匠はとても器用な男だ。
 目の前で淡々とショートケーキを突く匠を見ながら、和輝は見事なフォーク捌きに圧巻される。自分の皿の上には生クリームの残骸が恨めしそうにこびり付いているにも関わらず、匠は一本の柱のように一口サイズのショートケーキが倒れることの無く見事なバランスで立っている。始まりは同じものであった筈なのに、どうしてこうも違うのだろうと和輝は常々不思議に思う。
 最後の一口を美味そうに頬張ると、匠は咀嚼しながら静かに手を合わせた。


「ごちそうさま」


 五月下旬、蜂谷家リビング。
 日曜日の麗らかな昼下がり。幼馴染の北城奈々が持ち込んだ話題の洋菓子店のショートケーキを突きながら、和輝と匠は心を無にして首振り人形の如く頷き続けている。他愛の無い世間話に、まるで無関係の愚痴の数々。女というのは如何してこうもお喋り好きなのだろう。皿に残った生クリームをデザートフォークで掬い上げ、和輝も匠と同様に手を合わせた。
 北城奈々は、近所にある小さな喫茶店の娘で、和輝・匠と同い年の幼馴染だ。道行く人が皆振り返るような美少女でありながら、活発で、勝気で、男勝りで、お喋り好きで、要するに普通の少女だ。多少トラブルメーカーではあるが、和輝はそう認識している。
 他校に通う奈々と顔を合わせる機会は高校入学と共に目に見えて減ったのだが、その空白を埋めるかのように休日には蜂谷家に押し掛けて和輝だけでなく匠を呼び出し、他愛の無い話を、首振り人形の二人にだらだらと続けている。
 最早、彼女が今、何の話をしているのかも解らない。適当に相槌を打ちながら、和輝は隣の匠を窺う。匠は興味が無いという態度を全面に出して、話をそっちのけに携帯を弄り出した。
 一つ嘆息し、和輝は口を開いた。


「――で、何の用だったんだ?」


 話の腰を折るように言い放った言葉に、奈々は頬を膨らませて怒りを露わにする。既に慣れっこという匠は無関係を装っていた。
 奈々は半分程平らげたケーキをそのままに、勢いよく机を叩いた。


「何よ! 用が無ければ、来ちゃいけないの!?」
「……そういう訳じゃないけど」


 やれやれ、と和輝は肩を竦めた。
 奈々は癇癪持ちという訳ではないけれど、産まれた時から一緒にいる自分達には遠慮も礼儀も無い。怒りたい時に怒りたいだけ怒って、泣きたい時に泣きたいだけ泣いて、笑いたい時に笑いたいだけ笑う。幼子のような激情にも慣れて当然だろう。そして何より、和輝はそんな奈々が少しだけ羨ましいと、思う。


「ケーキ美味かったよ。じゃあ、俺そろそろ、出掛けるから」


 年季の入ったソファに投げ出された鞄を左肩に担ぎ、点けっ放しだったテレビの電源を落とす。
 更に何かを言おうとした奈々は、既に出掛ける仕度を終えた和輝を見て黙った。リビングの扉に手を掛けた和輝を、奈々は不満げに思う。
 世間は彼を天才と呼ぶ。人は彼を優しいと言う。けれど、奈々は、和輝は冷たくて不器用だと思う。
 小器用な匠の綺麗な皿に比べ、生クリームが張り付く和輝の皿を指しているのではない。和輝は人間関係に置いて明確な境界線を引いているのだ。その枠線の外にいる人間には寛大に寛容に、天才で万能な夢を見させる。一方で、内側にいる人間にはぞんざいで投槍で、親しみ易さの中で冷たさを垣間見せる。
 産まれた頃から共に過ごした匠や奈々に何の遠慮も無いのは当然だろう。ただ、普段の彼からは想像も付かない程に冷たい態度を見せるから、その距離感に時々戸惑う。


「和輝って、本当に解り易い」


 不満げに呟いた奈々に、匠は呼吸するように笑った。
 親しい中にも礼儀ありというけれど、その礼儀すら超えてしまう。それだけ、信頼しているのだと解っている。
 どんな態度を取っても、どんな言葉を吐き出しても、絶対に幻滅せずに傍にいてくれる。そういう無条件の信頼を向けられるのは不本意ながら、心地いいと思う。


「待ってよ、和輝! あたしも行くから!」


 皿の上のケーキを頬張り、三枚の皿とフォークを流し台に運ぶと、奈々はスプリングコートを羽織った。
 玄関から、客より早く出ようとする身勝手なこの家の住人の声が響く。早くと急かす癖に、絶対に置いて行こうとはしない。そういう人間だから、匠も奈々も和輝が好きなのだ。
 リビングを飛び出していく奈々も気にせず、匠は緩々と仕度をする。急かす声も無視する。いつも急かすのは匠で、慌てて仕度するのは和輝なのだ。偶にはこんな時があってもいい。
 玄関では奈々と和輝が揃って文句を言っていた。苦笑いしながら靴を履いて並ぶと、決して上背がある訳でも無い匠が大きく見える。


「さあ、行こうぜ」


 揃って口を尖らす和輝と奈々の肩を押して、匠は歩き出した。
 どうしようもない程に救えない幼馴染だけど、掛け替えの無い大切な幼馴染だ。駅に向けて歩く和輝は、普段の穏やかな笑みが嘘のような仏頂面だ。普段の彼が偽物とは言わないけれど、匠のよく知っている和輝だった。
 彼の進む先が何処であっても。それが例え地獄でも、構わない。
 内側に抱え込んだ人間を決して手放さない癖に、実際はぞんざいな態度を取らざるを得ない程に追い詰められている。弱音も泣き言も零さないどうしようもないくらい意地っ張りの幼馴染が、実は誰よりも繊細であることを知っている。何も解らない鈍感な人間だったなら、こんな苦労は無かっただろうと匠は思う。けれど、気付かずに過ごせる程の浅い付き合いではないから、いつでも傍にいると誓った。
 押し付けられる大勢の期待の中で、追い詰められていく彼の最後の居場所でありたかった。




9.生命線<前編>




「あれ、萩原先輩」


 放課後のグラウンドの隅で、まるで見世物小屋でもあるかのような遠巻きの人だかりを目にした時、確かに和輝は既視感を覚えたのだった。輪の中央には正しく猛獣と呼ぶに相応しい悪人面の少年がヤンキー座りをして欠伸を噛み殺していた。
 萩原英秋は和輝の二つ年上の先輩だった。既に晴海高校を卒業している野球部のOBであるのだが、彼が今現在何をしているのかなど全く解らない。人を外見で判断するのは良くないが、子どもが見れば泣くようなその面構えでよもやまともに学生をしているとは想像し難い。
 萩原は人だかりの奥で後輩の姿を見付けると、親しげに片手を上げて合図した。極力関わりたくないと思いつつ、当然のように駆け寄って行く和輝を横目に匠は苦々しげに溜息を零した。
 立ち上がった萩原は和輝を見下ろす。


「よう、久しぶりだな、和輝」


 日の光が一切遮断された鉛色の曇天の下、穏やかな世間話でもしようとする萩原の人相は相変わらずに悪過ぎる。懐から取り出した拳銃が和輝の蟀谷に当てられる様を想像し、匠はその妄想を振り払うように首を振った。
 和輝と萩原が並んで歩き出すと、それまで遠巻きに眺めていた生徒の群れは一人、また一人と霧のように消えて行った。これから始まる部活に備えて部室に向かう生徒達の中に紛れるが、私服姿の萩原は如何にも目立つ。このまま部室まで来るつもりだろうかと訝しげに匠が睨むと、その瞬間、ばちりと目が合ってしまった。
 何か言わなくては、と言葉を探す匠に、萩原はその悪人面からは想像も出来ない程、穏やかに微笑んだだけだった。


「お前が噂の、白崎匠だな」


 匠を見て不敵に笑う萩原。どんな噂が流れているかは知らないが、良い噂ではないだろう。
 匠が黙っていると、萩原は周囲に目配せした。そして、此方に目を向ける生徒が誰もいないと悟ると、早々に切り出した。


「水崎のこと――」


 その名を出した瞬間、隠しようも無く和輝の顔が強張った。
 水崎亜矢は、昨年自殺した野球部の女子マネージャーだ。萩原が何を言おうとしているのか身構える和輝に、萩原は一寸困ったように笑って続けた。


「色々と、悪かったな」


 それが謝罪ではなく感謝の言葉なのだと匠が気付いた時、和輝は酷く驚いたような顔をした。
 萩原は言い辛そうに頭を掻きながら、もごもごと口籠る。


「傍で守っていたつもりで、守られていたのは俺達の方だった」
「萩原先輩……」
「あの頃、高槻の事件で精一杯で、水崎が死んだことに頭が回らなかった。お前が全部抱え込んでいることにも、気付けなかった」


 ちりり、と。
 匠の胸の奥で何かが燻る。それは取り返しのつかない過去への焦燥で、傍にいた筈の彼等への苛立ちだった。
 あの頃、マスコミは挙って彼等の事件を取り上げた。真実を知らぬまま上辺を語る他人の話を鵜呑みにして、誇張して、和輝を悲劇のヒーローにして、血も涙も無い悪人にもした。押し寄せるテレビカメラはプライバシーも肖像権も何も無いように和輝を映したし、ハイエナのような雑誌記者は出鱈目な事件の概要を語り続けた。
 事件の真相を和輝は未だに、話さない。残されたのは植物状態の高槻智也と、服役する袴田翔貴と、自殺した水崎亜矢と、あらゆる意味で満足に日常生活も送れなくなった和輝だった。心身をズタズタに切り裂いたマスコミから彼等を守る為に、和輝は自らその身を晒した。
 自己犠牲なんて、今時流行らないぜ。
 匠はいつもそう思う。けれど、そうして傷付いて行く幼馴染の傍にいた筈の人間が、誰一人守ってくれなかったということが、匠にとっては辛かった。だから、此処に来たのだ。


「萩原先輩、」


 困ったような、慌てたような顔で弁解しようとする和輝を押し退け、匠は鼻を鳴らした。


「そんな安い言葉、今更いらねーよ」


 びしりと吐き捨て、匠は言った。


「贖罪行為なら、勝手にやってくれ。もう、こいつを巻き込むなよ」
「匠、そんな言い方って無いだろ」
「まだ言うのかよ、御人好し」


 匠の言葉には無数の棘が含まれている。彼が苛立っていることは、生まれた時から共に過ごした和輝でなくとも明白だった。
 何に苛立っているのか。和輝は言葉を失くす。
 萩原に? 自分に? それとも匠自身に? 何も変えられない泥濘のような現実で、焦燥感を覚えるのは当然だった。黙り込んだ和輝を一瞥し、匠は萩原を酷く冷たい目で見た。


「あんたが何をしたいのか知らねーけど、後悔で救える世界なんざねーよ」


 それは真理だ。けれど、それでも後悔することを止めることなんて出来ない。
 何かを言い淀んだ和輝と、仏頂面の匠を交互に見遣って萩原は一つ息を逃がした。


「俺だって許されるつもりはねーよ。……っと、そんな話をしに来た訳じゃないんだよ」


 何時の間にか、周囲からは此方に好奇の目を向ける生徒達が徐行するように歩いていた。不本意ながら視線を集めていたことに溜息を零した萩原は、自分の用事を告げる言葉を待つ和輝の顔をじっと見詰めた。
 酷く、整った顔立ちの少年だ。意思の強そうな大きな瞳の存在感以上に、まるで今にも消えてしまいそうな儚さを滲ませている。世間が騒ぐのも無理ないと思いつつ、其処に何の感情も浮かばないことを祈りながら、萩原は言った。


「落ち着いて聞いて欲しい。……高槻の延命処置を、取り止めることになった」


 びしり、と。何処かで何かが割れる音が確かにした。
 人形のように動きを止めた和輝が、少しして二、三度続け様に瞬く。
 和輝の反応を予想していた萩原は、慎重に言葉を選びながら続ける。


「延命処置も、ただじゃねぇ。目覚めるかも解らない高槻をこの一年、高槻の家族は必死で生かして来たが、金銭面からも、心身共に限界なんだ。だから、今週の日曜、最期に……」
「最、期?」


 和輝が言った。


「それは、高槻先輩を、殺すってことですか」


 横で聞いていた匠が苦い顔をする。
 予想出来ないことでは無かった。機械によって生かされるのみの人形のような彼を、何時までも背負って行ける程に彼の家は裕福ではない。日々の生活すらやっとだった筈だった。
 ぽつりぽつりと、まるで泣くことの出来ない誰かの涙のように雨が降り始めた。練習準備を進めていた運動部員達が一斉に片付けを始めていく。萩原は喘ぎ声が聞こえそうな程、苦しげに言った。


「仕方の無いことなんだよ、和輝……」


 萩原とて、それを容易く受け入れた筈が無い。彼の胸にも、昨年の事件は大きな傷跡を残した。
 けれど、それ以上に苦しむ後輩の前で弱音や泣き言を零せる筈も無かった。萩原は茫然自失となった和輝のがらんどうの瞳を見詰め、絞り出すよう言う。


「もう、お前も楽になっていい筈だ。何時までも過去に囚われていたら、高槻も報われねぇよ。お前が例え忘れても、あいつは恨みやしねぇさ……」


 その言葉は和輝の耳に届いていたのか。
 萩原の頬に雨が落ちる。涙のように顎を伝って落下した滴は、アスファルトに丸い染みを残した。和輝は無表情のまま、俯いていた。
 どれ程の時間、そうしていたのか解らない。立ち尽くす和輝の傍で匠は言葉を失ったまま、その横顔をじっと見詰めていた。塗炭の屋根から絶え間無く滴り落ちる雨粒に、どうやらこの雨は止むことが無いらしいと判断した匠は思い出したように和輝の肩を叩いた。
 油の切れた機械のように、和輝は振り向いた。けれど、その目は何も映してはいない。
 既にこの場を去った萩原を見送った記憶すら無い。和輝は壁に凭れ掛かり、そのままずるずると座り込んだ。


「……匠」


 ぽつりとその名を呼んで、和輝は顔を膝に沈めた。
 匠は和輝の横に座り込み、今日の部活は欠席だな、と藤にメールで連絡をする。
 メール、送信。携帯を閉じた匠が横を向くと、蹲ったままの和輝が雨音に掻き消されそうな程に小さな声で続けた。


「俺、死にたかったんだよ」


 ぽつりと投げられた言葉は、匠にとって酷く重いものだった。けれど、匠はなるべく表情に出さぬように和輝から目を逸らし、濡れていく正面のグラウンドを眺めながら答えた。


「知ってるよ」


 和輝が死にたかったことも、実際に死のうとしたことも知っている。けれど、それでも生きようと、生きていることも解っている。
 彼を現実に縛り付けているのは家族でも幼馴染でも親友でも仲間でもない。ただ一つの、彼にとって唯一の道標だ。


「俺は結局、何も救えないままか」


 一つ、自嘲するように乾いた笑いが漏れた。
 笑ってなどいないに違いない。今にも泣き出しそうな顔がありありとその膝の下に思い浮かび、匠は拳を握った。
 だから、何時も思うのだ。この幼馴染を、親友を殴ってやりたいと思うのだ。そして、それで何かが変わる筈も無いことを知って絶望する。自分は何をしてやれるのだろう。このままじゃ、先程責めた萩原と何も変わらない。
 匠は切り替えるように咳き込み、静かに問い掛けた。


「去年、この野球部に何が起きたんだ?」

2012.4.23