「一昨年の秋、俺が入学するより前に、野球部で傷害事件があった」


 ぽつりぽつりと、和輝は言葉を零し始めた。


「当時、二年生だった高槻先輩がキャプテンに選ばれたことを不服として、袴田翔貴という男が高槻先輩をリンチにしようと呼び出した。エースだった」


 袴田翔貴という男を、匠は知っている。以前、和輝に黙って留置所にいる袴田に会いに行ったこともある。
 和輝は続けた。


「それを知った萩原先輩が、高槻先輩より先に現れ、彼等を返り討ちにした……」


 匠は感嘆の息を吐いた。例え相手が集団であっても、萩原なら確かに返り討ちにしそうだと思った。
 けれど、和輝の声は続いていた。


「高槻先輩が駆け付けた時には、全部終わった後だった。血塗れで倒れる袴田先輩達と、疲弊し切った萩原先輩」
「そりゃ、壮絶だな……」
「結果、袴田先輩は将来有望と呼ばれながら、選手生命を絶って学校を去った。残された高槻先輩は、それを機に退部した仲間や袴田先輩、萩原先輩を守る為に、嘘を吐いたんだ」


 全てを失って去り行く袴田を守る為に、何も語ろうとせず背負い込んだ萩原を救う為に、ただ流されただけの仲間を許す為に、嘘を吐いた。


「誰がキャプテンかということで高槻先輩と萩原先輩が部内で対立し、大勢の部員が辞めた。……入学して最初に俺が聞いたのは、それだけだった」


 傷付いた仲間を世間の好奇の目から守る為に、自身を晒して嘘を吐いた。それは、正しく今の和輝の姿に他ならなかった。
 和輝は一言一言を噛み締めるようにして言葉を紡いでいく。その真意が何か、匠にも解らない。


「違和感があったんだ。高槻先輩と萩原先輩はバッテリーだったのに、相方がキャプテンに選ばれて何に不満があるのか。高槻先輩が嘘を吐いていることも、誰かを庇っていることも……明白だった」


 去年の春、匠も高槻に会ったことがある。仏頂面で、無愛想で、けれどいざというときは、人の為に身を張れる人だった。
 そうと見せはしないけれど、和輝は人目を気にする節がある。それはつまり、人より観察眼が優れているということだ。和輝が高槻の嘘を見抜くのは必然だっただろう。


「俺が真相に迫りつつあったある春の夜、嘗ての袴田先輩の仲間に襲撃されたんだ。その時に守ってくれたのが、萩原先輩だった。その場所に高槻先輩も駆け付けてね、漸く、全ての真相を知った。そして、和解して、萩原先輩は野球部に戻って来た……」


 くしゃりと、和輝が前髪を巻き込んで拳を握る。


「全部、丸く収まったと思ってたんだ。全部……」


 練習試合があって、道を違えた仲間と和解して、夏の大会が始まった。
 高槻と出会って、和輝は変わった。自己犠牲で、誰かを頼ることも、弱音や泣き言を零すこともしなかった和輝が、仲間を信頼するようになった。高槻は和輝の道標だった。
 順調だった。誰もがそう思っていた。あの夏の夜までは。




9.生命線<中編>




「夏大会準決勝を勝ち進んだ夜、帰り道。ある人に会った」


 匠はその情景を思い浮かべる。その夜、和輝の元には水崎亜矢からの電話があった筈だ。
 彼女との通話を終えた後、だろう。


「金髪で、鋭い目付きで、汚れたスウェットと、派手なスニーカー。関わり合いたくないと思って横を通り過ぎようとした時、名前を呼ばれた」


 『彼』の声が、和輝の胸に鮮明に蘇る。
 川沿いの道、冷えた夏の夜風、芝生の匂い、電車の通過音。そして、あの少年。


「後頭部を殴られて、気が付いたら知らない廃工場だった。その人は、袴田翔貴って、名乗った」


 和輝は無意識に、自身の右腕を押さえていた。
 痛むのだろうか。匠は鞄から保冷剤を探すが見付からなかった。


「怖かった……!」


 絞り出すように言った和輝の体は震えていた。怖かっただろう。当然だ。
 宥めるようにその肩を抱くが、和輝は震えたままだった。


「殴られた。蹴られた。笑いながら金属バット振り上げて、俺の腹を、何度も、」
「和輝」
「胃の中のもの全部吐いて、逃げ出したかったけど、逃げられなくて、」


 抱き寄せた肩が、酷く熱かった。運動をした訳でも無いのに熱を持つことは異常だ。
 心身症というものがある。同様に、心が体に作用しているのだろうか。


「でも、袴田先輩、泣きそうな顔してた……」


 これ以上の言葉を聞くのは酷なように感じたけれど、それでも、こうして話し始めた和輝を押し留めることは出来なかった。
 匠は黙って和輝の言葉を待った。


「袴田先輩、高槻先輩を責めてた……。でも、俺には、如何して自分を見てくれないんだって、叫びに聞こえたんだ……」


 降り注ぐ暴力の中で、動かなくなる血塗れの体で、霞む視界で、和輝は確かに袴田の心を見ていた。


「見て欲しかったんだ。袴田先輩はただ、高槻先輩に認めて欲しくて、対等になりたくて、友達に、なりたかったんだ」


 それは和輝の憶測だろうけれど、的を得ている言葉からその先の彼の行動が予測出来るような気がした。


「始めに高槻先輩を呼び出したのも、集団暴行が目的じゃなくて、キャプテンに選ばれるくらい人望を集めてた高槻先輩に、ただ、対等であると認めて欲しかったんだ。……これは、俺の勝手な想像だけど」


 認めて欲しくて呼び出した先に高槻は現れなくて、結果、袴田は選手生命を失った。高槻は仲間を守る為に嘘を吐いたけれど、全てを隠蔽したその嘘は袴田の存在すら抹消したように思わせた。
 相手にされなかった。無かったことのように消された。
 だから。
 和輝が言った。


「俺、手を、伸ばしたんだ」


 告げられた言葉に、匠は胸が軋むような痛みを覚えた。
 瀕死の重傷に及ぶ程の暴行の中で、加害者である袴田に向けて、和輝は手を伸ばしたのだ。袴田を受け入れる為に、高槻を守る為に、彼等が取り零してしまったものを拾い上げる為に、何度踏み躙られても、何度罵倒されても、ただ助けを求めるその手を掴む為に。
 そして、そして。


 和輝は、意識を失った。


 膝に埋めた顔は見えないけれど、噛み殺された嗚咽は隠しようがなかった。寒さに凍えるように体を震わせながら、それでも真実を告げる意味を匠は解っている。自分一人で背負っていても、救えないことを悟ったからだ。
 だからこれは、和輝が漸く求めたSOSなのだ。


「俺が寝ている間に、高槻先輩と袴田先輩は顔を合わせた。高槻先輩は重傷を負って、病院に運ばれた。袴田先輩は、逮捕された」
「お前だって、何時死んでもおかしくない怪我だっただろ。その腕と肩だって」


 袴田によって砕かれた腕も肩も、もう元には戻らない。
 和輝が生死の境を彷徨って、漸く目を覚ました時にはもう、全てが終わっていた。必死に伸ばした手は届かず、送り続けた声は途切れた。亜矢は死に、高槻は植物状態、袴田は逮捕された。


「俺は、ただ」


 掠れるような、噛み締める声が微かに匠の耳に届いた。


「守りたかっただけなんだよ……!」


 掛ける言葉が見付からなかった。何を言えば正解なのだろう。
 慰めも励ましも、和輝は求めていない。和輝に罪は無い。そんなことは解っている。責めることは論外だ。
 けれど、けれども。和輝が求めているのは罰だ。あの事件が起きてから、誰一人彼を責めはしなかった。そんな権利は誰にも無かったし、何より謎が多過ぎた。そして、誰も責めないことが和輝にとって罪になってしまった。
 自分達は、何を間違ったのだろう。何が正解だったのだろう。匠には解らない。


「おい、バ和輝」


 砂利を踏み締める音がして、反射的に顔を上げた和輝の相貌に二つの影が映った。箕輪と夏川だった。
 二人は、何も知らない。何時から聞いていたのだろうかと、和輝が力無く笑おうとする。けれど、それより早く箕輪はその双肩を掴み掛かった。


「全部、聞いた」
「箕輪……」
「何で、今まで黙ってた!」


 箕輪の握られた拳が、軋んだ。


「何で言ってくれない、何で頼ってくれない、何で!」


 箕輪が、一瞬、躊躇した。けれど、その衝動を止めることは出来なかった。


「何で笑ってんだよ!」


 指摘されて初めて、和輝は自分が笑みを浮かべていることに気付く。理由などもう解らない。笑っていなければ、生きていけなかった。
 何も感じていないように心を凍らせて、笑顔の仮面を被らないと自分を保てなかった。自分は強い人間だと、思いたかった。
 箕輪はがらんどうの瞳を覗いて、振り絞るように叫んだ。


「泣けよ! 笑わねーから!」


 こんな世界で一人蹲って笑うより、歩き出して一緒に泣きたい。背負い込んだものを一つでも分けて欲しい。
 和輝がぽつりと、問い掛けた。


「何、で」


 如何して解らないのか、解らない。箕輪は苛立った。
 和輝の面がくしゃりと歪む。


「何で、何で誰も責めねーんだよ! 言えよ、お前のせいだって! お前が悪いって! お前等が言ってくれなきゃ、謝ることも出来ないだろ……!」


 こいつは馬鹿だ。箕輪は握った拳を解いた。その動作に覚えのある匠は既視感を覚える。
 怒りのままに殴ったとしても、何の意味も無い。箕輪は言った。


「責める筈、無いだろ。皆、お前が大切なんだから」


 世間の風当たりも、心身の負担も笑い飛ばせるくらいに、皆、彼が大切だった。簡単に出来ることではない。そのくらい、彼が大切なのに、本人だけがそれを理解出来ないでいる。
 笑って欲しい。泣いて欲しい。生きていて欲しい。ただ此処にいることを望まれている。
 それまで黙っていた匠が、口を開いた。


「今更、過去は変えられねー。でも、目の前の世界変えることは出来るだろ」


 雨脚が強くなる。吹き付ける風が飛沫を上げて頬を濡らす。
 匠は真っ直ぐに和輝を見ていた。


「政治家や革命家にならなくても、世界は変えられるぜ? ヒーローならな」


 泣き出しそうに歪んでいた顔が、ふつりと表情を消す。がらんどうの瞳に一つの光が灯る。
 変えたい世界がある。変えなくちゃならない世界が、目の前にある。
 ふっと視線をずらした和輝が、弾かれるように豪雨の中に飛び出して行った。

2012.4.23