるのは止めろ!」
「逃げてなんかいない! 俺は、ただ、」
言葉は続かなかった。泣き出しそうな目で、奥歯を噛み締める和輝はそれ以上の言葉を続ける気が無いのだと悟った。
匠は酷く苦しそうに言った。
「俺が知ってるのは、それだけだ。和輝が全部、隠し込んでいやがるから」
「……」
「それで何が救えるってんだ。それで何が変えられるってんだ。それで何が守れるってんだ!」
「……俺、は、」
ぽつりと、和輝が言った。
「俺は、知ってたんだ。あの子が虐待されてたこと。あの夜、あの子の様子がおかしかったこと」
電話が来たんだ。
和輝が言った。
「地区予選の準決勝を突破した夜だった。帰り道、亜矢から電話が来た。翌日の予定を訊かれた。俺の誕生日だった。俺は予定があるって答えて、今度、皆でぱーっと遊ぼうって、言った」
俯いた和輝の顔は見えなかった。
「楽しいこと沢山して、あの子が少しでも笑えればいいって、思った。父親からの暴力に堪え続ける亜矢が、一言でも『助けて』と言えば、俺は何に替えても助けてやろうと思ってた。向き合おうとしている亜矢の傍に、俺はいつでもいてやる。逃げたいと言うなら、俺はいつでもその逃げ場所になってやる。そう、思って、た」
歯切れ悪く言った和輝は、掻き毟るように頭を抱えた。
「違ったんだよ、全部。初めから全部間違ってたんだ。あの子はあの夜、誰かと話したかったんじゃなくて、俺に会いたかったんだ」
ぐ、と唇を噛み締め、和輝は叫んだ。
「あの電話は、俺に助けを求める血を吐くような叫びだったんだ!」
俺はそれを踏み躙った。
疲れ果てた声で、和輝は言った。
もしもあの時、違う言葉を掛けてやれば。もっと早く、どれだけ強引な手を使ってもあの子を牢獄のような家から出してやれれば。
今も水崎亜矢は、生きていたのだろうか。
俯いた和輝を、やるせない思いで醍醐は見詰めていた。
そんなことを言っても、終わったことはもう誰にも変えられない。何時までも過去に取り憑かれて、一体何になるというのか。誰が救えるというのか。
けれど、それでも救いたいと願った和輝を一体誰が笑えるだろうか?
一体誰が、責めるというのか。
「俺はただ、あの子の手を掴んであげたかった。ただ、それだけだったんだよ……」
悲鳴を上げた時も、もうどうしようもないと助けを求めた時も、自ら命を絶とうとした瞬間も、拒絶する亜矢の手を無理矢理にでも掴み取ってやりたかった。
どんなに格好悪くても、惨めで情けなくても、それでもいいよと、言ってあげたかった。
何時でも傍にいると、知って欲しかった。何もかも切り捨てていなくなってしまったあの子の名前を、呼んであげたかった。
ただ、それだけだったんだ。
軋む程に拳を握る和輝の掌は、血流の悪さ故か死人のような色だった。既に感覚も無いだろう拳を解けないのは、掴んであげられなかったことへの後悔と、自分への怒りのせいだろうと醍醐は思う。
なら、どうしたら良かったのだ。
その時、どうすれば彼女を救えたというのか。何の事情も知らなかった和輝が、亜矢の心を読んで望む言葉を吐くことなんて不可能だっただろう。自ら手を伸ばすことも声を上げることもしなかった少女を救いたかったと和輝は思うけれど、一体どんな人間が可能だったのだ。
押し付けられる勝手な理想像に、当たり前のように応え続けて来た少年だ。ヒーローと呼ばれ、ヒーローになろうとする少年だ。
けれど、一人の人間だ。出来ることもあれば、出来ないこともあるだろう。どうしてそれが許されない? どうしてそれが許されないと思う? 醍醐には解らない。
匠が吐き捨てるように、言った。
「お前の馬鹿げた考えは、俺には理解出来ねぇけど」
端から、理解したいとも思わない。匠は言う。
「事実に目を瞑ったからといって、その事実が無くなる訳じゃない。自殺した人間の考えなんて知らねぇが、死人に口無しといって、お前が全部の泥を被る必要は無ぇよ。そうだろ?」
和輝は答えない。答えられる筈が、無かった。
本当は解っていた筈だ。水崎亜矢がどれ程の不幸を背負っていたとしても、自殺という道しか選べなかったその間違いを。和輝一人が泥を被ったところで、水崎亜矢を守り切れないということも。
ただ、それが和輝にとっての贖罪だった。誰も責めなかったことが、何より辛かった筈だった。
「お前はもう十分に苦しんだんだろ。好い加減、認めろよ」
何を。醍醐は次の言葉を待った。
「お前に罪は無い」
そう言われることが、一番辛かった。彼女の傷口の最も近くにいたのに、救えなかった自分を誰一人責めてくれなかった。
自分がもっと何か出来れば彼女を救えたのではないかと思うことすら出来なくなるのが、怖かった。彼女が死んだのは当然の成り行きと言われるのが、辛かった。
帰ろうぜ。
そうして伸ばされた匠の手を、漸く和輝は取った。
醍醐の横を擦れ違う和輝の右肩が、腕を掠めた。燃えるような熱さにぞっとして振り返れば、和輝は既に前を見て歩き出していた。
「和輝が起こした傷害事件ってのはな」
箕輪が言った。
和輝を連れて学校に戻り、日が暮れるまでグラウンドを駆けずり回った後だった。ナイター設備のあるグラウンドは昼間のように明るかったけれど、光から消えた仲間の後ろ姿は既に判別不能だった。
突然、振られた話題に醍醐が何のことだと顔を上げれば、箕輪は怠そうな酷く緩慢な足取りで、闇に沈んだ仲間の背中を見ていた。
「水崎亜矢の葬式で、その父親を殴ったんだ」
続けられた言葉に、醍醐は驚くことなく納得した。彼が平気で人を傷付けるような人間とは、思っていなかったからだ。
自分で娘を自殺に追い込んで置いて、知らん顔して、同情誘う為に涙ぐみながらスピーチする父親。世間も法も裁いてくれないあの腐った大人を、他に誰が罰してくれたんだと箕輪は言う。
助けてあげられなかった水崎亜矢の為、あの時の和輝が唯一出来たことだった。
「結果として和輝は一週間の停学。内容云々よりも、蜂谷和輝が人を殴ったっていうことが噂となって一人歩きしちまった」
箕輪は溜息を零した。
どんな理由があったとしても、暴力は暴力。それは犯罪だ。
けれど、あの時の和輝を一体誰が責められただろう。
「あの人はさ」
余計なお世話だろうと思いながら、醍醐は言った。
「叱って欲しかったんじゃないか? その時も、今も」
すると、箕輪は驚いたように目を丸め、すぐに苦笑した。
「そうだよ。あいつは、叱って欲しかったんだよ」
解っていると言わんばかりの箕輪に、醍醐は怪訝に眼を細めた。
なら、何故そうしなかったのだ。贖罪行為を責めるつもりは無いだろう優しい少年を理解出来ない目で見れば、箕輪は困ったように笑うばかりだった。
「あいつが叱って欲しかったのは、俺達じゃなかったのさ」
それが誰なのか、醍醐には何となく解るような気がした。
行こうぜ。箕輪が歩き出す。少し先で、蓮見が不満げに口を尖らせていた。今回は完全な蚊帳の外だったことが余程気に食わないらしい。蓮見は知識欲や探求心、好奇心は旺盛だが、それを好んで人に知らせようとはしない。自己顕示欲は殆ど皆無だ。
この一件、どうすれば解り易く伝わるだろうか。自分の脳内を整理しながら、醍醐は箕輪の後を追った。
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