何時だって見上げた先に空は無くて、底冷えする暗いトンネルを独りで歩いていた。
 遥か遠くに霞む出口の光だけを頼りに、歩き続けることが当たり前だった。何時か、あの光に届くと信じることが唯一の希望だった。

 降り頻る雨は止む気配も無く、天の底が抜け落ちたかのようなゲリラ豪雨となった。傘など持ち合わせていない人々が鞄や上着のフードで雨を凌ごうとする横を、疾風のように駆け抜ける。モザイクのように霞み歪む視界で、如何してか行くべき道だけがやけに鮮明だった。
 光の差さない曇天の下で、地を穿つ雨粒の中で、上着も鞄も持ち合わせず、運動に適さないローファーでアスファルトを叩きながら和輝はただ走り続けた。
 病院への道は険しく、目の前には心臓破りの上り坂が立ち塞ぐ。星原の策略に掛かった時もこの坂に泣かされたけれど、今はランナーズハイなのか疲れを感じなかった。代わりに、耳の奥でがんがんと何かが騒ぎ立てる音がする。

 ずっと、ヒーローになりたかった。
 大切なものを守りたかった。傷付けたくなかった。伸ばされた手を掴んで、救い上げたかった。

 傲慢でもいい。馬鹿馬鹿しいと笑われても構わない。自己犠牲なんて今時流行らないけれど、自分が自分である為に、守りたいものがあれば幾らでも傷付くし、犠牲にだってなる。
 横を通り過ぎる車は忙しなくワイパーを動かしている。女性の騒ぎ立てる声が遠くに響く。雨が滝のように坂を下って行く。ローファーから染み出した雨水は既に靴下を濡らし、降り注ぐ雨粒は全身を隈なく塗り潰していた。
 坂を上り切れば、今度は絶叫マシンのような下り坂がある。口を開けば舌を噛みそうな速度で和輝は加速していく。保身を考えるブレーキなど存在もしていない。
 悲鳴を上げたって、手を伸ばしたって助けは来ない。人に期待するのはもう、止めた。裏切られるのが、怖かったからだ。
 解ってた。強くなんてないことは、始めから解ってた。どうしようもなく臆病な人間だってことも、知ってた。だから、失うのが怖くて何時も見っとも無く足掻いてしまう。
 遠く霞む出口に向けて歩いていたつもりが、何時の間にかしゃがみ込んでしまっていた。俺は強いから、独りだって大丈夫なんだって思いたかった。それ以外に、守る方法を知らなかったからだ。でも、俯いていたら伸ばされる手に気付かなかった。耳を塞いでいたから、呼び掛ける声が解らなかった。

 怖かったんだ。辛かったんだ。悲しかったんだ。悔しかったんだ。
 亜矢を死なせてしまったことも、袴田に伸ばした手が届かなかったことも、高槻を守れなかったことも、全部全部苦しかったんだ。世間が敵に回って、誰が敵で誰が味方かも解らなくて、笑顔で躱して毒を撒いて棘で威嚇した。だけど、本当は。

 病院の入り口に着いた途端、どっと体中が重くなって膝を着いた。
 心臓が破裂しそうに拍動している。酷い眩暈に立ち上がれない。膝がじんじんと痛み、冷えた体の中で右肩かた腕に掛けて異常な熱を抱えている。頭が割れそうに痛かった。けれど、立ち止まっていられなかった。
 全身ずぶ濡れで玄関を潜った途端、受付の看護師がざわめいた。和輝は視線も向けず、真っ直ぐにエレベータに乗り込んだ。
 エレベータは無人だった。乗り込めば機械の低い唸り声だけが静かに響き、耳の奥で心臓が激しく脈を打っている。
 六階。ゲリラ豪雨の為か、廊下には誰もいなかった。通い慣れた病室から、微かに生命を知らせる電子音が聞こえる。濡れた手で扉を開く。スライド式の扉は力を込める程も無く、呆気無い程にすんなりと開いた。


「――和輝?」


 白い壁、白いベッド。リノリウムの床に簡素なパイプ椅子。座っているのは先程別れたばかりの萩原と、化粧を施した中年程の女性だった。ベッドに横たわる高槻の面影を感じさせるその女性が、彼の唯一の肉親である母親であることは明白だった。
 幽霊でも見るかのように目を丸くする萩原の横を抜け、床に大粒の水滴を零しながら和輝はベッドに歩み寄った。
 規則正しく、微かに胸を上下させて、固く閉ざされた目と血の気の無い顔は変わらない。昨年の夏に起きたあの事件で、高槻は首筋を切り付けられ大量出血をした。脳死状態に程近いと説明されたように思うが、頭の中に靄が掛かったようで曖昧だった。ただ解っていたのは、もう二度と高槻が目を覚まさないということだけだった。


「高槻、先輩」


 返事は、無い。きっとこの先も、無いだろう。
 延命措置というものが、家族にとってどれ程の重荷となるのかなんて知らない。精神的・肉体的苦痛、経済的圧迫、世間からの風当たり。何も解らない訳じゃない。けれど、それでも。


「高槻、先輩……!」


 縋り付くように、強張った高槻の手を握り締める。死体のように冷たい掌だ。
 でも、生きている。
 定期的に切り揃える爪も、伸びた前髪も、機械によって続く心音も、全てが高槻の生命を知らせている。
 膝を着いた和輝に駆け寄るように、萩原が肩に手を伸ばした。触れようとしたのが右肩と気付いて躊躇する萩原に、背中を向けながら和輝が掠れる声で言った。


「……なんて、言わないで下さい……」


 伏せた顔に表情は解らない。それでも、隠しようも無く震える声が全てを訴えていた。


「忘れろなんて、簡単に言わないで下さい……! 忘れられないから、悲しいんだ……!」


 高槻の仏頂面も、ぶっきら棒な物言いも、背を向ける癖に置いて行かない不器用な優しさも、全部全部覚えている。伸ばされた手の温かさも、�叱り付ける厳しい眼差しも、真っ直ぐ前を見据える力強さも、全部全部消えていない。きっと未来永劫、消えることなんてない。


「もうこれ以上、俺は失いたくないんです……!」


 例え二度と目が覚めなくても、例え家族が苦しむことになっても、例え高槻自身がそれを望まなかったとしても。


「高槻先輩が生きているということが、俺にとってただ一つの救いなんです……!」


 シーツを握り締める拳が軋んでいる。異常な熱を帯びた右腕に既に感覚は無かった。
 返事の無い問い掛けを何度したことだろう。反応の無い声を何度掛けたことだろう。それでも伸び続ける彼の爪を切ることが、どれ程和輝を救って来たか。
 美しい何千何万の言葉より、温かい日溜りのような笑顔より、何より彼が今生きているという証が、どんなに大切だったかなんて誰にも解らない。


「お願いですから、俺から、高槻先輩を、取らないで下さい」


 お願いします。
 振り向くことも出来ない程に疲弊した体で、掠れた声で、壊れたテープレコーダーのように繰り返される言葉に返答は無かった。




9.生命線<後編>




 豪雨は夜には止み、以降は初夏を思わせる汗ばむ程の晴天となった。
 麗らかな日曜日の昼下がりは、病院内も酷くゆったりと時間が流れていく。和輝は高槻の病室で、止むことの無い電子音を聞きながら彼の爪を切っていた。
 延命措置が続行されたのは、偏に父のお蔭だった。
 臨床心理士として名を馳せる父の昔の伝手で、病院側やボランディア団体に働き掛けることで、莫大な医療費は殆ど緩和された。残される高槻の母の心身の苦痛だけは取り除けないと父は言ったけれど、息子の命が繋がったことに誰よりも安堵しているのは彼女に他ならなかった。だから、あの日、びしょ濡れで病室に押し掛けた和輝を追い返すことも責めることもしなかった。必死に紡いだ言葉を受け止めてくれた。
 事の経緯を聞いた匠は、黙って爪を整える和輝の背中をじっと見ていた。


「なあ、和輝」


 爪を削る微かな音が、病室に絶えず聞こえている。和輝は振り返ることも、声を上げることもしない。
 それでも、匠は続けた。


「強くなりたいか?」


 ぴたりと、和輝の動きが止まった。
 問い掛けるまでも無いだろう。そんなことは、ずっと解っていた。


「何だよ、急に」


 振り向いた和輝は笑っていた。仮面とは違う、何時もの無邪気な笑顔だった。
 けれど、長い付き合いの匠はその笑顔を信用していない。和輝は笑みを崩さないまま、また背中を向けた。


「俺は、幸せ者だな」


 ぽつりと零された和輝の言葉に、匠は疑問符を浮かべる。
 何処が。そう言ってやりたいのを呑み込んで、和輝の次の言葉を待った。
 和輝は言った。


「俺には、何時だって支えてくれる仲間がいる。守りたいと思う友達がいる。だから、もう十分なんだよ」


 お前はお前が思う以上に、不幸な人間だと思うよ。匠は胸の内で呟いた。
 そんな匠の思いを察したように、和輝は振り返って苦笑を浮かべる。


「幸せか不幸かなんて、誰にも解らないさ。自分が否定すれば、それは決して不幸なんかじゃねーよ」


 何処か達観したような考え方に、匠は辟易した。
 本心からそう思っている訳じゃないだろう。ただ、そう思いたいだけだろう。匠は呆れたように言った。


「お前、疲れない? もっと狡賢くなれよ」


 けれど、和輝は困ったように笑うだけだった。
 匠は和輝の横のパイプ椅子に座った。人形のように横たわる高槻は相変わらず微動だにしない。
 高槻の存在が、今も和輝を現実に繋ぎ止めている。彼がいるから、和輝は生きていける。前を向いて、歩いて行ける。自分は不幸なんかじゃないと、何度でも胸を張れる。――でも、そんな強さ、匠は求めていない。


「強くなんてなるなよ」


 これ以上、手の届かないところに行くなよ。支えてやれないだろ。
 匠の声は和輝に届いたのだろうか。和輝はただ爪を鑢で削っている。匠は、はっきりと言った。


「心配しなくても、俺はお前のこと、見限ったりしねーよ」


 微かに、和輝の掌が震えた。大きく開かれた瞳は何を見ているのか、匠には解らない。
 和輝の視界に映るのは高槻ではなかった。当たり前のように傍にいて、何時だって欲しい言葉を何の気無しにくれる親友が映っていた。

 ずっと、強くなりたかった。
 でも、いいのかな? 弱いままで、許されるのかな?

 そんなことを訊けば、匠は笑うか殴るかのどちらかだろう。
 ふと目を向けた窓の外に、突き抜けるような晴天が広がっている。雲一つない空を横切って行く名も知らぬ白い鳥に視線を向けることも無く、眼球を焼く太陽を眩しげに見上げていた。
 お前がいて、本当に良かった。
 声に出来ない感謝の言葉を胸の中に零し、和輝は少しだけ笑った。


 強くなんてなりたくない。
 自分らしく、温かく生きて行こう。

2012.4.23